Daily Archives: October 19, 2014

For everything a reason <哲学者の友だちとの往復書簡I>

(口上:以下の記事は、尊敬する年長友人の「哲人どん」 @chikurin_8th と語らって、おもろそうだからやってみんべ、と決めた「往復書簡」の第一信です) (そんなことをばらされては嫌に決まっているが、対話の環境を明らかにするために述べると、哲人どんは職業的な哲学者という珍しい職業の人で、かつ哲人どんが、うーそおおおおーん、と嫌悪感で身悶えしそうな通俗に通俗を、下品に下品を重ねた言い方をすると、「某旧帝大系大学哲学科教授」でもある。 つまり、簡単に言えば、あのヘロヘロ賢者、哲人さんの正体は、わしのようなアホにも判りやすく話をする教育者的技巧にも哲学的思考の定石にも、訓練がなされているどころか、熟達したマスター哲学亀仙人なのでもあります) (ばらしちった) (敬語はめんどくさいから省いてあるwので、ひでー、と思うでしょうが、ガメ・オベールのやることだと思って我慢しなさい) (コメントやツイッタを通じて議論していくとりかかりにすべ、という企みなので、あらゆる意見を歓迎いたしまする。 おおおお、な意見は当然、みなで議論いたしまする) —–<以下本文>—– 母語に限らない。 言葉は世界にどんな姿を与えているのだろうと思う。 言語に関心があって、言語について考える習慣を持っている人で、人間の言語が伝達に向いていると考える人はいないだろう。 鳥の啼き声の模倣から出発した人間の言語は自分の意識を深く掘り下げてゆくのには向いているのに、というよりも意識そのものであるのに、その意識が視ている陰や造形がどんなものであったかを他人に伝えることは出来ない。 認識は常に言語の褶曲に沿って歪んでいるが哲学的知識を持ち出さなくても、ちょっと考えてみればわかるとおり、認識は現実に対して優位である。 人間が現実だと信じているものは、どのような場合でも認識にしか過ぎない。 現実が個々の人間によって異なるので、きみは世界を共有するためには自分の認識を他者に伝達する試みに成功しなければならないが、 そんなことが出来やしないのは、 たくさんの詩人 たくさんの物語作者 たくさんの画家 たくさんの音楽家 が証明している。 The force that through the green fuse drives the flower Drives my green age; that blasts the … Continue reading

