「美しい国」の祝祭日

se (44)

Thousands of people have come together to demand justice for Alan Turing and recognition of the appalling way he was treated. While Turing was dealt with under the law of the time and we can’t put the clock back, his treatment was of course utterly unfair and I am pleased to have the chance to say how deeply sorry I and we all are for what happened to him … So on behalf of the British government, and all those who live freely thanks to Alan’s work I am very proud to say: we’re sorry, you deserved so much better.

当時の首相ゴードン・ブラウンが、社会によって自殺に追い込まれたアラン・チューリングに政府として謝罪したのは、2009年のことだった。
天才的な数学・論理学者でコンピュータがまだ存在しない時代の計算機科学者だったチューリングが
社会的な集団サディズムの標的になって、恥辱と失意のなかで自殺した1954年から数えて55年後の、途方もなくマヌケで残忍な社会を育んでしまった連合王国からチューリングの魂に対してなされた、心からの謝意の表明です。

理研スキャンダルが起きた頃の自分のtwitterのタイムラインを眺めてみると、「みしょどん」と「もじん」さんが発言しているだけで、他の人はなにも言っていない。
ときどき誰かが、やっぱりこんな集団で非難の合唱をするのはヘンなのではないか、と遠慮がちに述べたりしているだけで、発言がない。

みしょどんは物理研究者で、もじんどんは天文研究者なので、あたりまえというか、自分が否でも応でも所属している科学コミュニティの問題なので、発言しないのは無責任というか、やや無関心すぎて、発言しないほうがヘンである。

他のひとびとは、いいたいことがたくさんあったのだとおもうが、なんとなく言わないようにしていた。
言わないようにしていた、と本人の気持ちにはいりこんで述べるのはなぜかというと、emailのようなものではいくつか来て、ここで具体的な内容は書かないが、ひどいものだ、とか理研の組織としての以前からの評判、というようなものにまで踏み込んで書いてあった。
人文系アカデミアの世界の人で言えば、学問人同士のことなので、ふつうの人よりは遙かに内情もしっているが、ここで科学コミュニティの問題について口をはさむのはカッコワルイということなのでしょう。

笹井芳樹が自殺に追い込まれたあと、笹井芳樹さんに限らず、誰かの自殺の報道を目にしたときの、あのなんともいわれないやりきれなさ、ぬぐいがたい惨めさ、自分の魂が凍り付いていくような気持がこみあげてきて、気持の処理に困った。
twitterで、「なんという気の毒さだろう、どれほど孤独で、辛かったか」という意味のことを書いたら、「それは気持の持っていきかたが間違っている。もっと笹井芳樹を殺した社会の構造や理研をめぐる腐敗に目を向けなければダメだ」という親切な忠告がいくつか来た。
前に、やはり自殺者がでたときも、「そんなお嬢ちゃんみたいなこと言ってバカなのではないかwww」という反応が、たくさん来ていたので、予想していたことで、反応自体はどうでもいいと思ってほうっておいた。
社会的正義や政治について深刻な顔で語るのが大好きなひとびとと、世界への関心のありかたが根本的に異なる、としか言いようがない。

日本では集団的サディストが個人をつるしあげて自殺に追い込むのは、ありふれたことなんだから、そっちは仕方がない、という人も来た。
応えようがないので、応えずに、
「涙がでる」
と書いたら、
また異なる人から「年をとると涙腺がゆるくなりますねw」と言う反応がかえってきた。

ついに笹井芳樹を自殺させる事に成功して凱歌をあげる集団的サディストたちにあまりに腹が立ったので、
感心したことではないが、
「いくら何でも気の毒である。
きみたち、みんな人殺しじゃないか。
呪われればいい。」
と書いたら、

みなというのは日本人全体という意味ですか?「感情が落ち着いたら」答えてください。
という相手を傷つける皮肉に長けた人間らしいコメントが見知らぬ人から戻ってきた。

誰ももう自殺してしまった研究者個人の心には興味がないようだった。
死ぬほどのことではなかったのに、というつぶやきがあちこちでもれていた。
研究者になるような人間は、やっぱり弱い人間がおおいんだな。

「これで小保方も追い詰められたな。
笹井芳樹とは違って、女は強いもんだ」という声があちこちで木霊していた。

自殺した人間の個人としての心情が想像力の橋をつたって自分の魂にはいりこんでこない人間が「社会の構造」を考えることに、どんな意味があるか、ぼくには判らない。
ぼくには判らないが、最近、日本の社会はどうやら以前に考えていたよりも遙かに理解を越える、想像を絶した社会なのが理解されてきたので、なんだか、どうでもいいような気もする。

