Monthly Archives: August 2014

Vicious

メキシコのチチェンイツァに初めて行ったときアメリカ人の教師達と一緒だったが、そのうちのひとりが教師を退職する理由を生徒が「vicious」になったからだと述べていた。 だからなんだ、と言われても困るが、そのときの20年間教師をしたという女のひとの現実と戦い続けて絶望にたどりついた人だけが持つ目の光を未だに憶えている、というだけのことかも知れません。 viciousに最も近い日本語は「容赦がない残酷さ」だろうか。 英語圏の学校の常識は体罰もなにも教師は生徒の体に触れてはいけないことになっている。 どんな経緯であっても教師が生徒の体に触れた場合には無条件に処罰される。 ルールが絶対であるのを知っているので生徒はそれを良いことに教師を徹底的に愚弄して痛めつける。 「あんたみたいに風采があがらない、女房にまで逃げられるような人間のクズみたいな中年男に教わることなんかなんにもないわよ。第一、授業やってるふりして、わたしたちの裸、想像してるだけなんでしょう? いやらしい目つきで見やがって。 このあいだ、そこにいるジェーンとイッパツやってる妄想にひたりながらマスターベーションしてるのを見たと近所の人が言ってたわよ」 くらいから始まって、延々と侮辱されて、職員室で、4人の同僚が取り押さえないと「おれは、あのクソ女を人間として許せない。殴らせてくれ」とあばれるその教師を留めることが出来なかった、というようなことは高校では普通にある。 いくらなんでも甘やかしすぎで、コントロールが利かないので、NZでも、せめてイギリス並みに竹の鞭で手のひらを打つくらいは復活しようという国民投票が行われたが、そんなバカな退行が支持されるわけはなくて、圧倒的な票差で否決された。 あるいはイギリスではHappy Slapping https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/05/26/happy-slapping/ のような遊びが出来て、初めは友達同士で平手打ちをしあう他愛ない遊びだったのが、あっというまに、暴力化して、夜更けにさびしい空き地を通り抜けるパキスタン人の女の人を、4人くらいの高校生が徹底的にぶちのめして、血まみれになって、やめてくれと懇願する女のひとを、ビデオにとって、Happy Slappingのサーバーにアップロードして、殴られる人間が最も哀れっぽく、惨めな姿である画像に賞を与えたりしていた。 最近はHappy Slappingとは呼ばなくなったが、相変わらずアジア人移民を襲って、半殺しにしたり強姦したりして、その被害者が人間の尊厳をまるで失わさせられて謝るのを撮影した動画がアップロードされたサイトは相変わらずアンダーグラウンドで存在する。 東京のクラブのバーで、おいしかったフライドチキンがバスケットのなかに一個だけ残ったので、テーブルを囲んでいたオーストラリア人とアメリカ人とぼくとドイツ人と4人で、「このなかで最も友情の値段が安い国の人間がこのフライドチキンを食べていいことにしよう」とゲームの規則を決めて、具体的な例を挙げて、いくらくらいのオカネがかかっていれば友人を裏切ることが出来るか、ということを競ったことがあったが、おおかたの予想通り、イギリス人の勝ちで、ぼくが最後のフライドチキンにありつくことになった。 具体的な話は省くが、だいたい280万円で友達を裏切る、という例を出した。 あれは6年前だったので、クレジットクランチの前で、いまなら、120万円くらいではなかろうか。 アメリカでは最近は「open relationship」が流行している。 流行している、というよりも結婚のひとつの形態として定着しつつある。 簡単に言えば結婚したカップルがお互いの浮気を認め合う、という婚姻で、実行している芸能人の友達カップルに訊くと、ロケで長い間離れていたりするカップルでは、そういう形態のほうが良いのだという。 お互いが違うパートナーと性行為にひたっているところを思い浮かべると、関係が新鮮である、ということでもあるらしい。 あるいは高い給料を出さなくても希望者がたくさんある職業にはびっくりするような低賃金を呈示する。 テキサス人の友達が経営するデザイン会社は、変な会社で受け付けの若い女の人たちや、日本企業並みに、会議中にコーヒーをいれてくれる女のひとたちが、なんだか冗談みたいな美人ばかりである。 ビジネスだと言っても、昔からの友達であるようなぼくみたいなありがたみのない客だと、カフェに行って、この女のひとびとがランチのテーブルを共にする。 500グラムは優にあるスコッチフィレを平らげていると、隣で小さなサラダを食べているので、ビョーキなんですか?と訊くと、本業はファッションモデルなのであるという。 ダイエットちゅうなの。 いつもは仕事がないので、この会社で受け付けをさせてもらっている。 いつ休んでもいいことになっているので感謝してるんです、と屈託なく笑っていたが、その「給料」を聞いてびっくりしてしまった。 日本の「海外研修生」より酷いのではないか。 あるいはCNNの画面を眺めていると、給料日前に公園のゴミ箱を漁る大手上場企業の秘書の姿が映されている。 インタビューに答えて、この頃の世の中は狂っている。 働くほうの生活を考えて賃金を払ってくれない。 こんなにviciousな世界になっては人間は生きていけない。 若いバルセロナ人には独身者が少ないのはふたりで共稼ぎしないと食べていけないからだが、いまはパリもロンドンもニューヨークも、みな同じで、ふたりでアパートに住むか、5、6人で一戸建ての家を借りて住む。 NZのオークランドでも海辺の高級賃貸アパートは日本式に言えば2DKだが、惹句を読むと「キャリアカップルが2組で住むのに最適だ」と書いてある。 … Continue reading

