ふたつの太平洋戦争

ドキュメンタリのインタビューに答える元アメリカ人兵士たちの口からは
The Japanese didn’t know how to lose. (日本人は負け方を知らない)という言葉がよく出てくる。
くだらないことをいうと英語がわかるひとは「the Japanese」に注意するとよいが、「文明人ではないんだ」というニュアンスの点で、かなり「うんざりだ」という感じの言葉です。

日本では「若者の気持の純粋さ」「国を思う戦士の悲壮な戦い」という「神風特攻隊」についても「初めのカミカゼ以来日本人をケダモノとしか思えなくなった」
「こいつらは人間ではない、と思った」という感想が多くて、
日本での特攻隊員への「方法はあやまっていたが国を思う純粋な気持はわかる」という評価を思い出すと、間がぬけた感想でも、「随分、ちがうなあ」という気持になる。

3000mから浅角度で降下しはじめて、1500mで60度の急降下にはいる、という特攻体当たり訓練を積み重ねて艦船に体当たりした「特攻」は、物理学的な勘があるひとならすぐわかるとおり、爆弾を投下した場合に較べて、衝撃時の速度が遅く、おおきな破壊効果はもともと期待できなかった。
もちろん力学で戦争をするように徹底的に教育される海軍将校たちも、そのことは熟知していた。

下が特攻初期に不意をつかれて高空からほぼ一直線に、特攻機(高速爆撃機「銀河」)の側からは理想的な情況で突入された航空母艦ランドルフの被害写真だが、装甲が薄いアメリカ空母の飛行甲板にすらおおきなダメージを与えられていないのがみてとれる。

母国の戦史において、ほぼ「忘れられた艦隊」である沖縄のイギリス太平洋艦隊はVEデー(ドイツが降伏した日)の翌日、乗員たちがロンドンのピカデリーサーカスを埋めつくして歓喜する群衆のニュースを聴いていた空母フォミダブルに2機、同じく空母ビクトリアスにも2機の特攻機が対空砲火をくぐって見事まっすぐに突入するが、戦果は「甲板にへこみ」をつくっただけだった。

連合国側からみると神風特攻作戦の最大の戦果は、連合国側兵士に与えた、正体のしれない、しかし激しい日本人への嫌悪感とやりきれなさで、ひとりのイギリス人空母搭乗パイロットは「特攻は自分達の艦に対するというよりもずっと個人的な攻撃、自分個人に向けられた攻撃だと感じた」と述べていて、神風攻撃のあとでは日本人を敵というよりも遙かに個人として激しく憎み軽蔑するようになったとインタビューに答えている。

日本のひとの興味をひきそうな点で、アメリカ復員兵士たちが、ほぼ全員口にするのは「広島と長崎に原爆を落とすことになったのはカミカゼの直截の結果だ」ということで、つまり、神風攻撃を肯んじるような「人間とは異なる何か違う生き物」と日本本土で戦えば、いったいどれだけの人間が死ぬだろう、という意識を全員がもっていたようにみえる。
戦争指導部も「トルーマンに原爆投下を決心させたのはカミカゼだよ」というが、
この認識は日本で見聞きした日本人の考える投下理由とおおきく異なっている。
日本では原爆の投下は「アメリカ人の日本人への人種差別のあらわれ」
「日本人が自分達より劣った人種だと考えたアメリカ人たちの日本人を利用した生体実験」と理解されていて、アメリカ人たちの「原爆が投下されたから多くの人命が救われた」というアメリカ政府の公式見解でもある主張は「とんでもない恥知らずな言い訳」と捉えられている。

何度かアメリカ人たちに、「きみらはそういうけどさ、日本人はヒロシマを、つまるところ人種差別のあらわれだと思ってるのね」と言ってみたことがあるが、顔を真っ赤にして怒りだす人や、軽蔑の冷笑を浮かべる人がいるだけで、「そういうこともあるかも」という反応をみたことはない。
日本の人の思惑とは別にアメリカ人たちのほうは、ごくマジメに「原爆は多くの人命を救った」と考えている。
面白い事に、アメリカ人のうちの日系の人も他のエスニックグループのアメリカ人と反応が同じだった。

