Monthly Archives: September 2014

Taking the wrong train

1 ボリウッドの映画「The Lunchbox」を観に行った。 「English Vinglish」が面白かったというと、ほとんど判で捺したように、 「じゃ、The Lunchboxも観なければ」とインド人の友達たちが言うのと、たしか、日本の人でも(インドのマンガロールに住んでいるAxiangだったかも知れないが)「ほんならThe Lunchboxも面白いと思う」と述べていて、なんとなく、行かないわけにはいかないような、曖昧な気持ちになってきたので、曖昧を解決するためにモニとふたりで観に行った。 http://www.imdb.com/title/tt2350496/?ref_=fn_al_tt_1 「Rialto」は7つの小さな映画劇場からなるシネマコンプレックスで、家からはクルマで10分くらい、あんまり商業ベースでは成功しなさそうな、イタリア映画、フランス映画、ポーランド映画、インド映画、というようなものを上演する。 日本で言えば「岩波ホール」が7つあわさったようなものだろうか。 ニュージーランド人の体格にも少しおおきめな座り心地が良い椅子が並んでいて、肘掛けには小さなトレイがついている。 チェーン映画館のHOYTSのLa Premiereのようにレイジーボーイ式のカウチにゆったり腰掛けて、ウエイターが注文したシャンパンやピザをもってくる、というわけにはいかないが、バーで買ったボトルのワインとスナックをもって、週末、のんびりワインを飲みながら質の良い映画を観たりするには十分です。 実際、他の映画館のバーに較べると、ワイン屋で1本50ドルくらいのワインも置いてあって、だいたい1本10ドルくらいのワインをワインリストに並べている他の映画館に較べると、少し懐が暖かい層を狙っているのでしょう。 http://www.rialto.co.nz 隣には以前は小説家が経営している気の利いた冗談が言える店員のいるコーヒー屋と良い本ばかり並べた書店の複合体があったが、なくなってしまった。 クライストチャーチにも支店があったが、こちらは地震で建物ごとなくなったあと、再建するつもりはないようでした。 Irrfan Kahnが出ている。 ぼくが大好きな俳優で、微妙な感情を目だけで、あるいは、ちょっとした指先の仕草であらわせる人です。 http://en.wikipedia.org/wiki/Irrfan_Khan Mira Nair は自分が1991年に撮った「Mississippi Masala」で投げかけた疑問に自分で答えるように「The Namesake」(2006)をつくったが、 この映画で息子を自分が専門のロシア文学の作家にちなんで「ゴーゴリ」と名付けてしまうインド系アメリカ大学教授がIrrfan Kahnで、そのとき以来、 インドの志村喬とでも呼びたくなるような、この人が好きだった。 日本語では「ネタバレ」というような奇妙な言葉があるくらいだから、なるべく筋を避けて話すが、映画自体、素晴らしい映画で、何が素晴らしいかというと、まず、映画制作上の冒険に満ちている。 映画のレッスン1は「語らしむるな見せよ」で、台詞であんまりぺらぺら状況を説明させたり、登場人物たちの思想を述べさせるのは、下手の骨頂で、絶対にやってはならないことになっているが、この映画は、映画のすべての文法に逆らって、物語は間違って届けられたランチボックスにいれたメモのやりとりだけで筋立てが進行する。 映像は朝と夕の日本の満員電車を彷彿とさせる通勤電車、家からほとんど一歩も出ないで暮らす「専業主婦」の生活の様子を飽きもせずに淡々と描写するだけです。 ここまで書くと「きっと、そうだな」と確信に達した人たちがいると思うが、打ち明けてしまえばその通りで、この映画は粗雑な観客には到底理解しえないsubtleな細部だけで出来ていて、夕方に向かって影が少しづつ伸びてゆくような微妙な陰影や表情、言葉使いの変化だけで物語りが出来ている。 56歳の初老の男が早期退職して保養地に向かう列車のなかで出会う老人の単調に動く老いた手の甲が男が次ぎの場面では保養地に行く切符を中途で放棄してアパートに戻ってくる理由になっているし、通りでクリケットをすることを許す子供たちへのひとこと「クリケットをやってもいいけど、窓ガラスを割るなよ」が、男の人生への希望の復活を表現している。 なんだか異様なくらいよく出来た構成の映画で、映画が終わった途端、 映画館のあちこちから、「えっ?ここで終わりなのか?」と言う言葉が出ていたが、この映画全体の哲学の鍵でもある 「Sometimes the wrong … Continue reading

