日本語教室2_漢字という借り着

(この記事は
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/06/19/日本語教室1_カタカナ・ブルース/
の続きですのい)

se (36)

口語と話し言葉が異なるのは当たり前で英語人は国語(つまり母語としての英語)の授業でたいてい教わるので日本語人の国語(つまり母語としての日本語)の授業でも教えることだろうと想像がつく。

日本人は明治時代までは「国家」という概念をもたなかったので統一王朝以前、たとえば戦国時代の中国の国家の概念を借用するほかなかったが、当然、この「国家」は日本自身が「中国でない国」という意味においてのみ国家として意識されていた。
宋統一王朝以後の中国では海内はあっても国家は存在せずに中華という宇宙の広がりがあって、それが辺境に及び蒼茫の向こうの未開の地になる、というグラディエーションのかかった意識が一般的で世界に各個に独立した国家があるというような迷妄は蔑まれていた。

ところが日本語は言語そのものが漢文を読む方便として発達したという重要な一面があって、漢文を読み下すために中国人が書いた「漢文」という形式の文章の余白に、レ点をつけ、送り仮名を書いて中国音がわからなくても、当時の日本人にとっては抽象的思考のゆいいつの方法であった中国語漢文という言語を使えるように工夫した。

18世紀になると本居宣長という人が、当たり前だが、日本人の実情や情緒とおおきく異なることも多かった漢文による思考を離れて、「漢意」(からごころ)を排して、ひらがなのやまとことばによる抽象的思考の必要を訴えたが、本居宣長自身の著作を読めばわかる、惨めなほどの失敗に終わった。
「漢字・漢文」への思考の依存は、18世紀の段階でどうにかしようと思っても到底できないほどおおきいものだったからです。

言語が意識の実体であることを考えると、そういう、言わば「中国人の頭を借りて」日本の事情を考察するのが日本人の思考の歴史的特徴で、明治時代に行われた近代文語は、言わば「読み下された中国的思考」の様相を呈するが、ここで大事なのは、明治人が頭のなかで観念的抽象的思考をするときには実際に文語で行っていたことで、典型的な例として夏目漱石を考えるとわかるが、漢文読み下しで思考したものを、教養がない者たちでも理解できる、ちょうどある種の動物の母親が食べ物を咀嚼してから子供に口移しに与えるようなものとして「わかりやすい日本語」で伝えるために日本語の口語は発達した。

夏目漱石の文章に新造語が無暗矢鱈に多いのはそのためで、ペンネームですら枕水漱石からとった、この漢文の巨人は、また、そういう作業をやすやすと行える思想翻訳の天才でもあった。

一方の、並び称される森鴎外のほうは漢文を欧州語にいれかえることによって日本語、つまりは日本人の思考を「近代化」しようとした、いいかえれば欧州人の頭を借りて日本の事情を考えようとしたが、これはいまではよく知られているとおり手ひどい失敗に終わってしまっている。
鴎外の漠然と意識された試みが実際に行ったことは現実の効果としては欧州語の思考を読み下された漢文という形式の中国語の思考に置き換えるという行為で、その結果シュルレアリストたちが言う「遠くのものを結びつける」面白い効果は起きたが、それ以上のものにはならなかった。
生き残って日本人の思考に重大な影響を与えるようになったのは夏目漱石金之助のほうであるように見えます。

日本人はたいへん不思議な民族で、自分たちの体型にあわない言語を裁断することさえなく、すそをたくしあげたり、本来は前をあわせてしめる服を、前を開け放ったまた着たりすることによって「使って」きた。

モンゴル人やチベット人は漢族と同じ漢字を表記法とすれば漢族の思考に自分達の思考が侵略されるのは当然だとして、パスパ文字を発明した。
もうひとつの理由は自分たちの文化の内側から発生しない言語を借用することの危険さをウイグル文字の時代に身にしみて感じていたからでしょう。
13世紀クビライ汗の時代になると国家事業として言語を創設している。

日本の人に「あなたが使っているのは中国の辺境語だ」と最近の中国人知識人がよく述べる意見を述べても怒り出すか一笑に付すかだろうが、日本語の側からでなくて中国語の側からはよく見えることであるらしい。
「らしい」というのは、これを書いているぼくが中国語は白痴に等しいからで新聞や薄い本くらいは読めるが、音が伴っていない(四声がちゃんとしていない)ので、なんだかヒエログリフを高速で解読している人のようなもので、音が壊れているのだから、言語としてはまるで理解できていないのは当たり前です。

中国人たちと話していると、現代中国語には辺境語のよく知られた特徴として日本語の語彙がたくさんはいっているそうで、これは言語意識のありかたからいえば、日本語には戦前の朝鮮語の語彙はたくさんはいっているのに、戦後、韓国が日本から独立してからの語彙は極端に少ないことによくあらわれている。
「自分達の言語圏から自分達に隷属している文明世界に向かって手を伸ばして語彙をつまみ食いしている感じ」と言えば良いだろうか。
他の言語でいえばフランス語と英語のあいだによく似た関係が歴史を通じて見られるのはよく言われることだと思います。
その反対に極めてよく似た言語であるスペイン語とイタリア語のあいだには、不自然なくらい少ない事例でしか起こらない。