ドイツの降伏(5月8日)は沖縄戦でいうと日本軍第32軍の反転攻勢の最中で、特攻作戦では菊水5号、第6次航空特攻総攻撃の真っ最中です。
沖縄戦を通じて、アメリカ兵たちにとって、ひいては全アメリカ人にとって最もおおきな喪失はアーニー・パイルの死だが、The Ernie Pyle billを生んで底辺の歩兵たちを大喜びさせた写真家は、すでに4月18日に伊江島で日本軍の機関銃によって殺されている。

人間の気持ちというものを考えれば簡単に想像がつくことだと思うが、どの連合軍兵士にとっても5月8日以降の死は全部ムダ死にで、当然、戦場でも著しく消極的になっていった。
沖縄戦に参加したアメリカ人やイギリス人は、「ひどい不公正だと感じた」と言い、空でも陸でも「自殺攻撃」してくる日本人をみるたびに、「なんでこいつらは親玉のドイツ軍が降伏したっていうのに、まだ戦争をやりたがるんだ」と考えたもののようだった。
なんのために?

日本人からみれば、(当然だと思うが)民族の力を傾けて華々しく、アジア人同胞のために、少なくとも初期には互角以上に「白人」と戦ってみせたつもりの太平洋戦争は、アメリカ人やイギリス人にとっては、ナチと四つに組んで戦っているのをいいことに、後ろから襲いかかってきた卑怯者との戦争にしかすぎない。
正面の門に大悪魔の軍勢が攻め寄せてきたときに裏庭からこそこそとはいってきて不意打ちをくらわせた卑劣な敵、というのが日本人のイメージで、まさか日本人に面と向かってそうは言わないので、日本の人はのほほんと「割とよくやった」と思っているが、当の「白人」たちのほうは、まったく異なる印象をもって戦争を記憶している。
考え方の癖というか、「どっちがほんとう」というようなことを考える習慣がないので、ぼくは、ここでも「随分、ちがうんだな」と思っているだけだが、認識を較べてみることはして、そうやって眺めてみると、日本人と例えばニュージーランド人の認識はびっくりするほど、違う。

日本人は八紘一宇の大義に燃えて、文字通り国運と自分の身命を賭してアジアのためにたちあがって反人種差別戦争を戦ったが、同じ戦争をアメリカ人は、ヒトラーが連戦連勝で勝ちすすみ、イギリスもロシアも全力を挙げて戦っても勝てず、欧州のパワーがアジアで萎んだのをみて、いまならアメリカが参戦しても二正面なので勝てる、と踏んではじめた「計算高い卑怯者相手の戦争」として戦った。
フランクリン・ルーズベルトとエレノア夫妻の親友として知られていた宋美齢が語る日本人の残虐と傲慢に、ハンフリー・ボガートやイングリッド・バーグマン、キャサリン・ヘップバーンというような有名人たちを含めた広汎な層のアメリカ人たちが中国人たちの悲運に深い同情の気持を持ち、日本人の行いを憎んで、せめて義援金をというので莫大な金額を中国に献金していたりしていた。
1941年12月7日の参戦は、だから、太平洋においては、それまでの直截友人を助けられないフラストレーションをふきとばす爆発的な解放の日でもあった。

戦争のような悲劇を、あんまり面白がってよいものではないが、日本語と英語と、両方から太平洋戦争の歴史を追ってゆくと、「ほんとうに同じ戦争の話だろうか?」と思うことがよくある。

たとえば空の戦争で言えば、話がかみあっているのは、ガダルカナル島の上空で日米のパイロットが死闘を繰り広げていたころまでで、アメリカ人のパイロットたちは日本の戦闘機パイロットの操縦技量の素晴らしさに舌をまき、日本のパイロットたちはアメリカ人パイロットの無茶苦茶な闘志と勇気に感動している。
戦争が終わったあとになって、アメリカ人パイロットたちは、泥のように疲れているのに一週間七日こきつかわれる非人間的な日本軍のマネジメントを生き延びた日本のエースパイロット坂井三郎たちを招待して、自分達が撃墜されたときの様子や相手の日本軍パイロットの信じがたい技量を語ってきかせ、坂井三郎が得意満面になって「そのパイロットは、おれだな」というのに、一瞬目をまるくして、絶句し、次の瞬間大笑いする。
完全に追い詰めた敵でも、弾丸がつきれば、翼を振って相手の回避操縦の腕前に敬意を表して別れ、伝説を信じれば、敵基地の上で零戦3機が揃って宙返りをして挑発をする。
そこにあるのは「ひとつの戦争を戦う敵味方の戦士の姿」である。

