草の匂いをめざす

se (45)

若い世代の日本人と50代60代の「勝ち逃げ組」の世代人とを較べると、面白い違いがいろいろある。
初めから言っておくと、英語圏では、日本のようにくっきりとした「世代の差」がない。
年をとって脳の活動が衰えてくると、狭量になり、自分自身と自分がやってきたことに対する過剰評価が始まり、(ここは少し日本のひとは違うような気もするが)攻撃的になる。
ただそれは人間の精神活動の興隆と衰退の曲線に沿っていて、どちらかといえば、生物的なもので、経済的な環境によるのか、どういうことなのか、1970年代のどこかくらいを境にして「世代文化」のようなものが異なってみえる日本の社会のようではない。
アメリカならばフラワージェネレーションのような明瞭な「世代」があるが、なんというか意図的人工的な世代なので日本のくっきりとした森林の極相の違いのようなものとは異なる。

日本語ツイッタでは、話してるうちに喧嘩の様相を帯びてくるというのではなしに、いきなり「おまえは問題だ」「言ってることがなっていない」と、ちょうど酔っ払いが居酒屋でからむように突然絡んでくる人がたくさんいるが、気の毒に若いのにそういうことを言ってくるひともいるにしても、たいていは50代60代の人である。
自分が勤めていた会社でもたいして知りもしない若い社員を叱責していたりしたのではないかと思うが、ヘンなひとびとであると思う。

若い世代は、こっちのほうが遙かに正常で、いろいろなものをつくるのが好きらしい。
曲をつくる。
絵を描く。
Flashで動画をつくる。
木箱を組み立ててティッシュペーパーの飾り箱をつくって、綺麗な緑色で塗って、猫の絵を描きこむ。
父親に顔をしかめられながら、大学院での作業が終わると家に駆け戻ってきてプラレールをいそいそを組み立てはじめる。

マッチ棒で一週間ももちそうもない精細な家を組み立てる。
楽器をひとつは持っていて、ときどきヘンな調子外れの音が出て、楽器を弾く手を止めて自分でふきだしている。
気に入ったヌード写真をためつすがめつしながら、現実の人間の身体の質感やディテールを感じさせるように描くにはどうすればいいかを日がな一日考えている。

面白いのは、「勉強」も、その延長にある人がたくさんいて、イラストレーションを描くかわりに素粒子の概念図を書いてみる。
円錐を切って双曲切断面をつくって、それを式で表現してみる。
採集した植物をていねいに彩色した絵にしている。

簡単に言えば手と脳がリニアにつながっている。
脳が手と協同作業をするのに慣れていて、上の世代より教室の天井からふってきた観念からくる破綻が少ないように見える。

日本の教育を傍観していて、もっとも嫌な感じがする部分は「競争者たれ」と言われ続けることであると感じる。
学校の話だけをしているわけではない。
6歳の女の子が、おとなの男に話しかけられる。
道がわからなくて困っている、と言う。
困っているなら、気の毒だから案内してあげるべきだが、ヘンな人もたくさんいるっていうからなあー、と躊躇していると、おとなの男の人は、突然腕をつかんで、さあ、道を教えてといいだす。
パニックになった頭で、おおきい声で叫びだしたところに、若い女の人が血相を変えて走ってきてくれて、男を一喝して、腕を男の手からほどいてくれる。
今日こわいことがあった、と家で述べると、自分の母親なのに「知らない人と口を利いてはいけないとあれほど言ったじゃないの!」と叱責される。
抱擁して、怖かったね、とはなかなか言ってもらえないもののよーです。

もっと、ちゃんとしなさい。
我慢しなさい。
頑張らないと。
日本の子供には常に競争のプレッシャーがかかっている。
兵営のなかで、軍服のたたみ方、銃の分解掃除、食事の時間の短さまで競わされる兵営と日本の学校は、とてもよく似ている。
本を読んだり、ひとと話をしてみたりしても、「いまの学校は違います。あますぎるくらいゆるいんです」というが、気を付けて聴いていると、先生が教壇の上から子供を怒鳴りつけているか、教壇から降りて猫なで声で話しかけているかの違いがあるだけで、教育の基本思想は変わっていない。
「生産性の向上」「機能の上昇」
社会のためのよりよい部品をつくるための教育で、そのせいで、日本の学校の試験は、限りなく工場のQCに似ている。

