さよなら、民主主義

 

国民の戦意を調査した「特高月報」の1944年10月の記事に、
「戦争はいやだ。日本は必ず負ける。日本は勝手な国いやな国、日本全員米英の政治下領土になれ」という東京本所区の公衆便所に落書きが記録されていると半藤一利がしるしている。

あるいは多くの東京人が、戦争に負けた日の夜、灯りの覆いをとって、窓の目隠しも取り払って、ひさしぶりに明るい夜をすごした日の気持を、たとえば「ざまあみやがれ、これで戦争は終わりだってんだ」と述べている。

ちょうど反戦の主張をもった文学者たちや、地下の共産主義者たちですら、真珠湾奇襲を聞いて「なんともいえないスカッとした気持になった」と述べているのと対をなして、戦争に負けた夏の日の夜、戦争に負けたくやしさよりも、「これでもう抑圧された生活を送らなくもいいんだ」と、頭の上からおもしがとれた気分になった人が殆どであったように見える。

同じ「特高月報」に「戦争に負けたら敵が上陸して来て日本人を皆殺しにすると宣伝して居るが、それは戦争を続ける為に軍部や財閥が国民を騙して言うことで、自分は米英が其の様な残虐なことをするとは信ぜられん」と工場の壁に書かれていたと報告があるので、いま常識とされている、「男はみな性器を切り取られ女はみな強姦されると国民は皆信じていた」
という「証言」がどの程度ほんとうだったか。

実際にやってきたものは、なんだかきょとんとしてしまうようなことで、アメリカ軍が「強制」したのは去勢でも兵隊の妾になることでもなくて「民主主義」というものだった。
実際、「強制」という言葉どおりだったことは、例えば「忠臣蔵」を含む歌舞伎の演目は大半が「非民主的」という理由で上演禁止になったことでも判る。

当時の、「民主主義は天皇陛下よりも偉いのか?」
「民主主義で女も人間のうちに数へられるやうになりますか?」
というような問答を見ると、アメリカ軍が日本人に強制した「民主主義」というものが、どういう驚きと輝きで迎えられたのかわかるような気がする。
それは当時の日本人一般にとっては、なんだかよくわからないがありがたい菩薩観音のようなものだったのではなかろうか。

西欧人が日本にやってくると、日本では民主主義が奇妙なほど理想化されていることに驚く。
簡単に言うと「民主主義はフラストレーションの固まりだ」という基本的なイメージがないように見える。
ものすごくストレスのたまるシステムで、すっきりしない制度だという基本的なイメージがないように見えることがある。

TPPのときだったか「よく話しあって全員が納得するまで議論することが民主主義というものだ」という人がたくさんいて、びっくりしたことがある。
なぜなら制度としての民主主義は「全員が納得する」ことなどあるわけはないから生まれたシステムで、不可能なことを実現できると仮定すれば民主主義そのものの破壊を結果するのは当たり前のことだからです。

暴力を意識しない民主主義は機能しない。
国家という絶対暴力があって、そこに市民の側からの暴力が生まれて拮抗しだしたところに「民主主義」の萌芽が生まれた。
フランス革命は全体としては世にも惨めな失敗に終わってしまったが、しかし、1789年7月14日にバスティーユを襲撃した主婦達が長い鋤の柄の先に門衛たちの生首を刺して行進した姿は、一定の状況下では国家の暴力が絶対たりえないことを殆ど象徴的に「国民」たちに教えた。

パンの値段が暴騰したことを直截の理由とするこの革命によって人間が学んだ最大の政治的知識は市民の側にも国家と匹敵しうる暴力が宿りうることで、この発見は18世紀のヨーロッパを震撼させたが、一方では「民主主義」という不思議な手続きを発達させる基礎になっていった。

民主主義の成立を考えればすぐに得心できるが、もともと民主主義は「わがまま」な市民の「自分はこうしたい。他人のことなんか知らん」という強い欲求から、つまり、個人個人の強烈な欲求の圧力から生まれてくる。

ふたつの対極にある暴力が出会う場所が「公論」なので、民主主義国家においては議論が問題を解決しないとみると政府は暴力的に市民を取り締まろうとし始める。
アメリカのニューヨークで起きたことは良い例で大企業の秘書や航空会社のパイロットでも給料日が近付く頃になると、ひどいときには公園のゴミ箱を漁らなければならないほどの「中間層」の生活の苦しさを反映して起きたデモは自分達が議会に送り込んだ政治家たちに問題を解決する能力がないことを見越して起きた。
一方で、国家の側も、警察を送り込んで過剰にならないはずの暴力を構えて対峙した。

1996年9月10日、ポーリン・ハンソンの「Maiden speech」をきっかけに起こった「反アジア人運動」はオーストラリア全体に広がる国民的な運動になって、1980年代初頭の反日本人運動のような日本人だけを対象にしたものではなくて、全アジア人を排斥しようとする巨大な「One Nation」運動になっていった。
クイーンズランド州から始まったこの運動は他州にも飛び火して、シドニーのあるニューサウスウエールズ州に事務所を構える頃になると、オフィスビルや住宅地のアパートの窓やテラスから「アジア人でていけ」の垂れ幕が次次に掲げられる空前の国民運動になっていったのをおぼえている。

ポーリン・ハンソンは、そこから一歩すすんで、オーストラリアでは最も開明的だとみなされていたビクトリア州のメルボルンに事務所を開いた。

議会に解決能力がなく、放置すれば反アジア諸法案が通過しそうだと見て取ったオーストラリア人たちがとった行動は、反アジア主義者たちの予想を遙かに越えたもので、彼等は反・反アジア主義キャンペーンなどを通り越して、事務所を物理的に襲撃した。
生命の危険を感じた反アジア人運動の中心ポーリン・ハンソンは、有名になった12分間の「Death Video」を録画します。