そこだけが符丁があっていて、フィリピンで神風特攻の敷島隊が出撃したあとは、片方は悲壮な聖戦を戦っているのに、もう一方は人間ですらないケダモノと吐き気をこらえながら戦っている。
殺しても殺しても自分の生命ごと爆弾を叩きつけてくる薄気味の悪い敵にアメリカ側も完全に理性を失って皆殺しを神に誓っている。
「一億総特攻」を呼号しだした日本人たちの動向をアメリカ人たちは正確に知っていて、何度もカミカゼ攻撃をうけた爆撃手が
「I knew it would be a terrible loss of life to attack the mainland.」
とインタビューで述べている。
「Everybody was a walking kamikaze.」

本土から離れた沖縄島の攻略だけで12600人を失ったアメリカ軍は、将校から兵卒に至るまで、全国民が人間をやめてカミカゼになれと命じられた日本人が充満する本土に上陸すればどれほどの損害がでるかを考えて戦慄していた。
アメリカ人たちは、すでに欧州の主戦場で戦争が終わりを告げたのに、次から次に戦闘目的ですらなく飛び込んでは殺されにくる日本兵たちを殺し続けるのに疲れ果ててもいた。

戦後「I think the men in charge of our military operation realised Japan was going to have to be annihilated」と沖縄戦を戦った海兵隊員が言っている。

しかし日本人自身がよく知っているように、日本人は戦争に狂ってケダモノになったわけではなかった。
日本の社会の「なにか」が、日本人を押し黙らせ、ニセの感情で笑顔を合成して、明朝は特攻出撃という夜になって母親を相手に明るくふるまって挨拶を述べ、その父親には「立派に戦って死になさい」と言わせる。
母親は、その夜、父親とは異なって、「とうとうお前の番なんだね」とだけ言います。

人間性を失って戦争の餓鬼と化したケダモノたちとの戦いを覚悟していた空母バンカーヒルのパイロットDean Caswelは、日本本土上陸作戦待機中に、広島に原爆が落ちたことを知って歓喜する。
インタビューのなかで
「Great relief.」
と彼は二回繰り返して述べている。

一方、父親に励まされて出撃した特攻隊員は奇跡のようにアメリカ機動艦隊空母に命中したようでした。
そうして「とうとうお前の番なんだね」とだけ述べて息子を送り出した母親は、終戦とその後の毎日を淡々と暮らし、姉の証言によれば、戦争が終わって何年も経ったある晩、突然、特攻で死んだ息子の写真を抱きしめて、
「昌明、ゆるしておくれ! 昌明、あなたはどうして死んでしまったの? わたしのかわいい昌明、なぜあなたが死ななければならなかったの? わたしは、なんて酷い母親だろう。どうして、おまえにあんなむごいことが言えたのだろう。許しておくれ、許しておくれ」と叫んで、その場で泣き崩れてしまう。

話を聴いていて、その晩にはじめて太平洋でアメリカ人と日本人が戦った、ふたつの別々の戦争が、ひとつになったのだと考えました。

日本は、また、ふたつの異なる盤面を政治上も文化上もつくろうとしている。
同じ世界を眺めているはずなのに、きみとぼくが見ている景色はまるで違うものになってしまっている。
この記事を書いてみようと思ったのはそれが理由です。
西洋世界は、戦争が終わったあと、石器時代にもどってしまった都市の廃墟に立って日本人が求めたもの、その手ににぎりしめたいと思ったものは「自分が自分でいられる自由」だと思っていた。
安倍晋三が首相になって、高い支持率を誇っているのを見て、どうやらそれは間違いだったらしい、と皆が思い始めている。
「皆が思い始めている」と言っても、ここでいう「皆」は職業上やその他の理由で、日本をずっと関心をもって眺めてきたひとたちという意味で、大多数の人間にとっては、いま日本に関心を持つ人間が持っている疑問は、10年くらいあとになって初めて持つ疑問でしょう。
それまで、のんびり待って、それから話をすればよさそうなものだが、なんだか、あと10年、ほんとうに日本は平和でいてくれるだろうか、とおもう機会が増えてきた。
こうした局面では、ドイツ人たちのように、自分達が30年代から40年代にかけてやったことについて考えを変更したわけではなくて、一応、相手の気持ちをそこねないように謝ってはみせたものの、ほんとうはきみだっておかしかったじゃないか、と社会ごと信じている日本社会の頑固さは、日本の致命傷になりかねない、と思う。
余計なお世話だけど。
もういちど、なぜ、あの太平洋戦争がふたつの異なった戦争として歴史に存在するのか、考えてみることにも、少しは意味があるのではないかと思います。

