Daily Archives: October 12, 2014

日本語ノート2

日本語の底の闇へ歩いていって、たとえば政治と個人の葛藤が立てる軋音を聞きたければ、やはり吉本隆明よりも堀川正美のほうがいい。 吉本隆明が自分の「絶望」に酔っ払ってしまった、そのさらに下の奈落まで堀川正美は降りていったからで、たとえが悪いが、潜航限度を遙かに超えて深い水深に沈潜して、鋼殻が水圧に耐えかねてあげる悲鳴であるとでもいうような日本語は、堀川正美だけがたどりついたものだった。 吉本隆明は、絶望、絶望と述べて同時代の誰彼にも「おまえは絶望が足りない。もっと深く絶望しろ」と述べることが多かったわりには、本人は、やさしい笑顔と近所の人に「先生」と呼ばれたりする下町風の「知識人への敬意」を単純に愛した人で、自分個人の生活には光が射しているが、堀川正美は、生活というようなものには遙かに背を向けて、吉本隆明が推奨する「絶望」の、その向こうの誰にも届かないさきへ歩いていってしまった人だった。 ぼろぼろな敗戦の、前線から引き揚げてきた復員兵士の眼で、鮎川信夫は戦後の日本を眺めていて、吉本隆明のように特に絶望など志さなくても、鮎川の詩を読んでいると、本来は抒情詩人であったこの人が、戦後の日本社会においては、そこに蠢く人間たちをさえ「意匠」と感じて眺めていたのがわかる。 国情のちがい 心性のちがいはどうしようもない いかに私が外国かぶれでも 愛という言葉は身につかぬのである 身についていたら とっくに破滅していたろう _「愛」 と述べた詩人は、自分が「愛」という言葉を口にしたことがなく、「愛」を口に出してささやかれたことがないことを「愛」という感情そのものが舶来であることに理由を求めるのが常だったが、真実はどうだったろうか。 堀川正美は、しかし、鮎川が立っていた地平線をさえ通り越して、日本語世界には珍しい乾いた感情が言葉をひび割れさせ、変形させるところまで到達してしまっていた。 そこでは表現も言語も壊れて、美しさは浅薄なものとみなされ、完成された表現は、虚偽であるとみなされた。 わたしのイロニーはいまや一本の犬釘となる この木偶ピノキオの心臓に打ち込む 心臓に打ち込む よく心ひらいた御窓よ はめ殺しの窓を許せ 日は輝いて降る霜をみつめる年々 すぐにあなたの年齢を追いこすさ 深い秋    もう ないさ _ねむれ 姉貴 国友千枝追悼 と書く詩人には、現実の世界では、夜のあとに、また性懲りもなく太陽があらわれて、朝がくることが訝しくて仕方がなかったことだろう。 日本語が絶望に届いていたのは、だいたいこの頃までで、70年代といえば、すでに中年になってから徴兵されて戦場へ送られた大岡昇平や吉田健一を除けば、飢餓と陰惨な軍隊内部の暴力を生き延びて、戦いといえばほとんどの場合、現地の村落を襲って食べ物を収奪するか、女たちに襲いかかることを意味していた戦場から生還した鮎川信夫たちの世代は40代から50代であったはずである。 石原吉郎が死に、鮎川が死に、田村隆一や、北村太郎たちが死んで、日本語が記憶した「絶望」は、彼らの死とともに失われていく。 最大で直接の原因は「詩が読まれなかったから」で、二千部や三千部を刷って大量の返品がある詩集などは、ふりかえれば当時の日本語世界の最高の到達点でも、すでに物質的繁栄に浮かれて、コピーライターの言葉に踊るようになっていた社会では見返られることすらなかった。 ひどいことを言うと、きみが「日本語を捨てることにした」というときの、その「日本語」は、近代の遠くから日本語をここまで追いかけてきたぼくにとっては、ちょうど猿類の母親が死児を抱えて生活するように、日本語という一種独特な洞窟の壁に、もっとも心地よく反響する表現を売りさばいて、とうとう日本という社会の性格をつくりあげてしまった、商業的コピーライターたち、たとえば糸井重里のようなひとたちが、幾ばくかの見返りのために無惨に刺し殺してしまった日本語の屍にすぎないのだと思う。 きみが新しい生活を始めた町は、英語人の町で、英語は実務的で、不動産契約にもっとも向いた言葉だとフランス人がよく憫笑するように、情緒が剥落した言語だが、その奥には、人間性へのあきらめや、人間そのものへの途方も無く深い絶望が眠っている。 20年後、30年後、きみがそこにたどりついたときに、ぼくの母語について、きみがどんな感想を抱くか、ぼくにはわからない。 これからぼくは、肉体の原形をとどめないほど破壊された日本語を前において、検屍する人のように、日本語というかつては美しかった言語の肉体にメスをいれていくだろう。 紫色の痣斑、くずれた顔、とびだした眼球というような様相を呈しても、なぜか屍体というものは、やさしい、なじみ深い感じのする、言ってみれば、ずっと会いたかった友達と邂逅するような気持ちになるのを、きみは知っているだろうか。 もう誰もいなくなったこの部屋で、ぼくは日本語のうえに上体を屈ませて、夢中になって音韻に付着した褐色粒や、みつかりにくいところに隠れていた糜爛を注意深く眺めて、その理由を考えている。 そのことを、なんてムダなことをするのだろう、といつかきみは手紙で笑っていたが、そうでもないのさ、 日本語が大好きだというのが第一の理由だが、ほかにも理由はある。 その理由を話すのは、いまは早すぎる。 きみが英語の奥底の暗闇にとどいたとき、きっと、ぼくも打ち明ける。 そのときまで。