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Leap before you look (now you really should)

2000年と2014年で「起業」する人にとってのいちばんの条件の違いは2000年に「起業」したかった人は銀行なりベンチャーキャピタルから起業の資金を調達しなければならなかったのに対して2014年のentonpreneurは資金の調達を必要としないことだろう。 金融能力が極端に退化した社会である日本のひとにとっては14年間で起業条件は次元が異なるほどよくなっている。 2000年に起業する人は「ビジネスモデル」を自前でもたねばならなかった。 たとえばファッションサイトをつくったとして、一日に300万のユニークユーザがサイトを訪ねるまでサイトが成長しても、当然のことながら、一円にもならない。 人がたくさん訪ねてくることをオカネに変換しなければならないが、ではどうすればいいのか、という問題があった。 最も工夫がない人はバナー広告を出して、それをクリックしてもらえばよい、と考えたし、コンテンツに自信がある編集者たちはコンテンツに課金して有料化すればいいと考えた。 案が凡庸であるだけ、あんまりたいしたオカネは稼げなかったが、なんどミーティングを開いても、結果は同じで、他の結論はでなかった。 eコマースは最も簡単で、店が仮想になっただけであるものでも結構なんとかなった。 Amazon.comは当時からバックオフィス商売をめざしていて、やや旧式なone-to-one理論に基づいていたが、それでもがむしゃらにデータベースを構築して、イーコマースの王になりつつあった。 最も成功した「ビジネスモデル」を持ったのはグーグルで、グーグルアドは利用者とグーグル双方に巨大な利益をもたらした。 だが当時はクレジットカード決済ひとつとりつけるのに苦労したはずである。 インターネット側からみると最も原始的なビジネスであるeコマースにしても、ではクロネコヤマトならクロネコヤマトとサイトのバックオフィスを連動させるとして、システムをつながなければならないが、運輸会社のシステムは歴史があるぶんだけふるいもので、ほんとうにこんなものとつなげるのか、とおもうほどの作業だったはずである。 しかも標準SQL規格のDBよりも、必要な規模ならオラクルDBしかないということになって、調べてみるとDBだけで1億円近いコストがかかる、というようなことであったに違いない。 14年間のあいだに、自力でやらなければならないことはどんどん減って、セキュリティ上最も問題がある決済システムも自分で実装する必要はなくなって銀行やクレジットカード会社のシステムにデータを投げてやればよくなった。 サイトでデータを保持する必要がなくなったので、クレジットカード情報を盗まれる可能性は、ずっと低くなった。 ひとりですべての機能を抱え込む、いわばアマゾン型のサイトから、分散された機能をインターフェースでつないでいけばよいだけになったが、2005年くらいにビジネスを始めたかった人は、まだ資金が必要だった。 いまはいらない。 簡単に言えば「おもしろければいい」ということになった。 ハードウエアの開発を必要とするビジネスアイデアでさえkickstarter https://www.kickstarter.com がある。 「ポテトサラダをつくる」プロジェクト https://www.kickstarter.com/projects/324283889/potato-salad が5万ドルを超える資金を集めたのが先々週だったか話題になっていたが、 「ラーメンをつくる」ならば10万ドルはかたいのではなかろーか (^^; 開業以来、いちども利益をあげたことがない、というよりも利益をあげるということを考えてみたことがないDavid Karpのtumblrは、スーパースターMarissa Mayerのヤフーが1200億円で買った。 異なる方向から述べると会社を成長させる段階でMBAたちが不要になった。 うまく眼に見えてこない人が多いかも知れないが、現実のビジネスではこれはたいへんおおきなことで、日本の「受験戦士」に似て定石の集積としてのビジネスしか知らないMBAたちが加わると、新しいアイデアに基づく会社の活発な創造力は大幅に減少する。 皮肉なことにオカネの臭いをかぎつけてやってきたひとびとが加わるようになるとビジネスは病んでしまうことのほうが多い。 ビジネスモデルを考えないですむことは、新しいアイデアに基づいたビジネスにとってはなによりの健康法である。 グーグルアナリティクスもあれば、なんでも無料で転がっているいまの起業環境では、オカネがまったく必要でなくて、ビンボ人もオカネモチもスタート地点ではほぼ互角のおもしろい世の中になったが、もうひとつ重要なことは、ビジネスマンたちが昔から説いてきた「人間のネットワーク」もいらなくなってしまったことである。 「ああ、これはどこそこの誰某さんに頼めばいいな」という人間のネットワークをもつことは長い間ビジネスマンの主要な能力のひとつに数えられてきたが、すぐれたアイデア(技術的なアイデアが最もよいが、たとえば、論理的に言えば、滅茶苦茶可笑しい冗談サイトでもいいわけである)だけが問題になる新しい起業環境では、そんなものは急速に不要になるだろう。 ここにおもしろいことがある。 起業環境が上で説明したように変わってきたことの一方では学校という教育システムが不可避的に個人の創造性を破壊する弊害が目立ってきた。 ところが知的側面においては初等教育から大学教育までインターネット上にどんどん無料でクラスが公開されている。 スタンフォードはたしか全講義をiTunesで公開しているはずだし、他の大学もこれにならっていくのは見えている。 なにごとにもネガティブな側面しか見られないひとたちは「しかし、それではディベートができない」「社会生活の訓練はどうなる」というに決まっているが、オンラインディベートなどによって、実際に学校がいらないことが決まれば、急速に解決されるだろう。 しかも「学校」が時代遅れ化することによって、名門校出身エリートいうようなものは、グッチの鞄のようなものに価値が変わっていく。 … Continue reading