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20 Responses to ふたつの太平洋戦争

  1. gyokkirinn says:

    西欧諸国の「特攻隊」への生理的な嫌悪感が日本人に理解されてません。それを改めて気づかせていただきました。ありがとうございます。なお、このブログ記事のこと、自分のブログでも触れました。→http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/72fc8199a25af943de702a41b8e32874

  2. sigfo says:

    今までの自分には無かった視点と考えで、大いに参考となりました。
    ありがとうございます♪

  3. 馬場 能子 says:

    「特攻という暴力」と「原爆という暴力」は、本来、同じ俎上にのせて語れない質の暴力ではないかと思います。戦争、という共通項で括られているというだけで。背後の思想と、科学への依拠、本来が立ち位置の違うもの同士です。そこでしかし必要になってくるのは、各々が背負う背景を広げて見せ、その上での「対話」であろうと思います。違っていること、ものを認め合うことからしか、真の相互理解も歩み寄りもありません。価値観は、違っていて当然だし、それで良いのです。そこから踏み出せるお互いであるかどうか。なにごとを語るにしても、それは最優先されるべき姿勢であろうかと、私は思っています。

  4. alto says:

    はじめまして。
    ときどき興味深く拝読してます。
    カミカゼに不気味さや嫌悪感を抱いた西欧人は、昨今ある自爆テロにも同じ感覚を持つのかな。そして彼らの世界のことを文明的じゃなくてうんざりさ、なんて思っているのかな…なんて今回は思いました。

  5. says:

    カミカゼに対する嫌悪感。それはわかります。あんなものが正しかったとは思わない。
    しかし、「原爆が投下されたから多くの人命が救われた」というのは、多くの人命=アメリカ軍人の命だと認識していました。他国民より自国民の命を優先するのは当然です。ですが、国や軍の研究部としては「生体実験」という側面もあったと思います。有効な兵器を作り敵を殺し自国を守るのが軍の目的ですから。また、当時白人至上主義でそれ以外の人種はすべて植民地、奴隷としようとしている国だというイメージを日本はアメリカやイギリスにもっていたと思います。今までそうやって搾取して大きくなった国という歴史がありますから。そして今でも植民地だった国は貧しいですよね。他国の奴隷にされ、それこそ人間以下の扱いをされ搾取されることを防ぐには日本が弱小国でなく、「怒らせたら不味い国」「戦争をすることが不利益な国」だと示さねばなりません。
    実際日本がアメリカとの戦争を回避したかったのに、日本からしたら到底のめない理不尽な要求「ハルノート」をつきつけられて戦いを余儀なくされました。戦争の発端は
    日本が脅威とされない、所詮ほかの今まで奴隷にしてきた人種と同じだと見下されたことです。日本は彼らにできる限り損害を与えて強さを示さなければ、彼らの奴隷にされてしまうと思い、ボロボロだった日本軍にできる最後の抵抗が「カミカゼ」だったのだと思います。もちろん道徳的観点からしたら許されないことです。しかし、ありとあらゆる道徳を守って行う戦争なんてありません。そしてカミカゼをしないですむ選択肢があるほど日本が豊かな国でなかったのも原因ですね。やらねばならないことが能力の許容範囲をこえてしまい、このような非道な手段になってしまったのでしょう。正義なんて相対的なものですから、自分の判断基準がすべて正しいと思っている単純なアメリカ人らしい話だなとこの記事を読んで感じました。真実はひとつではありませんから、ふたつの太平洋戦争のままで大変結構だと思います。

    • hiroshi says:

