Daily Archives: September 4, 2014

友達

「友達」の最も簡便な定義は「言葉でお互いにわかりあえる相手」だろう。 友達と一緒に過ごす時間ほど楽なものはない。 人間の言葉は、本来、伝達には向いていないが友達同士では、まるで言語が伝達の道具であるような錯覚が起きるほど、相手のいいたいことが伝わってくる。 自分が言いたいことを相手がわかってくれる。 多少でも知能のある人間は「孤独」という持病をもっている。 言語がもともと伝達を苦手とするという欠陥を持っているために、思惟をすすめることは出来ても、その結果を他人と共有するということは難しい。 すぐれた芸術の技量をもっていて止揚されて、ほんの少し頑固な「孤立した言語体系」から浮揚した表現を、すっ、と他人の心にはいってゆかせられるか、あるいは論理にしぼって、科学的な論述という最も無難な伝達に制限するか、あるいは「友達」と巡り会うか、人間には、そのくらいしか自分の思惟や情緒を自分以外の生き物に伝達する方法がない。 誰でも自分の言語が成長するに従って「友達が友達にみえなくなる」ということを経験する。 子供のときからの友達は、なつかしくて、ひさしぶりに会えば、肩をだきしめて、元気だったか? ずっと会いたかった、と述べているうちに眼に涙がにじんできて、相手の母親や父親の名前をあげて健勝を尋ね、子供のときに共通した知り合いの誰彼の消息を尋ねるが、友達であるよりも「友達であった」ことをなつかしんでいる。 たとえば20年を経て、相手が未だに「言葉が通じ合う」同じ傾向の言語の体系をもっていて、自分と同じ程度にまで言語が拡張され深化していることは稀だと思う。 自分自身について考えてみるとほとんど物心つくかつかないかの頃から付き合いがあって、いまでも友達として付き合ってる人間が3人いるが、幼なじみと話すときは、友達と異なって、話は半分もほんとうには通じないこと、お互いにいまは心理的に遠くに立っていることを前提にして付き合っていて、部分的には、お互いがまだ10歳だと仮定することによって「友情」が成立している。 過去の自分が過去の相手と付き合っている。 そして、それはそれで、楽しいつきあいだと思う。 一方では、初対面の相手が自分の友達だとすでに知っていることがある。 ほんの数分話しただけ、あるいは、冗談に聞こえるかもしれないが数語を交わしただけで、「ああ、このひとはずっと探していたぼくの友達だな」とすぐに判る相手がいて、とても楽で、相手も同じことを考えているので、今度はいつどこで会うか決めておけばよいだけで、手間がない。 ただし良いことばかりではなくて、例をひとつあげると、ぼくにはアメリカ人の「ソウルメイト」がいるが、いまはお互いになるべく口を利かないようにしている。 嫌いなのではない。 このひとは年齢が上の女の人で、ロシアからの移民の恋人と、長い苦しい恋いをしてきたひとだった。 東部上流社会の人なので、社交的な事情から、好きではないが我慢できる相手と結婚した。 簡単に言えば体面のためです。 そのあいだも自分勝手な恋人のために酷い目に遭ったことはあるとおもうが、訊いてみたことはない。 ただロシア人の恋人が住んでいるアパートの近くに住んでいたいというだけで売らないでいた自分のアッパーイーストのアパートに結婚した相手の連れ子が、ほとんどスクォッターのようにして住み始めたときだけが、このひとが怒ったのを見たときだった。 その頃はよく会って遊んだものだった。 まだ20歳くらいのへらへらした若い男と、黙っていても道をあけたくなるような、雄弁な品格と呼びたくなるような、素晴らしい優雅に満ちた成熟した女のひとが、Serendipity3 http://www.serendipity3.com/history.htm やなんかで、テーブルをはさんでほっぺにクリームをつけてサンデーを食べて、外にでれば通りの反対側の信号ポストまでかけっこの競争(←もちろんハンディキャップ付き)をしたりするのだから、いくらマンハッタンでも目立って、パーティの格好の話題になったりした。 ところがロシア人の恋人は、同じロシアの女の人と一緒に住み始めた。 ぼくはこの女友達の自殺を心配しはじめ、どんなに隠そうとしてもぼくが自殺を心配していることは正確に、そのまま相手に伝わった。 モニと結婚して、アホなひとらしく幸福な毎日を過ごして、思いがけず天国のような暮らしのなかにいたぼくは、ある日、AOLビルでばったり遭った、このひとの明るい声と、途方もない明るい光に満ちた灰色の眼をみて、自分にはもう絶望しかないと悟っている人の姿をみた。 モニは聡明な人なので、ぼくが知っていたことを、そっくりそのままモニも知っていたようでした。 その人が「今度は、もっと時間があるときに、わたしの家に来てくださいね」と述べて別れを告げて立ち去ったあとで、モニが 「ガメとわたしはラッキーだな。そのほかに、自分にはこんなとき、どんなことが言えるのかわからない」と言ったのをおぼえている。 友達が増えるということは、だから、痛みが増える、ということでもある。 痛みが増加するとかなわない、というつもりではないが、ぼくは「友達は少なければ少ないほどいい」と思っている。 ぼくを指して「友達が多い人」と述べる人がたくさんいるのは知っているが、実生活で「友達」である人たちは、どうだろう、ぼくの友達としてのたいへんな冷淡さを知っているのではないだろうか。 くだくだしく自分の冷淡を説明するのはばかげているので、ひとつだけ例を挙げると、ぼくが実際にはロンドンにはいなくてニュージーランドにいることに気がついた友達たちが突然たずねてくることが何度かあったが、ぼくは滅多に会ったことがなかった。 自分でもうまく説明できないが、会ったほうが良い友達と会わない方が友達でいられる友達がいて、会わない方がよい、と思う友達も将来は会ったほうがよいと変わるかもしれなくても、いまのいまの判断で会わないほうが良いと思う友達がわざわざ2万キロを旅して会いに来るのは、ただそれだけで腹立たしいのだと思う。 友達だから、というが、友達ならば、ぼんやりとでもぼくの考えがわかりそうなものではないか、と考える。 いちど、日本語インターネットで「きみは自分と気持ちがあう友達と話しているだけではないか。だから人間的に成長しないのだ」という人に会ったことがあったが、気持ちがあわない友達と無理して話す人の気持ちはわからないし、第一、自分と異なる人間と付き合って「人間の幅が広がる」などと言われても、デブになるのか?くらいにしか思わない。 くだらないと思う。 … Continue reading

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