自称ジャーナリズム

se (32)

大笑いしてしまった。
他人が一生懸命書いたものを「大笑い」しては大失礼というものだが、笑ってしまったものはしかたがない。

こういう記事です。

「3D(三次元)プリンターを使い、女性器を造形するためのデータを頒布したとして、警視庁保安課は14日、自称芸術家、五十嵐恵容疑者(42)=東京都世田谷区野毛2=をわいせつ電磁的記録頒布容疑で逮捕したと発表した。「わいせつ物とは思わない」と容疑を否認しているが、同課は全国の30人以上にデータを送ったとみている。五十嵐容疑者は「ろくでなし子」の名前で、女性器をテーマにした創作活動で有名。
 逮捕容疑は今年3月20日、香川県の会社員男性(30)ら不特定多数に、3Dプリンターで出力すると、女性器の造形物ができるデータをメールで送信したとしている。
 同課によると、五十嵐容疑者は女性器をかたどった小型ボートを制作するためネット上で寄付を呼びかけ、寄付をした人にデータを配ったとみられる。
【林奈緒美】」

新聞社は毎日新聞で、お堀端の、きっと出来た頃にはかっこよいので評判になったに違いないこの新聞社の社屋をおぼえている。
首都高速道路で、びっくりするほどの間近を通るので、渋滞して止まってしまったりして、手持ち無沙汰なので眺めていると夜遅くでも人が働いていて、たいへんな商売だのおー、とよく考えたが、この記事を書いた人も、あのなかのひとりだったに違いない。

義理叔父という人は裕かな家に生まれたので、まだビデオテープが高価だったVHSが発売されたばかりの頃から始まって、膨大な数の録画を持っている。
Apple IIから始まる私設コンピュータ博物館みたいなヲタク部屋と並んで、本人の自慢でもあるよーだ。
そのテープのコレクションのなかに尾辻克彦が芥川賞を取ったときのインタビューがあって、大勢の記者に囲まれた尾辻克彦が
ひどく情けなさそうな顔で「また、捕まったのかと思った」と述べたのが可笑しくてよかった。

尾辻克彦は美術家・赤瀬川原平の小説家としてのペンネームで、Yoko Onoから、オノ・ヨーコ、読売アンデパンダンから、ハイレッドセンターと調べていく途中で
「千円札事件」
http://artscape.jp/artword/index.php/%E5%8D%83%E5%86%86%E6%9C%AD%E8%A3%81%E5%88%A4
で逮捕されたのを知っていたからです。
丁度チョー悪趣味な「子供ぽい顔の女の子が性行為のなかで顔を赤らめている」というようなマンガやイラストがおもいがけずどこにでも飛び出してくる日本のウエブサイトにげんなりしていて、調べてゆくとそういう画像を洪水のように吐き散らしているひとびとは異口同音に「表現の自由だ」と述べていて、日本社会の「表現の自由」に興味があった頃なので、
どんどん調べていった。

そのときに気が付いたのが、日本のマスメディアが赤瀬川原平に与えた肩書きが
「自称芸術家」であったことで、なんでもすぐ可笑しがる悪いくせがあるぼくは、足をバタバタさせて笑い転げてしまったが、よく考えてみると、笑いごとではないようでした。

結局、千円札裁判は弁護側に瀧口修造や中原祐介を立て、このあいだまで「自分達は芸術活動などという欺瞞は嫌いだ、われわれがやっているのは芸術なんて、そんなかっこわるいものではない」と述べていたのに「あれもゲージツ、これもゲージツ」と本人が自嘲して言っているように、千円札の模写は芸術行為であって法には触れない、と言う主張にも関わらず、1970年4月の最高裁判所で上告が棄却されたことによって有罪が確定してしまう。

詩か、詩でないかは、言語的訓練を受けた人には明らかで、ひとつの詩句が意味していること、あるいは意味していることの範囲についても、「詩の解釈はひとによってそれぞれだから」というのは詩を読む訓練を自分に課さなかった怠け者の言うことで、実際には精密な質量天秤で計測できそうなほど意味は厳格に表現によって規定されている。だから詩は詩なので、もし詩の意味が受け手によってとりようがある模糊としたものならば詩はただの情緒的なたわごとで、つまり、その詩はダメな詩なのは常識である。
しかし詩人は自分が詩人であると思えば詩人だろう。
「現代詩だけで食べる」ということはありえないことで、日本では谷川俊太郎が「職業として詩で食べていけたひと」として有名だが、仕事の内容を細かくみていくと、ちょうどライプニッツが「食べていくための哲学」と「真の哲学」に分けて仕事をしたように、谷川俊太郎も「食べていくための詩」(例:校歌)と「真の詩」に分けて仕事をしてきた人で、前者はコピーライターの仕事にとてもよく似ている。

実際、田村隆一というような人でも晩年でさえ、「旦那は、どんなお仕事です?」と聞かれて、「ぼくは詩人だ」というと、噴きだされてくさっている。
真正な「詩」を書くことももちろんだが「詩人」であることに一生を賭けた吉増剛造が、「聴いたことがない名前ですね?」「同人誌かなにかですか?」「自称、ですかね?」という反応にいかに傷付いたかは吉増剛造の友人が証言している。
近代を通じて、どれほどたくさんの詩人が、その嘲笑的な視線を避けるために「大学講師」というような肩書きを職業欄に記入してきたことだろう。
日本は「詩人」を許容しない社会なのである。
すべての詩人を「自称詩人」に変え、すべての芸術家を「自称芸術家」に貶める権能を有した社会なのである。
そういう社会は、もしかすると「自称・社会」なだけで、なんだか軍隊に似たものなのではなかろうか?

