The Cove

se (13)

ドキュメンタリが事実だけで出来ていると思うひとはいないだろう。
映像は説得力をもたなければ見る人間にとっては退屈なだけだからで、ドキュメンタリが真実性を追求しなければいけない一面で映像は現実にしがみついてばかりはいられないのは、時代劇の考証がいくらすすんでも現実のお侍がそうやって歩いていたように、右足と右手を一緒に出して歩いていては、赤穂浪士も47人のマヌケなおじさんの集まりにしか見えなくなってドラマにならないのと事情は似ている。

BBCは比較的まともなドキュメンタリをつくるので有名だが、有名な太平洋戦史のシリーズの始まりで、「そして、ついに日本人は真珠湾を攻撃した」と厳粛なアナウンスと重々しい音楽が流れたあと、大編隊の96式陸攻が飛んでいる場面に切り替わる、という腰が抜けそうな画面が出るくらいは日常茶飯事で、適当な実写フィルムがなかったんだろうけど、せめて単発機にしなよねー、と思う。
なんで南雲機動部隊の空母から双発爆撃機が飛び立つのだ。

アメリカの3大ネットワークのドキュメンタリになると、もっと酷くて、戦艦アリゾナめがけて高空から急降下してくる艦上爆撃機は、たいてい、SBDドーントレスです。
このあいだ観たナショナルジェオグラフィックの真珠湾特集も、そうだった。

しかし、だからといって、たとえば同じBBCの番組のなかで、香港のビクトリア・ピークの赤十字病院に勤めていた、当時は19歳のイギリス人看護婦が、インタビューの部屋の窓の外の、夏の太陽に輝く芝生を眺めながら、「それから、一列に並ばされたあと、日本兵たちは、わたしたちを二階に連れて行って、…わたしたちはみな代わる代わる強姦されました」と静かに述べるのを嘘であると考えることはできない。

The Coveは、人気テレビ番組「フリッパー」の調教師で、イルカの人間による調教の最初期のひとであって、イルカの毎日の観察の結果、人間がイルカを飼うことの悲惨に気づいて、「イルカ産業」に反対する活動家に転じたRic O’Barryをまんなかにすえて作られた、出来の良いドキュメンタリだった。
全篇を通じて、太地のイルカ漁に反対する側が見せるエモーショナルなシーンは、ダイバーが、海で虐殺されるイルカたちを観ながら、涙ぐんでみせるところで、それを太地の漁師達が笑い声をあげながら観ている。
感情にまかせて怒りを爆発させるのは、専ら太地町の日本人たちの役割で、「出ていけ!」と大声で怒鳴り、ビデオカメラに向かって中指を突き立ててみせ、声を荒げて罵り続けて、カメラに顔をくっつけんばかりにして喚きちらしている。

ここで、日本の人の訓詁癖につられて余計なことを書くと、このマンディというダイバーとボーイフレンドが海を血に染めてのたうつイルカたちを眺めて涙を流す場面は、だれでも気が付くような明瞭さで、あとで画像をつくるための演技で、すぐにそれと判るのは、周りにたくさんの人が映っているのに誰も海のほうを見ていなくて、いくら「冷酷非情な日本人たち」でも、目の前で海を血に染めて死んでゆくイルカたちよりも海を眺めているアメリカ人カップルのほうにずっと興味がある、と考えるのは無理なので、なんだか素人っぽいくらいとってつけたような場面です。

映画のクライマックスは複数の岩の形にみせかけた隠しカメラや、カメラ付きの模型ヘリコプター、あるいは小型の飛行船を動員して撮影した、太地のイルカ追い込み漁で、これも古いフィルムを流用しているように見えるが、白いヘルメットをかぶり、時に笑い声をあげながらイルカたちを棒で突き刺して殺してボートに引き揚げる様子や、刺された赤ちゃんイルカが血まみれになりながら、なんとか網をくぐって出て来て陸にのりあげようとするのを漁師が屠殺場へ追い返すところが延々と映し出されてドキュメンタリが持たねばならない迫力に満ちている。