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オカネという批評

当時の最強国ロシアと戦争して勝つことによって、歓喜のあまり、日本は発狂してしまったのだ、と夏目漱石は考えていたようでした。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/02/16/夏目漱石の贈り物/ 黒溝台の会戦を耐えて後年の日本軍の作戦の思考停止ぶりを予感させる旅順攻略戦を経て、ついに日本海海戦での大勝に至る対ロシア戦の勝利は日本人の最も甘美な記憶となっていまも、たとえば安倍政権とその支持者たちの脳髄をピンク色に染め上げている。 感動的なシーンもまたたくさんあって、「ツシマ」(=日本海海戦)での日本軍の完勝が伝えられるとヘルシンキでもロンドンでも人々が通りに駆け出て帽子を空に放り投げて歓喜したという。 当時の新聞の挿絵になって、いまの時代にも、その圧倒的な歓び、あの「国家の赤ちゃん」みたいな国が巨大なロシアに勝ったのか、という意外な事態への驚愕が伝わってくる。 …ということになっているが、よく考えてみると、ヘルシンキで歓喜していたフィンランド人たちと、ロンドンの通りで、カフェのテーブルに駆け寄って、「おい、聞いたか?日本が勝ったぞ、きみ」と述べているイギリス人たちは別の事柄を喜んでいたので、フィンランド人たちは長い間強烈な圧迫を加え続ける、小国には手も足も出ないロシアという強権に仔犬がかみついて撃退したのを心底から喜んでいたのに比して、イギリス人たちは、欧州市場における、賭け金が何十倍にもなって戻ってきた、自分達の賭博の目も眩むような大勝に酔っていた。 事の発端はユダヤ系人たちの動きで、ロシアと開戦した日本を、ほぼ全面的に冷笑で迎えた金融市場のなかで、ユダヤ系人たちだけが日本のための資金の調達に動き始めていた。 ロシアにおけるユダヤ人弾圧への反発、あるいは義侠心から、ということになっているが、落ち着いて考えてみれば、そんなことがありうるわけはなくて、プロの投資家ならば、5分5分の賭けを熟考する、1%の要素に判官贔屓を加味することはありえても、判官(ほうがん)贔屓だけで投資したりすればハルク判官にあっさりフォールされるだけである。 なんちて。 …失礼しました。 動かせない事実は、極東アジア人への偏見、というよりは当時においては「常識」であった「嘘つきで仕事をしているふりをするのが上手な怠け者」というような極東アジア人観からユダヤ系資本家たちと、それを観察していて後に続いて日本の戦争債を引き受けた英語人たちが色眼鏡を自由に外して事象を観察する眼力をもっていたことで、そのちからがどこから来たかといえば、やはり長年の「金儲け」(←下品)の経験から来たのであると思われる。 カネのことはカネに聞け、という。 理屈をこねても仕方がないので、オカネを稼ぎたければ、世の中が何にオカネを払っているかを凝っと観察して、オカネの流れのどの辺にでかけて、なにに注目すればよいか考えろ、という意味です。 必ずしも投資だけではなくて、たとえば大きな会社に勤めているエンジニアで「優秀な人」というのは、たいてい、技術的なシャープさとマーケティングの感覚がうまくバランスしている。 むかしNTTがいったんそれで会社を持ち直したi-modeは技術的には全然ダメな技術ともいえたが、日本という市場には最適の技術で、テクノロジー的には先進的な相手に囲まれながら、あっというまにビジネスモデルを回転させて大金を生み出していった。 「オカネ」が、ぶつぶつと聞こえるか聞こえないかの低い声で呟いている言葉は、頭をしぼって、完璧な理屈を立てて考えてもダメで、日本で、最もマーケトのなかでのポジショニングが上手で、気がつくといつもオカネが盛大になだれ込んでいる滝壺に奥でマネーバッグの口を開けて待っている人といえば孫正義だが、この人の会社の名前の「ソフトバンク」は、 初期の頃役員だった人によると、音響カプラ300bps時代にソフトのオンライン自動販売機を思いついて、デパートメントストアにおいてあるATMのアナロジーで、その場で(当時のPCの記録媒体だった)カセットテープにソフトをダウンロードするビジネスを「ソフトウエアの銀行」でソフトバンクと名付けた。 渋谷西武デパートメントストアやなんかに設置したよーです。 ライバルのアスキー社もマネをしたりしたようで、コンピュータ業界の人間からは有望視されたビジネスモデルだったようだが、全然ダメで、あとから来た訳の判らない不明ガイジン(←わしのことです)が、だって、ダウンロードするのに2時間くらいかかったでしょう? そのあいだ、機械の前でじいいいいっっと待ってるの?と聞いてみたら、いや、それは、だからデパートメントストアへの設置で、ダウンロードしているあいだは、店内をひとまわりして買い物するから一石二鳥だろう、という理屈だったんだよ、といいとしこいたおっさんがマジメに述べたので大笑いしてしまった。 畢竟、頭だけでこさえた理屈の画餅に帰する運命にあること、この如し。 オカネの「絶対批評力」がおよぶ範囲は興味深いもので、家のなか、 おとうさんの英語教材なんて何の役にも立たないんだから、次の教材はNHK基礎英語テキストでたくさんだと思う、から始まって、中央銀行の総裁が、経済を睨みながら決めたつもり、つまり国内に焦眉して決定した通貨政策を、もっとおおきなバックグラウンドの世界経済が批評力として働いて、円安も円高も、意外な結果を引き起こすことがある。 