      残念ながら、日本はアメリカとの戦争を回避しようとするどころか、逆に確実に戦争へと突き進むために努力していました。11月初頭の御前会議で12月の開戦をほぼ決定していましたし、ハルノートの前の甲案乙案などはアメリカが受け入れたりしないように、念を入れてアメリカが拒否しそうな文言を入れることに注力しました。それは陸軍参謀本部日記という貴重な資料からうかがい知ることができます。

  6. ルーズベルトから天皇にあてた戦争回避のための親電は真珠湾攻撃が始まるまで、一士官の判断で秘匿されました。そういうことが、士官レベルの判断で出来たような日本軍だったのです。外務省も在米日本大使館も無視し、天皇さえ無視できるような皇軍が戦争に勝てる道理はありません。ミドウエイ後はほとんどの機動部隊、空母を失って敗北は必死となり、近衛さえもう敗北は避けられないから余力があるうちに降伏したほうがよいと天皇に進言しても、もう一戦勝ってからだと退けた昭和天皇には開戦の責任は無くても、敗北を意図的に遅くした責任はありません。あのときにソ連に頼ったり、新型爆弾(原爆)開発にアメリカが成功していたという情報も在スペイン日本大使館から入っていたのに、その情報も無視され、神風特攻隊という外道の作戦を立て、昭和天皇さえその時に始めてそこまで戦況が悪いのかと初めて悟ったそうです。近衛が進言したときに降伏を受け入れていたら、東京大空襲も、沖縄戦も、広島、長崎、対馬丸沈没、満州開拓民の悲劇もなかったのですから、昭和天皇の責任は大きいと思います。

  7. fra says:

    日本人は、決まった事に従うのが得意なんだと思います。その思考を持つ国民は恐らく半分以上を占めているので民主主義でも主権を握ります。今も当時も、そこは変わっていないと思うのです。そして忠実に従う事に美徳すら感じているのだろうと。そんな思考を持つ民族にアメリカの自動車業界は戦後ボロ負けしました。戦時中に日本人の特徴をクレイジーとか人間じゃないと感じたのは彼らの素直な感想だと思いますが、この特徴が経済成長を生んだのも事実なのかな、と。全否定すべき特徴ではないのかもしれません。でも戦時中、どこかで確実に間違ったとは思ってます。

    • hfh says:

      当時の日本は、外交、そして戦争の実行において政府、陸、海軍、省の認識と目的が統一されていませんでした。
      その行動は組織内部に対して影響力を及ぼしたい身勝手で無責任な個人達の影響を多分に受けていたと言えます。
      各々の利害が強すぎて交渉において妥協も出来ず、面子の為に現実的な目的も設定できなくなり、互いに牽制しあって情報を隠すので誰も実態を知らない。
      そのような組織の集合が全体として理論的な行動を取っている筈がなく、望み通りの結果が得られる可能性など万に一つも無かったと言えます。
      勿論、そうでなければ戦争を回避できた、または勝てたというわけではありませんが。

      日本人の多くが誠実、忠実な美徳を持っていても、御国のためにと誠実な人々を煽り立てたのは御国のためでも下らない確執や面子を捨てられない人々だったのですから、そのような美徳も不誠実な個人が権力を握れるような構造では害悪を助長する事にしかならなかったのです。

  8. りょう says:

    興味深い観点からの記事でした。
    私はアルゼンチン人ですが、神風特攻隊でアメリカ兵に与えられた恐怖は無事日本本土への侵略を死守する事が出来たと思ってます。
    アルゼンチンもマルビナス戦争で燃料不足に陥ったパイロット達はイギリスの艦隊へ大量の爆薬を戦闘機に搭載して特攻する事になりました。彼等は自分達の同胞を「神風」と呼ばれるのに抵抗があります、それは彼等は「仕方なく特攻したからである」と主張します。
    日本軍のアジア解放により欧州諸国は植民地政策を手放す事になったのはある意味、日本の勝利と思ってます。近年、世界情勢が緊迫している中、日本が戦争を始めよとは言いません。ですが、戦略的に特定三国から日本を守る為にも日本には自衛隊にもう少し力を与えなければいけないと私は思います。

  9. 日本側に、自分たちがどの辺で加害者になっているのかが、未だにわからないのが多数派ですからね。
    ここのコメントを見ていても……そういうことは感じますね。