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Haters

予想どおり、というべきなのだろう。 エマ・ワトソンの素晴らしいスピーチ、自分が女優であることを忘れて、ひとりの、正当に扱われたい、「女」ではなく一個の人間として認められたいと願う若い人間に立ち返っての、だからこそ声が震え、女優らしくない張り詰めた緊張と戦いながら述べたgame changingなスピーチに対して、 「おまえのヌード写真を盗りだして晒しものにしてやる」と、日本の2ちゃんねるの模倣サイト4chanにたむろするひとびとが述べだしたのを嚆矢に、 「エマ・ワトソンの男への偏見はメル・ギブソンのユダヤ人への偏見と変わらない」 「あんなアイドル女優にしかすぎない女を国連が大使に選ぶなんて信じられない」 「なんにも新しいことは言ってなくて、もう何十年も言われてることを繰り返してるだけで、バカみたい」 という声が広がっていって、いまの3つの例はredditのAskMenだが、もうちょっと下品なほうにおりてゆくと、 「おれがイッパツやって黙らせてやる」 というようなのがいっぱい並んでいて、インターネットといえども現実世界の反映なのがよくわかる。 男に限らないところが面白くて、女のひとびとが集まるサイトを見ても、 「あんな程度のことは私たちがずっと言ってきたことじゃないの、かわいい顔の若い女が、うんざりするほど私たちが言い続けてきたことを芸もなく繰り返しただけで大騒ぎするなんて、それこそ世界がセクシストである証拠」 「あの程度の悪い認識しかジェンダー差別にもっていない人間を国連大使にするなんて国連はおやじ趣味かよ」 「ブラウン大学の卒業スピーチかなにかと間違ってるんじゃない? あんな幼稚なスピーチを許すなんて国連も落ちたものね」 というようなのが並んでいて、自分が仲が良い年長の「フェミニスト」の友人たちの顔を思い出して、なんだか、にんまりしてしまう。 わしの「フェミニスト」の友達は、言うなればフェミニズム原理主義者で、「男のような邪悪な生き物は地上から抹殺すればいい。人工授精のような科学はそのためにある」というひとびとで、だいたい女同士のカップルで住んでいる人が多い。 「ガメ、おまえはいいやつだけど、余計なもんは切り取っちゃって、わたしと同じものを医者につけてもらって女になれ、ガメじゃでかすぎて不細工だけど、そっちのほうがまだ目障りにならんわ」と乱暴なことをいう。 シモーヌ・ド・ボーボワール、スーザンソンタグのようなひとびとから始まって、アニー・リーボヴィッツ、マーガレット・モス、ジョディ・フォスター、ロザンナ・アークエット… 無数の人間が立ち上がって声をあげては、男や女の暗闇から飛んでくる矢によって傷ついてきたが、 エマ・ワトソンはロケに出れば必ず群衆に取り巻かれる職業人なので現実問題としても怖いだろうと思う。 この人達には様々な脅迫や冷笑、おおっぴらな嘲りにあって、カウチに座り込んで両手で顔をおおう夜がある。 自分に向けられた憎悪の声が強いだけ世界にうんざりしてゆく。 人間性というものに信頼を失う。 そうでなくても「著名な友達」たちを見ていると、たいへんだなあ、と思うが、なかでも、むかしもいまも、「男性と女性は平等であるべきだ」と公然と述べることは、ひとりで全世界に宣戦を布告することなのである。 女の人間が「自分は女であるより人間だ」と述べることがなぜか自動的に世界への宣戦布告になって、往々にして、女のひとびとまで敵にまわすのでは、ぜんぜん理屈が立たないが、現実にいつもそうなのは玄妙なほどである。 Haters、とよく言う。 若い英語人のあいだで、このごろ、頻繁に「haters」という言葉が口端にのぼるようになったのは案外、Taylor Swiftのヒットソング、「Shake It Off」のせいだろう。 こういう歌詞です。 I stay up too late, got nothing in … Continue reading