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螺旋形を駆け上る富について

いまのアメリカでは人口の1%に富の4分の1が集中している。 富の分配に上昇志向が起きてしまっている。 言い換えると、もうオカネがいらない層にオカネが集中する傾向に加速がついてしまっているわけで、当然、富裕な層の資産に上積みされた「余計な富」は工場で作られた製品の消費にはほとんどまわらない。 ゆいいつのオカネの出口は不動産で、19世紀の終わりからほぼ百年安定していたアメリカの住宅の価格が2000年から突然暴騰しだして、アメリカ史上初めての不動産バブルが起きたことの背景になっている。 アジア人に対しては極めて排他的な町であるバルセロナでも、賃貸住宅(主にピソ)の4分の1は中国の人たちの所有になっている。 オーストラリアやニュージーランドに住んでいる人間にとっては数字を挙げる必要もない、最近は4年間で倍くらいにもなる高級住宅地の購買者はほとんど中国の人で、「USドルは中国にある」とよく言われる事象は不動産購買の世界でも変わらない。 ロンドンもオカネの持ち主が中国人であるよりはアラブ人であるところだけが異なって、富が不動産を指向する事情は同じであると思う。 アメリカに立ち戻って話をすると、アメリカは1950年代に最も貧富の差が小さかった。 一方では居住用住宅の価格は安定していたので、働けばクルマが買え、家がどんどんおおきくなり、住所の名前がよくなってゆく、ということが可能だった。 80年代90年代を通じてアメリカの生産業界が衰退して金融がGDPに占める割合がびっくりするような速度でおおきくなりはじめると、貧富の差がおおきくなりはじめた。 言い換えると、オカネがお金持ちのポケットにはいって出てこなくなってしまった。 消費が冷え込んでゆき、経済が低迷しはじめた。 2008年のクレジットクランチ以来、アメリカ人の友人たちと話していると 「500年続いたキャピタリズムに終わりが来つつあるのではないか」と疑問を口にする人が増えた。 ある人は完全な冗談として、ある人は半ばは冗談半ばは真剣な意見として、そうして、なかにはまったくの切実な危惧として「資本主義の終焉」を説く人もいる。 共産主義は、キャピタリズムに対抗して、異なる価値観を呈示し、世界じゅうの人間にキャピタリズムとは対立的な社会がありうるという幻想を常に視せ続けることによってキャピタリズムの正常な発達を助けるという皮肉な役割を担っていた。 共産主義によって実現された人間が経済競争によって人間性を失わずに住む理想の社会、などどこにもありはしなかったが、キャピタリズムの側に共鳴者や憧憬をもつ人間を生み出すことによって、資本家たちの暴走を不可能にする結果をもたらした。 会社には組合が出来、仕事をやめたあとでも十分に人間的な暮らしが出来るほどの生産性を獲得できない人間たちのために年金制度をうみ、日本で特に成功したように国民医療保険制度を設けた。 組合も年金も公的医療保険も、すべて共産主義と共産主義の現実主義者的翻訳である英国的な社会主義に由来している。 ソビエト連邦が経済的な崩壊を遂げて、もはやプラハまで弾圧のための戦車を寄越すディーゼル代を払うオカネが政府にない、という喜劇的な事態が判明したとき、東欧人たちはいっせいにたちあがって公然とソビエトロシアに背きはじめた。 ベルリンの壁は崩れ、欧州での共産主義は終わった。 イタリアでも、あれほど力を持っていた共産党はまったく無力になり、中国では鄧小平が公然と行いはじめた「マルクス主義よりも毛沢東主義を優先する」大胆な経済改革が日本との協調を基礎にしようとした胡耀邦の失脚にも関わらず、あるいは、失脚のためにいっそう軌道に乗り出して、個々の中国人の生来の無軌道なほどの個人中心主義が、うまく経済の活力に結びつくようになった。 500年間走り続けてきたキャピタリズムの、ゴール前の、最後のラストスパートでもあるかのように、このあたりからキャピタリズムが世界を覆い始めて、ブレーキを失ったクルマのように暴走しはじめる。 