言語と美神

se (1)

The force that through the green fuse drives the flower
Drives my green age; that blasts the roots of trees
Is my destroyer.
And I am dumb to tell the crooked rose
My youth is bent by the same wintry fever.

The force that drives the water through the rocks
Drives my red blood; that dries the mouthing streams
Turns mine to wax.
And I am dumb to mouth unto my veins
How at the mountain spring the same mouth sucks.

The hand that whirls the water in the pool
Stirs the quicksand; that ropes the blowing wind
Hauls my shroud sail.
And I am dumb to tell the hanging man
How of my clay is made the hangman’s lime.

The lips of time leech to the fountain head;
Love drips and gathers, but the fallen blood
Shall calm her sores.
And I am dumb to tell a weather’s wind
How time has ticked a heaven round the stars.

And I am dumb to tell the lover’s tomb
How at my sheet goes the same crooked worm.

この詩は、あんまり英語になじみがないひとの便宜を考えて、少ない数にしぼっていつもブログに引用している詩のなかでも、むかしからこのブログ記事を読んでいる人には特におなじみの詩であるはずの、ウエールズ人Dylan Thomasが書いた「The force that through the green fuse drives the flower」
という詩で、一読すればわかるとおり、
「こういうことを書こう」と思って、表現を考え、語彙を選んでいては、こういう詩は書けるわけがない。
Dylan Thomasはもうひとりのこのブログでよくとりあげる詩人であるT.S.Eliotを内心で軽蔑していたか、あるいは(プルーフロックの恋唄を書いたことによって、最小限の敬意をもち)軽蔑してはいなかったとしても、たいしたことはない、と思っていたと思うが、それはDylan ThomasとT.S.Eliotが共通に確信していた「言語が人間に詩を書かせる力」において、自分のほうが良いアンテナを持っている、と考えていたからだと思います。

運慶は木のなかにすでに在る仁王の腕を見、憤怒の顔を見て、それをまるで初めから予定されていたように安々と切り出させたというが、良い詩人は言語のなかにすでに詩句を見て、それを宙から手の無意識の運動によって採掘するようにして紙に書き写してゆく。
音楽の例をあげればモーツアルトが猥談を連発しながらレクイエムを書けたのも、まだ採譜も演奏もされていない音楽がすでに部屋の空気のなかにあって、それをモーツアルトの手が、その音楽の形に運動して旋律として書き写したからである。

数学においても数式が思いもかけないところに数学者をつれていってしまって、書いている本人自身が、「こんな結果であるはずがない」と思うことがあるが、そういうことが最も頻繁に起きるのは言語においてで、真にすぐれた書き手は、自分の意思によって何かを書いているのではなくて、言語が言語を呼んで組み上げたある絶対性を帯びた定型を文字の形で書き手に「書かせている」のであって、書き手が意思に従って語彙や文章の構造を選んでいるわけではない。

自分の薔薇色に染まりはじめた脳髄が語彙を選んでいるのではなくて、言語の絶対の排列が自分の言語能力に感応しているのだ、というこの感じを古代ギリシャのむかしから人間は、その不思議さに打たれて、記録してきた。
それが人間の「自由意志」の問題に絡んで科学的に真剣に検討されはじめたのは、ごく最近、ここ10年くらいのことだろう。
「意志の実体とはなにか?」という問題は、それまでの人間の常識を遙かに裏切って、人間が最も信じたくない結論に向かっているようにみえます。

ここに、ぼくに最近できた年長の友人「哲人さん」の五つのツイートがある。
いまちょっとどうするか考えてみたが、書いておいたほうが背景として判りやすそうなので書いておくと、この人は職業的な哲学者で、本人は近所付き合いという点で認められないだろうが、日本の哲学の世界に綿綿とつづく、広義の誤訳と言語感覚の鈍さからくる「日本哲学の悪い伝統」から自由な人です。

五つのツイート、すなわち、

1 芸術について。人を楽しませる作品は、私たちを作品世界に「引き込む」。だが、よい作品は、逆に、作品が私たちの中に「入ってくる」。映画で言うと『ジュラシックパーク』は典型的に前者。大島渚の『少年』は私にとって後者。よい作品が私たちの中に入ってくると、自分のものの見方が少し変わる。