競争に勝ち、知的な生産性をあげ、脳と身体の機能を向上させて「より効率的な人間」になるためには無駄を捨てなければならないが、無駄を奪ってしまえば子供には何も残らない。

子供は、下校の道から外れて、ずんずん歩みいってゆく、自分より丈の高い雑草が生えた原っぱや、細い用水が流れている森、ショッピングモールの雑踏やタイムアウトのゲームマシンからさえ、おとなが意識して与えることは出来ない「世界の呼吸のリズム」を学んでいる。
雨が降り続いて死ぬほど退屈な午後のあいだじゅう、子供は有り余る時間だけが与えてくれる想像力のなかで、撃墜王になって、三枚翼の赤いホッカーの機首を自分を取り囲んだ5機の、優速なソッピース・キャメルに向け直して、キックターンを繰り返して、一機ずつ撃ち落としてゆく。
あるいはシーツのあいだの暗闇のなかで、次から次に襲いかかる爆雷に脅かされながら、どうやったら、この二隻の駆逐艦にはさまれた窮地から脱出できるかを必死に考えている。

子供は、また、大量の時間がある部屋や、野原では、脳が主導する時間の過ごし方よりも手が主導する時間のほうが遙かに短く感じることを経験的に学習する。
手が脳とつながって、なめらかに協調しはじめると、素晴らしい昂揚があることをトゥリーハウスの室内でターザンになるためのロープを編みながら実感する。

楽器から始まって、クレヨン、粘土、ひとりではやらせてもらえないので待ちに待った父親が家にいる土曜日と日曜日には、ノコギリをもち、ハンマーで釘を叩いて、花棚をつくる。スタジオの壁を動かして、防音材を貼ってドラムをたたきまくっても誰にも聞こえない音楽スタジオをつくる。
芝刈り機のエンジンのコードをおもいきり引いてエンジンを始動させて、あの途方もなく良い匂いの刈られたばかりの芝草の匂いを鼻腔いっぱに吸い込みながら、宇宙と直截つながっている子供の姿で、太陽の光のなかに立っている。

子供は莫大な無駄な時間、無駄な想像力、無駄な行動のなかから、少しずつ生産性を身につけてゆく。

そうやって身についた生産性は、効率的な訓練によって見につく生産性に較べて、身の丈にぴったりあった時間の流れが伴っている。
シンガポールのサンドイッチ店で、ええーと、と思って注文を決めかねている、若い女のひとに、後ろに続いている長い列の後ろから大学生たちが、「おい、早くしろよ! 注文なんか、並んでいるあいだに決めとくべきだろう」と叫んでいる。
パニクった女のひとがハンドバッグから財布をだそうとゴソゴソとハンドバッグをかきまわしはじめると、今度は別の人が、「あーあ、今度は、財布を用意してないのかよ」と言う。

なんとなく気の毒であったので、女の人のすぐ後ろに並んでいたぼくは、「失礼なのはあいつらだと思うぞ。ゆっくりやればいいのさ」と述べて、自分の番になると性格の悪さを発揮して、わざと、のおおおおんんびり、罵声に向かってふりかえって、にっこり微笑みかけながら、注文して、サンドイッチを頬張りながら、列のうしろに行って、いまや完全に動転して、ぼくを睨み付けている学生たちのひとりの肩を軽く叩いて親愛の感情を示したりした。

