マンガノート1

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日本の戦後文化を最も特徴付けるのはマンガで、ひとつの民族がおもいっきり独創性を発揮するためには、自分達の民族性に合った「定型」を見つけ出さなければならないが、
日本人は「マンガ」という形式のなかに、自分達が最ものびのびと民族としての才能を発揮する形式を見いだした。

いっぽうには現代詩がある。
70年代初頭には松本清張や北杜夫、三島由紀夫というような人達は、それぞれ推理小説、船医の経験を述べたかるい随筆、純文学を土台にした娯楽小説(例:宴のあと)というようなキャラクタの文章で、だいたい1億円、40年も昔の貨幣価値は較べようがないが、さっきたまたま他のことで調べていた山手線の「初乗り料金」が30円なので、いまの貨幣価値になおせば10億円くらいにあたるのだろうか、そういうおおきな年収を得ていた。
小説家は、たとえば純文学、つまり小説家が少数の理解能力をもつ読者のために自分が最も書きたい物語を書くという立場にあって、本来は、そんなに高収入を得られるはずのないマーケティングに立っていた三島由紀夫でさえ、「宴のあと」を読めばわかるが、読み捨ての消費物としてではない物語を書いて、しかも豪奢な暮らしを送ることができた。

やや日本語の感覚が鈍い文章で、せめて欧州式の堅牢な「たくらみ」のある物語をつくろうとしても、ついてくるひともたくさんはいなくて、小説家なのか講演業者なのか判らない収入が内容のいまの「小説家」とは経済基盤が異なっていて、そのせいで、「文学青年」というような、売れるかどうかも判らない小説を書いて、一生を文学に投企してみる、というような若者もいたが、現代詩は、そういう「文学が儲かる時代」にあってすら、すぐれた詩を書くことによって生活に必要な収入を得るのはまったく無理で、書店に並ぶ現代詩の雑誌に自分の詩が印刷されて流通しても、よくて詩一篇で5000円、たいていはわずかでも払ってもらえるはずの原稿料も払ってもらえなかった。
詩集のベストセラーなど、本質的にマーケティングが成功したベストセラーだった谷川俊太郎の例をのぞけば、なんだか冗談みたいだが「千部」というような数だったでしょう。
余計で、くだらないことを書くと、日本の文学史上唯一の「詩集のテレビコマーシャル」は東京12チャンネルの深夜で流されたはずの岡田隆彦の「史乃命」で、もちろん、テレビコマーシャルを流した出版社は、あとであえなく倒産しました。

詩を作る能力とは別に、職業として詩人でありえたのは、戦後すぐから見渡していって、谷川俊太郎、田村隆一、吉増剛造の3人のみで、谷川俊太郎は「鉄腕アトム」の歌詞というようなものや全国にたくさんある校歌の作詞を観れば判るが、あとの糸井重里のようなコピーライターの才能がある人で、「定義」のような詩集と、歌詞とを見較べると、マーケティングで発語することが出来る以上に、世の中一般の人間の言語能力への深い軽蔑がみてとれるような趣の人だった。
田村隆一は、つまりは「破滅型」の人で、破滅を悲壮とおもわない点でいっそう破滅型で、いつか日本にいたときに、どんなものだろうと思って古本屋で買ってきてみたら、誤訳だらけのすさまじいハヤカワミステリの翻訳や、面白いのは、テレビや雑誌でヌードモデルをやってみたり、あるいはよく読んでみると5ページの記事のうち4ページ半は引用で、自分で書いた文章はほんの数行しかない、というような、こちらは自分の純粋に文学的、あるいは詩的感受性における天才を換金する方法で暮らしていけたひとだった。
最後の吉増剛造は「詩人」という言葉がもつ内容に自分を鋳型しようとした人で、
「オシリス、石ノ神」というような詩集をみると、これから自殺する人の詩集だが、花椿賞授章を境に持ち直して、ちょうどいまの低収入の若い人が節約して、工夫を重ねて、生活を小さくするやりかたで、この人はほんとうに「詩人」として生きていけた人だった。

マンガの話を述べていこうとしているのになぜ長々と現代詩人の話をすることから出発しているのかというと、マンガがノートブックの余白から生まれたからです。

「リボンの騎士」のような少女マンガも含めて、その後のさまざまなマンガの前駆体となるマンガを膨大な数で描いた手塚治虫にしてからが、やがて大阪医専にいきつく、仮面的なマジメな学生生活のあいまに、授業ちゅうに教師の目を盗んでマンガを描くことから始めたひとだった。
この人が憧れたウォルト・ディズニーも、たしかチェーンとしてのマクドナルドを創業したレイ・クロックだったと思うが、若いときに、ランチタイムにたくさんの若い兵隊たちに囲まれながら後年のミッキーマウスやドナルドダックを描いてみせて、食堂の人気者になっているのを目撃されて記録されているが、ウォルト・ディズニーと手塚治虫のあいだには若いデビュー前ですら重要な違いがあって、みんなの前で手品を披露するようにマンガを披露して驚かせるのを趣味としたウォルト・ディズニーと異なって、手塚治虫はあくまで自分が読んで楽しむのが本来の目的だった。