ぼくは、ここまでに「科学調査捕鯨」についてたくさんの記事を書いている。
それによっていかに日本人自体の信頼性が損なわれているか知っていたからです。
メルボルンのドックランズの桟橋に停泊していたシーシェパードの妨害船に、トントントンと上がっていって(ぼくも捕鯨は嫌だったがシーシェパードの日本人のウソに寄生するようなやりかたが不愉快だったので)シーシェパードのおっちゃんたちと喧嘩したりしていた。
2006年の「このまま『科学調査捕鯨』を続けてゆくことによって、日本人全体がどういう立場に追い込まれてゆくと考えられるか」に始まって、やがて日本が調査捕鯨を強行することによって、どういう立場に立ってしまったか、という記事になり、その間に捕鯨を理由に各地で日本人の子供が殴られたり、大怪我をした日本の子供も出るというふうに問題がだんだん深刻化してきて、アメリカが当初のニュージーランド案を換骨奪胎してしまったTPPと組み合わせた新太平洋戦略を準備するにあたって、どういうふうに「調査捕鯨」を利用しつくしたか、というふうに記事が変わっていったかは、ブログのアカウントを閉めて、また全然ちがうアカウントで予告もなにもなく始めたりしたときに、ぶっとんでどっかにいってしまったいくつかの記事を除いては、いまでも過去記事に残っているので、
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/04/13/勇魚が沈んだ海で/
を最新とする記事に興味がある人は読んでみればわかります。

The Coveで、これは面白いな、と感じたのは、自由党内閣で大臣を歴任したオーストラリアのIan Campbellをはじめ、登場する人物たちが、イルカ漁そのものよりも、日本人の詭弁、嘘、あつかましさ、恥知らずぶり、恫喝癖、… つまりは日本社会がもつ反文明性に対して軽蔑を隠そうともしていないように口吻にみえることで、日本では警察が、裁判もなしに、勝手に「容疑者」の身柄を「拘置所」に長期拘留できること、有罪判定が、中世さながらに、ほとんどの場合自白によること、給食が強制でしかも残さずに食べなければならないこと、国民は不正を観て見ぬ振りをすることを卑怯なふるまいだと思っていないこと、マスメディアが政府の方針に沿って事実を隠蔽してしまう存在であること、… そういう「北朝鮮の話かと思ったら、日本も同じなんだ、へー」と見る側が知見を新しくする「日本の文明の危険性」に焦点をしぼって、しかも、それを英語人以外には伝わりにくいようなやりかたで、というのは明示的な科白にするのを避けて、映画のそこここに漲らせている点で、もともとは捕鯨にも反捕鯨にもたいした関心がないぼくは、ぼんやり映画を観ながら、「いまは反捕鯨のひとびとは、こういう感じになってるのかー」と観ていてびっくりしてしまった。
1970年代の反捕鯨ロンドンデモの頃でも連合王国人たちが日本の国旗を焼いたりしていたが、ここまでの「深い軽蔑」は当時のドキュメンタリを観ても感じられない。

この映画にも日本人が捕鯨肯定の趣旨で述べる「日本の文化ではないか」「伝統を守ってはいけないのか」「西洋人は牛を食べ、われわれはクジラを食べる、それのどこがおかしいのか」という、いまではニュージーランドの小学生でもよく知っている「日本人の弁明」が述べられて、日本の捕鯨への強い意志がナショナルプライドと結びついて、むかし大日本帝国と自ら「大帝国」と称していた往時の夢と密接に関わっていることが語られる。