その結果、なにが起きたかというと中層と中層以下の人間から市場がオカネを吸い上げて、上層のさらに上の資産がある層にオカネをポンプで送るように送ってしまう社会ができてしまった。 ロングアイランドのハンプトンというところには友達が幾人か住んでいる/別荘を持っているが、このあたりの家はだいたい日本円で言うと10億円くらいが平均であるように見える。 話を聞いていると、10年前はまだ1億円で買える家もなくはなかったようなので、やはり21世紀になってから起きた変化なのでしょう。 イタリアの(ヴィッラは別にして)住宅市場はアメリカ人のオカネに支えられていて、アメリカの住宅市場は中国人たちに支えられている。 タワーのてっぺんの袋小路と言えばいいのか、吸い上げられたオカネは上層に向かうにしたがって持つ人間の数が少なく、消費にあてられる金額の総量も少なくなって、どんづまりのようなオカネモチたちの数は少ないが巨大な財布のなかで市場から隔離されている。 アベノミクスについて、このブログでは何度も書いたが、繰り返しを厭わずに述べると、用語がよくなくて使いたくないが、金融革命、IT革命というふたつのパラダイムシフトに近い現代世界の革命を行わないまま、通貨の流量を多くして、つまり、ひとりひとりの個人に少しずつ貧乏になってもらうことによって輸出産業中心の日経インデクスを上昇させる試みがアベノミクスの実質だった。 それがなぜダメなのかは繰り返さないが、副作用は個々人が貧乏になることに加えて、オカネの再分配がいわば「アメリカ型」になってゆくのは明らかであると思う。 しかも日本は世界のなかでも「中古住宅」が、すでに呼び方で想像がつくとおり、建築としては価値が毎年落ちてゆくという稀有な市場なので、オカネが不動産に固着するどころか魔術のように消えていく仕組みになっている。 アメリカの「1%の人間に24%の富が集中している」状態がいかにキャピタリズムにとって危機的な状況かは、1%以外の99%の人間に聞いてみればすぐに理解される。 「先進国」という、なんだか、いつ聞いてもくだらない感じがする名前を冠した国々のなかで、アメリカだけが飛び抜けて宗教心の強い人間が多いのは、つまりはアメリカ人自身が祇園精舎の鐘の音が虚しく自分と家族の未来を考える頭のなかで反響しているからで、自分たちの家庭の今日の繁栄が明日はどうなるか判らない儚さのなかを生きているからであるのは常識に属する。 富の再分配に失敗した社会がどうなるかは、皮肉にも往年の仮想敵だったソビエト連邦がよく示している。 生産性が違うといっても金融が生み出す「生産性」がいかに空想的なものかは実体経済の何倍ものオカネで市場が満ちた2008年に起きたことで、誰もが理解している。 あるいはいまのアメリカで、ふつうの人間にとっては、金融屋と言えばもっとも唾棄すべき、ハリウッド映画なら敵役が最適な職業とみなされる事実を見てもわかる。 日本のマスメディアが、アベノミクスの富の再分配を必然的に破壊する性質についてまったく何も言わないのは不思議な気がする。 ちょっと目を転じて英語世界をみれば、富の再分配問題についての記事や書籍があふれていることを考えれば、なおさら不思議で、「わざとかな?」と狐疑したくなるほどの不自然さではないだろうか。 それとも劇薬なのだから副作用が強いのは当たり前ではないか、ということなのだろうか。 何度もブログで述べてきたようにアベノミクスにはよいところ、当然、前になされなければならなかったことである面もあるが、悪い面もあって、その最も暗黒な面は、仮にアベノミクスが経済市場に心理的昂揚をもたらしたあと、実質が伴わないことに失望して投資家たちが立ち去ってしまった場合、 … Continue reading

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輝かしいもの、あるいは「終わりのない世界」の凡庸さについて