  10. ryumurasame says:

    初めまして。米国にとっても、あの戦争が始まったのは真珠湾よりずっと以前からだったという認識は、実は私を含めて日本人の中にはあまり無かったのではないかと気付かされました。

    太平洋戦争は、明治維新以後の日本が近代資本主義と帝国主義の潮流の中で最後に迎えた破綻の瞬間に過ぎないと私自身は考えています。あの終戦の日を迎えるまで、日本人にとっての戦争とは「辛く、厳しく、悲惨で残酷でそれでも最後には勝つ」もの以外の何物でもありませんでした。だから、当時の日本人と米国人の間に認識の齟齬が生まれるのは当然ですし、むしろ、一人ひとりの数だけ戦争への認識はあり、それらはどれも異なります。中国、朝鮮、東南アジア、インド、中東、どこでも、米国と寸分たがわぬ戦争観を持つ国と国民はいないでしょう。

    ただ、あの戦争に最初から反対を唱え、最後まで貫いたのは、米国が最も恐れていた共産主義者たちだったことも知っておいて欲しい。米国が真の平和よりも資本主義を優先した結果が、今日の世界にどれだけの影響を与えているのかも考えて欲しい。

    米国は、経緯はどうあれ、戦後の日本にどんな条件の元であっても戦争そのものが悪であるという、世界史上類を見ない憲法を提案し、日本人はそれを受け入れました。

    今の日本の現状にもし強い危機感を感じるのでしたら、なぜ米国が戦争放棄、戦力不保持の憲法を日本に根付かせようとしたのかを、他でもない米国の側からももっと研究を深め、発信して欲しい。そんなことを思いました。

  11. Fuji says:

    面白い。コメント欄も面白い。勉強になりました。
    でも誰に言われようと原爆は多くの人の命を救ったとは考えない。
    神風が正当化されないのと同じで、原爆も正当化してはならない。

    歴史がうんぬんハルノートがうんぬんではなく、
    武力を振るうことを正当化してはいけない、という極めて単純な話。

    領土は力で奪い取るもの、という時代に逆戻りしないためにも
    結果的に戦争の罪を日本に着せようとしてることに変わりはないよ>アメリカ
    どっちも悪いに決まってるじゃん。

  12. hukuuchi says:

    これはよい記事。
    短絡的にみると、文化・価値観の違いであって、どちらが正しいとか悪いとか優劣はないように思う。
    ただ、今の世界の価値観は当時の日米どちらに近いか。
    現代日本人がアメリカ人たちの抱く感想をなぜ理解できるのか、現代のアメリカ人がなぜ未だに日本人お考えを理解できないのか。
    寛容性だとか人種差別だとか一笑に付すだけでなく、ちょっと考えておきたいところ。

  13. マリ says:

    それがどうして原爆なんだかと思うけど
    日本では語られない
    一般的な西洋人の価値観、見方がわかって良いです。
    キーワードは「文明・野蛮」かなと。

  14. カエル says:

    日本人は先の大戦で、自分達はナチ程の戦争犯罪は犯していない善良な民族であると今も無邪気に信じている。それは一部の日本人だけではなく、かなり多くの日本人に共通する考えであろうと私は感じている。故に現在の極右政権が成り立ってしまうのだろうと、漠然と考えている。己の善良さを疑わせる様な、他国、他者の指摘を受入れられない。奇妙に中空に浮いた「美しい国日本」をうっとりと夢想出来るのだ。

  15. nightonfool0206 says:

    こんばんは、ガメさん。
    このコメントは少し長くなりそうです。そして少し哀しいものになると思います。

    この記事を読む前から、僕は個人的に太平洋戦争というものを気にかけていました。
    学術的に検証しようとか資料を詳細に調査したとかではなく、ただ一人の若者として。

    僕は幼い頃から幕末〜明治維新の時代が好きでした。
    幕府側も新政府側も区別なく好きでした。
    はじめは新撰組が好きで、大人になるに従って新政府側が好きになりました。
    文字通り生涯をかけた大久保利通や身をもって旧体制を清算した西郷隆盛、
    まったく新しい生き方をした坂本龍馬、みんな僕のヒーローでした。