ガメ、どうした?
また日本語の世界で嫌なものを見たのか?とモニがいうので、簡単に説明したら、
まるで子供をなぐさめるように腕を肩にまわして、まだ説明しようとするぼくの唇を指で押さえて「シィィー」という。
まるまる二分くらいも、そうして抱擁を続けてから、そろそろ日本語の時間、へらしたほうがいいかも知れないぞ、と述べて、部屋から去って行った。

日本語をつたって日本社会が自分に影響するということがありうるだろうか?
としばらく考えたが、モニが一緒に遊ぼう、というので、ラウンジで、暖炉に火をいれて、ふたりで冷凍庫からとりだしたウォッカやブランデーで、朝の2時くらいまで遊んでいた。
前にも述べたことがあるが、異なる言語は異なる人格、あるいは異なる人格と錯覚するような自分をもたらす。
フランス語は、音楽のようで、端正で、安物の感情をはねつける力をもっていて、なぜモニが、その晩に、ひとことも英語を口にしないか判るような気がした。

ぐっすり眠って、起きてみると、日課の日本語インターネットを開いて日本語を見ても、ずいぶん遠くの国の言葉に感じられた。
結局、日本は遠い国で、日本語は自分にとっては、外国語にしかすぎないんだな、と、あらためて考えました。

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7 Responses to 「美しい国」の祝祭日

  1. miusyier says:

    報道を耳にしたのはちょうど勤務先で資料を作っている最中で、周りの人たちはいろんな感想を口にしていたけど、私はびっくりして悲しくて何も言えないままで、そのときの気持ちがまだ行き先を失ったまま意識の奥をうろうろしています。

    アカデミアのご近所みたいなところで10年くらい働いていますが、働き始めていちばん驚いたのは罵倒や嫌がらせが日常的に横行していることでした。その10年はちょうどSNSの普及と重なる時期で、誰かを追い詰める手口がネットでも現実でも全く同じなのを見続けたり、現実世界で自分も巻き込まれたりしているうちに、悪意についてとても多くを学ぶことになりました。

    だから、ネットの集団サディズムは社会の特殊な一部だという見方には私も与しません。あれが一部だというのは強い立場にいて運良く被害に遭わなかっただけの人たちの想像力を欠いた勝手な言い分でしかないと思います。

    自分の経験の中でいちばんひどかった出来事は、悪意の矛先がこちらを向いてつらくて怖くてもうこれ以上ここでは働けないと思ったとき、周囲の人たちは誰もそれを理解しようとしてくれなかったことです。そんなことがあるはずはない、そんなことを気に病むのは弱いからだ、適応しろと、私を愛してくれているはずの人たちまで否定の言葉しか口にしなかった。

    そのときはしばらく後で運良く状況が変わったけれど、次はいつ同じことが起きるんだろう、とおびえる気持ちはたぶんこれからもずっと消えることはないんだろうなと思います。

    そのときの自分にも肩を抱いて一緒にいてくれる人が一人でもいればよかったけれど、でもそうじゃなかった、自分の味方は自分一人しかいなくて、手持ちのものすべてをかき集めて先が見えない状況で何とか持ちこたえるしかなかった、そういうことをニュースに重ね合わせて見るのをどうしても止められませんでした。

    自分に起きた出来事がメディアで放送される社会の悲惨と地続きだと気づくまでにずいぶんと長い時間がかかりました。ガメさんの文章に出会っていなかったら、まだ気づかないままでいたのかもしれません。

  2. brainseceartdubh says:

    はじめて書き込みます。

    本当に悲しい結果になってしまいました。私もこのような集団による心理的苛めは、残念ながら日本社会一般の特徴だと思っています。有名な人の自殺はもちろん、同じ集団による心理的苛めによる小中学生の自殺も痛ましいことです。

    ここ23年間、普段は英語世界にどっぷり浸かっていて、日本語はネット、それもツイッターだけというのはガメさんと同様です。住んでいた頃、日本について感じていたことを忘れかけて、それこそ「ふるさとは遠くにありて思うもの」だったけれど、日本語ツイッターから感じ取れる日本はなんだかますます修羅場のようです。日本がいつか英国のように過去の償いができる国になるかどうか判りませんが、そうなることを祈っています。

    また、miusyierさんのコメントを拝読し、もう忘れかけていた、日本を離れる直前までの、色々と独りでもがき苦しんでいた自分を思い出しました。もう後一歩で自殺するところだった。けれども何とか生きてmiusyierさん、お辛かったとお察ししますが、その時期に何とか耐えられて生きておられることが嬉しいです。

    ガメさん、素敵なエントリーをありがとうございました。

  3. masako says:

    ガメさん。
    かなしいね。
    でも書いてくれてありがとう。
    他人にすぐKYとか言うのに、誰が痛かったかもとか悲しかったかもとか全然感じないで薀蓄だけ言う人達の分まで泣いてくれてありがとう。
    確かミントさんが「優秀な人だったから、死んでは困るのか?どんな人だったとしても、死んではいけないんだ。」という意味のツイートをされていましたが、ガメさんのツイートとミントさんのツイートで、以前、「自己責任」の名のもとに息子さんが殺されたのに「お騒がせしました。」と世間に謝ったお父さんの事も思い出しました。
    その人本人の痛みも家族の痛みも想像できないほど、「社会の空気」やそれを読むことが大切なんだろうか。皆(誰を指すのかわからないけど)が正義だということについて行けば、人が死んでも死ぬほど苦しんでも、その人が「社会正義(そんなものが存在するなら)」に反していたら、仕方ないのか?
    考えれば考えるほど、辛くなるので、ガメさんが日本語世界を嫌になってしまっても仕方ないと思いました。
    私は、今日本の国外にいて、あの「空気」の中にいないけれども旅の終わりに戻ったら、「空気」で窒息するかもしれない。

    最後に、笹井さんの事を日本語の記事で読んだ時は、ただただ辛かったのですが、英語の記事を読んだら、兎に角悲しくなって泣けてきてしまった。この感情の違いは何故起こったんだろうと自問している事、又、この記事の冒頭の英語の演説のrespectに満ちた美しさに、同じ事を日本語でするのは難しいとさみしくなった事も付け加えておきます。

  4. bollinger says:

    はじめまして。

    私は10年以上前に自殺未遂をしました。大怪我を負いましたが、幸か不幸かこの世に命が残り辛うじて生きながらえています。自殺に追いやられた笹井氏の心情は察するに余りあります。また自殺者を醸成する日本社会独特の雰囲気にも言いたい事が山ほどありますが多くを語るつもりにもなれません。

    日本の自殺者は年間約3万人、4000人に1人が自殺します。私の住む人口50万の都市では年間125人が自殺する計算になります。実に驚きです。私の市では週に2人以上の人が自殺しているのです。拳銃の発砲による事件は滅多になく安全だと言われる日本ですが、代わりに日中聞くパトカーや救急車のサイレンの音が自殺者によるものなのかと思うといたたまれなくなります。

    私は財産作って海外に出たいと願う気持ちがあります。日本での出来事が自分とは関係のない遠い所での出来事にならないかなあ、とつい思ってしまいます。その「無関心さ」こそが自殺者を醸成する日本の空気そのものなのですが…

    なぜでしょうか、海外にお住まいであったり自殺寸前であった皆さんのコメントがひどく印象的で共感しました。

  5. parsley says:

    今日初めてあなたのブログを知りましたが、
    あなたのように、一人一人の心に寄り添う人が居て、救われるような気持ちです。

  6. mint says:

    ただ、死者を悼む

    (masakoさんのコメントに寄せて)

    ただ、死者を悼む。それだけのことができない。
    ニュースで、だれかが殺害されたりすると、すぐに記者が被害者の知り合いや近所の人にインタビューして回る。
    「あんな良い人が・・・」
    「明るくて、かわいい子でした」
    こういうインタビューを聞くたびに、私の心の中はモヤモヤした気持ちでいっぱいになる。
    良い人だったから悼むのか?もし、その人が良い人じゃなかったら?もし、その子が明るくてかわいい子じゃなかったら?
    それでは、「良い人だった」と言ってはいけないのか、と言われるかもしれないが、もちろん、そういう意味ではない。じゃあ、どうすればいいのか、と聞かれても、私にもよくわからないのだけれど、たとえどんな人だったとしても、ただ、その死を悼むような人間でありたい、としか答えられない。

    • masako says:

      ミントさん。

      お返事しようとして久しぶりにPCでがめさんのブログを開けたら、たくさんの人の言葉の海に沈みそうにも流されそうにもなりました。言葉が多ければもっと伝わるわけでもないし、言葉が少ないから伝わらないわけでもない。

      誰かがなくなった時、「良い人だった」から悼むのか。
      それとも、「誰でも誰かの大切な人だった」から。などと優等生的な理由で悼むのか。こういうと今度は、「優等生的」ではいけないのか、どうしてそう感じるのか、という話になるのか。
      今の私には、たくさんの言葉を使う事が、たくさんの言葉を使う事だけが、自分の気持ちを表す手段だとは思わない。

      だから、ミントさんの、「たとえどんな人だったとしても、ただ、その死を悼むような人間でありたい」という思いに私もそう感じる、としか言えません。(そう感じたから、コメントでミントさんのツイートに触れたので)

      でももちろん、ミントさんと言葉を交わすのは、とても気持ちがいい。
      いつかどこかの地平線が見える原っぱで、のんびり座ってゆっくり話したい。
      夕日の色を一緒にみているだけでもいいな。

      ミントさん、ありがとう。
      ガメさんもありがとう。この場がある事、感謝しています。

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