日本の社会には、なんともいえない「低み」があって閉口させられるところがある。
この零細ブログに対してさえ「一銭も稼げないのに有名になりたい一心で毎回毎回ご苦労なことです」という人が定期的にやってくるし、はてなブックマークというようなところへ行けば、ボクシングなら下半身攻撃、というか、名状しがたい品のわるさで、なにが日本という社会の足枷になっているのかよく判る。
「出る杭は打たれる」「社会のもつ均質と異なるものを嫌う」と説明されていて、それはそうなのかも知れないが、ネットのあちこちで誹謗、中傷、悪罵を吐き散らす膨大な数の日本人たちは、それ以前に人間としての品質に劣っているように見える。
人間としての品質が由来するところを考えれば、それは言語の問題であるに決まっていて、使う言葉の品質がそもそも粗悪で、自分では「真実の自分はもっとまともだが、ネットでは仮の姿で悪態をついているだけさ」と思っているのかもしれないが、言語と人間の意識から言っても、それは紛れもない錯覚で、自己防御の心理機制が働いて、なんとなくそう感じているだけで、自己というものは、要するに自分が書いたり言ったりする言語そのものでしかありえない。
意識を支配する言語は当然でも言語を支配する意識など定義にすら反しているからです。
「言語を使う」という表現は、単なる習慣的表現として可能なだけで、言語に使われる以外に人間は存在のありようをもっていない。

新聞記者のような役割の人間が、国家が表現者を支配する意志に迎合して、逮捕された芸術家を、あっさり「自称芸術家」というような警察が表現者に対して侮辱をくわえて相手の「自己」を破壊することによって屈服させるために使う常套手段にしかすぎない呼称を使うことを躊躇しないジャーナリズムは、つまり自分が、あの古典的な呼び方、ふつうなら小学生が述べそうな表現、「権力の手先」「権力の犬」におもいがけずぴったりあてはまっていることを自白してしまっていて、なんだか読んだほうはぶっくらこいておたおたしてしまう。
この記事を書いた人の、新しいビジネスカードには、自戒をこめた「自称新聞記者」という職名が印刷されていることを祈ります。

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4 Responses to 自称ジャーナリズム

  1. 生物の本能は食欲とか性欲といったもののように思う。
    西洋で、堂々と裸婦像などが芸術として扱われているのを聞いて、違和感を感じた時代を覚えている。
    日本式でいうならば、異性への欲を、愛とか肉体欲のように分類する感覚が、なかったように思う。
    「裸婦像に上品も下品もなく、女の裸を描くことはすべて下品だ」という感じだったように思う。
    西洋で性を公に扱っているのを目の当たりにして、「性を公に流通させても良いのだ」という認識が
    日本で広がりつつあるような感じに思う。
    自分の感覚的にも、西洋式の「上品な性」とか「下品な性」とかの分類は理解できない。
    キリスト教式の「無償の愛」とかは宗教的過ぎて分からない。
    群進化論のいう「利己的な遺伝子が、利他的な個体を作る」、
    「利己的な宗教が、利他的な信者を作る」という原理の発露の一つの形としての
    「無償の愛」なら理解しやすい。

  2. Santa Sugata says:

    逮捕された方は悔しくてたまらないでしょう。少女が犯される内容の成人漫画は性器にぼかしさえかかっていれば法的に問題とされないが(国連や人権団体からは問題にされるが)、性器がみえていたらたとえ芸術作品だったとしても犯罪者としてテレビでさらしものにされる。ついこの間も香港からきた同性愛者の写真家が写真集の中に写っていた性器が卑猥であったという理由で逮捕された。「表現の自由」をご本尊のように有難がる識者が、こうした日本のいびつな倫理的規制に対して、異を唱えてこなかった。

  3. buchi314 says:

    写真、すごくカッコいいと思います。
    思わず手を振りたくなる。
    じっとみてるとパカパカ足音が聴こえてくるような。
    (自転車のお兄さんがちょっとおもしろいです)
    ガメさん元気かな。

  4. マリ says:

    はあ・・さっきも偶然行ったブログで「本音を言ってるようで実は悪意の陰湿な」悪口を読んでしまい、萎えてムカついて腹立ってまたガメさんのブログにお邪魔してた。
    反知性主義とか知識人さんが言ってるけどそもそも日本人てあんまし何も考えてないし。だから洗脳してやろうとか悪意満々の人が必死でデマゴーグしてるのが日本のネット世界。(とにかく嫉妬深いから日本人は。すぐ自分と他、自分のお気に入りと同カテゴリの他、を比べるのです)
    そんな日本のネットで”はじめて”知性と出会った。知性が救いだった・・・。
    それが日本語を操る外国人だったのは皮肉なことなのかもしれない。

    しかし西洋の人は精神=言語=知性(知識)=理性を同一視しているようです。それでようやく西洋哲学で言語をやけに重視する意味がわかりました。正直不思議だったし全然意味がわからなかったんですけど。
    日本は言葉と心はもちろん密接にかかわっているけど一緒とは思ってないな。距離的には結構遠いかも。言葉ってある種呪文みたいな。だからそこまで言葉は重要に思ってないと思う・・。精神性は態度や所作で見る。だから「行儀」には結構日本人はうるさい。

    とにかくかなり本質的に違うのだなと思いました。
    西洋は非常に男性脳的な世界で、日本はとっても女性脳的な世界なんじゃないかな。

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