夜の闇のなかで

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“The best audience I ever had made not a single sound at the end of my performances”
と、オードリー・ヘップバーンが述べている。
その頃、後年、ほっそりとした清楚な姿の美しさで、全盛だったハリウッドのグラマー女優たちを一挙に田舎のストリッパーなみの印象に蹴落としてしまい、それまでは売り物だった胸の大きさを恥ずかしがらせた、「ローマの休日」「ティファニーで朝食を」の女優は、若いバレー・ダンサーとしてオランダの対ナチレジスタンス組織の資金稼ぎのための地下公演の舞台に立っていた。
公演のあいまには、レジスタンス組織の連絡員として、仲間がつかんできたナチの情報を夜の道を駆けて、支部から支部へ、伝えて歩いていた。
女優になってからのユニセフを軸にした活動は、この頃の情熱からまっすぐに続いている。

ひさしぶりに「ローマの休日」を観たので、ヘンな例からはじめてしまったが、欧州人の政治活動の特徴は、つかまれば拷問・処刑が待っている文字通り生命を賭けた政治活動であっても、政治活動がその人のたたずまいに影響を与えていない「普通の人」が担い手であることで、戦争のときだから特殊だったのではなくて、いまでもたとえば図書館の司書のアイルランドおばちゃんと打ち解けて話していると、ちょっといたずららしい顔をして、「わたしもイギリス人をふたり殺したことがあるのよ。IRAには、私の家族は全員がはいっていたの」と言われて、どひゃ、と思ったりすることがある。

だから特にどうということではないと思うが、日本にいたときには政治活動をする人がいかにも政治活動をしそうな感じの人で、元全共闘活動家、というような人にあうと、顔はもうしわしわだが、いかにもヘルメットをかぶって出かけたそうな風情で、キャプテンアメリカの映画を観て盾を持って走りまわっている子供みたいというか、スーパーマンを観てスーパーマンスーツを着て二階の窓から唇をきりっと結んで空をにらんでいる人みたいというか、政治と自分という個人との関係がやや過剰に人格を染めあげているタイプの人が多かった。

そういう、観察して「ちょっとカッコワルイ」と思っていたことが、社会という観点からは、日本では、やや本質的なことなのではないかと思い始めたのは、やはり福島第一事故があってからのことです。

自分のなかの「政治」がどのような形をとっているかは、当然ながら、人によって異なる。
日本の人は、どうしてあんなに政治や社会の問題が好きなのだろう、と述べたら、日本語フォーラムの友達が、「あれは、一生懸命おぼえたことを答え合わせをしているだけなんだよ」と応えて、頭の良いひとはなんにでもぴったし寸法のあった言葉を持ってるもんだなー、と感心してしまったが、言われてみれば初めて見えてくる、その通りで、はてブや2ch、最近ではツイッタでも、みなで勉強した、表紙に「政治・社会」と書いてあるノートブックを持ち寄ってきて、「安倍首相? ああ、あれはね、アベノミクスを否定するかどうかがポイントで、安倍政権を否定する人はアベノミクスをも否定するのか、と問いかけるのが主要点で+15点、クルーグマンがほめてることに言及してあれば+3、通貨供給量と市場経済について書いてあれば+1点…」
というふうに正解をどれだけおぼえているか確認しあっているのだと思えば思えなくもない。
ちゃんと参考書執筆者・予備校講師の役の人がブログを持っていて、正解を作製するのを業として、そういう所におおぜいの人が集まるのも、なんとなくうまく出来ていて、笑いがこみあげてくるよーです。