そ。同じようなシーンは、このあいだの記事のEnglish Vinglishにも出て来た。

時間に追われるひとびとは、時間のなかで手順を考え、無駄を省き、たとえば降りた駅の階段にぴたりとつく乗降口の前に立つ工夫さえして、毎日をこなしてゆくが、よく考えてみると、それは死んでしまっているのとあまり変わらない忙しさであると思う。
自分のなかの「自分」がだんだん減っていって、「自分」がいなくなった虚ろに「社会」がはいりこんで、居着いて、腰をすえてしまう。
そうすると他人の非効率や、もっと言えば、やることなすことが気になって仕方がなくなる。
社会は集団によって出来ているからです。
公約数でない素数のようなぶわっかたれがいると、社会の負担が増加してしまう。

脳が個々の人間の身体の動きからくる個々人の時間ではなくて、脳が単独で読み取った、現実から遊離した観念によってうまれる「時間」は、当然、社会全体で共有されている。
だが、たとえば自分の「時間」よりも社会の「時間」が1%早くても、遅くても、それは絶えざるストレスになって意識を損傷する。

その積み重ねによって人間は壊れ、崩壊して、社会に浸潤され、社会の一部として機能する存在になってゆく。
現実が剥離した観念を子供の時代から叩き込んでゆくことは個人を自己の都合で働かせたい社会の最大の支配の道具で、日本では特に効率的に機能している。

若い世代の日本人には、それを初めから見抜いているようなところがある。
若い日本人の「手」への信頼は、教室で感じた空から降ってくる観念への反撥でしょう。

父親を通して、教師たちを通して、若い日本人たちは「効率化された人間」がいかに悲惨な存在か、よく知っている。
知っていて、文句を言うのもめんどくさいので、もっともらしい教師の声を聴きながら、下を向いて、こっそりノートブックの余白に、「加賀さん」の絵を描いている。

ほんとは、先生の話の途中で、微笑みながら静かに席を立って、歩いていってしまったほうがいいのだけれど。
あの強烈で魂にしみわたる、草の匂いをめざして。

This entry was posted in Uncategorized. Bookmark the permalink.

5 Responses to 草の匂いをめざす

  1. 日本の若い人を見ていると、ゲームと気の合う同級生だけが
    自分の世界のように振舞っているように思う。
    確かに、それは割合、安全で理にかなっているようにも思う。
    親が仕事で忙しい分、若い人が親の見ていないところで危険に巻き込まれるのを
    予防する意味でも、子供の面倒を見るのはコンピューター画面ということは多い。
    そういった人々が就職して、社会に出てくると、
    とてつもなく大きなギャップに戸惑って挫折しがちになるように思う。
    同級生以外の人間とかかわると、
    さまざまな空気を読めない上司や取引先とぶつかってしまうことも多い。
    ゲームでない現実の世界では、失敗すれば怪我をするようなこともあるし、
    指以外の肉体を上手に操る必要があることも多い。
    また、リセットボタンを押せないことも多い。
    日本では「少年が危険に挑戦する」というのは過去の話で、最近は公園ですら見かけない。
    「汗をかくから外に出たくない」という少年が大半だ。
    そういった体を動かす場所で見かけるのは外国人観光客ばかりで、
    日本人の若者を見たいときは、最低限エアコンの完備した場所を探さないと見つからない。

  2. brainseceartdubh says:

    ガメさん、今日もまた素敵な記事をありがとうございます。

    もう今から何十年も前の話だけれど、自分自身の体験。
    物心ついてすぐ位から、絵を描くのが好きな子供だった。
    暇があれば描いていた。

    いつもは小さい女の子が好きなお姫様の絵等が多かったけど、ある日何故か思い立って馬の絵を描いたら、同居していた祖父がいつも以上に褒めてくれたので、凄く嬉しかったのを今でも覚えている。

    学校へ行き出してからも、描いた絵が入賞したこともあった。「詩とメルヘン」という今はもう無い雑誌も愛読していて、挿絵画家になるのが夢だった。

    父母は絵を見せても「そんなことより勉強しろ」とか「どうせそんな才能無いんだから。」とも言われた。

    もし、それで周囲のプレッシャーに負けて普通に勉強して良い大学を出て、どこかの大企業のOL(これ今や死語?)にでもなっていれば、ひょっとしたら今も日本社会に居たかもしれない。結局、自分の場合はそういうロボットみたいな人生コースに押し込もうとするプレッシャーに反発し、紆余曲折したので、最終的には日本を離れて暮らすことになってしまった。

