Fantastic Voyage

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ずいぶん前からコンピュータを日本語とその他言語に分ける習慣がついている。
⌘+スペースで英語と日本語が切り替わるようになっているが、英語モードのつもりで書き始めて画面にわけのわからない日本語文字が出るとカッとなるからで、MacBookAirの場合はたいていカウチに仰向けに寝転がって使っているので体勢上、スクリーンを見ずにキーボードだけを見て使うので、しばらくタイプしてから画面を見て、英語モードだと信じて書いてしまったときの瞬間湯沸かし的怒りはひとしおです。

異なるコンピュータを日本語に割り当ててあると、日本語インターネットの世界にはいっていくときは、Fantastic Voyage(邦題:ミクロの決死圏)というか、「よおおし日本語世界に行くどおお」という頭がわるげな意気込みになる。
スクリーンの上をふと見上げると、3Dホログラフの扁額があらわれていて

Lasciate ogni speranza, voi ch’ntrate
(汝等ここを入る者は一切の望みを捨てるべし)

と書いてあるよーな気がする。

こんなことを言うと日本の人を悲しませてしまうが、目下の日本語インターネットは「お化け屋敷」みたいなもので、なんだか饐えた臭いのする暗がりを歩いていると、
13歳の女の子が26歳の男に強姦されて公園でただ空をみつめて横たわるだけの絶望の時間を過ごしたあとに、よろよろと立ち上がって家に帰り、何日も死にたい誘惑と戦って、このままでは自分は生きた屍になると直感したのでしょう、子供としては信じがたいほどの勇気をふりしぼって立ち上がったというのに
「十分に抵抗しなかったから合意のうえの性交である」と、この世界のどんな良心も耳を疑う判決を聞かされたり、
慰安婦なんてものは戦争にはつきもので日本だけが悪いんじゃないじゃん。
第一、自分が金儲けしたかったから売春婦になったんでしょう?
とマジメな顔で述べるひとびとがいたりで、
お化け屋敷であるにしてもきびが悪い。

しかし人間は因業で、因果はめぐる糸車なのか、累(かさね)の淵にもめぐる怨みはアルバニア、怖さみたさに四刻(よんこく)すぎて、あっというまの朝ぼらけ、(拍子木)、おもうまもなく朝日もかげって、読売産経政府の妾、
ネット廃人の亀夫とは、(拍子木x2)、おいらのこったああああ (拍子木乱打)
と歌舞(かぶ)いて見得を切ってしまうが、そういう悪い遊びも、もういい加減にしようと思ってはいる。

(身体にわるいからね)

心のほうにも悪いかというと、そうでもなくて、コンピュータを閉じてしまえばいいだけで、コンピュータのスクリーンを閉じて、ううううっっむ、とのびをして、あたりを見渡すと、不思議や、そこはいつもの自分の家で、カウチから起き上がって、ホールをとんとんとんと歩いて、ラウンジに行くと、
「小さい人たち」がモニさんと、ひおーいほいほい、と歌って踊って遊んでいる。
父親(つまりはわしですけど)を発見して、ゴジラを見つけたミニラのように、上下に激しく揺れながら走ってきて、勢いがよすぎて父親のスネに衝突してデコをおさえて痛がっている。
ばかたれなところが、まことに、わしガキであると思う。

人間の暮らしは、まず自分が快適であると感じる環境をつくることから始まる。
もちろん、それは15平方メートルのワンルームでありうる。
安くてもいいから、高音の伸びが好きな人は高音域に強い、たとえばソニーのステレオを買って、低音の響きに趣味がある人はBOSE のステレオを買って、なんでか大庭亀夫が熱愛している La Oreja de van Goghでも、もじん(@mojin)どんがなにもかも収束しなくなって自棄を起こしそうなときに聴いているらしい、わしも好きになったチャラン・ポ・ランタンでもよい、自分の耳になじむ音楽を聴いて、マカロニやシチューのようなものが好きなのにキチンにオブンが付いていなければ小さなオブンを買うか、ダッチオブンでもフレンチオブンでも買って、肌触りの良いバジャマを買ったり、文房具もデザインがよいものにして、近所においしい肉まん屋や品揃えのよい小さな立ち読みが出来る書店を探すとか、あるいは、二時間でも三時間でもぼんやりしていられるベンチがある公園を見つけて、オリジナル味のプリングルズをかじりながら、自分の良心には内緒でコカコーラ(しかも砂糖たっぷり版)を飲んで、どこまでも高い青空をみあげて、あああー、さぼるのはいいなあああー、もしかして、わし、いましあわせなのでわ、という一瞬をもつべく勤める。
そういうことを「達成すべき一生の目標」というので、言葉を変えれば、達成すべき一生の目標は未来の遠くにあるのではなくて、いつも自分の傍らにあって、何度も繰り返して達成せらるべきものなのだと思う。

一生のあいだに何事かをなさねばならない、と言う人は、たいてい「仕事」「研究」というような言葉が頭のなかにあるように見えるが、オベンキョーというようなものと、それらは同じで、夢中になって追いかけた結果として「おもわず何事かなしてしまった」という場合のみが、感心したことではないが有効といえば有効で、頭から「人間たるもの一生のあいだに何事かなさねば」では「何事か」のほうが、なにごとならむ、と怖がって駆け足で逃げていってしまう。