The Coveは日本では上映されなかったようで、いま観るとiTunesも、日本版iTunesにはないが、アカデミー賞を受賞したこともあって、英語圏ではいまでもよく上映会がある。
多分、後でウエブを見てみると、日本の人のほうは、自分達が攻撃されていると感じると、懸命に否定の根拠を探す性質なので、たとえば冒頭述べた女のひとが海を見ているのは演技だ、ということに気が付く人がいて、だからこの映画は全部ウソで作り話だ、というような意見が日本語ネットじゅうに溢れているのではないかという嫌な予感がするが、あるいは実名で顔が映画に出て、ウソや恫喝的な態度を記録されてしまったひとは、「あれは、こういうふうにウソで、でっちあげだ」と書いていないわけがないような気がするが、日本のひとにひとこといわねばならないことがあって、ヘロドトスの有名な言葉「エジプトはナイルの賜物である」がヘカタイオスの言葉だと判明しても、だからヘロドトスは他人から聴いたことを丸写しにしただけだと「歴史」全体を否定することはできない、あるいはもっと踏み込んでいってしまうと、慰安婦のなかに、仮に、ほんとうは慰安婦でない人が混ざっていたとしても、だからといって慰安婦問題自体が存在しなかったことにはならない。
事象の一部分や他人の発言の部分が信頼できないと主張することによって、相手を全部否定する、というような試みが、さして卑劣なやりかたを思われないのは日本人だけの習慣で、それを日本人以外の相手に試みても、まったく意味がないどころか、「わたしは卑劣な人間です」とクビからサインをぶらさげているようなものである。

なんで、こんなことを書いているのかというと、さっき過去の英語フォーラムの発言をひさしぶりに読み返していたら、「日本人には、相手の片言(へんげん)をとりあげて、あるいは誤謬を見つけて、それによって人格を貶め、その発言者全部の信頼性を低下させてしまおうという極めて卑怯な癖と、また、それにまんまと瞞されて『こういう意見があるからには、やはり信頼できないところがあるにちがいない』と思い込む、こちらも卑しい追随主義の聴き手、という深い病癖がある」と述べている人がいて、自動的に内藤朝雄やバジルさん…というような身近なひとたちが同じ趣旨を述べていたことを思い出して、それが日本人の常套手段で、そんなことばかりやっていると、やがては日本という言語全体が「ならずもののたわごと」という扱いになるよねー、と考えたからです。

日本のひとは、あんまり危機意識を持っていないが、南京虐殺、シンガポールの中国系市民虐殺、インドネシアでのオランダ人を対象にした集団強姦・慰安婦問題、ちょうど証言できる人が人生の終わりに近付いたのと、日本の、傍目にはどうみても無理な強弁にしかみえない辯疏を見て、これまで黙っていたが、これ以上黙っていては日本人は必ず同じことを繰り返すと見たのとで、世界中のあちこちで吹き出しはじめた「日本人の過去への糾弾」とあいまって、捕鯨や安倍政権の露骨な国家主義化で、日本社会はせっかくいちどは回復した信用を、ほぼ失いつつある。
この場合の信用とは「言語の真実性」のことで、ぼくが日常生活でみたかぎりでは、またぞろ、ぼくが子供の頃によく見聞きして従兄弟や義理叔父を気の毒におもった「日本人の言う事だから、ほんとうかどうかは極めて疑わしい」という気持が蔓延しはじめている。
若い日本人には想像もできないことに違いないが、むかしは日本人と言えば「恥知らずな嘘をつく国民」の代名詞だった。
気の毒な安倍首相は「フクシマはアンダーコントロールだ」と述べたことでタイミングよく決定打を打ってしまったようにも見える。

えー、わたし、アメリカに住んでるけど、そんなこと言われたことありませんよ。
捕鯨に反対する人もまわりでは見ないから、たいした問題になっていないんじゃないかしら、という人がたくさんいるだろうが、それは英語人の社会を知らないからで、当の日本人の耳に、自分の日常生活で知っている人が「クジラ殺し」と言っていた、というような話が耳にはいる状態では、もう悪化しつくしていて、元には戻れなくなっている。

