HeForShe

Emma Watsonの国連でのスピーチは素晴らしいものだった。
常々、「あんな可愛げのない女は嫌いだ」と性差別100%な意見を述べていたデブP
https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/14/japanese_men/
が、感動のあまり泣きながら電話をかけてきて、
「おれはもう一生エマ・ワトソンの悪口は言わん」と、鼻をすすりあげる音も汚らしく述べていたのは論外だが、男も女も、ツイッタでもwhisperでも、
ジャーナリストも政治家も、俳優なかまたちも、緊張して、声がうわずりそうになりながら、でもプロの女優らしく何度も態勢を立て直しながら、
フェミニストという単語にバカ男たちが塗りつけた泥をぬぐいさり、
男女差別の問題が「個人としての人間の自由」の問題にほかならないこと、
男たちにとっても、不自然な「男としての役割」が負担でしかないことを、
イギリス人らしい、棚からいまとりだしたばかりのティーポットで紅茶を淹れるとでもいうような、単純で簡明な、心に直截語りかけてくる英語で述べきった。

未来の人が歴史上のスピーチを10個選べと言われたら、リンカーンやチャーチル、キング牧師の演説と肩をならべてはいるだろうと思わせるくらい、素晴らしいスピーチだった。
モニとふたりで並んでCNNのビデオを観ながら涙ぐんだ。
スピーチが終わったあと、お互いの目尻の涙をぬぐいあって笑いました。

いつかオークランドの家でテレビを観ていたら、ロンドンの、もとはバリバリの人種差別主義者で、アジア人とみれば、「国に帰れ、黄色い汚い顔をさらして歩くな」と叫んでは悦にいっていたという50代の首に髑髏の入れ墨をしたおっちゃんが、「でも、もう人種差別なんて流行らねーよ。田舎のジジイどもがやることでよ。ダサイぜ」と述べていて、インタビュアーが、でも、まだスキンヘッドたちはロンドンのバスやなんかでアジア人を取り囲んで罵ったりしてますよね」と聞き返したら、
がっはっは。だから、あいつらガールフレンドが出来ねえんだよ。
「スキンヘッド」じゃなくて、「ボーンヘッド」だぜあいつら、と大笑いしていて、
人種差別はびっくりするようなスピードで急速にこの世界から完全に姿を消しつつあるが、最後に残ったのが性差別で、Emma Watsonは、「フェミニスト」という言葉を男社会がつくりあげた単語の印象である「anti-men」から
「For the record, feminism by definition is :”The belief that men and women should have equal rights and opportunities. It is the theory of the political, economic and social equality of the sexes.”」

と定義しなおすところから始めなければならなかった。

この世界に女として生まれることは、小さな地獄を胸のなかに植え付けられてこの世にやってくることを意味している。
「小さな地獄」が、やがて炎を育て、巨大な人間性を焼き尽くすまでに成長して、その人間の存在そのものを焼き殺してしまうか、毎日の自分の魂のなかに地獄があることを忘れて暮らすことが出来て、普段は対等の人間としてつきあえる夫のちょっとしたあらっぽい手つきや、支配的に動く身体の動きに嫌なおもいをする、というくらいでおさまってゆくかは、
自分が住む社会や環境によっている。

エマ・ワトソンはスピーチのなかで、自分は運がよかった、
自分が 娘だからという理由で息子ほど愛さないという両親ではなかったし、学校も「女に適した進路」というような考えをもたなかった。キャリアを支えてくれたひとたちも、女で将来は出産と育児があるから、このへんまでしかやれないだろう、というふうには考えないひとたちだった、と述べているが、それは21世紀のイギリス社会で育ったものの幸運であることは言うまでもない。

「わしかーちゃん」という言葉でいつも述べている自分の母親に聞いてみると、両親に「女らしくしなさい」と言われたことは一度もないそうで、「また男の子みたいなことをして」と冗談に言われたことも、女がそんなことをして、と言われたこともないそーだった。
この人は若いときから(当時はすでにスポーツカーのクラシックだった)ジャガーのEタイプを乗り回して、乗馬も父親より遙かにうまく、ついでにばらしてしまうと鴨撃ちまで父親の腕前では足下にも及ばないが、
この人もエマ・ワトソンと同じに、自分が女であることで、たいしたダメージをうけなかったのは僥倖にしかすぎないことをよく知っている。
恵まれた環境にある人間にとっては「いったい、なぜいまごろそんなことを大騒ぎしなければならないのか」ということも、「その他おおぜい」にとっては、毎日戦いつづけなければならない問題であるのは、貧富やゼノフォビアとまったく同じなのであると思う。

一方でJackson Kartzが性差別の突端で起きる犯罪である家庭内暴力や性的暴行について怒りをこめて述べている
http://www.ted.com/talks/jackson_katz_violence_against_women_it_s_a_men_s_issue
ように、女性であることで被害を被る犯罪や不利益を止めるには、女の人の側で出来ることは実は何もなくて、すべて男の側の責任で、男たちが考えや思考を変えてゆくほかにはない。
女の側で出来ることは、「それは女性差別だからやめろ」と抗議することだけで、その点が人種差別やゼノフォビアへの抗議と最も異なる。