一方で、自分が正解集で見たことがない意見を述べる人があると、「あんたの答えは間違ってる! どの参考書の正解集に、そんな意見が出てるんだ? バッカじゃねーのw」と皆で全速力で駆けて集まってきて、勝ち誇って囃し立てるのも、日本社会では「みなが判り切っていると信じていることを答え合わせすることだけが議論」なのだと仮定すると、説明が付きやすいように見える。
正解が初めから判っているので、「いじめをなくすためには学校そのものを無くさなければダメだ」というような社会学者があらわれると、自分が持っている「教室内を改革して、よりよい学級をつくりましょう」というような正解例と異なるので、なんでこんな奴の誤答を読むバカがいるんだ、と、いらいらして、だが考えてみると自分の頭で考えた経験は皆無なので「正解は正解なんだよ!この誤答者めが」としか言いようがないので、矛先を転じて、あいつは駅前の店でアイスクリームをクリームアイスと言い間違えるような好い加減な奴だ、とか、ツイッタのアカウントを探してきて、中国では反政府人の要塞にもなっている、自由な社会のためのスリングショットであるツイッタを骨抜きにすることに成功したtogetterというツイート・コラージュ装置があるので、社会学者のツイートを巧みに編集して、発言そのものよりも発言者の人格を中傷して、信用の足下を掘り崩すことを狙う。
そういうことに熱中しだすと止まらなくなってしまうのも、やはり、正解集で採点してもらって、いつだかは100点満点で85点もとって、偏差値も62くらいまであがったことがある「教育・学校」問題で正解でないことをいいつのる社会学者が憎らしくてたまらないからでしょう。

政治はもともと何千万人という社会の構成員が、ひとりづつ完結した自分の宇宙をもち、異なる価値を信じ、てんでんばらばらな宇宙の法則をみつめているのを、調整して、社会という装置自体が崩壊してしまわないように「全体」へつなげていくために存在する。
なんだかものすごく当たり前のことだが、だから、政治は普通の人の普通の生活に少しづつ存在するもので、家族の夕食の団欒では年がら年中政治の話が出て父親も母親も、娘達も懸命に議論するし、その完結して自足している宇宙であるはずの「個人」が滅せられそうになれば、バレーの足のバンデージをほどいて、その足で、夜中の道をドイツ親衛隊の誰何(すいか)を微笑でやりすごしながら、地下運動の仲間へ伝言をとどけに行く。
あくまで「個」の欲求にねざしているので、正解集を広げてみると白紙で、「自分で書き込むこと」と書いてあるだけです。

政治や社会正義が服を着てしまったような人間には、あるいはアルコール中毒の人が酒の臭いを体中からぷんぷんさせているように政治や社会の「正義」が臭ってくるような人の「個人」には、「正しいこと」しかつまっていなくて、その頭のなかに映っている夕日は政治のせいで少し黒ずんで、真っ白であるはずの青空に浮かぶ白雲も、正義のせいで灰色にくすんで底が汚れている。
そうなってしまえば、あるいはそういう人間に耳を貸すようになってしまえば、本地も垂迹して、個人のために社会があるのか、社会のために個人が存在するのかわからなくなってしまう。

Arnhemの夜更けの街を自分の自由のために命を賭けて駆けた少女は、連合軍の失敗した作戦として有名なマーケットガーデン作戦で荒廃した町の、ドイツ軍による封鎖で起きた飢餓をも生き延びて、やがて女優として輝くような姿をスクリーンにやきつけたあと、(もちろん政治発言として述べたわけではないが)自分の政治的信条をこんなふうに述べている。
「The most important thing is to enjoy your life – to be happy – it’s all that matters.」

政治や社会について自分の言語が考えはじめたときに、ちょうど机の上のスタンドライトを灯さなければ、夜の闇のなかではなにも読めないように、頭のなかに灯っていなければ、政治も社会も、それなしではなにも見えなくなってしまう。
自分がまず幸福でなければ、政治や社会について考えることも、ただの、たちの悪いひまつぶし、ということなのでしょう。

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One Response to 夜の闇のなかで

  1. alto says:

    幸福の追求とか選択肢なんてことをつらつらと考えた。
    誰かの幸せがあなたやみんなの幸せにもなるんだったら、そして幸せというものがいつも安らかに叶うのであれば、きっと素敵なのに。
    (それともやはり幸福は掴み取るものなのだろうか)

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