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HeForShe

Emma Watsonの国連でのスピーチは素晴らしいものだった。 常々、「あんな可愛げのない女は嫌いだ」と性差別100%な意見を述べていたデブP https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/14/japanese_men/ が、感動のあまり泣きながら電話をかけてきて、 「おれはもう一生エマ・ワトソンの悪口は言わん」と、鼻をすすりあげる音も汚らしく述べていたのは論外だが、男も女も、ツイッタでもwhisperでも、 ジャーナリストも政治家も、俳優なかまたちも、緊張して、声がうわずりそうになりながら、でもプロの女優らしく何度も態勢を立て直しながら、 フェミニストという単語にバカ男たちが塗りつけた泥をぬぐいさり、 男女差別の問題が「個人としての人間の自由」の問題にほかならないこと、 男たちにとっても、不自然な「男としての役割」が負担でしかないことを、 イギリス人らしい、棚からいまとりだしたばかりのティーポットで紅茶を淹れるとでもいうような、単純で簡明な、心に直截語りかけてくる英語で述べきった。 未来の人が歴史上のスピーチを10個選べと言われたら、リンカーンやチャーチル、キング牧師の演説と肩をならべてはいるだろうと思わせるくらい、素晴らしいスピーチだった。 モニとふたりで並んでCNNのビデオを観ながら涙ぐんだ。 スピーチが終わったあと、お互いの目尻の涙をぬぐいあって笑いました。 いつかオークランドの家でテレビを観ていたら、ロンドンの、もとはバリバリの人種差別主義者で、アジア人とみれば、「国に帰れ、黄色い汚い顔をさらして歩くな」と叫んでは悦にいっていたという50代の首に髑髏の入れ墨をしたおっちゃんが、「でも、もう人種差別なんて流行らねーよ。田舎のジジイどもがやることでよ。ダサイぜ」と述べていて、インタビュアーが、でも、まだスキンヘッドたちはロンドンのバスやなんかでアジア人を取り囲んで罵ったりしてますよね」と聞き返したら、 がっはっは。だから、あいつらガールフレンドが出来ねえんだよ。 「スキンヘッド」じゃなくて、「ボーンヘッド」だぜあいつら、と大笑いしていて、 人種差別はびっくりするようなスピードで急速にこの世界から完全に姿を消しつつあるが、最後に残ったのが性差別で、Emma Watsonは、「フェミニスト」という言葉を男社会がつくりあげた単語の印象である「anti-men」から 「For the record, feminism by definition is :”The belief that men and women should have equal rights and opportunities. It is … Continue reading