女のほうだって「気がある」から短いスカートをはくんじゃん、というような性犯罪者の頭のいかれた妄想に近いバカ意見は別にしても、たとえば、昇進のときに
「結婚しても仕事はやめませんね?約束できますか?」と聞かれて「もちろん、仕事を続けてがんばります」と確約した女性キャリアが、好きな人間が出来たとたんに仕事をやめる、というような例をあげて、「女のほうにだって落ち度はあるのだ」という人にはよく会うが、
そこに男社会の圧力が、育児休暇の短さ、復職したときのキャリア上の不利、国費でまかなってもらえないベビーシッター、有料で常に満員の保育園…というような形でおおきくかかっていて、しかも、夫は夫で、自分たちに産まれた子供のための出産育児休暇が、男のほうではとれない、という、それ自体が堂々と社会の性差別を強調しているような、陰にも陽にも、可視的にも不可視的にも、女を出産・育児・家事労働に閉じ込めようとする社会の力がある。

男が男の役割を演じつづけることがいかに精神的にひ弱な男にとって負担になっているかは、日本の文化におりていって「二次元」文化をながめて、その愛好者たちの言い分に耳を傾けてみればわかる。
男は、よっぽど頭の悪い男でないかぎり、「男の役割」を演じ続けることによって自分で自分を疎外してしまう。
その結果、無限に孤独になっていって、孤独を癒やす役割に特化した、いわば「精神的なダッチワイフ」(オランダの人ごみん)としての「二次元女性」を希求することになる。

エマ・ワトソンはスピーチのなかで
「I’ve seen young men suffering from mental illness unable to ask for help for fear it would make them less of a man」と述べているが、
男たちが男の役割を演じるのをやめて「人間でいいです」、ということになれば、女たちも女の役を演じるのをやめて「じゃ、わたしも人間でいいや」ということになる。

日本社会はおそらく世界で攻撃性が最も強い社会なのは、インターネットだけでなく、活字でも、なにをみても、他人をひたすら憎悪し攻撃する「hater」の洪水で、ただ他人を誹謗中傷する以外には興味をもたないような人間にあふれているのは、日本語世界で、ちょっと他人と違う意見を述べてみれば、すぐに判る。
まるで田舎道をヘッドライトめざして飛びかかる何万という虫の大群のような「hater」の群れがあることないこと述べて襲いかかってくるのは、観客席に座って都合がよい日本社会しか見ないで暮らす人間でなければ、誰でも知っていることだと思う。
この無暗な攻撃性が男社会の特色であるのは、むかしからよく知られていることで、
さっきのスピーチでも
「If men don’t have to be aggressive in order to be accepted, women don’t feel compelled to be submissive. If men don’t have to control, women won’t have to be controlled.」
という箇所があったとおもうが、男がいまの社会に適合できなくなって骨董品の「男の役割」を捨ててしまえば、なんのことはない、自分と対等の、素晴らしい仲間があらわれて、人間の社会であるかぎりは、周囲と戦って自分たちの人生を切り開いていかなければならないのは仕方がないとしても、1本の剣が2本になって、相手に襲撃されても「女びと」という魂で結ばれた仲間が盾をきみの前につきだして助けてくれる。

違う角度からみれば「適者生存」という「適者」は「強者」ではないということを以前にも述べたが、伝統社会の「男の役割」を顕在意識的あるいは潜在意識的に基調底音としてもっている社会は、人口の半分を生産性のある労働人口としては捨てた日本社会が典型だが、「生産性競争地獄」とでも呼びたくなるいまの世界では、社会として生き延びていくことができないだろうと思う。

HeForSheがおおきな、決定的な運動になるのを願っている。
緊張して、ときに声を震わせながら、絞り出すように、女の解放がそのまま人間の解放であることを述べるエマ・ワトソンは、
わしら、どーしよーもない、なーんにも考えてない身体がでかいだけのトドの仲間みたいなデカmaleたちにさえ、
勇気をふりしぼって、自分たちの独立と自由のために「人間になりたい」「人間として扱われたい」と叫び始めた世界じゅうの、夫に殴られて目のまわりに隈をつくり、折れた腕を三角巾で吊った妻や、
床に投げ捨てられた一万円札を、よろよろと立ち上がって拾う高校生、
そしてなによりも、13歳で、わけもわからないパニックのなかで無理矢理性交の相手にされて、必死の勇気で法廷に立って、裁判官に「おまえがわるいのさ」と冷酷を極めた言葉を浴びせられた女の子供の姿が重なってみえるようで、もうこんな社会は終わりにしなければ、女びとたちの助けが、これからの苦難の未来にはどうしても必要なのだから。

何十年も待ったのに、この洞窟に光があたらないのなら、自分たちの足で、太陽の光があたるところまで行くしかない。

(手をとりあって)

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