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Summer Wine

1 夏になれば飲み物も変わる。 ニュージーランド特有の質量をもっていそうなほど強烈で透明な午後の太陽の光が反射する芝を眺めながら飲むSauvignon Blancはニュージーランドで生活する楽しみである。 日本にも岩牡蠣があって、たとえば有楽町のFCCJ(外国人特派員協会)のバーから通り越しに見えるサトー製薬の「サトちゃん」の気温計が37℃をさすのを眺めながら白ワインと一緒に食べるのは東京らしいスリルも味わいもあったが、ニュージーランドにはClevedonの牡蠣があって、生で、あるいは天ぷらにして食べる。 タルタルソースでもおいしいが、ホワイトビネガーで食べると、ぶっくらこいてしまうほどおいしい。 10月になって、もう昼間(ちゅうかん)は夏で、緑の洪水のような自分の家の庭のなだらかな広がりと、白アンチョビと牡蠣の天ぷらを肴に、よく冷えたSauvignon Blancやロゼを飲みながら午餐ができあがるのを待っていると、夏だー、と思う。 日本では、ババリア人の影響なのだろうか、ビールは夏ぽい飲み物で、ビルの屋上ででっかいマグになみなみと注いで、一気に飲み干して、口の周りに泡をくっつけて「ぷはああー」というイメージがあるが、イギリスやニュージーランドでは、(最近はアメリカ人の影響で変わってきたけれども)どちらかという寒い天候のイメージがある飲み物で、飲み方も、半パイントのビールをふたつの手のひらで抱え込んで、ちびちびと飲む。 どこかで聞いたことがある人もいるだろうが、若い欧州人がワインを飲まなくなってひさしい。 週末になればダンスクラブに繰り出して、ときには裸になって踊り狂うクラブカルチュアのせいで、ワインは見捨てられたように飲まれなくなって、ジンとウォッカが取ってかわった。 20歳くらいの頃は、クラブのフロアで、グラスから飲むのがめんどくさくなって、ウォッカを瓶からラッパ飲みしたりしていたが、酔いの刺激は強烈で、まるまるひと晩の記憶がないのは普通のことだった。 ワインのほうはといえばお行儀のよい社交の道具で、初めて行く超高級レストランで、Tシャツとスニーカーのチョードレスダウンででかけて、なんとなくバカにした態度のウエイターおっちゃんも、テイスティングの仕草を確認すれば、いっぺんして悔い改めた態度になって、うやうやしくなる、というような下品な世界に属している。 母親がロシア人の女の友達の家のパーティに出かけて、スウィミングプールに古典的な飛び板がついているのをおもしろがって、バク宙で飛び込んだり、二回ひねりで飛び込んだり、しまいには60年代のサイコーにクールな映画「Harper」に出てくるローレン・バコールの娘のマネをして、ツイストで踊り狂ってみせて、くたびれはてて、カウチに深々と座り込んで、半分ねむっていたら、パーティのホステスが、やってきて、これを飲んでみろ、と冷凍庫からとりだしたばかりの、ロシアの、見たことのないラベルのウォッカの瓶をもって立っている。 「飲み過ぎたから、いらない」というと、両手を腰に当てて、 「ガメ、きみは、わたしのウォッカが飲めないというのかね」と、ふざけて述べる。 ふざけてるけど、どうやらこれには、このチョー美しい高校生の女びとの栄誉と誇りがかかっているようだ、と理解して、その氷よりも冷たい液体を一気に飲むほすと、凍った炎がのどを通過するようで、ウォッカという飲物の素晴らしさを理解したのは、そのときが初めてだった。 