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Fantastic Voyage

ずいぶん前からコンピュータを日本語とその他言語に分ける習慣がついている。 ⌘+スペースで英語と日本語が切り替わるようになっているが、英語モードのつもりで書き始めて画面にわけのわからない日本語文字が出るとカッとなるからで、MacBookAirの場合はたいていカウチに仰向けに寝転がって使っているので体勢上、スクリーンを見ずにキーボードだけを見て使うので、しばらくタイプしてから画面を見て、英語モードだと信じて書いてしまったときの瞬間湯沸かし的怒りはひとしおです。 異なるコンピュータを日本語に割り当ててあると、日本語インターネットの世界にはいっていくときは、Fantastic Voyage(邦題:ミクロの決死圏)というか、「よおおし日本語世界に行くどおお」という頭がわるげな意気込みになる。 スクリーンの上をふと見上げると、3Dホログラフの扁額があらわれていて Lasciate ogni speranza, voi ch’ntrate (汝等ここを入る者は一切の望みを捨てるべし) と書いてあるよーな気がする。 こんなことを言うと日本の人を悲しませてしまうが、目下の日本語インターネットは「お化け屋敷」みたいなもので、なんだか饐えた臭いのする暗がりを歩いていると、 13歳の女の子が26歳の男に強姦されて公園でただ空をみつめて横たわるだけの絶望の時間を過ごしたあとに、よろよろと立ち上がって家に帰り、何日も死にたい誘惑と戦って、このままでは自分は生きた屍になると直感したのでしょう、子供としては信じがたいほどの勇気をふりしぼって立ち上がったというのに 「十分に抵抗しなかったから合意のうえの性交である」と、この世界のどんな良心も耳を疑う判決を聞かされたり、 慰安婦なんてものは戦争にはつきもので日本だけが悪いんじゃないじゃん。 第一、自分が金儲けしたかったから売春婦になったんでしょう? とマジメな顔で述べるひとびとがいたりで、 お化け屋敷であるにしてもきびが悪い。 しかし人間は因業で、因果はめぐる糸車なのか、累(かさね)の淵にもめぐる怨みはアルバニア、怖さみたさに四刻(よんこく)すぎて、あっというまの朝ぼらけ、(拍子木)、おもうまもなく朝日もかげって、読売産経政府の妾、 ネット廃人の亀夫とは、(拍子木x2)、おいらのこったああああ (拍子木乱打) と歌舞(かぶ)いて見得を切ってしまうが、そういう悪い遊びも、もういい加減にしようと思ってはいる。 (身体にわるいからね) 心のほうにも悪いかというと、そうでもなくて、コンピュータを閉じてしまえばいいだけで、コンピュータのスクリーンを閉じて、ううううっっむ、とのびをして、あたりを見渡すと、不思議や、そこはいつもの自分の家で、カウチから起き上がって、ホールをとんとんとんと歩いて、ラウンジに行くと、 「小さい人たち」がモニさんと、ひおーいほいほい、と歌って踊って遊んでいる。 父親(つまりはわしですけど)を発見して、ゴジラを見つけたミニラのように、上下に激しく揺れながら走ってきて、勢いがよすぎて父親のスネに衝突してデコをおさえて痛がっている。 ばかたれなところが、まことに、わしガキであると思う。 人間の暮らしは、まず自分が快適であると感じる環境をつくることから始まる。 もちろん、それは15平方メートルのワンルームでありうる。 安くてもいいから、高音の伸びが好きな人は高音域に強い、たとえばソニーのステレオを買って、低音の響きに趣味がある人はBOSE のステレオを買って、なんでか大庭亀夫が熱愛している La Oreja de van Goghでも、もじん(@mojin)どんがなにもかも収束しなくなって自棄を起こしそうなときに聴いているらしい、わしも好きになったチャラン・ポ・ランタンでもよい、自分の耳になじむ音楽を聴いて、マカロニやシチューのようなものが好きなのにキチンにオブンが付いていなければ小さなオブンを買うか、ダッチオブンでもフレンチオブンでも買って、肌触りの良いバジャマを買ったり、文房具もデザインがよいものにして、近所においしい肉まん屋や品揃えのよい小さな立ち読みが出来る書店を探すとか、あるいは、二時間でも三時間でもぼんやりしていられるベンチがある公園を見つけて、オリジナル味のプリングルズをかじりながら、自分の良心には内緒でコカコーラ(しかも砂糖たっぷり版)を飲んで、どこまでも高い青空をみあげて、あああー、さぼるのはいいなあああー、もしかして、わし、いましあわせなのでわ、という一瞬をもつべく勤める。 そういうことを「達成すべき一生の目標」というので、言葉を変えれば、達成すべき一生の目標は未来の遠くにあるのではなくて、いつも自分の傍らにあって、何度も繰り返して達成せらるべきものなのだと思う。 一生のあいだに何事かをなさねばならない、と言う人は、たいてい「仕事」「研究」というような言葉が頭のなかにあるように見えるが、オベンキョーというようなものと、それらは同じで、夢中になって追いかけた結果として「おもわず何事かなしてしまった」という場合のみが、感心したことではないが有効といえば有効で、頭から「人間たるもの一生のあいだに何事かなさねば」では「何事か」のほうが、なにごとならむ、と怖がって駆け足で逃げていってしまう。 そういう人は往々にして「何事か」と見栄が混同されていて、わしが通った学校には、ただ一冊歴史の本をだした教師がいて、授業中に、ふたことめには「自著でも書いたが」「自著を読めばわかるが」というので、あまりの見栄の哀れさに、「自著」という渾名がついて生徒たちに冷笑されていた。 「一生の目標」が遠くにあって輝しかるべきものと設定されていたり、他人の評価の代替となるべく作品や書籍に求められたりするのは、インターネット上で全知全能をつくして、ありとあらゆるタクティクスで、自分が貶めたい相手を誹謗中傷している歯をむき出したサルのようなひとびとと本質的に同じで、実際には「自分の生活がない」ことによっている。 自分の生活が存在しないので、現実の生活では自分の娘がありながら、女のひとびとは精液にまみれた観念で、観念であるからこそ、実物ではなく「二次元」の絵で、それを不思議と思わないのは、実は自分自身も観念的な存在にすぎなくなってしまっていて、現実世界の肉体はスケジュール表にあわせて、今日はここ、明日はあそこと移動して、魂は疲労困憊して肉体から脱落しそうになりながら、息を切らせて、肉体にかろうじて追従して移動する。 … Continue reading

