ある物理学者の友達への手紙3

se (15)

(この記事は、
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/09/04/ある物理学者の友達への手紙2/
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/09/02/ある物理学者の友達への手紙1/
の続きです。)

データがない事象をおそれよ、と述べるのは科学者にとってはたいへん勇気が必要な行動であるのは誰にでもわかる。
ちょっとくらい放射能あびたってダイジョブですよ、そんなもの、と思っているほうは、「きみは非科学的な根拠によって被災地のひとびとの恐怖を煽っている」と軽く皮肉な笑いを浮かべて「きみは、それでも科学者か」と言っていればいいだけのことで、なにしろ科学的に考えようにもデータそのものがないのだから、データの解析を出発点とする科学にとっては手も足も出ないのは高校生にでもわかる理屈であると思う。

だから、きみが、「福島県の浜通ではたいへんなことが起きているようだ。メルトダウンが起きるほどの事故で、いまくらいの安全対策で無事にすむわけがない」と言のを見て、ぼくはひどく驚いた。
日本人にもこんなひとがいるのか、と思って、それから、なんて偉い奴なんだろう、と考えた。
科学者は科学者であるよりもまず先に人間でなければならない、というアホでもわかる理屈の、ぼくは、信奉者だからです。
そうして、科学者が科学ぽい情緒に固執することによってときに悪魔でも顔をしかめるような存在になるのは、人が考えるよりもずっと簡単なことなのでもある。

その頃、日本ではどんなことが起きていたかというと、政府が、ここで従来の放射能の安全基準を適用すると国の財政は破綻するしかない、という、主に金銭的な理由から事故原子炉30キロ以遠の福島県住民は退避しなくてもよい、と官房長官が公式に述べて、アメリカ政府やフランス政府のような、自国の住民が東北に住んでいて、いったんは、こういう場合の通常のやりかたに従って「日本政府が提供する情報をよく聞いて、それに従って行動するように」というメールを出すことになっていた国ぐにを慌てさせていた。
結局、当該政府が信用できない開発途上国の大使館なみに自国独自の避難方針を個々にemailで連絡するという異例の対応になってゆく。

外国にいるぼくたちを最もびっくりさせたのは、当初から「日本政府は広義の財政的な理由によって住民を退避させない可能性が高い」と言われていた政府の「当面はダイジョブ」アナウンスメントではなくて、日本の科学者たちが、放射能をおそれる必要はない、と口々に言い始め、あまつさえ、「でも、わたしには幼い子供がいます。ほんとうに、ここにいていいのですか?放射能がやはり怖いのですが」と訊ねる母親たちを、「非科学的だ」と罵りはじめたことだった。
それは世にも奇妙な光景だった。
さて、こういう「科学者」たちは、どんなひとたちなのだろう、と、それまで名前を聞いたことがない「科学者」たちだったので、インターネットを使って調べてみると、ほとんど何の情報もない。
仕方がないので、日本にいる年長の大学人に問い合わせると、もう大学という業界では「えらく」なっているひとたちなので、割と簡単に専門分野や背景、それぞれの分野での本人の評判というようなことまで、あっさり教えてくれた。
原子力の専門でも医学の専門でもない人が多かった。
山下俊一という人だけが名を知られた、この分野の医学者で、チェルノブルにも派遣されたこの人は、カトリック教会の敬虔な信者で、「放射線の影響は、実はニコニコ笑ってる人には来ません。クヨクヨしてる人に来ます。これは明確な動物実験でわかっています」
と述べている。

日本の科学者は科学者としてのプライドに従って行動するよりも「科学者という肩書き」を使ってする政治的な行動のほうが好きらしかった。
ツイッタのアカウントから「誰それは非科学的なデマをとばしている」
「この人の言う事は、科学者として聞いていられない」
と述べたり、ぼくは日本のテレビを観ないのでわからないが、テレビにまで出て、「科学的な考え」を述べた人もいるそうだったが、そういうことは無論人間の社会行動のカテゴリとしては「政治行動」で、科学とは何の関係もない。

2010年はスティーブン・ホーキングが「神は不要になった」と述べて、永遠の科学弾圧者であるカトリック教会を中心とした宗教人の激しい攻撃や嫌がらせにあった年だったが、傍観者には終始科学者としての立場から一歩も出ないで神が不要である根拠を述べて、政治的行動にあたる部分を避けようとして、おおむね成功していたのに対して、宗教側はムスリム人は宗教家として攻撃していたと言えなくもなかったが、キリスト教勢は、神とはあんまり関係のない哲学のようなことばかり述べていて、しかも行動は常に政治的なものだった。