世界戦争が起きて、自分たったひとりがこの世界に生き残ってしまい、食べ物と紙とペンがあるとして、その状況で詩を書く人間はいるが小説を書く人間はいない、とは大学の文学の教室で、入ってきたばかりの新入生たちに大学の教師がよく例として話すことである。
日本人ならばマンガを描くのではないだろうか?
と考えたのが、この記事を書こうと思った理由なのかもしれません。

日本の人にはごく明瞭な特徴があって、なにごとによらず、俯いて、自分の手のなかやテーブルの上で、細かくつくりこんでいくようなことには常に大変な才能を持っている。
それが顔をあげて、水平かそれより上に視線をもって作るようなことになると、だいぶん苦手な趣になる。

建物なら室内や庭園のディテールは素晴らしいのに、できあがった建築や町並は、これが同じ民族のものだろうかというくらい凡庸で醜いものだった時代が近代以降、長くつづいた。
日本人に顔をあげさせて、空が目に入るような仰向いた視線をもたせるためには、西洋的な「観念」で自分の顎をあげさせる作業が必要だった。
戦後建築初期には(特に関西の)建築家には共産主義者が多くて、いよいよ仕事の予定がたてこんでくると、スタジオの全員が「インターナショナル」を合唱しながら徹夜で仕事をしあげた、というような日本の建築家に多い逸話は、案外と、日本人の創造性の本質に根ざしているのかもしれません。

職業にするというあてがあってマンガを描く若い女びとや少年が数多く登場するのは、せいぜい70年代にはいってからで、それまでは、ほんとうに手すさび、「自分が描くのが楽しいから描いた」のに過ぎなくて、その頃、どのくらい広汎な数の中学生や高校生が、自分の一生を塗りつぶしてしまう勢いで、勉強もほうったらかしにして、マンガを描いていたかを考えると、おおげさでもなんでもなくて、それまでの人類の歴史にはなかった姿で、なんだか、あまりのことに楽しくなってしまう。

前から何度もこのブログに出てくるように、初めにしばらく住んでいた子供の頃をのぞいて、ぼくは日本にいるあいだじゅう、「雑誌」を蒐集していた。
週刊朝日、話の特集、平凡パンチ、パンチOh!、ボーイズライフ、ミセス、主婦の友、ありとあらゆる雑誌を創刊号から蒐集して、いまでもロンドンの実家には、雑誌の洪水というか、とんでもない量の雑誌が棚にはいっていて、ぼくの老後の楽しみに向かって待機中だが、
そのなかには少年サンデーや少年マガジンというようなマンガ雑誌もはいっている。

「義理叔父」というのは、かーちゃんシスターという名前でずっとこのブログに出てくるかーちゃんの妹の夫で、言語が不分明な日本人のおっさんだが、この人の父親はむかし毎週木曜日(?)になると書類鞄にこっそり、当時はたいそう薄かった一冊40円の「少年サンデー」を忍ばせて家に帰って来て、自分が読み終えると、「かあさんには、内緒だぞ」と述べて、じれまくって待っていた義理叔父にこっそり書斎で、ヤクの売人の厳粛さで、少年サンデーを渡したものだったという。
いま、その頃の「少年サンデー」を見ると、ぶっくらこいてしまうような「軍国雑誌」の趣で、横山光輝の「伊賀の影丸」というような線が綺麗な忍者マンガや、「おそ松くん」という赤塚不二夫の、その頃はまだおとなしいストーリーラインの、「チビ太」という濃厚に戦後孤児の姿を残しているキャラクタがあるコメディマンガに混じって、たとえば「大空の誓い」という加藤隼戦闘隊の少年操縦士たちを主人公にした「にっくき英米をさんざんやっつける」、当の英国人からみると、そーか、わしらそんなにマヌケで極悪なのか、と納得がいくような、いかないような、その頃、戦争はもう終わって20年以上経っているのに戦意昂揚マンガが載っていて、これからマンガの歴史をざっとみていきながら、とつおいつ書いていこうと思うが、いまのネット右翼や、右翼、もっと言えば安倍晋三のような「底が浅い」感じがする国家主義の淵源が、どのへんにあるのか見て取れる。
たとえば百田尚樹という人がNHKの委員というメディア上の重職につくのは、右翼的であるとかサヨク的であるとか言う以前に、小説からみてとれる「世界への理解の底の浅さ」というか、もっと簡単に言えば世界への認識のケーハクさにおいてNHKのように「ものをうみだすことを仕事にしている会社」には最も不適格だと思うが、あのケーハクさをどこかでみたことがある、と思って考えると、それは「大空のちかい」であり「ゼロ戦レッド」であり、なんだかちょっと言い方がひどくなってしまうようで百田尚樹さん、ごめんね、という感じがしなくもないが、作者のちばてつやはインタビューで、「紫電改のタカ」というマンガは、シリアスな戦記マンガを描きたかったちばてつやと、これはそんなたいそうなものでなくて、ガキがよろこべばいいだけなんだから、「戦争の悲しさ」みたいなひとりよがりのくだらない深刻ぶりはやめて、ひとつ「ゼロ戦レッド」みたいな「消えるゼロ戦殺法」や、特殊な高性能の「黒ゼロ戦」というような話をどんどんいれて、読者数をばんばん増やしましょう、先生はマンガを深刻に考えすぎて困る、ただのガキの荒唐無稽な遊(すさ)びものはないですか、という編集者とのあいだの不断の戦いから生まれたマンガで、結局は編集者に押し切られて、いいマンガになったかもしれないのに、いま読んでも残念で仕方がない、と述べていたが、その深みをつかむことができなかった「紫電改のタカ」にも似ている。