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英語から日本語へ、日本語から英語へ

Docketはいるかね?と言う。docket? ああ、receipt、あったほうがいいですのい、と、わし。 つまりdocketがいるんだね、とまたペトロステーションのインド移民の店員が繰り返すので、笑いだすのをこらえるのに苦労してしまった。 Docketは領収書のたいへん古い言い方で、いくら古い英語がたくさん流通しているニュージーランドでも、さすがにもう使われない。 ところがインドからの移民の人には、この単語を使いたがる人が多くて、観察していると、ペダンティックな人が多い。 どうもreceiptよりもdocketのほうが高級な言い方だと思っているようで、へえ、そんなものか、と思う。 インドの人は日本の人と同じように「知識誇り」をするところがあるので、「高級な語彙」を知っていると自分が偉くなったような気がするもののよーでした。 福島第一発電所の事故のあと一見して科学の素養も基礎的訓練もない、せいぜい学部卒くらいであるらしい人たちが、科学用語をふりまわしてみたり、「物理屋」や「生物屋」は、と隠語めいた言葉で述べていたりして、見ていても、なにがなし痛ましい感じがしたが、インドの社会にも同じような傷口が開いているようで、英語の話に戻して言えばつまりは、「いまどき英語でHow are you?なんて言わない。そんなもの教えている奴はバカ」「アメリカ人に聞けばわかるがAfrican Americanなんて、アメリカで言う人間いない。英語がわかってもいないのに知ったかぶりするバカに注意」 と得意の「バカ攻撃」と一緒に何百というRTがついてtwitterで流れてきていたのと同じで、つまりは自分の傷がどれほど疼いているかの表明なのでしょう。 あるいはPonsonbyの街角でアクセントからして紛れもないイギリス人がpreponeという単語を使ってるのを聞いて、ぶっくらこいてしまう。 「prepone」は日本語に訳せば「前倒しにする」という意味のインド英語でイギリス人が使うのを聞くのは、それが初めてだった。 もう少しややこしい例を挙げると I’m so tired. と I’m very tired. というふたつの文は同じ意味だが微妙に異なる。 どう異なるかというと、I’m so tiredは実は、そのあとにthat I’m sleepyというようなclauseが続くことが(実際には言われなくても)期待されている。 I’m so tired that I’m sleepy. の後半が省略されたのがI’m so tired.という文の、おおげさに言えば、正体で、そもそもの始めから一個の恬として独立した文である I’m very tired. とは異なっている。 書いていても、このくらいの微妙な差の話になると、その辺に転がっている無学な(←言ってしまった)英語人に聞いてみて、「えええええー!ネイティブに聞いてみたけど、そんなことないって言ってましたよおおお」という、おなじみの下品を極める声が聞こえてきそうな気がするが、so … Continue reading