    そのような俊英たちが作り上げた政府が時を経て
    どうしてあのような悲惨な戦争に突入していったのか。
    僕はひとりの傍観者として、ただそれを眺めていました。

    今は少し違います。

    どうやら僕は被爆4世ということになるらしいのです。

    僕の曽祖父は飛行機の整備士だったということは昔からうっすら知っていました。
    最近になって、どうやらそれが零戦に代表される戦闘機だったということがわかったのです。
    しかも広島で仕事をしていたらしいということも。

    聞いたところ曽祖父はほとんど目の前と言える近さで広島で被爆したということです。
    なんとか生き延び、来る日も来る日も、広島の遺体を片付ける仕事をしたらしいのです。

    後年曽祖父は原爆症に悩まされ、40代を過ぎた辺りから働くことが出来なかったようです。
    代わりに祖父が中学校を出たか出ないかのころから港湾労働をして生活していたらしい。
    僕の知る祖父はいつも朗らかで飄々としていますが、
    幼いころから死ぬ気で働いて子供達を大学・高校へ行かせたということです。

    曽祖父は死ぬまでずっと被爆した現場のことを忘れることができず、
    夜になると悪夢に悩まされ、束の間の午睡も同様だったということです。
    いつも大きな声で叫んでは目を覚ましていたと聞きました。

    僕の母親も祖父同様、シングルマザーでありながら一生懸命働いて学校へ行かせてくれました。
    本当に、頭が下がります。

    僕は今のこの気持ちを言い表すことのできる言葉を知らないし、
    周りのごく少ない友達に理解を求める勇気もないけれど、ガメさんはわかってくれるでしょうか。
    寂しいような、悲しいような、哀しいような、誇らしいような、切ないような、やるせないような、
    複数の感情がないまぜになって自然に涙に変わってしまうような感情をわかってくれるでしょうか。

    語弊を恐れずに言えば、僕は太平洋戦争の勝ち負けや原爆投下の是非なんかに興味はなくて、
    なぜこんなにも多くの人が哀しみを背負わないといけなかったのかという悔しさしかありません。

    何が正しいとか何が間違ってるとかそんなんじゃなくて、
    ただお互いに認め合って仲良くすることがなぜ出来ないのでしょうか。

  16. 亀殿、改めて記事を読み直しました。昨年日本では主に中国と韓国との間で領土問題(尖閣と独島)と歴史認識問題(南京大虐殺と従軍慰安婦)が大きく取り上げられました。国民ひとりひとりが否応なくこの問題について考えたと思います。どの国も戦後生まれが人口のほとんどを占め、現存の資料から勉強する以外に方法がなくなってしまっているようです。私は日本人の方とはあえてこのお話を避けて参りました。なぜならたいていの方が政治的(暴力的)な話に転換して感情的になってしまい、まともな議論が成立しなかったからです。政治的なお話はともかく、私民間人が一個人として何ができるかということを模索中です。5月より今より時間ができますので、この歴史についてまず戦争経験者からお話しを聞くことを始めていきたいです。同じ人、同じ立場、同じ国籍の人からの話では偏りが出ますのでできるだけ幅広く、また先方が高齢ですので急がなければと思います。その人たちがいなかったことにならないように私なりに記録をとりたいと考えています。中国へ行ったときに、中国の大連市内にある博物館に中国の方に連れて行ってもらったことがあります。その博物館には非常に精巧に作られた南京大虐殺の模型が展示されていました。その方は私におっしゃいました。「これをあなたに見せるのは日本人を責めたいからではありません。ただただ忘れないでいてほしいのです。なかったことにしないでいただきたいのです。こういった歴史の上に私たち後世の人間は両国の関係をよりよく築いていかなければならない。」同じような話を韓国の方からも聞きました。明治生まれの祖母に訊いたことがあります。「おばあちゃん、玉音放送のときあんなふうにこうべを垂れてラジオを聴いていたの?」祖母曰く、「冗談じゃない。長男が死んでいなけりゃ帰ってくるし、もう防空壕に年寄りおぶって逃げなくたっていいし、せいせいしてとっとと電灯にかぶせてた黒い布はずしてハタキをかけてやったよ。負けるなんてだいぶ前からわかっていたさ。新聞にいいことばっか書いてあったってどんどん暮らしが悪くなっていったもの。みんな知ってたさ。」いつも江戸前の歯切れのよい口調の祖母でした。ときどき今生きていたらなんて言ったかなと最近よく思います。

