Daily Archives: July 27, 2014

アスペルガー文明_1

1 宮崎駿は自分の認識のなかから「日本の美」を拾い集めてきて表現するのが神秘的なくらい上手な作家である。 「風立ちぬ」に出てくる堀越二郎の実家の黒光りする階段の美しさは普通のものではない。 御影用水の脇の散歩道、高い煉瓦のアーチ橋を走る草軽鉄道、いまでは進駐軍によって接収され廃棄されたせいで永遠に失われた技術である九六式艦戦から零戦へとうけつがれる「さばの骨」の曲線で組み立てられたやさしい流線形の「畳と布団で出来た工業デザイン」、そのうえで、宮崎駿は「魔の山」をもちだすことによって日本人が軽井沢につくりあげた「小さな小さなヨーロッパ」でさえ、その不完全性の切なさを以て「美」であると認識した。 この映画が欧州人やアメリカ人にとって、どう評価すればよいかとまどわせるような、ひどくわかりにくいものに映ったのも無理は無いことだと思います。 日本の社会は一種のアスペルガー社会であるとみなすことができる。 その上に「正常人」という頭がいいだけの愚か者たちが神輿の上の痴愚神のように載っている。 適者生存という言葉は、むろん強者が生き延びる、という意味ではない。 適者生存が強者の生存競争における勝利を意味するならいるはずのない生き物が無数にいて、生きていることは、夏の晴れた一日、ボートを出して、沖合に出て、どんな面々が水の上や下でのんびり遊んでいるか観察すればすぐにわかる。 強者は意外と儚い生命力しかもっていなくて、観ているとかえって同情したくなるほど攻撃に攻撃を重ねた毎日をすごさなければならない。 キングフィッシュが鰺を襲い、そのキングフィッシュをサメが襲撃し、そのサメの腹を海底から海面に突進して突き上げて気を失わせて、悠々とおいしいところだけを食べて、あとは省みることもせずの海底へと捨てて泳ぎ去って行くオルカたちを観ていると、その傍らでのんびりと海面にぷかぷかしていて、ちらっと横目でアホどもの激闘に一瞥をくれているブルーペンギンのほうが繁栄の保障を得ていることは、どんな人でも気が付く。 日本以外のすべての世界の文明がextrovertな人格性を帯びているのに対して、ただ日本の文明だけがintrovertな人格性の上に建設されているのは真に驚くべきことであると思う。 アスペルガーはむかしは精神病のひとつに数えられることがあった。 念のために述べると「精神病」の定義は純粋に社会的なもので、たとえば有名な例ならば60年代のアメリカに旅行してなんらかの理由で入院したフランス人は、診断されれば、十中八九、アルコール依存症であると宣言される可能性が高かった。 フランスの病院ならば、そんなことはありえなかったが、アメリカの病院では一滴のワインも昼食につかないので、急にアルコールを断たれてショック死した例もある。 当時の「正常な」フランス人は、アメリカでは紛うことないアル中だったからです。 数学者の岡潔は講義の前に碁石を投げて碁笥につづけて3つはいらないと講義に出なかった。 ときどきはうまくはいらないことが続いて癇癪を起こして講義に出ないこともあったという。 ここで碁石が「3つ」だから正常なので、世の中には百個続けてはいらなければ次の行動に移れないという人もいる。 百個になってしまえば、奇癖ではなくて精神病です。 精神的な「病気」の定義が社会性を決定的に阻害しているかどうかにあることが端的に出ている。 アスペルガーの特徴とみなされる、細部にこだわる訓詁的なペダンティズム、相手の目をじっと見つめることができないアイコンタクトの能力の欠如、他人に自分の主張を否定されることへの激しい嫌悪などは20世紀的な社会では病気と判断されかねない反社会性をもっていた。 20世紀の社会ではおおかれすくなかれ公共優先思想が生きていて、それと西欧的な個人主義を共存させるためにはextrovertな人格性がなければ成り立ちえなくて、例外なくintrovertな人格を持つアスペルガー人は、激しい社会の反撥をかうことになったからです。 憎まれ役にしかすぎなかった。 社会のお荷物。 態度の悪い反逆者。 よくて、「笑いもの」。 このブログでずっと眺めてきた日本の社会の特異性は、introvertなアスペルガー人をごく少数のextrovertな人格性をもった非アスペルガー人が支配してきた社会の特異性だとみなすことができる。 なぜ、そんな倒錯した社会がありえたかというと、なんだかくだらなさすぎて信じてもらえないかもしれないが、東大と京大の試験が、人格もなにも関係なくて、ただ「点数」のみによっていたからでしょう。 一般に「正常人」よりも高い知的能力を示すアスペルガー人は東大や京大のなかでは往々にして「多数派」だった。 アメリカにも似たような大学にMITというパラダイスがあるが、日本は戦前からアスペルガーパラダイスを実現していたと、言えば言えなくもない。 知性に論理的かつ枚挙的な手続きの処理が要求されるITの時代になってみると、もともとアスペルガー人にとっては地獄に等しい社会だったアメリカでさえアスペルガーが正常な人格の類型のひとつであることはもちろん、20世紀的な正常人よりもかえって優位な人格であることが明らかになってきた。 特に調査してみる必要もなくて、スティーブ・ジョブズ、スティーブ・ウォズニアック、ビル・ゲイツ… というようなコンピュータ・コミュニティの初期の大立て者を考えるだけでも、みなアスペルガー人で、もともとモンティパイソンをザ・クラシックとして必須の教養に数え、ガールフレンドを微分しようと試み、「正しい製法の」オーセンティックなコカコーラをわざわざ南米から輸入して、「正統な」ハワイアンピザとともに食べるコンピュータコミュニティの、すっかり頭がいかれたカルチャは、どこからどうみてもアスペルガー人がつくった新しい文明である。 記事が長くなってまた文句を言われるのはかなわないので、詳しくは書かないが、日本はextrovertな(どちらかといえば凡庸で退屈な才能しかもたない)秀才たちがintrovertなアスペルガー人の突出した知的能力をいいように利用して国を切り盛りしてきた近代の歴史を持っている。 職人やエンジニア、一部の研究者が極めて優秀なのに、その上に座る管理職が唖然とするほどバカなのは、いまでは全世界にあまねく知られた日本の社会の特徴だが、それはつまりアスペルガー人の上に「正常」なだけで、他には何の才能もないマヌケが君臨できる社会の体制のせいであるように見える。 ここから何回かコンピュータ社会の外側から、日本のアスペルガー人たちが築いた文明の「美」を共感のこもった暖かい目で、絵柄の細部という形で描ききった、「もうひとりのアスペルガー人」宮崎駿のアニメを思い出しながら、日本の特異な成り立ちを日本の社会のアスペルガー的な特徴を照合しながら、観ていきたいと思う。 もしかすると、この角度からの観察は日本が急速に世界にcatch upして、catch upするだけでなくて、まるで異なるマイクロ文明で、もういちど世界を腰がぬけるほど驚かせる可能性があると思うからです。 安倍晋三が首相として勝ち鬨の声をあげているように、日本はこのまま戦前の、退屈で粗野で暴力的な、いかにもバカタレな「美しい国」に退行してしまうのかもしれないが、それでも可能性を考えることに意味がゼロということはないでしょう。 … Continue reading

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