螺旋形を駆け上る富について

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いまのアメリカでは人口の1%に富の4分の1が集中している。

富の分配に上昇志向が起きてしまっている。

言い換えると、もうオカネがいらない層にオカネが集中する傾向に加速がついてしまっているわけで、当然、富裕な層の資産に上積みされた「余計な富」は工場で作られた製品の消費にはほとんどまわらない。

ゆいいつのオカネの出口は不動産で、19世紀の終わりからほぼ百年安定していたアメリカの住宅の価格が2000年から突然暴騰しだして、アメリカ史上初めての不動産バブルが起きたことの背景になっている。

アジア人に対しては極めて排他的な町であるバルセロナでも、賃貸住宅(主にピソ)の4分の1は中国の人たちの所有になっている。

オーストラリアやニュージーランドに住んでいる人間にとっては数字を挙げる必要もない、最近は4年間で倍くらいにもなる高級住宅地の購買者はほとんど中国の人で、「USドルは中国にある」とよく言われる事象は不動産購買の世界でも変わらない。

ロンドンもオカネの持ち主が中国人であるよりはアラブ人であるところだけが異なって、富が不動産を指向する事情は同じであると思う。

アメリカに立ち戻って話をすると、アメリカは1950年代に最も貧富の差が小さかった。

一方では居住用住宅の価格は安定していたので、働けばクルマが買え、家がどんどんおおきくなり、住所の名前がよくなってゆく、ということが可能だった。

80年代90年代を通じてアメリカの生産業界が衰退して金融がGDPに占める割合がびっくりするような速度でおおきくなりはじめると、貧富の差がおおきくなりはじめた。

言い換えると、オカネがお金持ちのポケットにはいって出てこなくなってしまった。

消費が冷え込んでゆき、経済が低迷しはじめた。

2008年のクレジットクランチ以来、アメリカ人の友人たちと話していると

「500年続いたキャピタリズムに終わりが来つつあるのではないか」と疑問を口にする人が増えた。

ある人は完全な冗談として、ある人は半ばは冗談半ばは真剣な意見として、そうして、なかにはまったくの切実な危惧として「資本主義の終焉」を説く人もいる。

共産主義は、キャピタリズムに対抗して、異なる価値観を呈示し、世界じゅうの人間にキャピタリズムとは対立的な社会がありうるという幻想を常に視せ続けることによってキャピタリズムの正常な発達を助けるという皮肉な役割を担っていた。

共産主義によって実現された人間が経済競争によって人間性を失わずに住む理想の社会、などどこにもありはしなかったが、キャピタリズムの側に共鳴者や憧憬をもつ人間を生み出すことによって、資本家たちの暴走を不可能にする結果をもたらした。

会社には組合が出来、仕事をやめたあとでも十分に人間的な暮らしが出来るほどの生産性を獲得できない人間たちのために年金制度をうみ、日本で特に成功したように国民医療保険制度を設けた。

組合も年金も公的医療保険も、すべて共産主義と共産主義の現実主義者的翻訳である英国的な社会主義に由来している。

ソビエト連邦が経済的な崩壊を遂げて、もはやプラハまで弾圧のための戦車を寄越すディーゼル代を払うオカネが政府にない、という喜劇的な事態が判明したとき、東欧人たちはいっせいにたちあがって公然とソビエトロシアに背きはじめた。

ベルリンの壁は崩れ、欧州での共産主義は終わった。

イタリアでも、あれほど力を持っていた共産党はまったく無力になり、中国では鄧小平が公然と行いはじめた「マルクス主義よりも毛沢東主義を優先する」大胆な経済改革が日本との協調を基礎にしようとした胡耀邦の失脚にも関わらず、あるいは、失脚のためにいっそう軌道に乗り出して、個々の中国人の生来の無軌道なほどの個人中心主義が、うまく経済の活力に結びつくようになった。

500年間走り続けてきたキャピタリズムの、ゴール前の、最後のラストスパートでもあるかのように、このあたりからキャピタリズムが世界を覆い始めて、ブレーキを失ったクルマのように暴走しはじめる。

その結果、なにが起きたかというと中層と中層以下の人間から市場がオカネを吸い上げて、上層のさらに上の資産がある層にオカネをポンプで送るように送ってしまう社会ができてしまった。

ロングアイランドのハンプトンというところには友達が幾人か住んでいる/別荘を持っているが、このあたりの家はだいたい日本円で言うと10億円くらいが平均であるように見える。

話を聞いていると、10年前はまだ1億円で買える家もなくはなかったようなので、やはり21世紀になってから起きた変化なのでしょう。

イタリアの(ヴィッラは別にして)住宅市場はアメリカ人のオカネに支えられていて、アメリカの住宅市場は中国人たちに支えられている。

タワーのてっぺんの袋小路と言えばいいのか、吸い上げられたオカネは上層に向かうにしたがって持つ人間の数が少なく、消費にあてられる金額の総量も少なくなって、どんづまりのようなオカネモチたちの数は少ないが巨大な財布のなかで市場から隔離されている。

アベノミクスについて、このブログでは何度も書いたが、繰り返しを厭わずに述べると、用語がよくなくて使いたくないが、金融革命、IT革命というふたつのパラダイムシフトに近い現代世界の革命を行わないまま、通貨の流量を多くして、つまり、ひとりひとりの個人に少しずつ貧乏になってもらうことによって輸出産業中心の日経インデクスを上昇させる試みがアベノミクスの実質だった。