  17. snowpomander says:

    いまここ:2016年3月29日。WWIIの中の二つの物語「南の島に雪が降る」。Wikiでは俳優(故人)加藤大介氏の従軍経験手記、設定は大東亜戦争末期のニューギニアとなっています。私の父は対戦の末期に満州から宮古島に配属されました。捕虜生活は沖縄本土の米軍基地で敗戦後も1年あまり留め置かれました。その捕虜生活の仲間は初期の徴兵年齢の青年ではなく、末期に招集された公務員や歌舞伎役者など市井の後方に居た人たちでした。長い捕虜生活は基地のハウスボーイや基地内に作られたビール工場での労働が主だったそうです。休日もあり、米兵と捕虜の交流会が企画されました。「それが本当の『南の島に雪が降る』の話しなんだよ」と後年に父が話してくれました。
    当時の父が大事にしていたのは米軍の戦闘機の風防ガラスの欠片で作った分厚いカヴァーのついた腕時計でした。ビールの生産管理と風防ガラスの加工は将校達に評判で、そのおかげでちょっといい待遇であったそうです。理科系出身の父はビール醸造でも重宝がられたようです。
    なぜ早期に自分たち捕虜を解放しなかったか、それは本土に戻った時に自分たちが担う役割があったからだと父は言いました。「教育や技術や芸術の世界が焼け野原の後に闇市の立ち並ぶ街の人々にどんな影響を与えるか、占領軍は熟知していたからね。これからの極東の進駐先の国民に紳士的な良い印象を伝えるだろうと僕たちは西洋文明に馴らされたんだよ」

     顔見知りになった米兵にネイティブ・インディアンの血筋の方はおり、父の帰国前に「今度アメリカをやる時はいっしょにやろうぜ」と父にウインクした時には父の歴史感がぶっ飛んだそうです。長じて私は民主主義のパンドラの箱のそこに残るのは希望ではなくて不信なのだと思いました。大陸の先住者の受けた裏切りはコーラでもホットドッグでも隠せない。

    幾つもの国の母親が嘆く思いは同じです。
    全ての男は女性から産まれます。
    この世界の命は戦争の道具ではない。
    地球の資源を牛耳る富裕な数パーセントのゲームのために私達は行きているの?

    もうしばらくしたら日本のことを煩わしいとも思わなくなる予感がする。
    歴史的事実を話したり思い出すよりも大切なことがある。
    緑の道にKauri treeがあったら私はタッチする。

  18. Lindzey says:

    【日本の社会の「なにか」が、日本人を押し黙らせ、ニセの感情で笑顔を合成して、明朝は特攻出撃という夜になって母親を相手に明るくふるまって挨拶を述べ、その父親には「立派に戦って死になさい」と言わせる。】

    この「なにか」は、なにも戦時中だけではなくて、今も日常にあります。しょっちゅう見ます。会議で、他の誰かが言うまで自分は言わなかったり、挙手もせず、会議が終わるまで一言も発言しなかったり。対立する意見の両方を聞いてどちらにもつかず自分の意見を主張せず「全体が丸く収まる」ようにしようとする人など。私が自分の意見を言うと、議論にはならず黙ったままで、でも会議のあとで遠巻きに陰口を言われたり。
    サービス残業ばかりで体も心もボロボロなのに、「私が辞めると他の人がしんどくなるから。他の人も頑張ってるんだから私も頑張らないと。文句なんて言えない」とか。
    私自身そう思い続けて、自分がボロボロになって壊れるまで我慢してしまっていました。
    ボロボロになって、全て失敗してしまった後初めて、「理不尽で間違った状況に対して黙って耐える事は、美徳なんかじゃなくて馬鹿なだけなんだ」と、気付く事ができました。
    日本は敗戦で失敗に気付くチャンスがあったはずなのに、どうして今も「なにか」は残っているのでしょう?
    全体の「和」を重視する農耕社会の弊害なのか、権利意識や論理性の弱さなのか、教育の失敗なのか。わからないけれど、今も残るその「なにか」が日本を生きにくい世界にしていると思います。

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