    それで絵の方はどうなったかと言うと、日本社会のプレッシャーは私と言う人間の日本社会への最適化には失敗したが、「絵を描くのが何より好き」と言う私と言う人間の属性の一部を少し壊してしまったのかもしれない。こちらで結婚生活や子育てをする間にすっかり “on the back burner” になっている。

    そんな訳で、これは絵ではないけれど、陶芸のワークショップに来月から参加します。
    手で何かすると、日本社会との戦いで無くしたものと “reconnect” できる気がするから。

  3. katshar says:

    ”自分の「時間」よりも社会の「時間」が1%早くても、遅くても、それは絶えざるストレスになって意識を損傷する”
    たとえば仲間とバンドをやったことがある人ならすぐわかることかもしれないけど、
    違う時間を持つ仲間がうまくやっていくためにリズムというものが必要なのかもと思います。
    自分はどうしてもそういうリズムが合わなくて、小学校の途中から中学校の途中までほとんど学校に行かなかった。
    学校に行かずに、まだ高層ビルが建ってない淀橋浄水場跡で土管に乗っかって日向ぼっこしたりしていました。
    そして家に戻るとギターばかり練習していた。
    ギター、というより音楽は才能が無くて、これは後になってわかったことだけど、
    才能が無いのになにか成し遂げようとすると、それは一生の時間を要求する。
    ひとりで暮らすような歳になってからは練習する時間もなくなってしまって、
    気がつけば何十年も経ってしまいました。
    だからいまだにギターはちゃんと弾けないんだけど、あれは眺めてるだけでも楽しいのでそれで良いのです。
    まあ、子供のころ一緒に音楽をやっていた仲間たちのおよそ半分はそのまま仕事にすることに
    成功したので、意外と高い生存確率かもしれないなと思います。
    大庭さんが50代以上は話しかけてくるな、と言うのでコメントを書いても送信しないことも多いんですが、子供のころの話だし、今日はためしにpostしてみようかなと思います。

  4. spicelada says:

    6歳の少女のお話のところでタールのような記憶が蘇ってきて涙がこみあげてきたので、お湯を張った湯船でまた別のふわふわと思い出される記憶を楽しんでいました。

    私はずっと本を読んでいる子どもでした。
    読むスピードは遅くて、読みながら空想もしているのでさらに遅くなっていくので量は少なかったと思います。家にいるのが苦痛だったので、物語の中で呼吸をし、大冒険をしていました。ジメジメした暗い洞窟を進んだり、空を飛んだり・・・。家族揃っての夕食の時も、意識は自分の空想の世界に入っていました。

    昨年、日本に戻って友人たちと温泉へ出かけた時に、食事のテンポが合わず慌てたことがあります。彼女たちは普段は育児と家事と仕事に追われているせいか、食べるスピードがとても速いのです。食べ終わった皿をお店の人が片付けやすいように重ねていく小技まであって、30分足らずでどんどん効率良く進むので驚きました。普段は夫と3時間くらい遊びながらお酒と一緒に食事するので、彼女たちが「こんなにゆっくりできるなんて久しぶり」と感激している中、私にとっては大急ぎの食事となりました(笑)。
    日本にいる間は、大抵のことが効率良く進むので、工場のベルトコンベアに乗ってる気分になります。暮らすリズムが違うのだな、と感じたものです。そして同時に、ここは私にとって心地良く暮らせる場所ではないなとも感じます。

  5. コマツナ says:

    50代‐60代ですが(!)、草の匂い、大好きです。タイトルを見ただけで、草の匂いが頭の中にひろがり、がめさんが言いたいことがすぐわかったような気がしました。 今、日本列島は台風通過中です。大きな被害が出ないといいけど。

    関東に住んでいますが、窓を開けると、雨と風がすごいです。大気の中に、木や草の匂いがします。

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s