「Fellow Australians, if you are seeing me now, it means I have been murdered. Do not let my passing distract you for even a moment」
「For the sake of our children and our children’s children, you must fight on. Do not let my passing distract you for one moment. We must go forward together as Australians. Our country is at stake」
と述べたポーリン・ハンソンは、この襲撃を見て勇気をえたマスメディアや議員たちの攻撃にあって、最終的には地球の反対側の連合王国に「亡命する」と述べて逃げてゆく。

オーストラリア人たちの民主主義へのイメジは、要するにチョー有名な「ユーレカの叛乱」
http://melhyak.web.fc2.com/kougai/ballarat/12/eureka/Eureka.html
(日本語)
http://en.wikipedia.org/wiki/Eureka_Rebellion
(英語)

に収束する。

ちょうどアメリカ人たちが対英戦争を思い起こすように、フランス人たちがバスティーユの襲撃を思い起こすように、オーストラリア人たちは自分達の「自由への光輝ある一瞬」を思い浮かべるときにはユーレカの叛乱を思い起こす。

ちょっと考えてみればわかるとおり、民主主義は自由社会でなくても当然施行することができる。
政治的な手続きの体系なので自由人がひとりも存在しなくても瑕疵のない民主社会は成立しうる。
それどころか独裁政治のように政府が国民に民主制を押しつけることすらできます。

日本の民主主義の特徴は、知られているとおり、個人の「わがまま」の爆発に対して社会が最低限なりたってゆくための手続きとして出来たのではなく、有史上最悪の好戦民族とみなされた日本民族の牙をぬく目的で日本の伝統価値観を破壊するためにアメリカ軍が強制したものだった。

簡単に言えば「日本の無力化」の一環としての民主主義だった。
1950年、田中絹代の「アメション女優事件」でわかるとおり、深層では日本人はアメリカの目論見に抵抗したが、表面は、少なくとも政治においてはアメリカが押しつけていった「民主制」という手続きを受けいれた。

ぼくは日本にいたときの経験から、日本の社会は根本的に個人の自由を嫌う社会だと思っている。
個人が全体の意趣に反したことを仄めかしたり述べたりするのは「わがまま」で自由とは異なると言われ、自分達を批判する異質な個人は、なんであれ容赦なくこきおろして、それでも相手が滅びないとみると集団的サディズムが、その個人を攻撃対象にして、ちょうど蝗害のように自然に発生する。
ある気の毒な人が、そもそも集団的サディズムの引き鉄になった主張とはまるで異なることを暴かれて、まず人格的に信頼できない、というラベルを貼られ、個人の信用の足下を掘り崩した上に、たくさんの人間が協力しあって住所と実名を割り出し、あまつさえ玄関の前の木に隠しカメラまで取りつける騒ぎを目撃したぼくと友人達は、一計を案じて、ぼくを標的にしようと計画したことがあったが、計画はそのまま図にあたって、あることないこと書き散らす人、自転車で隣町まで、からかいの種の本を調べに行く人まであらわれて、ぼくと友人達をたいそう喜ばせたものだった。
しかも5年経ったいまでも、このときのひとたちは手を変え品を変えて、ぼく個人を攻撃して自分達の集団的サディズムをまっとうしようとする「根性」も持っているので、「態度の悪い人間」を許さない社会の情念が、もともと、どのくらい根の深いものか簡単に見て取れます。

そういう極く天然自然に形成されたとしかおもえない「反・個人自由主義」の社会では、本来は民主主義など、そもそも必要がないものであったはずで、ものすごくマジメな国民性からは考えられない低い選挙投票率もそうだが、ぼくの観察では日本の人は「民主主義」が本来日本社会においては不要なものであると生活人の洞察の深さで熟知しているもののよーでした。

安倍政権は、そういう事情をすっかり見抜いていた。
「いらないんだから、やめちゃえば」とばかりに、見知らぬ通行人から帽子を取り上げる酔っ払いの気楽さで日本人の頭から民主主義を取り上げて、どぶの向こうへ放り投げてしまった。
日本の人は、多分、いまのいまでも、なぜ「昨日と変わらず、現にいまも存在する憲法を無視してよい」ことになったのか、訳がわからず、狐につままれたような気持でいるのではないかと想像する。
なにが起こったのか、まだちゃんと説明できないでいるのではないだろうか。

その証拠に「自由な市民」と称する言論人や「ネット言論人」が「安倍政権のやりかたは民主的手続きと矛盾していないと思う」という、一見もっともらしい、その実は悲惨としか呼びようがないマヌケな意見を述べているのをいくつも見かけることになった。

安倍政権が民主主義的手続きを国民から取り上げることを決めたのは、この先、万が一国民が調子をこいて「わがまま」になったときに面倒だと考えたからであるし、民主主義的手続きを取り上げるにあたって、たいして手続きそのものに気を配っているように見えないのは、もともと民主主義なんてものは伝統日本人からすればお飾りみたいなものさ、と考えているからでしょう。
「本音」は、「だって、きみたち、もともと民主主義が必要なほど自由を渇望したことなんてないじゃん」ということだと思われる。
「われわれはお互いをおもいやる家族なんだから」

もともとからの民主主義社会が通常もっている「わがまま」の不在に加えて、一応、アメリカ人の手で形式として整備してあった民主制そのものもなくなりそうだが、特に日本の人が切迫した危機感を抱いているようには見えなくて、「もっと話しあわなくては」という声が、のおんびり日本語インターネットの世界に木霊している。
むべなるかな、という言葉は、こういうときには使える表現なのかもしれなくて、日本語辞典を引っ張り出して調べてみるかなー、と思っているところです。
なんだか、SFホラーストーリーみたいだけど。

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