日本の科学者は、政府の要人に呼ばれて舞い上がってしまったのだと思うが、ほとんど政治家として行動することになった。
コピーライターのひとのインタビューにこたえて「いよいよ危なくなったときに住民に動くなという腹がすわったことが言えるか、と要路の政治家たちに述べた」と自分がいかに救国の使命感に燃えたか、という調子で答えている物理学者の姿をみて、普段の地味なモグラのような研究から陽の光の中に出て、スポットライトを浴びて、得意になって、正視に耐えられない調子っぱずれの見栄をきるひとの無惨な姿を見るおもいだった。
このひとも、別に、放射能禍に関連するような専門を勉強したことがあるわけではないそうでした。

科学者が政治的スポットライト、というか、簡単に言えば社会との手応えのある関わりを求めて「自分は科学者である」という肩書きで政治的行動に走ることは歴史上たくさん例がある。

今回の日本の科学者たちのように、ちょうど昔日本で流行った押し売り手口に、家庭を「消防署のほうから来ました」と言って訪問して、なんとなく消防署員ぽい服を着て、応対に出た主婦を、「そんなに火事について無知でいいわけがないでしょう。もっと勉強してください」と恫喝したりして、説教を述べて、消火器を売りつけるという自己満足とボロイ儲けの一石二鳥の商売があったそうだが、「科学の方から来ました」で東大教授や阪大教授の肩書きの、まだ「学者」が偉いアジア的後進国性を残した日本人の純朴なアカデミア信仰を利用して、さんざん相手を説教して、なんだかよく判らない溜飲をさげたり、研究者としての迂遠な社会との関わりから、一挙に何十万というフォロワーを従えるスポットライトに出た興奮に酔って「春雨じゃ濡れていこう」と述べたりして、子供じみた浮かれ方だが、そういう「科学のほうから来ました」のインチキな科学者と社会の関わり方では、科学者が政治的行動をとることの真の恐ろしさが判らないので、正真正銘科学者が科学者として関わって、しかもなおたくさんのひとびとを地獄に突き落とし、科学の名のもとに大量殺人まで起こした例を一緒におもいだそう。

ワイマール共和国時代のドイツは医学水準において、問題にもならないくらい世界のなかで傑出していた。
当時のドイツ医学は「pinnacle of the world」というような表現がぴったりで、ライプチヒ大学やミュンヘン大学、ベルリン大学で医学を学ぶことはアメリカ人の医師志望の青年にとっては最上の「箔付け」だった。
アメリカ人にとっては、いまで言えば、ちょうどハーバード大学かジョンズ・ホプキンス大学に行くようなものだったでしょう。

ドイツ医学のおおきな特徴のひとつは「人種」に対する意識が大きかったことで、19世紀に終わりに生まれたEugenics(優生学)
http://en.wikipedia.org/wiki/Eugenics
はドイツでおおきな発展をみることになる。
このドイツ式医学思想はアメリカのエリート医師たちの頭に叩き込まれることによって、アメリカにも渡って、アメリカ人たちは真剣に「sterilization」(断種)によって自分達の人口構成を「より良い」ものにしようと考え始める。
英語の本にはsterilization運動をドイツ人が始めてアメリカ人に影響したように書いてあることが多いが、事実は逆で、アメリカの運動にヒトラーが感動して、逆輸入することになったもののようである。
アメリカでも一挙に7500の断種手術を行ったヴァージニア州をはじめいくつかの州(たしか27州)では、断種法が施行されるが、ドイツでは一挙に国家の法になる。
ドイツではやがて、これが反ユダヤ主義と結びついてユダヤ人虐殺につながってゆく。

優生学に出会った当時シカゴ大学で動物学の准教授をつとめていたCharles Davenportは、「科学的であること」をおおきな美徳のひとつに数えていた20世紀初頭のアメリカで、「似非科学」や「非科学的」なひとびとを攻撃して、人為的な人口改善に努めない人間は、科学にめざめて、科学的にものごとを考えなければならない、と述べて喝采を博すようになっていた。
ドイツ式の優生学をアメリカで広めたのはこの人です。
彼は当時の「科学万能」の時代風潮に乗じて、「劣った遺伝子を持った人間は生きる権利がない」という「科学的な合理性」に訴えた運動を広めてゆき、やがてそれはダーウィニズムを社会に適用できるという奇妙な妄想に駆られた社会学者たちが唱えだした「社会進化論」と結びついて、いまにいたるまでアメリカ人の考え方におおきな影響を与えている。

Harry Laughlin
http://en.wikipedia.org/wiki/Harry_H._Laughlin
に至って、ついにアメリカ人たちは有名なCold SpringのERO (Eugenics Record Office)
http://en.wikipedia.org/wiki/Eugenics_Record_Office
を設立してしまって、ドイツ人たちの優生人種論と寸分変わらないものになってゆく。
余計なことを書くと、Harry Laughlinは自身が劣等遺伝子に指定して強制的な断種の対象としたEpilepsy(てんかん)であることを発見して、愕然とする。
終生、子供を持たなかったようです。