それがなぜダメなのかは繰り返さないが、副作用は個々人が貧乏になることに加えて、オカネの再分配がいわば「アメリカ型」になってゆくのは明らかであると思う。

しかも日本は世界のなかでも「中古住宅」が、すでに呼び方で想像がつくとおり、建築としては価値が毎年落ちてゆくという稀有な市場なので、オカネが不動産に固着するどころか魔術のように消えていく仕組みになっている。

アメリカの「1%の人間に24%の富が集中している」状態がいかにキャピタリズムにとって危機的な状況かは、1%以外の99%の人間に聞いてみればすぐに理解される。

「先進国」という、なんだか、いつ聞いてもくだらない感じがする名前を冠した国々のなかで、アメリカだけが飛び抜けて宗教心の強い人間が多いのは、つまりはアメリカ人自身が祇園精舎の鐘の音が虚しく自分と家族の未来を考える頭のなかで反響しているからで、自分たちの家庭の今日の繁栄が明日はどうなるか判らない儚さのなかを生きているからであるのは常識に属する。

富の再分配に失敗した社会がどうなるかは、皮肉にも往年の仮想敵だったソビエト連邦がよく示している。

生産性が違うといっても金融が生み出す「生産性」がいかに空想的なものかは実体経済の何倍ものオカネで市場が満ちた2008年に起きたことで、誰もが理解している。

あるいはいまのアメリカで、ふつうの人間にとっては、金融屋と言えばもっとも唾棄すべき、ハリウッド映画なら敵役が最適な職業とみなされる事実を見てもわかる。

日本のマスメディアが、アベノミクスの富の再分配を必然的に破壊する性質についてまったく何も言わないのは不思議な気がする。

ちょっと目を転じて英語世界をみれば、富の再分配問題についての記事や書籍があふれていることを考えれば、なおさら不思議で、「わざとかな?」と狐疑したくなるほどの不自然さではないだろうか。

それとも劇薬なのだから副作用が強いのは当たり前ではないか、ということなのだろうか。

何度もブログで述べてきたようにアベノミクスにはよいところ、当然、前になされなければならなかったことである面もあるが、悪い面もあって、その最も暗黒な面は、仮にアベノミクスが経済市場に心理的昂揚をもたらしたあと、実質が伴わないことに失望して投資家たちが立ち去ってしまった場合、

次に打てる手がなにもないほど荒涼とした経済風土をつくってしまうことで、簡単に言えば「次の一手」が、政策の性質上、ない。

その上に、いますでに始まってしまった富の再分配の失敗が重なれば、社会がそのまま経済的な牢獄になってしまうだろう。

日本ほどの大国が巨大な牢獄になれば、その影響は少なくとも東アジア全体を限界的な不安定に陥れるのは誰にでもわかることで、安倍首相のやたらと威勢のよい演説を聴いたあとに、「だいじょうぶかなあー」という声がいろいろな言語であがるのは、必ずしも、対岸の火事がおもわぬ方向に広がりだしたことへの好奇心だけではないようです。

日本の「最期の経済政策」、乾坤一擲のアベノミクスの吉凶がわかるまで、あと一年半。

どうなるだろう?

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One Response to 螺旋形を駆け上る富について

  1. 星野 泰弘 says:

    日本が「土地本位制社会」であると言われて久しい。
    日本の土地税制は、譲渡したときこそ、「儲けたなら、国に分け前をよこせ」と値上がり益に課税されるが、
    使わない土地を塩漬け保有することに対する負担は少ない。
    だから、土地市場にほとんど土地は出てこないし、
    実態の価格と、市場で取引される価格は大きく乖離している。
    相続の際も、実態の相場とは乖離した状態で相続の多くがされ、
    土地資産の実態が表に出ることはない。
    持ち主が100年前の帳簿と同じで、そのときの価格に基づいた課税が行われていたりする。
    日本で「土地の市場価格」として表れているのは、余った形の悪い土地の価格だ。
    日本では、銀行から金を借りるときも、土地こそが担保の王様だ。
    いかに日本銀行が金融緩和をしても、その恩恵を受けられるのは土地担保を握った者だけだ。
    道路や大規模施設を作るためにインフラ整備をしようと土地買収に取り掛かると
    たちまち、猛烈な売り惜しみなどで、実態の土地価格が露見し始める。
    だから、「円滑な」土地買収には、
    公共なら強制収用、民間なら反社会的勢力の手助けが必要不可欠だ。

    地主や社長、政治家などは人脈網などで相互に助け合って、身分を世襲し、
    世代交代のハードルを乗り越える。
    彼らに、特殊な能力が代々受け継がれているから再起できるのではない。
    彼ら独特の相互扶助のコミュニティーが、脱落しかけた者に信用を供与するから再起できるのだ。
    彼らは政官財の官営経済圏を形成して、日本社会を支配し、社会の配当を優先的に受け取る。
    世代交代のたびに受験競争、就職競争、出世競争に放り込まれる人々は
    いかに親が豊かであろうと負け組みだ。
    ついには競争に疲れ果てて、同僚を失脚させたり、権力者に追従して
    自らの保身を考えるようになる。
    純真な子供たちが親の世界観を真似て、先生などに目を着けられた同級生を皆でいじめたり、
    金のある子供に追従するようになる。
    このようにして資産格差が資産格差を再生産する構図が世襲される。
    機械の発達で、誰でも機械の操縦席に座りさえできれば、
    簡単に群集に勝てるようになれば、
    なおさら、人間に投資するより機械に投資したほうが利回りが良い。
    機械システム側に買収すべき人間は最小限度のほうが買収費用は安い。
    人口国が、資源国から資源を買うときに、買収する資源国の人間を最小にするために、
    できる限り民主主義からかけ離れた独裁制が資源国に求められる「資源の呪い」と同じ現象だ。

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