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ノーマッド日記17

1 Cirque du Soleil を観に行った。 Totem。 http://cheeseontoast.co.nz/2014/08/25/cirque-du-soleil-totem-review/ テントが設置された「Alexandra Park」は夜の交通量ならば家からクルマで15分くらいなので8時30分からのショーに、家でゆっくり夕飯を食べて出かけても間に合う。 ショー自体は、なにしろCirque du Soleilなので退屈なわけはない。 2時間があっというまに経ってしまう素晴らしさで、小乗仏教神風のコスチュームに身を固めた5人のアジアの女びとのunicyclistsが登場するところやRussian Barの上を「スターマン」たちがいっせいに宙空へ跳躍するところでは、こっそりみまわすと、観客席で、感動のあまりそっと涙をぬぐっている人がたくさんいた。 モニとぼくは、すっかり人間の肉体の美しさに興奮して、やっぱり空中ブランコ乗りになればよかった、わたしはバレエを続ければよかった、でもとっても足が痛かったんだもの、と言い合った。 冷たい夜気のなかで、ふたりで途方もなく幸せな気持ちになって帰ってきた。 ひとを美によって楽しませることができるなんて、なんて素敵な商売だろう。 あのひとびとを尊敬しないわけにはいかない 2 日本はスタグフレーションが始まってしまったようだ。 アベノミクスがもたらしうる結末のうち、悪いほうの、それも最悪の結果がスタグフレーションだった。 どこまでも運が悪い日本は岐れ道に立つたびに最悪の選択を繰り返して、ついに悪夢の迷宮にさまよいこんでしまった。 「物価はどんどんあがってゆくのに賃金は上がらない」という、国よりも個々の国民にとっては地獄というほかに呼びようがないこの経済現象は1960年代のイギリスに始まって、たしか、日本では「イギリス病」と呼ばれていたのではないだろうか。 1979年にマーガレット・サッチャーが首相になって、イギリスのありとあらゆる伝統を破壊するのと引き換えにスタグフレーションを徐々に克服して1990年に同僚政治家や国民のすさまじい憎悪のなかで辞職するころにはイギリスの伝統の破壊もスタグフレーションを生んだ経済体質の改善もほぼ完了した。 スタグフレーションが始まってから最終的に克服するまで30年ほどかかった計算になる。 スカイプで日本の経済に詳しい友達と話してみると、スタグフレーションなんて20世紀で絶滅したはずの怪物につかまるなんて運の悪いひとびとだな、と日本人は気の毒である、と述べた。 克服するのにどのくらいかかるだろう? と愚問を述べると、 「(都合が悪いことは絶対に認めない)日本人たちのことだからスタグフレーションだと認めるまでに、まず30年かかるだろう」と言って、酔っ払っていたのでしょう、調子はずれの大声で笑っていたが、経済の回復どころか、いままで積み上げた財産まで根こそぎに失いつつあるひとりひとりの日本人にとっては、笑いごとであるわけはない、という気がする。 去年の4月に、「どうやらこれはスタグフレーションになるな」と思って、主に日本語の友達向けて書きはじめたのが 「アベノミクスが開いた向こう側」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/04/23/abenomics/ 「「アベノミクスが開いた向こう側」(その2) https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/03/14/abenomics2/ だったが、横からのぞき見していたひとびとが「あなたは経済のイロハが全然わかってない。アベノミクスが成功しているのを見ていないのか。もういちど経済教科書で勉強したらどうか」 というような、おなじみの退屈で凡庸な嫌がらせばかりの反応で、嫌気がさしたので、 続きの構造説明にあたるところは書かなかった。 どっちみち、ブログのような文章は自分の頭のなかを整理するためと、その言語が母語の友人たちと議論するために書いているだけなので、日本語でなくてもよかったので、ブログでなくて、言語も変えてメーリングリストのほうに切り替えて書いて、考えを整理することが出来た。 「議論の力」はたいしたもので、ぼくみたいに半分眠っている頭脳でも活性化される。 意見を交換しているうちに、お互いに考えてもみなかった思考の角度があらわれる。 … Continue reading