そういう人は往々にして「何事か」と見栄が混同されていて、わしが通った学校には、ただ一冊歴史の本をだした教師がいて、授業中に、ふたことめには「自著でも書いたが」「自著を読めばわかるが」というので、あまりの見栄の哀れさに、「自著」という渾名がついて生徒たちに冷笑されていた。

「一生の目標」が遠くにあって輝しかるべきものと設定されていたり、他人の評価の代替となるべく作品や書籍に求められたりするのは、インターネット上で全知全能をつくして、ありとあらゆるタクティクスで、自分が貶めたい相手を誹謗中傷している歯をむき出したサルのようなひとびとと本質的に同じで、実際には「自分の生活がない」ことによっている。

自分の生活が存在しないので、現実の生活では自分の娘がありながら、女のひとびとは精液にまみれた観念で、観念であるからこそ、実物ではなく「二次元」の絵で、それを不思議と思わないのは、実は自分自身も観念的な存在にすぎなくなってしまっていて、現実世界の肉体はスケジュール表にあわせて、今日はここ、明日はあそこと移動して、魂は疲労困憊して肉体から脱落しそうになりながら、息を切らせて、肉体にかろうじて追従して移動する。
生活も現実も脱ぎ捨ててブリキの勲章にどこまでも似た(広い意味での)褒賞をめざす。

ナス@Nasu035という日本語インターネットを通じて出来た友達が、この頃はうんざりしたのかツイートもしないでいるようだったが、13歳の女の子供を強姦した26歳の若い男を無罪とした裁判官について、珍しく発言して、「この裁判官はわたしの敵だ」と述べていた。
社会の敵、ではなくて、子供の敵、ですらなくて「わたしの敵」と感じるところがナスだなあー、と思って、考え込んでしまう。
なぜ、この喧嘩っぱやくて、学校の成績が(本人の自白によれば)「がんばろう」で、いたずら好きなアクセサリデザイナーは自分と世界の関係を健常に保てるのだろう。

福島第一発電所の事故があったときも、「この程度の放射能はだいじょうぶ」というテレビや新聞をみて、インターネット上にあふれる「パニックを起こすな、逃げなくてもいい」「目の下にクマをつくってまで誠実な対応をする枝野さんの誠意をくみとるべきだ」意見を懸命に読んで、配偶者の「過剰な反応はよくないよ」という助言を聞き、あまつさえ、ネット上の友人たちの一部にまで「騒ぐことない」と言われて、ナスが次ぎの瞬間とった行動は、ふたりの子供の手をひいて、東京・青山の住居から神戸の親戚の家まで一目散に逃げることだった。
なぜ、ナスにはそれが出来たのだろう?

日本語インターネットを見ていても、よく見ると、男にも女にも、そこここに「自分の生活」から社会を見て、世界を見ている人たちがいる。
たいてい、ツイッタならば500には届かないフォロワー数で、この人達のツイートを見ていると「他愛ない話」が大半で、ラーメンが食べたい、眠い、ゲームを買ったらクソゲーだった、というような発言が多いが、さらに仔細にみると、言葉がおさまりのよい言葉で、認識が観念の荒れ地にとびだしていかないで、おっとりしている。
その、おっとりした感じは、自分自身の生活がちゃんと存在することから来ているように見える。

長くなってしまったが、そこまで来て、初めて、日本語インターネットの世界のおもしろさは自分の生活など、あってもなくても同じような人が何百万という数でうごめいていて、エマニュエル・スウェーデンボルグの地獄に似て、まともな暮らしをしていそうな人間が通りかかれば吠えつき、足をひきずって追いすがってはとびかかり、相手の反撃にあって腕がもがれても、足がとれても、ひどいときにはクビが飛んでさえも相手にしがみついて自分と同じ「生活をもたない者の地獄」に引きずり込もうとする亡者の世界を通行する「怖い体験」にあるのだと気がつく。
こわいものみたさで、浅草花屋敷名物お化け屋敷というか、しかも襲いかかってくるのがパートタイムのパチモンでなくて本物の生活を失った亡者なので、スリルがあって、出口があるところまで来ても、ついまた左に曲がって、もう少しいてみよう、になるもののようです。

ワンルームアパートを出たきみは、やがて、「いままで、どうしてこのひとなしに暮らせてきたのだろう?」という相手と出会って、早く帰れる仕事について、2DKのアパートめざして一心に急ぐようになるに違いない。
そうして、やはり同僚の誘いもことわって一目散に家路を急ぐ相手と駅のホームで邂逅して笑いあうだろう。

昨日スーパーで食材買ったばかりだけど、外食しちゃってもいいよね、と述べあって、ふたりでビールが飲める駅前の居酒屋ののれんをくぐるに違いない。
いつか自分の父親が述べていた「他人の生活など、どーでもよい。自分を大事にすることが大切なのさ」という言葉を聞いたときには、なんて勝手なやつだろう、と思ったが、あれは、そんな意味ではなかったのだ、と自分が愛する人の横顔を見ながら考えてみる。
ぼくは、このひとに会えなかったら、いっぱし、やり手のビジネスマンになって、男の生き甲斐、なんちゃってたらうかと考えて、ぞっとする。
あるいは大学に残って「真に価値ある仕事」などと傲慢な思考にひたっていたのではないか。