酒も飲み過ぎると興味がなくなるもので、この頃はもとにもどって、おとなしくワインばかり飲んでいるが、ときどきジンやウォッカを飲むと、モニさんと結婚するまえの、ろくでもない、でもおもいだすと、心臓を小さな棘でちくりとさされたような、感情でないもので涙腺を刺激されたような、不思議な気持ちになる。 2 分厚いコートを丹前のように着込んだばーちゃんふたりが、冬の朝のバルセロナの舗道にだしたベーカリーのテーブルに向かい合って座ってスペインのあのはちみつを塗ったクロワッサンとカバ(スペインの発泡酒)でおしゃべりに熱中している。 グラシアのカーサブランカがあるのとは反対側の端っこにある坂道の途中で、 「ガメの道順はわかりにくいなあー」とつぶやきながら、あの坂道をハモンショップに向かって歩いたjosico はんは、もう少し坂を先までのぼっていれば、このベーカリーの前を通ったはずである。 ベーカリーのテーブルでカバを飲むのはヘンだが、あの近所の人はいまでもそうしているに違いない。 カタロニア人のマネをしてporron http://www.worldwinder.com/2013/01/17/drinking-wine-from-a-porron-in-spain/ からワインを飲むのが、グラシアにいるときの、ぼくの、モニが笑いながら顔をしかめる習慣だが、モニさんは笑っても、不思議や、バルセロナにいるときには、porronのみでないと赤ワインはおいしくない。 英語人のぼくには俄には信じがたいほどカッコイイ名前のカタランのガールフレンドと一緒に日本の四国島に住んでいるルークは、porron飲みが出来るかしら、と考えて、あのなんだか途方もなく無垢な魂のオーストラリア人ルークも、日本語世界の薄汚さに嫌気がさして日本語を使うのをやめてしまっているのを思い出して、ちょっと酔いがさめる。 カバでつくったサングリア や、イチゴやオレンジやグレープを、これでもかこれでもかこれでもかといれた裏通りの料理屋のおばちゃんがつくってくれるサングリア、 バルセロナには夏の飲物がたくさんあって、やわらかい、それでいて爽快な飲み味を思い出すと、バルセロナがなつかしくなる。 グラフィティだらけのシャッターが降りた、夜更けのバルセロナの裏通りを歩いて、そこにだけ人恋しさの光が射しているような小さな広場に面した一角に出ると、 「Bona nit」 「Adéu」 カタロニア語の、少し誇りがこもって浩然とした響きが、あちこちで壁に反射している。 3 落ち着いて考えてみると、もうあんまり日本語の側に立って日本語と関わっていてはいけないのだな、と考えたのは、日本語に名物の、訳がわからないくらい理由もなく失礼なひとたちや、これと目を付けると、ほとんど永遠につきまとって、あれこれと秘術をつくして中傷を述べ続ける不思議なひとびとに嫌気がさしたというよりも、日本語人と世界への関心のもちかたが根本から違うからなのではないかと思いあたった。 あれ以来、ここまででたくさんの友達の日本の人が指摘してきたが、集団サディストたちも、突然やってきてひとつかみの悪罵を投げつけて自惚するらしいひとたちも、どうやらほんとうに「他人の視線」が自分をまで決定するらしい。 「自分が楽しければいいんじゃないの?」 … Continue reading

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