1 モダンダンスだけではなくて、この頃は、バレエの演目でもオムニバスになっているときは、いくつかモダンダンスがはいることが多くなった。 プリマ・バレリーナは、現代風な「色物」は踊らないが、若いバレリーナたちが、ダンスそのもの、自分の肉体の動きそのものを楽しむように踊るのは、見ていても気持ちがいい。 アオテアセンターの「五つのバレエからなるオムニバス」の3番目は、今回は、ベッドのマットレス一枚を小道具にして、男3人と女1人がさまざまな性行為の暗喩に満ちたダンスで、なかでも男2人と女1人、男ばかり3人の3Pの暗示は批評家たちの眉を顰めさせたが、いまさら眉を顰めてみせることもない、全裸に近い姿で踊るステージも多くなったいまのタブーが失われたモダンダンスの世界ではコミカルで、おもしろかったと思う。 もともとが筋肉と肉体、跳躍、リズミックに跳ねる五体の誇示であるバレエやダンスで、裸体の露出が多くなってゆくのは、当然といえば当然で、抑制と定型があるかないかの違いだけで、チェルシーのダンサーたちがよく表現するようなエロスの塊であっても、不思議も驚くべきこともなにもない。 ダンサーたちの肉体は「美しい」というような言葉を遙かに嘲笑って、人間よりは肉体の美によって神に近づいてしまう。 先月、観に行ったモダンダンスでは、後半に近くなって、ダンサーたちがいっせいにクラブダンスを踊り出すところがあったが、ふだん自分たちが踊るダンスをダンサーたちが踊り出すと、センスと能力の差は圧倒的で、 ダンサーたちの笑顔が、「どう?プロのすごさをみたか」と述べているようにみえる。 人間の肉体の美しさは、すべての自然を凌駕して、圧倒的で、肉体の美に較べれば人間の知性など惨めなものだと実感する。 人間は、ものを考えるのには向いていないのだと理解される。 アスペルガー的知性の話の続きをしようと思って日本語ブログに戻ってきたのだが、さっきニューズを観ていたらロビン・ウイリアムズが自殺していて、自殺のニューズはいつもそうだが、なんだか仲間が闘争に敗北して殺されてしまったとでもいうような、いたたまれない、惨めな気持ちがする。 このコメディアンもアスペルガー的な知性の持ち主で、平坦に言葉にはいっていって、ふつうに話すということができない人だった。 少し昂揚して、自分の伝達用の言葉が引き出しから出てこられる定型になって、他人を驚かせるような表現を伴わないと伝達の努力ができない人だった。 鬱病に陥りやすい人であるのを皆が承知していて、見守っていたが、やはりだめだった。 世界じゅうで、「まるでぼくが死んでしまったようだ」と考えた人がたくさんいただろう。 有名な人間が自殺すると報道されるが、無名な人間の自殺はだいたい報道されない。 軽井沢大橋では相変わらず自殺が続いているが、地元の報道機関は申し合わせて報道しないことにしてあると地元の人が述べていた。 自殺にはほかの人間の自殺を呼び寄せる忌まわしい性格があるからで、処置として無理がないことだと思う。 自殺は目にしたり耳にしたりするたびに、自分が少しずつ死んでゆくような嫌な気持ちに襲われる。 自殺するのはひととして弱いからだとか、まして他人の迷惑を考えずに電車に飛び込んだりホテルで縊死するのは許せないと気楽なことを述べる、生きていても死んでいても邪魔なだけのマヌケなひとびとを別にすれば、普通の人間は、みな等しく、自分が少しだけ死んだような気になるのだと思う。 その証拠に、自殺報道を読んだあとでは、世界の色彩が少しだけ褪せて、生きてゆくための意欲は少しだけ摩耗して、世界への希望はまるで自殺した人が渇きに耐えかねて飲んでいってしまったとでもいうように目に見えて減っていく。 呼吸が少しだけ苦しくなって、なんだかいつも酸素が足りないような気がする。 そうして、そうか死んじゃったのかと思って、窓際のカウチに寝転がっていると、突然、涙が出てくる。 一度か二度会っただけでも、まるで自分の胸のなかに、死のせいで、小さな、悪意に満ちた空洞ができてしまったような気がする。 2 二十代前半の友達から手紙が来て、開けてみると、「ぼくは気がついてみると部屋じゅうの家具を壊していて、いつもはそこまでやりはしないのに、椅子の脚を折り、窓ガラスを割って、気がつくと床にうずくまって泣いているんだ。 気がついてみると隣の部屋からも大きな泣き声がするので、行ってみると、母親が泣いている。 どうして泣いているのだろう?と訝しんで、「どうしたの?」と声をかけなくちゃと思って、しばらくして、やっと、ああ、ぼくが原因なんだな、とわかった」と書いている。 あるいは、ビルの上の屋上広告塔へ出て、ウイスキーを飲んで、なんだか何年も訪れたことのない陽気な気持ちがわいてきたので、広告塔の前の、ビルの屋上の縁にでて、二十メートルだかの下を見て、いまここから飛び降りたら楽しい気持ちのまま死ねるな、と愉快な気持ちで考える。 もう努力しなくていいし、もう楽しくもないのに他人と目があって微笑む必要さえないんだ。 幸福でなくていいってのは、ガメ、なんてすばらしいことだろう! と書いてよこす同年齢の友達がいる。 地球は毎日自転して、少しずつ公転して、ちょうど臼が豆をひきつぶすように、個々の人間をひきつぶす音が聞こえるようだ、と思う。 しかも、よくないことに、皆がうすうす気がついてもいるように、生まれてきたことや、人間の一生には、もちろん「意味」などかけらもないので、いま死んでも、二十年後に死んでも、本人にとってすら、たいした違いはないとすべての哲学は教えている。 哲学が、よく観察すると、乱暴にも「人間は、とにかく生き延びる努力をしなくてはならぬ」という意思を公理にしているのは、そうしなければ人間の存在そのものが否定されてしまうからだろう。 だが自殺という行為は、他人を少しだけ殺すという加害性によって、やはり罪であり、エゴイズムであるといわねばならない。 きみには自分を殺す権利はあるが、ぼくを少しだけ殺す権利はありはしない。 そのことを、きみは忘れているのではないか。 3 魂は滅びてもいいが、肉体が滅びるのはたまらない。 … Continue reading

