Daily Archives: September 22, 2014

Fantastic Voyage

ずいぶん前からコンピュータを日本語とその他言語に分ける習慣がついている。 ⌘+スペースで英語と日本語が切り替わるようになっているが、英語モードのつもりで書き始めて画面にわけのわからない日本語文字が出るとカッとなるからで、MacBookAirの場合はたいていカウチに仰向けに寝転がって使っているので体勢上、スクリーンを見ずにキーボードだけを見て使うので、しばらくタイプしてから画面を見て、英語モードだと信じて書いてしまったときの瞬間湯沸かし的怒りはひとしおです。 異なるコンピュータを日本語に割り当ててあると、日本語インターネットの世界にはいっていくときは、Fantastic Voyage(邦題:ミクロの決死圏)というか、「よおおし日本語世界に行くどおお」という頭がわるげな意気込みになる。 スクリーンの上をふと見上げると、3Dホログラフの扁額があらわれていて Lasciate ogni speranza, voi ch’ntrate (汝等ここを入る者は一切の望みを捨てるべし) と書いてあるよーな気がする。 こんなことを言うと日本の人を悲しませてしまうが、目下の日本語インターネットは「お化け屋敷」みたいなもので、なんだか饐えた臭いのする暗がりを歩いていると、 13歳の女の子が26歳の男に強姦されて公園でただ空をみつめて横たわるだけの絶望の時間を過ごしたあとに、よろよろと立ち上がって家に帰り、何日も死にたい誘惑と戦って、このままでは自分は生きた屍になると直感したのでしょう、子供としては信じがたいほどの勇気をふりしぼって立ち上がったというのに 「十分に抵抗しなかったから合意のうえの性交である」と、この世界のどんな良心も耳を疑う判決を聞かされたり、 慰安婦なんてものは戦争にはつきもので日本だけが悪いんじゃないじゃん。 第一、自分が金儲けしたかったから売春婦になったんでしょう? とマジメな顔で述べるひとびとがいたりで、 お化け屋敷であるにしてもきびが悪い。 しかし人間は因業で、因果はめぐる糸車なのか、累(かさね)の淵にもめぐる怨みはアルバニア、怖さみたさに四刻(よんこく)すぎて、あっというまの朝ぼらけ、(拍子木)、おもうまもなく朝日もかげって、読売産経政府の妾、 ネット廃人の亀夫とは、(拍子木x2)、おいらのこったああああ (拍子木乱打) と歌舞(かぶ)いて見得を切ってしまうが、そういう悪い遊びも、もういい加減にしようと思ってはいる。 (身体にわるいからね) 心のほうにも悪いかというと、そうでもなくて、コンピュータを閉じてしまえばいいだけで、コンピュータのスクリーンを閉じて、ううううっっむ、とのびをして、あたりを見渡すと、不思議や、そこはいつもの自分の家で、カウチから起き上がって、ホールをとんとんとんと歩いて、ラウンジに行くと、 「小さい人たち」がモニさんと、ひおーいほいほい、と歌って踊って遊んでいる。 父親(つまりはわしですけど)を発見して、ゴジラを見つけたミニラのように、上下に激しく揺れながら走ってきて、勢いがよすぎて父親のスネに衝突してデコをおさえて痛がっている。 ばかたれなところが、まことに、わしガキであると思う。 人間の暮らしは、まず自分が快適であると感じる環境をつくることから始まる。 もちろん、それは15平方メートルのワンルームでありうる。 安くてもいいから、高音の伸びが好きな人は高音域に強い、たとえばソニーのステレオを買って、低音の響きに趣味がある人はBOSE のステレオを買って、なんでか大庭亀夫が熱愛している La Oreja de van Goghでも、もじん(@mojin)どんがなにもかも収束しなくなって自棄を起こしそうなときに聴いているらしい、わしも好きになったチャラン・ポ・ランタンでもよい、自分の耳になじむ音楽を聴いて、マカロニやシチューのようなものが好きなのにキチンにオブンが付いていなければ小さなオブンを買うか、ダッチオブンでもフレンチオブンでも買って、肌触りの良いバジャマを買ったり、文房具もデザインがよいものにして、近所においしい肉まん屋や品揃えのよい小さな立ち読みが出来る書店を探すとか、あるいは、二時間でも三時間でもぼんやりしていられるベンチがある公園を見つけて、オリジナル味のプリングルズをかじりながら、自分の良心には内緒でコカコーラ(しかも砂糖たっぷり版)を飲んで、どこまでも高い青空をみあげて、あああー、さぼるのはいいなあああー、もしかして、わし、いましあわせなのでわ、という一瞬をもつべく勤める。 そういうことを「達成すべき一生の目標」というので、言葉を変えれば、達成すべき一生の目標は未来の遠くにあるのではなくて、いつも自分の傍らにあって、何度も繰り返して達成せらるべきものなのだと思う。 一生のあいだに何事かをなさねばならない、と言う人は、たいてい「仕事」「研究」というような言葉が頭のなかにあるように見えるが、オベンキョーというようなものと、それらは同じで、夢中になって追いかけた結果として「おもわず何事かなしてしまった」という場合のみが、感心したことではないが有効といえば有効で、頭から「人間たるもの一生のあいだに何事かなさねば」では「何事か」のほうが、なにごとならむ、と怖がって駆け足で逃げていってしまう。 そういう人は往々にして「何事か」と見栄が混同されていて、わしが通った学校には、ただ一冊歴史の本をだした教師がいて、授業中に、ふたことめには「自著でも書いたが」「自著を読めばわかるが」というので、あまりの見栄の哀れさに、「自著」という渾名がついて生徒たちに冷笑されていた。 「一生の目標」が遠くにあって輝しかるべきものと設定されていたり、他人の評価の代替となるべく作品や書籍に求められたりするのは、インターネット上で全知全能をつくして、ありとあらゆるタクティクスで、自分が貶めたい相手を誹謗中傷している歯をむき出したサルのようなひとびとと本質的に同じで、実際には「自分の生活がない」ことによっている。 自分の生活が存在しないので、現実の生活では自分の娘がありながら、女のひとびとは精液にまみれた観念で、観念であるからこそ、実物ではなく「二次元」の絵で、それを不思議と思わないのは、実は自分自身も観念的な存在にすぎなくなってしまっていて、現実世界の肉体はスケジュール表にあわせて、今日はここ、明日はあそこと移動して、魂は疲労困憊して肉体から脱落しそうになりながら、息を切らせて、肉体にかろうじて追従して移動する。 … Continue reading

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