書きかけの日本

se (41)

日本の社会の良いところは「他の社会と異なる」ところであると思う。
上海で先生をしているE(UK人・女)などは、「中国のほうが、ぜんっぜんおもろいぞ、ガメ。中国語勉強しろ」というが、東アジアの言葉をふたつもおぼえるのは、なんだかやりすぎなような気がするし、第一、億劫な気がする。
日本は子供の時に住んでいたことがあるので、そのせいかも知れないが、なんとなく馴染みがある感じがするのでもある。

膨大な予算を用意して、世界じゅうに孔子学院を建設したり、エンターテインメント事業に巨額の投資をして「中国」を強力にプロモートする知恵がある中国政府に較べて、日本政府は日本について勉強するひとびとのあいだでは有名なドケチで、80年代にニュージーランドやオーストラリアで、国策として第一外国語に日本語を導入しようとしたときも、「しっかり日本の良いところを学ぶんだぞ。オカネは出さないけど」という態度だった。
日本語や日本文化を実際に手助けして、いまの田舎のエリアスクールにさえ日本語の教師がいる状態をつくりあげたのは右翼の競艇王笹川良一
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/03/08/奇妙な友人/

の笹川財団で、日本政府は、結局「ジャパンデー」に着物を着たおばちゃんをならべて、なんだかよくわからない「生け花パフォーマンス」をやるくらいを「国際親善」だと思っていたよーでした。

こういう事情は他の国も同じで、日本のバブル経済全盛期に、ハーバード大学構内でゆいいつ雨漏りがする教室でジャパノロジストたちがいかにビンボと戦いながら日本研究をすすめていたかは一種の伝説になっている。
他国文明の研究者達がそれぞれ、各国政府の潤沢な支援をうけているのを横目にみながら、辞を低くして日本政府にお願いしてもダメで、たしかソニーの井深大だか誰だったかが訪ねてきたときに、あまりのひどさにぶっくらこいて、ポケットマネーで寄附してやっとなおった、とか、そんな話ではなかったろうか。

ぼくが子供の頃は「凡人社」という外国語としての日本語を専門に扱っている出版社があって、(と書いていま念のためにみたら、いまでも有った。ごめんなさい)Mangajin
http://en.wikipedia.org/wiki/Mangajin

という雑誌もあったりして、外国語としての日本語はそれなりに「盛り上がって」いた。

情報将校としての特訓を基礎として、戦場で職業上あつめて解読した日本兵士の手紙の切なさ、ほんの下町庶民や貧しい農民兵の思索の深さ、情緒の美しさに惹かれてジャパノロジストの道を選択したドナルド・キーンたちの「太平洋戦争世代」を草分けとして、景気の良い日本での就職を夢見て高校・大学で日本語を選択した80年代の第2世代、いまは、ドラゴンボール世代を親にもって、ポケモンやジブリ・ハラジュクガールズで育った第3世代の終わりにあたる。
レミュエラの家からクルマで15分くらい行ったところにASBショーグラウンドというおおきなフェスティバルやサーカス、ショーが毎週のように行われるところがあるが、ここでヲタクの一大イベント「Armageddon」も開かれる。
http://armageddonexpo.com/nz/

開催期間中に通りかかると、百キャラ夜行というか、マントをひきずってとんがり帽子をかぶっているチビや、アイアンマンの扮装の高校生とかがぞろぞろと会場めざして歩いていておもろいが、この数年、日本のアニメキャラの扮装は目立って減って、いわゆる「アメコミキャラ」になっている。

もともと日本で言われる「ニホンアニメブーム」とは異なって、フランスなどは少し事情が違ってやや広く受けいれられているが、英語圏ではアニメはジブリのアニメとドラゴンボール+ドラゴンボールZが人気があるだけで、そこから先へ行くのは学校でいじめられているような「ヘンなやつ」の逃避先として日本のアニメは存在していた。
マンガはもっと広汎で、2010年だったか、ひさしぶりにマンハッタンのユニオンスクエアにあったBorders(2011年に閉店してしまったが)の二階にW.H.Audenの評論集を買おうとおもってエスカレーターをあがっていったら、フロア全部がマンガになっていて、どひゃあ、と思ったことがあった。
いろいろなものが出ていて、読む層も、オトナはあまり読まないが、高校生や小学生、読まれるマンガもさまざまで、たくさんは売れないけど、出せば少しだけは利益が出る、というような感じの書籍だと思う。

それから、もちろん、日本といえば日本食で、日本マンガやアニメのような表層的で部分的な「カルト」人気とは異なって、こちらはブームというような時期は終わって、社会の生活習慣に定着して、ラーメンに行列するのはニューヨーカーの日常の一部になり、現に、ぼくがいちばん好きな蕎麦屋は、一軒は東京で、一軒は東信だが、もう一軒はイーストヴィレッジにある。