この頃ツイッタで、欧州やアメリカで働く人が、職場の同僚に面と向かって「なぜ日本人はクジラを殺したがるのか」と聞かれた、というようなことが目にはいるようになって、うーむ、そこまで来ちゃってるのか、と考える。

自分がアメリカ人に「なぜ広島に原爆を落としたのか?」と聞かないのと同じことなのだと気が付けば、足下で掘り返された地面の穴の深さは歴然としている。

ぼくは、たいして考えたことがない、といってもクジラ漁もイルカ漁も反対だが、ときどき日本の人が観念の上で調査捕鯨を正当化しようと思うのは、実際には本人たちは海に出ないからではなかろーか、とヘンなことうぃ思うことがある。
イルカと一緒に泳いでみて、イルカが人間の最高の友人であると感じない人はいないし、夕暮れ、湾口を横切って、あの深い不思議な呼吸音をたてながら悠然と泳いでいくクジラを見て、自然への畏れに似た気持ちをもたない人はいない。
記録を読むと、不思議にも、洋の東西を問わず、アメリカ人も日本人も、捕鯨をする漁師たちは不思議なほど強い罪の意識におののきながらクジラを捕っていた。
前にも書いたが、それがもっと機械的な作業になるのは、GHQの指令で、旧海軍軍人たちがかり集められ航海士や砲手、機関士を備えた、海軍時代と同じ陣容の遠洋捕鯨船団ができてからのことで、そこに過去の歴史を見通す目にカーテンがかかって、かつて、罪と自然への畏れに唇をひきしめて、ほとんど神話のなかの人のようにクジラと格闘した日本もヨーロッパもアメリカも区別のない、「捕鯨」の時代が見えなくなってしまっている。
もう、そういう捕鯨の時代が終わってしまったのに、観念としての捕鯨にしがみついて、自分達をプライドの血で染まった狭いcove(入江)に追い込んでしまった日本の人たちに、そこに上がれば死ぬとわかっている浜辺以外にも逃れる場所が残っているだろうか、と考えると、なんとも言えない陰惨な気持になるのです。

(この記事を書いてから、ひょっとして、と思ってyoutubeを観たら映画がそっくりアップロードされていたw

映画としてもよく出来ているので観ると良いと思いまする)

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One Response to The Cove

  1. tororemo says:

    シーシェパードがクジラ漁を反対する理由のひとつに、くじらが絶滅しかかっているというのがあるらしいですが、なんなら漁師たちが獲っているのはミンククジラが多く、そのミンククジラは今増えていて他の魚を大量に食べてしまって漁が出来ないということを聞いたことがあります。オーストラリアでは同じような理由でカンガルーが食べられているという話ですが。またただ純粋にひとつ疑問があるのですが、西洋の人はどうしてイルカやクジラを特別に人間を愛しているという考え方になるのでしょうか。平気で象やライオンやその他の動物を殺せるのはなぜでしょうか。(全員じゃないって分かってるけど、西洋の人はスポーツのひとつとして猟りがあるらしいので、その点がはなはだ疑問です。はたしてそういう文化を持つ国の人々に、生活手段のひとつである捕鯨やイルカ漁を批判される筋合いがあるのでしょうか。漁師たちは漁で生きて行っているのです。世界は(人間界においても)弱肉強食で成り立っており、その中の一部の生き物に対して特別な感情を持つのは(個人的に羊が好きとかヤギが好きとかはいいけどこれはもはや個人の好き嫌いの話ではないので)人間のおごりかなあと思ったりします。人間だって動物だって虫だって植物だって生きていることにはかわりないんじゃないですか?やはり命の重さは違うのでしょうか。(見当はずれの意見だったらごめんなさい。あんまり読解力が無いのですが、この件に関してはちょっと黙っていられない性分でして…。ちなみに私はクジラもイルカもカンガルーも食べないし、それらを獲る文化が消えてもなんら困らないのですが。)

コメントをここに書いてね書いてね

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