距離と角度ということ

se (19)

むかし、たいへんお行儀の悪い女の人の小説家が頻繁に話しかけに来たことがあって、欧州は全部ナチだろう、偉そうにすんな、から始まって、おまえのような白豚は滑稽だ、白人を人種差別できるのは日本人だけだ、その他いろいろ興味深いことを述べる人で、やる気があればこのブログの闇の奥にある過去記事に出て来ます。
最後は心から気の毒だと思うが、ぼくに向かって「白豚死ね!」と述べたら、かのひとはいかがおもいけむ、自分が罵倒されたと思った(←なんで?)日本の人たちの集団的サディズムの反撥にあってツイッタから追い出されてしまった。

勧めてくれる人も何人かいたので、この人が書いた手に入る本はみんな買ったが、欠点があって、物語の構成は良く出来ているのに、日本語の感覚が悪い人におもわれた。
それで物語の舞台になっているフランスの言語で全部書き直したら面白いのではないかと思って、いまのアカウントから2つ前くらいのツイッタアカウントで述べたら、本人も、ファンのひとも、もっとぶっくらこいたことには、この女の人の小説家と喧嘩をしたんだかなんだか、この作家を心底憎んでいるらしい日本人の女の人で、何通もemailを寄越して、作家がいかにフランス語が判っていないか、自分はこの人は狂人だろうと思っている、あんな人とまともに口を利くなんてあなたもおかしいのではないか、とよく書いてきた人まで、ぼくが小説を賞めたのだと考えたようでした。
あんなくだらないせいぜい宝塚歌劇でしかない小説をほめるなんて、あなたは小説が読めないのではないか、とまで書いてあった。
ぼくは結局一冊読んだだけで、「日本語の表現が大事にされていなくて粗い」という理由で読むのをやめてしまったが、物語のつくりかたは企みとして古いと思っても、表現を別にすれば日本では珍しい物語のつくりかただったので、そこまで悪口を述べるのはフェアでないと考えたものだった。
ついでに、sarcasmということが判らない国民性は健全だと恥じ入りました。

sarcasmはイギリス人の忌まわしい天性で、表現の多重性、物語の構造の多重性と並んで、いまでは鬱陶しいだけになってしまっているのに、イギリス人は呪いがかかってでもいるように止められない。

Helter Skelterはポール・マッカートニーやジョン・レノンが育った連合王国の町ではただ螺旋形の滑り台のことで、子供がくるくるまわる滑り台で「きゃあああ」になるというだけの意味だが、カリフォルニア人のチャールズ・マンソンは、白人と黒人の人種間の緊張が生み出す apocalypseを暗示する悪魔的な言葉だと考えてしまった。

ジョン・レノンはイギリス人らしい悪癖の持ち主で言葉の二重性や発言の二重性にひとびとがくびをひねるのを見て楽しむ悪い趣味があった。
チャールズ・マンソンたちが臨月だった女優シャロン・テートを惨殺したあと、インタビューで「皆が盛んに『言葉が真に意味すること』を探し回って右往左往するのが楽しくて、ほんとうは深い意味がないのに、あるようなふりをしてしまった。よくないことだった」と反省しているが、よくないもなにも物語や語彙に多重性を求めるのは欧州ではイナカモノの悪趣味であるにしか過ぎない。
「好きなバンドはたくさんありすぎて言えないけど、嫌いなバンドなら簡単に言えるわよ、ビートルズ! あの、歌詞にカエルでも判るような二重性を持たせて知的な作業だと思い込んでいる頭の悪さがたまらないの! 虫酸が走る」と(調子は静かでも)激しい言葉を述べて、びっくりさせたギリシャ人(母親)とイギリス人混血の大学の女友達がいたが、判らなくはない。

モンティ・パイソンの有名なスキットに「Vercottiインタビュー」がある。
モブのVercottiにレポーターがインタビューする.
Dougがいかに無慈悲な人物であるかについてVercottiはこんなふうに説明する。

Doug!
I was terrified of him.
Everyone was terrified of Doug.
I’ve seen grown men pull their own heads off rather than see Doug.
Even Dinsdale was frightened of Doug.

インタビュアーが、
What did he do?

と聞くと、Vercottiが恐怖にひきつった顔で

He used sarcasm.

と、怖ろしげにささやく。

He knew all the tricks, dramatic irony, metaphor, bathos, puns, parody, litotes and satire.

あるいは、客が「なんという美しい奥方! 殿方にさぞかし人気があるでしょうね?」
「まあ、なんて素晴らしい料理でしょう。レストランのメニューにあれば、いちばんの人気メニューになるのではないかしら」
と述べるのを聴いて、「いやいや、それほどでも」をしている主人に向かって、
旦那さま、あれは「sarcasm」と申すものでございます、と恭しく述べる給仕頭がいる。

そんなことやこんなことで、イギリス人は、sarcasmをまるで息をするかわりに使う国民になってしまったが、それはたいそうくだらない成り行きだった。

マンハッタンの地下の暗いスパニッシュクラブで、フラメンコダンサーが眉間に深いしわを寄せて、恋の苦しみを身体全体で表現している。
静止するたびに身体の形で感情が表現されて、燃えるような眼が虚空を見つめている。

むかしは連合王国人は、したり顔で、フラメンコをスペインの文明的未開の象徴として笑っていたのをおぼえている。
いまから考えるとバカみたいだが、フラメンコの「滑稽」を説明できることのほうがフラメンコが(受け手が観念の高みにあらかじめよじのぼっていれば)届こうとしている「地上よりも高い世界」に向かって観客とパフォーマーが一緒になって協同するよりも「優れたこと」だと思い込んでいたのだと思う。

ものをつくることや、あるいは創造までもいかない表現ですら自分の「批評意識」のスイッチをいったん切ってからではないと出来るわけはない。作品は自己批評されなければならないが、それは出来上がってからのほうがよいようだ。

義理叔父は日本人とUK人の共通した特徴を「けちくささとうぬぼれ」と述べたが、言い得て妙である。
たかが二三冊の本を読んで「放射能についての正しい知識」を説くひとたち、「学士号」にありついただけで大得意で「普通の人間の科学リタラシーの欠如を嗤う」愚か者、1ヶ月のフランス語ソフトウエアコースを終えただけで「フランス語がわかったが英語はフランス語のピジョンである」と述べるブロガー、1努力すれば100述べてもいいのだと思うひとびととは到底つきあえない。

斜に構えた知性は自分の一生のなかでひとりも見たくない。
そんなものからはなにも生まれない。
人間の一生はたいそう短いので、そんなタワゴトに付き合っているヒマはない。

一行の賢げなクオートよりも、通りに出て圧政に向かって投げる一個の石のほうが価値がある時代にわれわれは生きているのだと思います。

(上で述べた希英混血の美しい人Jは、ある日ふたりで酔っぱらったら、「ガメ!ギリシャの女がコーフンすると、どんなふうにおしっこするか見せてあげる!とおおきな声で叫んで、道のまんなかでたったままニッカーズを空に投げて盛大に放尿したのをおぼえている。どーしてるかなー、J、なつかしい)

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