BentoやDonburiは、とっくの昔に英語になっていて、たいてい韓国のひとびとのビジネスだが、どの英語国のどんな町にもチェーン店が存在する。
http://en.wikipedia.org/wiki/Bento

http://www.katsubi.co.nz

2014年は「Udon」と「Sake Bar」が流行だそうだが、一方では、どんどんローカライズもすすんでいて、日本食ローカライズの嚆矢、60年代にアメリカで出来たCalifornia rollとTeppan-yaki
http://en.wikipedia.org/wiki/California_roll
http://en.wikipedia.org/wiki/Teppanyaki
よりも日本料理についての知識が深まっただけローカライズのやりかたが大胆で、
たとえばスペインのグラシアで食べたフォアグラいりの味噌汁(Sopa de Miso con Fougera)は、ものすごくおいしかった。

日本についての一般的なイメージは、マンガを描くのが上手で、50年代から延々と続いた、着ぐるみの、なんだかチャチだけど猛烈に魅力的なモンスタームービーをいっぱい量産して、テレビ番組(ハンバーガー屋やバーのテレビでよく流れている)で熱湯にとびこんで火傷したり、宮崎駿という「どうしてこれがアニメで出来るのだろう?」と思う、もう「アニメ」というようなものとは質的に隔絶した世界をスクリーンの上に構築したじーちゃんが生まれて育った国であり、社会の巨大な抑圧が生んだハラジュクガールズの色彩の感覚があって、草間弥生やYoshitomo Naraがある。
日本といえばトヨタとソニーだった時代が終わって、たとえば、ごくふつーのイタリア人の若い女の人と話していても「私は吉本ばななが大好き」という。

年寄り達の頭のなかでは「アジアの国のなかではいちばんマシなほう」だったのが若い人の頭のなかでは「自分達と異なるけど面白い」というところまで急速なスピードでやってきたのは、やはりインターネットの力がおおきかったように見えます。

ネガティブなほうは、捕鯨がいちばんで、オーストラリア人やニュージーランド人は、もう我慢の限界に達している。
国際司法裁判所の裁定にも従う意志がないのが明かになったので、日本の「法律なんかしるか」という姿勢をみて、英語フォーラムで観ていても、かなり乱暴な発言が目立つようになった。
英語は日本語に較べると遙かに表現が控えめな世界なので、日本人には聞かせられないような言葉が交わされるようになった現状は、日本人にとってたいへん危険だと感じる。
ニュージーランドでも日本の12歳くらいに見える未成年の女の子が性行為をしている「二次元」画像をダウンロードして逮捕されたおっちゃんがいたが、90年代初めに盛んに討議された「日本アニメの違法化」というほうに進まずに、やっぱり表現の自由との関連で拙いよねー、ということになって、主に娘や息子をもつ父親や母親の激しい怒りの声を聞いて、ほぼ自動的に、社会として忌避されるようになった。
それとともに「目がおおきい」アニメやマンガ全体が十代の人間のあいだでも急速に人気を失ったのは、日本の人の立場に立てば残念だが、仕方がなかったでしょう。
日本では社会的な地位のある人間でも、ああいうマンガみるのよ、というと、ふかいふかいふかあああああーい軽蔑の表情で、くびをふっているが、捕鯨と同じで、永遠にうまらない溝で、西洋側は、日本の男は薄気味のわるい性的ヘンタイの集団だというイメージをどんどん膨らませて、日本の男の側が、そんなのおまえらの傲慢ではないか、日本では女もそれで満足しているし、おれたちの勝手だ、他人の社会に口をだすな、と怒りつづけて最後までゆくだろう。

日本のイメージがここ数年で急速に向上した最もおおきな理由はしかし、日本から移住してくる二十代三十代の若い人たちに気持の良いひとたちが多くて、皆が、それまでのいかにも旧来の日本人イメージの、横柄で他人の話なんか全然聞かなくて「日本」の話ばかりしたがる奇妙な人々とは明らかに異なる「日本人」だからだと思う。

英語人はよく「ヨシは、ときどき何を言ってるか全然わからないのが難点だが、いいやつだ」というような酷い冗談をいうが、そういうときでも、なんだかおだやかに微笑っていて、いいな、このひと、と思う。

福島事故の後処理の酷い実体がだんだんばれてきたり、安倍政権が明瞭に打ち出した全体主義化は、こういうことが広まるのには時間がかかるので、ちょうど5年くらいもすると「世界が日本に対して持つイメージ」に影響して、また日本人のイメージは全体としては低下してゆくだろうが、いまの世界では国籍はおろか文化集団としてもまとめて考えるのが億劫になってきているので、案外、たいした影響はないのかも知れないと思う事があります。

イギリス人は、むかしから他国民に嫌われることになれているというか、もう国民として悪口を言われ続けすぎて不感症というか、日本では「親日」「反日」が相変わらず喧しいが、「親英」的なことでも言われた日には、はて、この人は何をたくらんでいるのだろうか、と考えるほど、他国民が「反英」なのは当たり前で、そんなこといまさらゆってるとかアホちゃうか、と考える。

