3つの断片

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1 piety

落ち着いて考えてみればわかるが、この世界の「先進国」(ヘンな表現だが便利な表現ではあるので仕方がない)のなかで信心深い人間がたくさんいるのはアメリカ合衆国だけです。
理由はとても簡単で、たとえばアメリカ人の破産の第一原因は「病気」で、病気になると人生がなくなる。
労働者の権利というようなものは無いのも同然でランチブレイクに同僚と昼ご飯を食べに行って戻ってきたらクビになっていた、ということも十分ありうる。
州によっては社会に銃があふれているので、ビンボな町に住んでいれば向こうから歩いて来たローティーンの子供に100ドルはいった財布をめあてにあっさり撃ち殺される、という可能性も十分にある。

一方で巨大な金銭的成功が存在する国で、アイビーリーグ以上の学歴があり、素早い判断ができれば、だいたい10年くらい過労死寸前の労働をすることによって、すさまじい高収入をあげることが出来る。
実際、アメリカ人の友達に「スキーに行かない?」と言われて、いいよ、と述べると自家用ヘリコプターのお迎えが来て直截山小屋に行く、というようなのは普通で、結婚するまえは、チェルシーのろくでもないアパートメントでヒマをこいていると、ストックブローカーの女びと友達から電話がかかってきて、
「おーい、ガメ、遊びに行こうぜ。今度、おれ、無人島を一個買ったんだよ。誰も見てないとこでチンポコ潜水艦やって遊べるぞ。おれはチ○チンついてないから付き合えないけどな、ガハハハ」というような電話がかかってくる。
20代の勤め人なのに、「給料」が40億円を超えている。
物理的な姿も、このひとに特徴的な圧倒的な言葉の下品さをギリシャ人風(←実際におかあさんギリシャ移民)の気高い美貌に包んで、見た目は、大理石ぽい上品さです。
そういう「成功者」がごろごろしている国でもある。

いまの世界でははなはだしく信用がない神様がアメリカでだけは関心を持ってもらえるのは、要するに、生活が諸行無常、運次第で不安定な、明日をも知れぬ生活であるからで、神様と片務同盟を結ばないとやってられないのであると思われる。

2 炎

「ヘンなガイジン」が、この頃、朝まで起きて絵を描いていることが多いモニさんを待ってカウチに腰掛けてテレビを観ている。
「神も仏もあるものか」と日本語で頭のなかでつぶやいている。

テレビ画面に映っているのはHDMIでつないだMacMiniから流れてくるインターネットのCNNニュースです。
イスラエルの戦闘爆撃機がガザを空漠している。
手元のMacbookProでは「シオニストは狂人集団化している」
「あれをユダヤ人だと思われたら、ムスリムがいっそうはびこるだけだ」
「アッラー・アクバル!」
「ムスリムの兄弟たちに援助を」
さまざまな声が飛び交っている。

静かに立ちあがって、キッチンへきゅうりのサンドイッチをつくりにいく。
料理の人が残していってくれたインダクショントップの上のミネストローネスープを温め直す。
ログバーナーに新しい薪を二本ほうりこんで、床暖房の目盛りをひとつ上げる。

カブールと少しの地域を除いては、ほぼタリバンが再制圧に成功して、自分達が不在のあいだ学校へ通って教育をうけようとした宗教的に不埒な女たちを捕らえて、鞭で打ち、街頭を引き回して殴りつけるアフガニスタンや、インフラストラクチャすら機能しなくなってほぼ社会としての機能を停止しつつあるエジプト、戦場と化したイラク、
アメリカの宣伝とは異なって、ついこのあいだまで欧州とあまり異ならない女の人達がいる風景があった
https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/10/01/踊るイラン人/
のに、いまは暗い色の長衣に身を包んで息を潜めて町を歩かねばならなくなったイラン、世界が関心そのものをなくしてしまったなかで、兵士に見せしめの強姦をうける女たちの泣き叫ぶ声や、殴打された男達のうめき声が暗闇の隅で響き渡るチベット、アメリカの衰退を見切った私服のロシア兵たちが静かに散開するウクライナの町、麻薬シンジケートが流行のスポーツとして楽しむ誘拐強姦の数を競って、被害にあった女たちの下着を枝にかけるせいで、まるでいつも花が咲いているように見えるメキシコの森、AK47を小脇に抱えて、まだあどけない顔で一心にとうもろこしをむさぼり食う少年兵たちのアフリカ、ゆっくりと、しかし着実に新しい混乱の時代にはいってゆく世界のなかで、神など信じないで、両側に切り立った崖がある細い尾根のような「理性の道」を歩いてゆくには、どうすればいいのだろう?