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友達

「友達」の最も簡便な定義は「言葉でお互いにわかりあえる相手」だろう。 友達と一緒に過ごす時間ほど楽なものはない。 人間の言葉は、本来、伝達には向いていないが友達同士では、まるで言語が伝達の道具であるような錯覚が起きるほど、相手のいいたいことが伝わってくる。 自分が言いたいことを相手がわかってくれる。 多少でも知能のある人間は「孤独」という持病をもっている。 言語がもともと伝達を苦手とするという欠陥を持っているために、思惟をすすめることは出来ても、その結果を他人と共有するということは難しい。 すぐれた芸術の技量をもっていて止揚されて、ほんの少し頑固な「孤立した言語体系」から浮揚した表現を、すっ、と他人の心にはいってゆかせられるか、あるいは論理にしぼって、科学的な論述という最も無難な伝達に制限するか、あるいは「友達」と巡り会うか、人間には、そのくらいしか自分の思惟や情緒を自分以外の生き物に伝達する方法がない。 誰でも自分の言語が成長するに従って「友達が友達にみえなくなる」ということを経験する。 子供のときからの友達は、なつかしくて、ひさしぶりに会えば、肩をだきしめて、元気だったか? ずっと会いたかった、と述べているうちに眼に涙がにじんできて、相手の母親や父親の名前をあげて健勝を尋ね、子供のときに共通した知り合いの誰彼の消息を尋ねるが、友達であるよりも「友達であった」ことをなつかしんでいる。 たとえば20年を経て、相手が未だに「言葉が通じ合う」同じ傾向の言語の体系をもっていて、自分と同じ程度にまで言語が拡張され深化していることは稀だと思う。 自分自身について考えてみるとほとんど物心つくかつかないかの頃から付き合いがあって、いまでも友達として付き合ってる人間が3人いるが、幼なじみと話すときは、友達と異なって、話は半分もほんとうには通じないこと、お互いにいまは心理的に遠くに立っていることを前提にして付き合っていて、部分的には、お互いがまだ10歳だと仮定することによって「友情」が成立している。 過去の自分が過去の相手と付き合っている。 そして、それはそれで、楽しいつきあいだと思う。 一方では、初対面の相手が自分の友達だとすでに知っていることがある。 ほんの数分話しただけ、あるいは、冗談に聞こえるかもしれないが数語を交わしただけで、「ああ、このひとはずっと探していたぼくの友達だな」とすぐに判る相手がいて、とても楽で、相手も同じことを考えているので、今度はいつどこで会うか決めておけばよいだけで、手間がない。 ただし良いことばかりではなくて、例をひとつあげると、ぼくにはアメリカ人の「ソウルメイト」がいるが、いまはお互いになるべく口を利かないようにしている。 嫌いなのではない。 このひとは年齢が上の女の人で、ロシアからの移民の恋人と、長い苦しい恋いをしてきたひとだった。 東部上流社会の人なので、社交的な事情から、好きではないが我慢できる相手と結婚した。 簡単に言えば体面のためです。 そのあいだも自分勝手な恋人のために酷い目に遭ったことはあるとおもうが、訊いてみたことはない。 ただロシア人の恋人が住んでいるアパートの近くに住んでいたいというだけで売らないでいた自分のアッパーイーストのアパートに結婚した相手の連れ子が、ほとんどスクォッターのようにして住み始めたときだけが、このひとが怒ったのを見たときだった。 その頃はよく会って遊んだものだった。 まだ20歳くらいのへらへらした若い男と、黙っていても道をあけたくなるような、雄弁な品格と呼びたくなるような、素晴らしい優雅に満ちた成熟した女のひとが、Serendipity3 http://www.serendipity3.com/history.htm やなんかで、テーブルをはさんでほっぺにクリームをつけてサンデーを食べて、外にでれば通りの反対側の信号ポストまでかけっこの競争(←もちろんハンディキャップ付き)をしたりするのだから、いくらマンハッタンでも目立って、パーティの格好の話題になったりした。 ところがロシア人の恋人は、同じロシアの女の人と一緒に住み始めた。 ぼくはこの女友達の自殺を心配しはじめ、どんなに隠そうとしてもぼくが自殺を心配していることは正確に、そのまま相手に伝わった。 モニと結婚して、アホなひとらしく幸福な毎日を過ごして、思いがけず天国のような暮らしのなかにいたぼくは、ある日、AOLビルでばったり遭った、このひとの明るい声と、途方もない明るい光に満ちた灰色の眼をみて、自分にはもう絶望しかないと悟っている人の姿をみた。 モニは聡明な人なので、ぼくが知っていたことを、そっくりそのままモニも知っていたようでした。 その人が「今度は、もっと時間があるときに、わたしの家に来てくださいね」と述べて別れを告げて立ち去ったあとで、モニが 「ガメとわたしはラッキーだな。そのほかに、自分にはこんなとき、どんなことが言えるのかわからない」と言ったのをおぼえている。 友達が増えるということは、だから、痛みが増える、ということでもある。 痛みが増加するとかなわない、というつもりではないが、ぼくは「友達は少なければ少ないほどいい」と思っている。 ぼくを指して「友達が多い人」と述べる人がたくさんいるのは知っているが、実生活で「友達」である人たちは、どうだろう、ぼくの友達としてのたいへんな冷淡さを知っているのではないだろうか。 くだくだしく自分の冷淡を説明するのはばかげているので、ひとつだけ例を挙げると、ぼくが実際にはロンドンにはいなくてニュージーランドにいることに気がついた友達たちが突然たずねてくることが何度かあったが、ぼくは滅多に会ったことがなかった。 自分でもうまく説明できないが、会ったほうが良い友達と会わない方が友達でいられる友達がいて、会わない方がよい、と思う友達も将来は会ったほうがよいと変わるかもしれなくても、いまのいまの判断で会わないほうが良いと思う友達がわざわざ2万キロを旅して会いに来るのは、ただそれだけで腹立たしいのだと思う。 友達だから、というが、友達ならば、ぼんやりとでもぼくの考えがわかりそうなものではないか、と考える。 いちど、日本語インターネットで「きみは自分と気持ちがあう友達と話しているだけではないか。だから人間的に成長しないのだ」という人に会ったことがあったが、気持ちがあわない友達と無理して話す人の気持ちはわからないし、第一、自分と異なる人間と付き合って「人間の幅が広がる」などと言われても、デブになるのか?くらいにしか思わない。 くだらないと思う。 … Continue reading

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