日本の人は他人の目がとても気になるほうなので、そういうチョー図々しい態度は無理だろうが、それでもひとりひとりが個人になって、日本という「全体」から個人として自分に射している影をぬぐいさって、身軽になれば、それは相手にも伝わって、日本人であるよりは、亀夫なら亀夫で、ただの個人として認識されていく。
同じ東アジア人でいえば、中国の人たちは皆ずっと、そうやって生きてきたので、
どんなに中国人の評判がわるくなっても、劉さんがいつも頭の回転が速くて底抜けに親切な「John」で、ときどき、そういえばあのひとは中国人だったな、という程度なのは、個人としてのジョンさんのほうが、中国人の属性を帯びたジョンさんよりも圧倒的な存在感があるからです。

多分、日本の人もそうなってゆくのだけど。
いや、そうなっていかなければならないのだけど。

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2 Responses to 書きかけの日本

  1. 捕鯨について、「日本人は鯨を食べなければならない」とは思わない。
    昔、学校給食で出た鯨は到底、おいしいといったものではなかった。
    でも、鯨が食べる海洋生物の量は、人間の食べる海洋生物の量の3倍近くあり、
    鯨を害獣として駆除すれば、人間の取り分が増えるだろう、という説は科学的だと感じる。
    特に、人間と競合するのはミンククジラだという説を聞く。
    「鯨を駆除してしまったら、生態系の維持が難しくなる」という説もあるが、
    もともと、食物連鎖ピラミッドのどこかに人間も割り込ませてもらうしかない。
    人間と競合する生物には、害獣、害虫、雑草、病原菌などと名前をつけて、
    駆除したりして、席を分けてもらうしかない。
    「単純に殺すだけでは、無駄が多いから、駆除した生物も食べるなど
     できる限りの再利用をしてやるのが、人間以外の自然への遠慮、供養というものだ」
    というのが日本人の感覚に近いと思う。
    人間が増えれば、人間を通過しなければならないエネルギー流量も増えるから、
    食物連鎖ピラミッドのより低いところに人間が割り込ませてもらうしかない。
    人間がいなくなったあとの食物連鎖ピラミッドの安定にそんなに気は配れないが、
    せめて人間にかかわった作物に子孫を残せる能力は残してやろうという配慮が、
    「種の成らぬ実は不吉」とか「種供養」で、
    人間がいなくなったあとに元の自然が回復しやすくしてやろうという配慮が
    人間が手を加えない自然を残す聖域である「神社」ということだろう。
    でも、日本が鯨に関して置かれている立場は、
    まるで、異端尋問にかけられた地動説に近いと思う。
    「それでも捕鯨は必要だ」と言えば処刑されそうな流れかもしれない。
    アメリカで進化論が異端な学説とされている点でも、
    「果たして、人間は利口になっているのだろうか?」と思う。
    進化論の言っていることは、
    「増えやすいもの、残りやすいものが、多く残ります。
     だから、現在の世界で残っているものは、たいていは増えやすいものや残りやすいものです。
     生物の世界でも同じようなことがあるでしょう」
    と言っているだけで、極めて自然に感じる。
    人間が社会を形成するようになってから、人間は社会に依存してしか生きられなくなり
    個人で自律的に生きられる能力をどんどん失ってきているのかもしれない。
    そういった流れへの時々の反発が、いろいろな宗教や芸術を作り出しているのかもしれないと感じる。
    人間を爆弾代わりになるように教育する宗教が膨らんでゆくのをニュースなどで聞くと、
    「人間など、宗教の駒でしかなく、
    何も考えられずに、食欲と性欲で増えてゆくだけの生物に
    人間も回帰して行くのだろうか?」などと感じる。

  2. satoshi440 says:

    外国人の人と普通に接し出すと、国籍なんてあまり気にならなくなっていくのは本当にそうだなと思います。僕がこの前までいた環境は中国の人が多くて、普通に接する機会を持ちました。この人はどうも僕には合わないなという人もいれば、本当に大事な友達も出来たりしました。中国で通訳の仕事をしていた女の子はあまりに自然な関西弁で、日本人の友達の女の子と話しているような感覚になって驚いてしまいました。なんでも関西出身の女性のかたについていたそう。いつか中国語でも話したいな~っ。

    ガメさんは日本語をやってもいいことがないと言っていたが、日本人の僕にとってはいい事づくめである。違う視点で日本を見られたこと、いろいろな言語をそんなふうに楽しめるのだと知ったことなどなど。今は暇を活かして、スペイン語を楽しんでいます。始めたばっかりだけど。

    ガメさんが悪態をつく人たちに嫌気がさして日本語をやめようかなという話をきいて、ほかの人たちと同じように「げえええええ」と思った。ガメさんはどうしてあんな人たちを黙らせないのかとポツリと言っていて、僕もよくわからない人たちの行動で大事なものを失うのは嫌で「何しとるんじゃー」と思ったけれど、その行動をとるのがなんだか怖い。情けない。前にも歴史認識を話してくれる人が、事情はわからないけれど鍵をしてしまっているのを目にしました。この前ガメさんが少し話していたwhisperを使ってみると、仕様もあるのだろうけれど日本語世界とは使われ方がまるで違っていて笑ってしまいました。whisperで見た世界はみんながピクニックに行っているような感覚でした。

    PS 一週間前くらいに書いたコメントはもしかしたら送れてなかったかな、自分で書いただけで満足してしまったのでそれはそれでいいのだけれど。

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