No worries

se (18)

頑張らない、我慢しない、やりたくないことはやらない、と書くと日本語なら「座右の銘」みたいになってしまうが、こうやって意識にのぼるのは多分日本語で話をしているからで、そんなのはずっとあたりまえのことだと思っていた。
父親も母親もやりたくないことはやらないひとびとであるし、妹も同じ。
本人にいたってはやりたいこともやらないでずるずる午寝してしまう怠けものなので、頑張る、とか我慢するとかは、やろうと思っても、そもそも能力的に無理、ということがあったと思う。

それでも30歳くらいまで支払いが予定されていた両親からの金銭的援助は20歳のときにはいらなくなったので、ご辞退いたします、になったし、スーパーマーケットからカーヤードまで、何かを購買するときに値札をみる必要がなくなった(と言ってもケチなのでやはり値段を見て安いところで買うが)ので、人間などは努力しても努力しなくても、たいして行く末に変わりはないのではないだろうか。

かーちゃんのとーちゃんは、よく、「人間にとってもっとも大事なことは、青空を見て青いと認識できることではなくて、青空を感じられることである」というようなことを述べた。
いま考えても説教師じみてヘンなじーさんだが、多分、クリケットの試合が終わるとダッシュで戻ってきて、そのまま夕飯を食べるのもめんどくさそうに本ばかり読んで、それどころか放置しておくとデスクの明かりを灯してなんだか一心不乱に計算したりしている孫を「このまま放っておくとアホになる」と憐れんだからでしょう。

数学が好きな子供はほっておいても数学のことばかり考えているし、クリケットが好きな子供はクリケットばかりやっている。
どんな怠けものの子供でも本が好きな子供は、おとなの数倍というような量の本を読むし、音楽が好きな子供は、手に入るだけの数の楽器をあっというまにひきこなして、曲までつくるようになる。
「言語が好きだ」というヘンタイな趣味を持つ妹などは、きみは人間シャープ自動翻訳機か、というくらいいろいろな言葉を話して、しかもたとえばドイツ人と話していると「ああ、あなたはミュンヘンのご出身ですね?アクセントでわかります」と言われるほど手が込んでいる。

妹と兄(←わしのことです)に共通した欠点は、夢中になりやすいことで、青空を感覚せよ、と述べた祖父は同時に、1時間かけてやるべきことを40分でやってしまうのは愚か者のやることだ、ともよく述べたが、きっとゲーム好きの孫達が、要領ばかりよくて、他人が3時間でやることを1時間で片付けてしまったりするのを見て、若いのにアホだな、とげんなりしていたのでしょう。

人間の大脳は、もともと周囲から感覚器を通じて不断に流入する情報を処理するために発達した。
風が木の枝を揺らすいつもの枝音とは違った不協和な音、風のなかに微かに混ざる生物の匂い、闇にむかって耳をすますと、ほとんど、沈黙にほんのわずかなしわが寄ったとでも言うような微小な息づかい、そういうすべての情報を統合して次の瞬間の行動を決めるために神経系が集中して塊をなしていった。
あるいはアンテロープの群れを遠望して、あの二頭は群れから遅れ気味についていっている。
臭いで悟られないように風下から攻撃するのは当然として右からまわりこめば左の草原に逃げられてしまうが、左の中心の群れにいったん向かうふりをしておおきく回り込めば、きっとあの二頭は群れとは反対の方向に逃げて孤立するだろう、と思いをめぐらせる。

情報処理能力が発達の極に達して、ついに自分自身を情報処理対象とするに至ったのが人間の大脳なので、鏡を見て、ふり返る仕草をしてみて、現実よりもややハンサムに見えている自分の顔が、しかし、もう少し鼻が短ければよかった、と思ったりするのは、大脳の情報処理能力が生活に必要な能力よりも過剰になってしまった証拠で生物としては慶賀の至りなのだとは思う。

しかし大脳という情報処理システムの淵源を考えれば、与えられた情報からアウトプットとして出てくる判断は、意志が介在するものではなく、自動的なものであることは推論しやすい事柄に属しているはずで、あいだをとばして必要なことだけを述べると、絵を描くのが大好きな子供を弁護士にしようとする親の企みのバカバカしさは、そこにある。