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草の匂いをめざす

若い世代の日本人と50代60代の「勝ち逃げ組」の世代人とを較べると、面白い違いがいろいろある。 初めから言っておくと、英語圏では、日本のようにくっきりとした「世代の差」がない。 年をとって脳の活動が衰えてくると、狭量になり、自分自身と自分がやってきたことに対する過剰評価が始まり、(ここは少し日本のひとは違うような気もするが)攻撃的になる。 ただそれは人間の精神活動の興隆と衰退の曲線に沿っていて、どちらかといえば、生物的なもので、経済的な環境によるのか、どういうことなのか、1970年代のどこかくらいを境にして「世代文化」のようなものが異なってみえる日本の社会のようではない。 アメリカならばフラワージェネレーションのような明瞭な「世代」があるが、なんというか意図的人工的な世代なので日本のくっきりとした森林の極相の違いのようなものとは異なる。 日本語ツイッタでは、話してるうちに喧嘩の様相を帯びてくるというのではなしに、いきなり「おまえは問題だ」「言ってることがなっていない」と、ちょうど酔っ払いが居酒屋でからむように突然絡んでくる人がたくさんいるが、気の毒に若いのにそういうことを言ってくるひともいるにしても、たいていは50代60代の人である。 自分が勤めていた会社でもたいして知りもしない若い社員を叱責していたりしたのではないかと思うが、ヘンなひとびとであると思う。 若い世代は、こっちのほうが遙かに正常で、いろいろなものをつくるのが好きらしい。 曲をつくる。 絵を描く。 Flashで動画をつくる。 木箱を組み立ててティッシュペーパーの飾り箱をつくって、綺麗な緑色で塗って、猫の絵を描きこむ。 父親に顔をしかめられながら、大学院での作業が終わると家に駆け戻ってきてプラレールをいそいそを組み立てはじめる。 マッチ棒で一週間ももちそうもない精細な家を組み立てる。 楽器をひとつは持っていて、ときどきヘンな調子外れの音が出て、楽器を弾く手を止めて自分でふきだしている。 気に入ったヌード写真をためつすがめつしながら、現実の人間の身体の質感やディテールを感じさせるように描くにはどうすればいいかを日がな一日考えている。 面白いのは、「勉強」も、その延長にある人がたくさんいて、イラストレーションを描くかわりに素粒子の概念図を書いてみる。 円錐を切って双曲切断面をつくって、それを式で表現してみる。 採集した植物をていねいに彩色した絵にしている。 簡単に言えば手と脳がリニアにつながっている。 脳が手と協同作業をするのに慣れていて、上の世代より教室の天井からふってきた観念からくる破綻が少ないように見える。 日本の教育を傍観していて、もっとも嫌な感じがする部分は「競争者たれ」と言われ続けることであると感じる。 学校の話だけをしているわけではない。 6歳の女の子が、おとなの男に話しかけられる。 道がわからなくて困っている、と言う。 困っているなら、気の毒だから案内してあげるべきだが、ヘンな人もたくさんいるっていうからなあー、と躊躇していると、おとなの男の人は、突然腕をつかんで、さあ、道を教えてといいだす。 パニックになった頭で、おおきい声で叫びだしたところに、若い女の人が血相を変えて走ってきてくれて、男を一喝して、腕を男の手からほどいてくれる。 今日こわいことがあった、と家で述べると、自分の母親なのに「知らない人と口を利いてはいけないとあれほど言ったじゃないの!」と叱責される。 抱擁して、怖かったね、とはなかなか言ってもらえないもののよーです。 もっと、ちゃんとしなさい。 我慢しなさい。 頑張らないと。 日本の子供には常に競争のプレッシャーがかかっている。 兵営のなかで、軍服のたたみ方、銃の分解掃除、食事の時間の短さまで競わされる兵営と日本の学校は、とてもよく似ている。 本を読んだり、ひとと話をしてみたりしても、「いまの学校は違います。あますぎるくらいゆるいんです」というが、気を付けて聴いていると、先生が教壇の上から子供を怒鳴りつけているか、教壇から降りて猫なで声で話しかけているかの違いがあるだけで、教育の基本思想は変わっていない。 「生産性の向上」「機能の上昇」 社会のためのよりよい部品をつくるための教育で、そのせいで、日本の学校の試験は、限りなく工場のQCに似ている。 競争に勝ち、知的な生産性をあげ、脳と身体の機能を向上させて「より効率的な人間」になるためには無駄を捨てなければならないが、無駄を奪ってしまえば子供には何も残らない。 子供は、下校の道から外れて、ずんずん歩みいってゆく、自分より丈の高い雑草が生えた原っぱや、細い用水が流れている森、ショッピングモールの雑踏やタイムアウトのゲームマシンからさえ、おとなが意識して与えることは出来ない「世界の呼吸のリズム」を学んでいる。 雨が降り続いて死ぬほど退屈な午後のあいだじゅう、子供は有り余る時間だけが与えてくれる想像力のなかで、撃墜王になって、三枚翼の赤いホッカーの機首を自分を取り囲んだ5機の、優速なソッピース・キャメルに向け直して、キックターンを繰り返して、一機ずつ撃ち落としてゆく。 … Continue reading