このブログをずっと読んでくれている人はよく知っているように、韓国語が日本語とそっくりで、したがって情緒や思考の癖が日韓はほとんど区別がつかないくらい、というよりも「日本人と韓国人」と区別を立てようとおもうほうが不自然な感じがするくらい「同じひとたち」であるのは当たり前として、中国人と日本人が(ぼくの事前の予想からすると)意外なくらい似ているのは、12世紀以来「(影響は受けているが)中国でないこと」を民族的なアイデンティティにしてきたようにみえる日本のことを考えると、謎だった。
儒教圏ですから、と、あっさり言ってくるひともいたが、年がら年中肌をみせて、幕末にやってきた欧州人を「こんなに裸でうろうろするのが好きな民族は見たことが無い」と驚かせた日本民族が「儒教圏」では中国人や韓国人は自分達の二千年を越える孔子の頭に宿った観念を現実より優位においたすさまじい訓詁的努力を思って泣くと思う。

オオマヌケなことに日本人は漢字仮名交じり文を読むときには「漢字」を読んでいるので、その漢字には中国人の情緒や思考の癖がいっぱい詰まっていることを忘れていたのでした。

木とひとつ書けば一本の木、林になれば木がやや間隙をなして群集している様子、森になれば薄暗いほどの密度の木の密集、孟子を読むと木を4つ書いてジャングルを表してあったりして、漢字は本質的に観念的な表記だが、そのことはまた次のときに述べる。

巧みな日本語の使い手だった吉行淳之介が書いたものを読むと、この人が日本語で書かかれた文章の「腐りやすさ」に頭を痛めていたことがわかる。
日本語の「死語」の生まれやすさは驚くほどで、むかしの週刊誌を読んで、聞きかじっておぼえた「ギッて」というような表現を使って、「そんな表現もう使いませんよ」と日本の人に大笑いされたり、文章全体から見て70歳代の日本人に違いない、と言われたりで、ぼくもさんざんだが、言い訳をすると、その理由の幾分かは日本語の目立った、食べ物でいう「足のはやさ」、表現が腐って、使い物にならなくなるスピードの速さにあると思う。
他の言語では、わざわざ流行語を使ってみせない限り、あまり起こらないことだからです。
ニュージーランド人の英語は「クールに決めた高校生達が、じーちゃんばーちゃんの英語を使っている」と、よくUK人やアメリカ人に笑われたものだったが、あるいはたとえばWhoopsy daisyというような言葉はUK人はいまだに使ってもアメリカ人は横で聞いていてひっくりかえって笑うような言葉で、そうやって死語が生まれ、意味のずれが起きてくるのはどんな言語でももちろんあるが、日本語の場合は、なんだか表現の寿命が極端に短くて、これでは世代間の会話など成り立たないのでないかと思うほどである。

よけいなことを書くと、日本人がほんとうに言語習得の苦手をはねかえして、英語を身につけていける日が来たとすると、論理的に当然な結果によって、いま使われている「カタカナ」は一挙に陳腐化してなくなるはずです。
それは英語人から言えば、チョー簡単な予測で、日本のバンド人がステージの上で「ロックン・ロール!」と叫ぶと、英語人の聴衆が失礼にもゲラゲラ笑ったり、自分のことを考えても外国語と日本語が混ざった放送だった「インターFM」(たしか、そんな名前)は、クルマに乗っているときにときどき聞いたが、「今週のビッグ・ヒット!」という、その「グ」と「ト」のところで、モニもぼくもどうにも決まりがわるくなって、恥ずかしいような気がして、ふたりだけの車内なのに、声にだして笑ってしまう。

カタカナ音は英語とは、まったく親和性が悪いからで、英語ができないかカタカナがまるごと死語化して日本語からなくなるかどちらかでしかありえないのは、日本にいたときには友達うちで「カタカナ英語発音の権威」と呼ばれて、「アメリカ」でも「インディビデュアリズム」でもすもももももももものうちでも、なんでもかかってきなさいだった、ぼくがいうのだから間違いはない。

日本文明のマイクロ文明としての最大の特徴は初めから最後まで「借り着」の言語で終始したことで、このことはたとえば日本の人から現実感覚を奪ったと思う。
頭の中がものすごく観念的で、言葉はどうせシンボルにしかすぎないが、それにしても、言葉が表象しているはずの現実が言語から剥がれ落ちていて、言語がどうにでも組み立てていけてしまうような、修辞的危うさがある。

現実が剥離した言葉を使えば、当然、組み立てた論理の数だけ「真実」が生まれてくるのは当たり前の当たり前で、放射能が突然安全になったり、南京虐殺がなかったことが「証明」されてしまったり、しまいには憲法もバイパスできることになってしまったりするのは、現実が剥がれ落ちてしまえば詭弁と論理の区別もなくなる、言語というものの、古代ギリシャ以来、人間のあいだで知られてきた事情をよく示している。

借り着の言語を使うことには、実は、もっと深刻な弊害があると思うが、長くなって、またいろいろな人に苦情を言われそうなので、それはまた次の回にします。

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