自分でない何かになろうとすることほど人間にとって危険なことはない。
医学は間口が広い学問で、数学にしか興味がない人間でも文学にしか関心がもてない人間でも、絵を描く以外に時間の過ごし方が考えられない人間にとってさえ「医学」の名のもとにやれることが残っているが、そうであってもどうしても絵を描いてすごすほうが人間の身体を見ているよりもずっと好きで、生化学の本を読んでいると退屈で発狂しそうになる人間にとっては、高収入な医師であるほうがビンボな画家であるよりも遙かに危険で破滅の可能性が高い一生を送ることになる。

親の企み、と言ったが、遡れば、優秀な人間は医師や科学者や法曹家にしよう、というのは「社会の企み」である。
親は、そういう事柄に関しては、ときに、社会の側の子供に対するインターフェースとして存在しているだけにすぎない。
高度な段階の社会はテクノクラートを大量に消費する。
個々の家庭から優秀な能力をスポイトで吸いだしてITならITの分野のシャーレに容れて培養しようとする。
人間の大脳はもともと「気象」をイメージすれば最も類似している、変わりやすく破天荒でも一定の傾向をもつシステムだが、それを社会の側からの要請によって「有益」なものに変えようとするのが学校教育制度の、秘匿された、品の悪い目的で、「がまん」や「努力」が美徳として教え込まれるのは、そういう事情によっている。
成績がよいのに頭がわるい人間はトーダイでもよければハーバードでも構わない、その社会で有名な大学に行ってみれば群れをなして存在するが、そのうちの何割かは、鋳型に自分を押し込む途中で壊れてしまった人格なり知性なのであると思う。

そういうことにまったく気が付かないまま、学校のような、しょもない期間を終えて、食べたくない夕食はそのままテーブルに残し、行きたくないと思えば学校をさぼって庭の芝生に寝転がって猫とスパーリングをして遊びほうけ、それにも飽きると、目を細めて、深い、広大な青空を見ながら、世界はなんて綺麗な場所なんだろう、と放心したもの思いにひたりながらお午寝をしてしまう、という生活を許して、家のなかに「社会からの要請」が一歩も入らないように守ってくれた親の努力をありがたいと思うことがある。
家はときに社会のわがままから子供を守る為に存在する。
親は子供のわがままを社会のわがままに優先させられるただひとつの存在なのである。

この頃30歳をすぎて、小さい人が家のなかを走り回り、ときどき転んで思い詰めた顔で世界と廊下を呪い、猫にからかわれて地団駄を踏んでいたりするのを観察する毎日になると、それまでベールの下に顔を隠していた世界が、少しづつ姿を見せてくる。
主要なこともあれば些細なこともある。
あ、そーゆーことだったのか、と思う。

努力しても努力しなくてもアウトカムは同じようなものだ、とか、
頑張るとろくなことはない、とか、
我慢などにいたっては、健康にわるいだけで良いことはまったくない、というような知見は最近のものに属する。

いままで、30年余、さぼり続けてきてよかったなあー、と心から思う。
社会のほうでは不満かも知れないけど。
社会くん、すまんが我慢してくれたまえ、わるいね、としか思わなくなった。

それでも収入も幸福も単調に増加してゆくところをみると、社会くんのほうでも、悟るところがあったのではあるまいか。
アホに見えて、案外、思ったよりも理解力があるようです。

(Touch wood)

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2 Responses to No worries

  1. Ukaino says:

    ああ、ああ、自分は良い親だろうか。

  2. alto says:

    ガメさんの日本語文を読むと、エデンのイヴのように怯えざわつく心を抱く自分を見つける。ああ、私は私と私の思う世間に自由になっていいのでしょうかと。成熟とは、清濁併せ呑むことなのでしょうかと。
    でも私は知っている、世間なんて、どの空の下でも貌を変えた知り合いのように一時もはなれず存在する。願わくば、その世間はあなた方に優しいように。もしくは、世間に負けないほど、あなた方が強くあれるように。

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