2 芸術について。コピーライターの言葉は「引き込む」。詩人の言葉は「入ってくる」。コピーライターは、私たちのものの見方をそのままにしておいて、私たちを作り手の意図した場所に運んでいく。詩人は、受け手(私たち)のものの見方を変えて、私たちの意図を作り直す。

3 芸術について。作品の表現が、私たちの中に「入ってくる」と、世界に対する見方が少し変わる。変わり方は、私たちひとりひとりで、少しずつ違う。よい芸術作品は、だから、私たちをそれぞれ他人と違う「個人」にする効果をもつのではないかしら。

4 芸術について。政治の言葉は、私たちの中に入って来ないし、私たちを個人にしない。政治の言葉は、基本的にコピーライターの言葉と同じ働き方をする。私たちをどこかに連れて行くだけ。政治運動が歌舞音曲をしばしば伴っている理由が分かる。

5 芸術について。人を楽しませる芸術は、だから案外怖いものだ。ヒト以外の動物は象徴の体系をもたない。象徴芸術に「皆で乗り込む」ことで、ヒトは集団を作り、暴走する。逆に、私たちを個人にする効果をもつ芸術作品が、どういう仕組みで生まれてくるのか、それは分からない。

が、この記事を書こうと思った直截の動機だが、この5つのツイートは多分、哲人さん自身が考えているよりもおもしろい事柄を提示している。

5つのツイートを、初見で、パッと見てすぐにわかるのは。このツイートを書いた人の「内なる言語」のありかたが大半の日本語人と異なることで、日本語の形成に必須なはずの「言語と言語のもたれあい」が存在していなくて、自分の心の中にすでに完結して小宇宙があって、それが自分を囲む大宇宙と照応する仕組みになっていることで、これはスペイン語人にとても近い言語生活のありかたです。
なんで日本語で生活していて、そんな曲芸みたいな小独立王国じみた言語世界が保持できるのか見当がつかないが、どういう手段によっているのか、哲人さんの言語体系は、そういうありかたで頭のなかに蟠踞しているものであるらしい。
もしかしたら哲学者という職業自体が、こういう(日本語社会においては)困難で綱渡り的な言語生活を可能にしているのかもしれません。

1について、

ぼく自身は、すでにKY(←空気が読めないという2ch語の意味)の女王mintが、「本を読むと言うこと」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/05/24/本を読むということ/
という記事のなかにめざとく見つけてコメントとして拾い出したように、
「読書の第一義は、change of paceというよりも、もう少し本質的に、タイムスリップといえばいいのか、つかの間を、自分が見知っているのとは違う速度で進行する時間のなかで生きて、本を閉じて生還をはたす、ということにある。」という、その「本を閉じて生還をはたす」と感じる、それと同じ契機で引き起こされる現実を「哲人語」で書いている。
ぼくなどは単純なので「ジュラシックパーク」を映画館で観たあとしばらくは自分がティラノサウルスになったような気がして、歩き方が似てしまって、妹に深く深く軽蔑されたのをおぼえているが、哲人さんの言う事は理解できる。

哲人さんが、「自分のものの見方が少し変わる」と書いているのは、上に書いたように、哲人さんが社会ともたれ合っていない完結して独立した言語の体系を「自分」としてもっているからで、その言語体系にとっては「「ジュラシックパーク」の映像も含めた広義の「言語」は、浅いプラスティックなひろがりで、自分の言語体系と本質的な交渉をもちえなかった、と述べている。
大島渚の「少年」は、観たことがないのでわからないが、余計で、かつ、くだらないことを書くと、自分にとって映画から影響を受けるということは難しいことだった。
いま、ざっと思い出してみると、
「The Night Porter」(1974)
http://www.imdb.com/title/tt0071910/
「The Namesake」(2006)
http://www.imdb.com/title/tt0433416/?ref_=nm_knf_i3
「東京物語」(1953)
http://www.imdb.com/title/tt0046438/?ref_=fn_al_tt_1
というような映画は「自分のものの見方が少し変わる」結果を引き起こしたが、慎重に考えてみると、それと「ジュラシックパーク」を観て「Tレックス歩き」をしていたのと、あんまり変わらない経験であるような気がする。
そうして、そのことは、どちらかというと哲人さんとぼくの内なる言語のありかたが大きく異なることを示しているようにおもえる。