手塚治虫の「鉄腕アトム」のアニメを観ると、明らかに「人間と同じなのに人間として扱ってもらえない」ロボットたちは戦争にぼろ負けに負けた日本人の暗喩であり、ロボットの主人で、普段はロボットたちにも親切だが、いざ利益が相反すると、まったく無慈悲にロボットを殺戮して、少しも良心の痛みを感じない傲慢で理不尽なほど暴力的な「人間」たちは白人の暗喩である。
そうして人間たちからの差別に、傷付いて、苦しみながら、平和と非暴力を信じて、結局は人間(白人)たちがつくった文明の価値を信じようと決めて「人間の心」を失わずに生きようと決意するロボットたちは、アメリカ人たちのご都合主義に苦しみながら、戦後民主主義を信奉しようと決めた日本人たちとぴったり情緒が重なっている。

60年代の少年マンガ雑誌の印象は、戦後からいままでの日本そのものとも言えて、どうやら売り上げをおおきく左右したらしい巻頭の「図解」には、いかに日本のゼロ戦が強かったか、開戦百日の日本軍がいかに強かったか、というような、ほとんど軍国少年向けのような絵入りの物語が並び、「大空のちかい」のようなスーパーマン少年操縦士たちの物語には熱狂的な「読者からのお便り」がついている。
この「お便り」を書いていた子供たちは、いまなら、50代後半から60代前半のはずです。

マンガをいまの社会的な地位に上昇させる契機をつくったのは、意外にも、当時は「超」がつく売れっ子作家であった上に、日本人の好尚にあって麻布学園から東北大学を卒業した医師であり、しかも大歌人斎藤茂吉の息子であるという、階級制度をアメリカ人によって破壊された日本人にとっては、望みうるだけの最上の「疑似上流階級」のひとであった北杜夫であり、やはり麻布学園を出て、慶応大学の医学部を卒業して、当時は珍しかったに違いないフランス人を妻にした「なだ・い・なだ」たちだった。
一方ではマスメディアの「低俗なマンガを排斥しよう」キャンペーンが、新聞と、テレビの朝のバラエティショーを中心に頻繁に起こり、少しあとになるが永井豪の「ハレンチ学園」というようなマンガは、法律で禁止すればどうか、という議論を起こす。

「マンガは低俗で子供にマンガを読ませる親など親としての義務を放棄している」というのが60年代の常識で、それに真っ向から当時の「知識人」だった北杜夫たちが反駁して、ああいう「育ちが良くて頭の良い人達」が言うのなら、ということで、だんだんと社会の承認を得ていく。
このすぐあと「マンガ」は、実は、絶滅寸前にまで追い詰められるが、それはマスメディアのキャンペーンや文学によって起こったわけではなくて、「劇画」という「マンガみたいなくだらないものはダメだ」という側がマンガを模倣してつくった奇妙な「深刻マンガ」によって絶滅寸前まで押し込まれていくので、意外な展開で、おおきく見れば、マンガのマンガ自身による自己否定運動が起きてくるが、この「劇画」の担い手は団塊世代、全共闘世代の名がある、いまなら50代後半から60代の人たちです。

いっとき、明治大学裏の材木屋の倉庫の二階といういかにもな建物に事務所を構えた「青林堂」が発行していた「ガロ」は、それで長井勝一が会社の基礎を築いた、熱狂的に全共闘学生たちに支持された「カムイ伝」から半ばは意図的に出立して、遙かに内向的な、つげ義春の世界に沈潜してゆく。
あるいは手塚治虫がマンガの文学性を希求してつくった「COM」が破綻してゆくが一方で、この雑誌は、あだち充、諸星大二郎、西岸良平、長谷川法世、というような「現代マンガ」、マンガのルネッサンスというべき世代を生み出してゆく。

日本の他のどのような媒体や表現形式よりも早く全共闘世代の「観念的政治ごっこ」に飽きてしまって、そこから抜けだして、次の時代へマンガだけがさっさと進んでいってしまったのは、つまり、この頃にはもうマンガが日本の文化そのものを背負いだしていたからだが、この当時は、まだ日本の社会はマンガをマイナーなカルチャとしてしか認識していません。

次の回では、やる気が起これば、bande dessineeとの比較を軸にして、日本のマンガがいかに「サブカルチャ」どころではなくて、文学の正統を純文学に代わって継承したか、それには日本人のどんな天性の性質が関係していたかを考えたいと思う。
(むかしから、このブログを読んでる人は、「次回って、3年後ですかあー」と思ってるかもしれないけどw)

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