ここからあとの優生学と、その通俗化であるAlferd Rosenbergたちの優等人種論については、日本の人もよく知っている。
ここでも余計なことを言うと、tumblrで、よく「ヒトラーは日本人だけは優等人種であるとおもっていた」とか「ヒトラーは日本人だけは好きだった」という記事がまわってくるが、「鏡よ、鏡」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/12/18/鏡よ、鏡/

で書いた日本の人がいつも願っている「世界の人に好かれたい」というナイーブな思念がうみだした幻にすぎないことは、
Mein Kampf (我が闘争)の中核とも言えるChapter 11の、日本語訳からは省かれた部分を読んでみればすぐに判る。
それはこんなふうに述べている。
「It is not true, as some people think, that Japan adds European technology to its culture; no, European science and technology are trimmed with Japanese characteristics. The foundation of actual life is no longer the special Japanese culture, although it determines the colour of life-because outwardly, in consequence of its inner difference, it is more conspicuous to the European-but the gigantic scientific-technical achievements of Europe and America; that is, of Aryan peoples. Only on the basis of these achievements can the Orient follow general human progress. They furnish the basis of the struggle for daily bread, create weapons and implements for it, and only the outward form is gradually adapted to Japanese character.」
あるいは、
「If today all further Aryan influence on Japan should stop, assuming that Europe and America should perish, Japan’s present rise in science and technology might continue for a short time; but even in a few years the well would dry up, the Japanese special character would gain, but the present culture would freeze and sink back into the slumber from which it was awakened seven decades ago by the wave of Aryan culture.」

このAryanというのは、当時のドイツ人が科学的だと信じこんでいた人種論に基づく優等民族のことで、北欧人、連合王国人、ドイツ人、というような国民を含んでいた。
この「科学的なひとびと」が引き起こした大量殺人、悲嘆に暮れる母親たちの群れ、というようなことは人類の記憶のなかでも最悪のものになっていった。
科学がはじめた虐殺を止めたのは、科学でもなんでもない、普通の人間、多くは教育がない、ひとりひとりの人間の良心の直観によったことを付け加えておくことは、まるで無意味とは言えないと思う。

….やれやれ、随分ながくなってしまった。
ほんとうは、ここから科学者の社会との関わりについて書いてゆかねばならないが、もうめんどくさい。

きみが家族のいる東京と職場がある大阪を往復しながら、夜中にラーメンライスと餃子!を食べたりしているのをツイッタで眺めながら、身体を壊さないといいけどなあー、なにごとかなしとげたい気持には賛成だけど、あんまり頑張っちゃだめだぞ、と念じながら応援してます。
(そーだ、そーだ)
このあいだ、ふと思ったのだけれども、きみは見かけやくちぶりと違って傷付きやすいおっちゃんであるようなので、念のために述べておくと、ぼくがときどき触れる日本語フォーラムにきみの姿がないのは、ただただきみのあのチョー下品な二次元趣味とイビーツな女性観のせいで、他には理由がありません。
いつだったかツイッタ上で喧嘩したときのきみの言い訳も、詭弁だということでフォーラム人にはたいへん評判が悪かったし、ぼくも「もてないおれたち」なんちって、なにゆってんだぶわっかたれめが、といまでも思うが、人間はつねに考えることがヘンで、友達としては、かけがえのない友達と思っている。

余計なことだが、もしかして、と思って考えていたらストレスになってきたので、言葉にして申し上げておくことにします。

世の中には、この人がいて良かった、と思う人が稀にいて、「オダキン」は、そのままの人であると思う。

今回は、随分ヘンな手紙になってしまったけど、それでは、また。

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One Response to ある物理学者の友達への手紙3

  1. 「優れた子供を残したい」という欲望は生き物の自然な欲求であり、
    それに科学を絡ませた優生学の発想は否定しきれないと思う。
    問題は、その誤差だ。
    進化などに関する科学的な知見は極めて未成熟だ。
    だから、その誤差は極めて大きい。
    場合によっては、正解とは正反対の誤解が混じっていたりする。
    それを「科学だから」といって無制限に実行に移せば、大変な悲劇を招く。
    例えば、日本では、ハンセン病患者が、実質的に断種された。
    精神病も天才と関連は深く、遺伝的形質の発現が
    肯定的に表れているか、否定的に表れているかの差だけだろう。
    精神病は人類の知能の進化の一局面ということだろう。

    福島の原発事故の際も、多くの人々が、「正確な推定ではないので」
    と言って、「政府発表を待ってください」と口を閉ざした。
    科学者なら、すべての数値には誤差というものがあり、
    政府発表といえども、誤差からは逃れられないことは知っているはずだ。
    速報なら誤差は大きい。
    しかし、誤差が大きくても、速報する価値がある事柄もあったはずだ。
    「政府発表なら誤差はありません」と逃げたのは、「官営」の御用科学者の責任逃れだろう。

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