このミネストローネはうまいな、と考える。
コモ湖の西岸の小さな村の、そのまたずっと上の丘の上にあるレストランのミネストローネが、多分世界でいちばんうまいミネストローネだが、それに近い感じがする。
料理人のFが、なんどもなんどもレシピを変えてはつくってくれて、とうとうこんなにおいしくなった。

きゅうりのサンドイッチは子供のときから大好きで、ほとんど毎日食べているので、なんだかきゅうりのサンドイッチの名人のようなものになってしまった。
CNNのニュースを消すと、残っているのは欧州から運んできた人の背丈と同じくらいあるアールヌーボーのライトと、ログバーナーのなかで揺れているオレンジ色の炎だけです。
急に気持が暗くなる。
気圧のせい、ということにすればどうか、と考えて、逃避のためのヘリクツはなんて素敵なんだろうと思う。
冬の朝の、暖かいベッドのようである。

3 わがまま礼賛

アメリカ人は神に祈り、中国人たちは少しでも他人より豊かになろうとし、アフリカ人たちがいのちがけでヨーロッパをめざすのは、自分を救済したいという必死の願いのあらわれである。
だが、このチョーくだらない世界に早くから文明とともに暮らしてきたイタリア人やスペイン人、フランス人たちは、どうすれば自分が救済されるか、どうすれば国を戦争の危機からまもり、どうすれば「神様」というようなヘンテコなものを仮定しないでも心の平安が得られるかについて「先輩」らしい知恵を持っている。

それは「わがまま」であることで、自分がこの世界で最も大事な存在であることを当然と思い、自分を飾り立てて、部屋を暖かくして、庭に春にはさまざまな色彩で咲き誇る花を植えて、窓辺の長いすにクッションをおいて本を読み、食事という食事にこだわっておいしいものを食べて、床に敷くラグを選び、夫婦で何ヶ月も見て歩いて決めたバスタブに寝そべって、ヴァニラの香りのするろうそくを何十と並べて入浴して、朝はシーツにくるまってお互いの身体を使ってむつみあって、特に祝うべきことがなくても自分達の生活の楽しさを祝ってシャンパンを抜いて踊り、明日は今日よりも生活が美しくなってゆくことを念じる。
オペラやスタンダップコメディに出かけて、レストランの壁や天井に会話の声が響く美しい音の反響のなかで出来のいいバヨネーズソースがかかったスコッチフィレを食べて、凪いだ日にはボートを出して、入江にいれて、満天の星を眺めて遊ぶ。
小さいひとびとと一緒にごろごろして、ホールを一緒に絶叫しながら駈ける。
シャンデリアを見上げながら、ここから去りたくない、
ぼくは、どこにも行きたくない、と考える。

自分の生活がない人間は言葉をもたない人間と変わらない。
口にだして述べてみたり、コンピュータの画面に書き込んでみたりする言葉に実質がないからで、「個人の自由」なら「個人の自由」と誌して、それはただの形骸で、特に「国家の尊厳」や「国威発揚」というような言葉とさえ、たいして変わりがあるわけではない。
個人の自由、という言葉に意味がうまれるのは、個人が存在してこそで、個人が存在するためには、個々の生活が豊穣でなければならないのはあたりまえのことであると思う。

Kというイングランド人の友達が学会で訪問した東京の印象を、「ふたつある。
みなが時速120キロで走っている高速道路に時速80キロの標識を掲げて平然としている不正直が定着している国だ。もうひとつは、国民が非現実的な満員電車で毎朝通勤することをなんとも思わない政府がある国だね」と述べた。
Kは自分でも喜んで認める辛辣で嫌味な性格の人間で、「他人に好かれようと思う人間の気持ちがわからない」と言ったりするので、ぼくがすっかり好きになった昔からの年長の友達だが、日本人なんてものはあの国には存在しないのさ、とまで述べたことがある。
だって、どこにも個人の生活なんて見あたらない。
日本人は個人として存在しない人間の総称なのさ。
みんな他人の目のなかで思考していて、個人が個人であるより社会の部品であるような奇妙な国なんだ、という、つまりは日本を訪問したぼくの友達がほぼ共通に持つ「日本人の印象」を分け持っている。

日本はもちろん「先進国」だが、先進的なのは国と制度だけで、ほんとうは個々のチョーわがままな個人の側から全体に向かって延びなければならなかった民主制のベクトルでさえ、不思議にも国の側から個人に向かってやってくる力によって規定されていて、個人のほうは、なにがなし、国や社会の顔色をうかがって、他人の気持を考え、「おもいやり」に満ちて、「よい人」であろうとする。
最後まで存在しないのは自分の生活の楽しみにひたってらくちんな一生を送りたい「わがままな自分」で、わがままと自由は異なる、と叱責されかねない社会であるように見える。
わがままが自由とは仮に異なるのなら、わがままが自由よりも優位であるに決まっている。
自由などはいつでも「自由には義務が伴う」とでもしたり顔で政治家がかっこよくのべれば、ほいほいと嬉しくなって従ってしまう軽薄な人間が大量に生まれてしまいそうな頼りない言葉で、それに対抗しうるのは、「ぼくはやだね」というわがままの個から全体へのナマの拒絶の意志だけである。
きみが愛国的な情熱に駆られるのは結構だが、ぼくは、この鵞鳥のラグーソースとスパゲティ、それにネロダボラのワインがないと暮らせないんだよ。
時代によっては、そう述べた瞬間、きみは話し相手に軍用拳銃で撃ち殺されるかもしれないが、それは案外と自由の本質に殉じた死で、ずっとあとになってサーバーからサーバーへと巡り歩いて、過去からかすかに聞こえてくる「聴き取りにくい声」を採集して歩く人間が見つければ、利己主義を憎まれて撃ち殺された、その日本人の文明の高さに感動して、記録にとっておきたいと願うような死なのであると思います。

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