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「美しい国」の祝祭日

1 Thousands of people have come together to demand justice for Alan Turing and recognition of the appalling way he was treated. While Turing was dealt with under the law of the time and we can’t put the clock back, … Continue reading

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English Janglish

1 日本市場でヒットしたのがニュースになっていた、 http://www.thehindu.com/entertainment/english-vinglish-collects-420000-at-the-japanese-box-office/article6272774.ece ので日本でも観た人が多いのだと思うが、 Gauri Shindeの傑作、「English Vinglish」のなかの最も美しいシーンは、主人公に恋心を寄せるMehdi Nebbouのフランス人シェフとSunil Lullaの主人公が(お互いに通じないはずの)フランス語とヒンディ語で「会話」をするところで、判らないはずの言葉をお互いに目をじっと見つめ合いながら懸命に聴き取ろうとする。 もちろん聴き取っても判るわけはないが、それでも、ひとことも洩らさずに真剣に聴き取ろうとする。 映画に出てくる英会話学校のビルがぼくのアパートメントのすぐそばで、なつかしい街頭や地下鉄の駅が出てくるせいもあるが、モニとふたりでGauri Shindeの表現力の豊かさにうっとりしてしまった。 英語ができないせいで家庭内の会話にもついていかれず、知性の勝った娘にバカにされて、ニュージャージーに住む姪の結婚式に出席するために出かけたニューヨークで、内緒のまま四週間の英会話クラスに通い、だんだんと自分が妻として母親として自信がもてないのは周囲が自分に対するrespectをもたず、人間である個人として扱われなくて、ただの母親と妻という「機能」でしかなく、なにをするにもくさされて、誰も励ましてくれたり助けてくれたりしないからだと気が付いてゆく主婦の姿を描く、この映画は言語と伝達の問題についても十分に示唆的で、感動的であると思う。 連合王国で出遭う上流階級のインド人の若い女のひとたちは、イギリス人とまったく変わらない思考をする。 話し方もシティ式というか、「機関銃のような」スピードで、「わたしは自分のキャリア形成以外に何も興味ないの。文句あっか?」な人がおおくて、あらっぽいことをいうと、ウォール街のMBAたちと変わらない。 アメリカの女のひとたちに較べて、英国式に、やや剣呑で、理屈っぽいかなあー、という程度の違いです。 その少し下の中流階級となると、とても面白い。 この映画にも出てくるが、まず家庭のなかの会話が英語である。 「英語ができない祖母」というような人が家庭のなかにいると、その人がいる前でだけ出身地のヒンディ語やベンガル語、タミル語…に変わる。 大企業に勤めていれば、たとえば仕事上ベンガル人と話をしなければならないときは、当然、全員が英語で話す。 映画のなかでも娘が恥ずかしがって母親を他人にあわせないように工夫するところがあるが、インドの社会では「英語ができない」ことは「遅れた人」「劣った人」と見做される。 貧困のイメージとも分かちがたく結びついている。 2 この場面で出てくるような「失礼な店員」は英語圏の都会にはどこにもいる。 マンハッタンはもちろんだが、ロンドンにもオークランドにもいます。 日本では「発音は、そんなに気にしなくていいですから」と英語人たちも日本人に述べているようだが、相手が親身になって耳をそばだてて聞いてくれれば初めて通じるような英語は、20年前と異なって、通じない英語でしかない。 