マイナーカレンシーに注目する習慣を持っている人はみな知っていることだが、実体経済で流通する通貨量の数倍が投資経済で流通するようになっても、案外と上下しながら国力、といっても現代ではパーキャピタに還元された国力だが、の水準へ収斂されてゆく。 ニュージーランドドル対日本円を例にとると、この15年間で1ドルが39円から92円のあいだで変動しているが、よく見ると、55円、62円、85円という国力を評価する「批評軸」が存在する。 背景にあるのはUSドルで、実はUSドルが「絶対批評力」として、円とニュージーランドドルとに評価をくだしている。 アベノミクスが失敗した理由のひとつはオカネの批評力についての無知だとも言えるとおもうが、こっちの話題にはいっていくとヘンな人がいっぱいくるだけなのが経験から判っているので、こんなところで述べてもよいことはひとつもない。 オカネの批評力が顕著にはたらく分野で常に興味深いのは美術や文学で、どんなに文学コミュニティの評価が高くても頑として市場がオカネを払わない作品(例:現代詩)もあれば、評価がぜんぜん低いのにどんどん売れてゆく作品(例:挙げるとうらまれる)もある。 蒐集したむかしの週刊誌を読んでいると流行作家が対談で酔っ払って、純文学作家にむかって「そんなこと言ったって、先生、あんたの小説は偉いのかも知れないが、ぼくの小説はあんたの小説の何十倍も売れているんですから」と乱暴な口を利いたりしていて、スリルがあって、なかなか良いが、冷静に考えれば流行作家と純文学作家は「小説」という便宜的呼び名が同じだけで、まるで異なるマーケットで活動していたのだから当たり前といえば当たり前で、単純に芥川賞作家の宇野鴻一郞が「あたし、あそこが…もっと感じさせて」とか書くから、マジメな文学青年が錯乱して、あれも文学これも文学で混乱しただけなのではなかろーか。 市場における美術の価値は、株式と同じで、その会社が生産性が高い良い会社かどうかよりも、人気投票で、株を買う人がその会社を良いと思うかどうかのほうで決まる。 つまり、どの美術が最も価値が高いと投票されるか、によって決定される。 洲之内徹は風変わりな人で、どの絵が市場において高く評価されるようになるか精確に知っていながら、画廊主であったのに、最も評価が高くなりそうな絵は売ろうとせずに押し入れにしまいこんで寝床へ行く前に日本酒をなめながら飽かずに眺めるのを趣味とした。 確かな審美眼があった、とも言えるが、マーケットと絶対美の関係を熟知したのでしょう。 美術とオカネの作家対批評力の相克は長いあいだ意識的に行われてきたのでダミアン・ハーストや村上隆のように作家の側から商業主義のほうへ踏み込んで長いあいだ受け身に終始してきた作家の側から批評軸を逆に作り出そうとするコントラバーシャルな試みも行われている。 以前に何度か書いたが、日本文学が破滅した理由のひとつは、突出してすぐれた日本語芸術であった現代詩に社会がオカネを払わなかったからなのは明らかで、いつかその趣旨を引退した老編集者にしたら、でもペラ(←200字詰め原稿用紙)一枚一万円とかいうひともいたのよ、と言っていたが、同じ一枚一万円でも、短編小説でも30枚30万円だが、現代詩なら多くても4枚4万円で、「一枚」にかけるエネルギーの大きさの違いを考えると、お話にならない気がする。 結局、社会が大金を払ったのは糸井重里に代表されるコピーライターたちのほうで、現代詩人の軽く百倍を超える収入を誇るコピーライターたちの空疎な(コピーライターの人ごみん)言葉のブラックホールに日本社会自体が呑みこまれていって、言語の空洞化、現実からの剥離が起きて、フリーター、ニート、エンコーという言い換えのなかでまぎれもない現実が虚構化されて日本人全体が現実に対処する力を失っていったのは、オカネという社会の批評の正直さの表れと言えなくもない。 音楽は、例の「ブルースを聴いたみるかい?」の続きで書きたいので、ここでは取り上げない。 オカネという、きみが立っている「場」からのきみへの批評は、たいていの場合、つまりは給料で、明然と言われないだけのことで、月に20万円の給料をもらう人は、社会からの評価が月にして20万円で、少し後退して、「場」自体が視野にはいる世界の経済からみると、オスロのマクドナルドで店員をしている高校生の半分以下の価値と評価されている。 いちど触れたのだから、ついでにもういちど孫正義の例をもちだして歴史をさかのぼってみると、このひとがオカネの声を聞いて、すたすたすたとオカネが流れを変える場所にでかけて、座り込む場所の絶妙さは素晴らしいもので、PCのソフトウエアは違法レンタルで入手するのが常識で、秋葉原のPCショップでPC9801を買えば「おまけ」を入れておきましたから、と言われて、家に帰って箱を開けてみれば、一太郎や123がコピーされたFDDがはいっていて、ソフマップのような違法「レンタルソフト」の会社が全盛のときに、他人の失笑を聞きながら、「日本にもアメリカ合衆国なみにソフトウエアをオカネを出して買う日がくる」と予測を立ててソフトウエアの卸売り会社を買い取って、市場に地歩を占めて、インターネットが始まれば、スタンフォードの京都校に巣くっていた学生たちの言うことをオカネの声と聞いてヤフーの主となるポジショニングは、英語の世界では不思議なほど知られていないが、見事であると思う。 オカネの声を聞くのに慣れてくると、たとえば自分の国の政府がどういう政府なのかも判然としやすくなる。 … Continue reading

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