そうして、遙か遠くからきみをみつめている人にとっては、カウンタに並んだ焼き鳥や、手羽や、なすの煮浸しや、揚げ出し豆腐は、永遠の存在の饗宴で、人間の普遍の価値が白木の台のうえに並んでいる。
ビールを飲んで、頬を赤くして、もう結婚したのに、「結婚してくれ」と言ってふざける相手を眺めている、

なあーんだ、そーだったのか、と思うよね。
秘密の答えは、いつだって、意外なところにあるのです。

でわ

(画像は、わしが手づから作ったオムライス。はっはっは。勝てるもんなら、勝ってみい)

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9 Responses to Fantastic Voyage

  1. hermestrism says:

    議論と言うか反対意見をどこに書いたら良いかわからないから人目につきにくいこちらに書くと、
    >「一生の目標」が遠くにあって輝しかるべきものと設定されていたり、他人の評価の代替となるべく作品や書籍に求められたりする

    でも優秀な素晴らしい研究者って大抵これだと思うんですよね。iPS細胞を作った研究者もVision and Hard Workと称していますし。

  2. hermestrism says:

    >自分の生活が存在しないので、現実の生活では自分の娘がありながら、女のひとびとは精液にまみれた観念で、観念であるからこそ、実物ではなく「二次元」の絵で、それを不思議と思わないのは、実は自分自身も観念的な存在にすぎなくなってしまっていて、現実世界の肉体はスケジュール表にあわせて、今日はここ、明日はあそこと移動して、魂は疲労困憊して肉体から脱落しそうになりながら、息を切らせて、肉体にかろうじて追従して移動する。

    ここの表現は理解出来るんですよね。魂が抜けたゾンビ=日本社会全体、と言う事で。
    「夢中になる」と言う言葉でもお互い指している対象の位相、状況の位相が少し違って誤解が生じているのかもしれないですけど。
    例えば、お金がどうしても必要な状況の人々は愛する人と一緒に居る暇もない、そもそも夢中と努力を区別する信号は何か?ニュートンは夢中になる遠くにある目標に努力をして微分方程式を発見した等etc。

  3. hermestrism says:

    そう考えると、「自分のしている事が今、この瞬間の自分にとって幸福か、興奮するか」と言う事になるのかもしれない。遠い目標と今が相似形になると言う事。

  4. hermestrism says:

    とすると、「未来もだが、今も大切に(幸福になる)様に夢中になる意味での努力をする」と言う事が重要になるのか。また真面目と言われるからこの辺にしといてやるぜJames(´・ω・`)フッ

  5. lun99 says:

    ガメさんいいこと言いますね。
    胸のつかえをとってくれてありがとう。
    ナスさんの存在も教えてくれて。
    私はひとりぼっちじゃなかったとはっきり知って、ものすごく嬉しいです。
    ナスさんを応援しているとナスさんに伝えてくれませんか。

  6. soja says:

    ついさっき、Oriah Mountain Dreamer という方のThe Invitationという詩を偶然目にして、
    ちょっと震えて、なんだかお礼が言いたくなったのでコメントしてみます。

    世界と自分にがっかりするたびに、ここで前向きな言葉を探すようになって3年以上が過ぎました。
    何もかも薄っぺらで上っ面なのがたまらなく辛くて、全てがくだらなく見えて、何一つ大切に出来なかった。
    きっと、「何でも言う事を聞く良い子」のふりをして、自分の魂なんてそっちのけで生きていたしっぺ返しを受けていたのだと思います。
    心と体がバラバラという感じで、自分の口から出る言葉に温度が無いのが分かりました。
    20年と少し過ごしてきた私の人生はもう失敗作で、手遅れかな、と思いました。
    もうやり直せないのなら、一度サヨナラして、来世に期待するしかないか。
    って思いながら、それでもガメさんの綴る言葉の中に見える暖かい世界に心ひかれ続けてました。
    「人は失敗する権利がある」という言葉は特に嬉しかったです。
    そしてきっといつか「私はこの人と出会うために生まれてきた」そう思える人に、今の私のこの人生で出会えると信じられた。

    そしたら、ホントに会えました。
    今はもう、心と体がバラバラになることは無くなりました。自分の声がちゃんと出せて、大切な人の声も聞こえます。これで生きていけます。

    ガメさんが日本語でブログ書いてくれてたから、救われたんだよー。
    日本語の未来はけして明るくないようだけど、ガメさんの日本語が支えてくれた記憶はずっと忘れません。
    ありがとう。

    • ギンビス says:

      私も、ガメさんの日本語ブログに助けられた1人です。大切な人と出会えたsojaさんに、心からのおめでとうを!

      • soja says:

        祝福してくださって、ありがとう!とっても嬉しいです。
        ギンビスさんにたくさんの幸せが訪れますように。

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