2 は簡単で、前に「糸井重里は自分達の世代の魂の声を代表している」という人にあって、びっくりしたことがあったが、ポップスのブリトニー・スピアーズみたいなものというか、一目瞭然、コピーライターの言葉はマーケティング勘で出来た「あたり」の感覚なので、内なる言語と社会言語のもたれあいがおおきければおおきいほど、打てば響く、バットの芯にあたってピュンととんでゆく、ただそれだけのことなので、素朴も人間の真実もただの商品で、訓練されたコピーライターであるほど、発語の段階でもう表現がマーケティングの検閲を通っている。

3 になると、ここからが、ちょっと面白いので、哲人さんはここで「作品の表現が、私たちの中に「入ってくる」と、世界に対する見方が少し変わる。変わり方は、私たちひとりひとりで、少しずつ違う。」と書いている。
良い表現にあうと哲人さんの通常固く門が閉ざされている「自立言語」のゲートが開いて、「これなら取り入れても良いな」というふうに表現されたものを抱擁して、自分が少し変形されたものになる、というイメージで、R18な、良い表現との須臾のもたれあいを自分の言語にゆるす様子を述べている。
大庭亀夫の「いちど小さな死を死んで蘇生する」「異空間から生還する」というイメージとは言語の体系の「落ち着き」が異なる。
その差異にはたくさんたくさん面白いことがある。

4と5は、実は哲人さんの手によって別に書かれたもの(職業上の論文です)を読むと、あんまり詳しく述べてしまうと哲人さんが誰であるかテツバレ(←ユニバレ、のダジャレ)にばれてしまうので書かないが、日本の哲学の伝統の「もたれあいながら垂直に自分の精神をみおろそうとする」方法と異なって、「自分という言語の城塞から社会で起きることを哲学的な方法を使って観察しなおしてみる」方法で、哲人さんが、自分が十分によく知っていることについて啓蒙的にちょっと述べてみたにすぎない発言なので省く。

芸術という娯楽の恐ろしさは哲人さんの述べるとおりだが、ひとつだけ哲人さんに思い出してほしいことをつけたしておくと、ヨーロッパを深刻な地獄に変えたナチはワグナーとニーチェという「私たちを個人にする効果をもつ芸術作品」群によって個人を圧殺したのだった。

冒頭にDylan Thomasをあげたのは「観念の高み」ということを、前にこの詩を使って述べたのを思い出したからで、たとえばワグナーやニーチェを好む人間に日本語でいう「イナカモノ」が多くて、言語感覚が鈍い人間が多いことは、ある種類の欧州人ならば誰でも常識として知っている。
ナチと芸術の問題を考える時には、この「観念の高み」や、自由意志よりも先に表現を先導する表現の導き手としての「手」は、避けて通れない問題で、ワグナーやニーチェは恰好の観察対象です。
それは言葉の真の意味でのdecencyの問題に関わっている。

だから人間は個人に回帰するだけではダメで、そのうえに観念が少し高い言語体系をもたねばならない、ということは不思議にもラテン語が公用語として通用していた頃には誰でもが常識として知っていることだった。
いま考えた思いつきにすぎないが、多分、当時は地方語と普遍語が、たとえばイタリア語とラテン語という形ではっきり分離していたので、直感的にわかりやすかったのでしょう。

英語のような土臭い言葉が普遍語の役割をはたすようになってから、言語の家から美神は出ていってしまったが、その残り香はまだ言語世界や表現のあちこちに残っていて、ときどきは上のDylan Thomasの詩のような奇蹟が起こることがある。

哲人さんもぼくも、あるいは世界のあちこちで孤立している哲人さんやぼくの友達たちも、夢のなかでみたはずの美神の顔をおもいだそうとして、ぼんやりとした輪郭がどうしても明瞭にならないので、時に悲しみ、時に望みを失いそうになりながら、まだあきらめないで、思惟の賽の河原に座り込んでいるのかもしれません。

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