日本式な、カタカナ発音をひきずった英語など、聞きたくない、音が嫌だ、という気持が先に立って、余程必要でなければ、ものの10秒で耳殻の自動シャッターがおりてしまう。 21世紀の英語圏世界の特徴は、観光地や、学校やホームステイというような外国人を「お客さん」とする場所は別にして、「自分達と同じように話せない人間」に苛立ちを隠さない人間がたくさんいることで、実際、ぼくは日本人の女の人が、イライラを隠さない、丁度この動画のアフリカンアメリカンそっくりのサンドイッチ店の店員にカウンターを叩かれて、「はっきり言ってくれないと、食べ物がつくれないでしょう!」と怒鳴られて半ベソをかいていたのを観たことがある。 列の後ろにぼくとふたりで並んでいた従兄弟が店員のアフリカンアメリカンのねーちゃんに、「おい、カスタマーファーストはどこに行ったんだよ。もうちょっとやさしい口の利き方してあげなよ」と言って、そのあとに、ここには書けないチョー下品な冗談を言って店員ねーちゃんを大笑いさせていたので、女の人も落ち着きを取り戻して注文していたが、要するに自分をまったくマヌケ扱いする相手にパニックを起こしていたのだと思われる。 「English Vinglish」の主題のひとつは「respect」で、日本語に訳すと「敬意」になってしまうが、要するに相手のありようをそのまま認めて同じ人間同士としての尊敬をこめた情緒的距離で誰かと接することです。 映画のなかでも妻がつくった菓子のノックアウトなおいしさに、夫が、「きみはお菓子をつくるために生まれてきたような女だ」と述べて、言われた妻のほうは深く傷付くところが出てくる。 家事全般、育児上手や料理の腕前ばかりほめる夫とは離婚するのが最もよいが、それと同じことで、「自分を人間としては認めてくれないのか」と自分の全存在を否定された気持になる。 「わたしは女ではなくて人間なのだ」という女のひとたちの叫び声が社会として聞こえていない社会は、これからの世界で存在をやめるべき社会であるし、いまの時代ではほとんどなくなったが、たとえば、 ぼくの仲のよい友人のテキサス人は「テキサスでクルマを運転しない人間なんていない」というので、彼の会社のマネージャーのガールフレンドの名前をあげて、「あのひとはクルマ運転しないじゃない」と反例を述べたら、「だって、ガメ、あのひとはアジア人じゃないか」と述べて、ぼくに散々からかわれた、そうやって上手に隠しているつもりの人種差別意識が、おもわぬことで顔をのぞかせるように、本人もちゃんとは気づいていない性差別意識が、のぞいて、夫婦同士で会っていて、あとでモニに「あの奥さんかわいそうだね」と述べることがよくある。 3 残念なことに日本は「respect」が存在しない社会で有名で、ひさしぶりに出かけた料理屋で「あら、ガメちゃん、少し顔が年とったんじゃない?」と言われたりして、びっくりすることがあった。 聞いてみると、みな同じ経験があって、ひどい例は、シカゴ人のアフリカンアメリカンの友達が友達であるはずの女のひとに「日焼けしたね」と言われて、殴りたいのを我慢するのがたいへんだった、と述べたりしていた。 日本語インターネットの特徴は、いきなり失礼な態度で話しかけてきたり、中傷を続けたり、ずうううううっっと特定の対象人の悪口を何年もあきずに続けてみたりで、全体として悪意と憎悪に満ち満ちているところで、英語でももちろん同じようなマヌケはたくさん存在して、特に匿名のコメントのようなものには、日本風な憎悪の呪詛がよくあるが、しかし誰かが「うるさいな、きみ、悪意しかないんだったら黙ってなよ」と必ず述べたりするところと、なによりも悪意と憎悪の言葉を吐き続ける人間の数が、その文字通り桁違いにおおきな割合によって言葉が交わされる日本語世界を、圧倒的な量によって他の言語とは質的に異なるものに変えてしまうほどおおきい点で、根本から異なる。 日本語は憎悪語と化していて、美しさのかけらもない言語になってしまっている。 … Continue reading

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