ノーマッド日記18

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Skip, という。
日本語ではなんというか知らない。
日本にいるときには見たことがないので、もしかすると日本にはないのかも知れない。
鋼鉄製のでっかいバスタブみたいな形のゴミ箱で、引っ越しでも大掃除でも、家から大量のゴミが出そうなときに頼むと、クレーン付きのトラックでやってきて玄関の前のロータリーなりなんなりに置いていきます。
クルマが一台そっくり入るくらいのおおきさがある。
高さは2m、長さが5m、幅が2m、そのくらいのおおきさ

http://www.joneswasteservices.co.uk/index.php?page=skips

庭のデザインを変えるので、大量の枝や葉っぱが出る。
庭師のひとびとがやってきて、毎日、朝から晩まではたらく。
青空がかげりだして、雨がふりだして土砂降りになっても、ずぶぬれになりながら昼時以外はびったり仕事をして、
料理のおばちゃんがつくったパイやキッシュを食べて、午後もまた暗くなるまで仕事をする。
仕事が終わったら驚くべきことにキッシュやパイのお礼状が来た。
いいひとたちだなー、と思う。

前の家の持ち主はなぜかバナナの木を植えてあったりして、ヘンな庭の趣味の持ち主だった。
会社の社長と外科医だかなんだかの夫婦だったかなんだか、そんなひとたちだったはずだが、夫婦の寝室の庭に面したドアから数歩のところにバナナの木を植えていたところをみると、起きて、もぎたてのバナナを食べるとかなんとか、変わった夢があったのでしょう。
夢はちゃんと現実になって、たわわなバナナがたわわたわわたわわと実って、食べると結構おいしいが、バナナの木は、しどけないというか、だらしないというか、収拾がつかない形の木で、庭木としてはチョーかっこわるいので、全部切り倒すことにした。

パームトゥリーの葉っぱは、見栄えはいいが、けっこう大きくて、おおきいものは3m以上ある。
下のほうは褐色になって、うううーむ、サイクロンが近づくと落ちてくるべな、と思ってみていると、ちゃんと落ちてきます。
ラドンが裏庭に降り立ったようなものすごい音を立てる。
棕櫚・パームトゥリーの類いは、ニュージーランドでは「雑草」の分類で、切り倒して掘り起こしてしまうのはよいが、一本始末するのに3万ドル(280万円)かかるので、吝嗇が発揮されて、ほっぽらかしになっていたが、これもぜんぶ伐採することにした。

ブログ記事に何回か出てくるブーゲンビリアも、年経りて、蔓がいよいよ太くなって、3センチくらいもある棘がいっぱいついて、びよおおおおーんんと跳ね返って庭仕事の人が怪我したりするようになったので、夏の盛りには花がぎょっとするほど美しいとは言っても容赦しないことにした。

一日経つと、skipがふたついっぱいになる。
このセルロースやなんかをみんな二酸化炭素と水で合成するんだから、自然の生産力はすごいなー、とアホなことを考えているうちに庭がみるみる違う姿になって、見違える姿になる。

モニさんと、ふたりで、紅茶を飲みながら、
あそこは薔薇にしよう。
奥のベジガーデンの手前は、こんどこそイタリア・トマトを大量に植えよう。
ナーサリーに行ったら、黒オリブの木を注文しておかないと、
レモンだけでなくて、隣にライムも植えよう、と話しあう。
塀のところはイチジクがよいのではなかろーか。
へー

庭について話し合うと言う行為は実は浦島太郎の玉手箱で、庭のランドスケーピングについてことごとく話し終えると、世界について語り終えた長老のように、あっというまにおじーさん、になってしまうよーな気がするが、人間30歳を過ぎると、余命はどうでもいいといえばどうでもいいというか、ぐいぐいぐんぐんやりたかったこと、というようなことは、あらかたやってしまったので、毎日の生活を楽しむ貪欲さのほうが頭をもたげてくるらしい。

われながら家付きジジへの第一歩だが、それならそれでいいもんね、と思う。
面目が一新されて、中途半端にトロピカルだった一角が廃止されて、(表の大陸欧州風に比して)イギリス風な裏庭を見渡しながら、フィジーのアウトリガーホテルの「プロモーションのおしらせ」を見て、おお、安い、おまけに小さい人たちタダで、しこうして、ナニーサービスまでついておる、とつぶやいてみる。

ニューカレドニア、フィジー、タヒチというような島はニュージーランドから3時間くらいなので、10日間くらいちょっとだけでかけて、プールサイドで、だらりいいーん、をしているのには向いている。

めんどくさいような気もする。
弛緩しすぎている自覚はあるけれども、これも悟りへの道と言って言えなくない。

弛緩駄座、なんちて。
(道元さん、ごみん)

2

ときどき日本語インターネットを訪問して、日本語読解力維持を兼ねて、どんなことが起きているか見物するが、ほかの言語に較べて相変わらずhaterが充満していて、際だった特徴をなしている。
憎悪人は憎悪人なりに工夫して、多少でも知的に見えるように皮肉を工夫したり、冷笑の挙にでたり、罵倒「芸」を磨いたり、ややそれなりに努力していると言えなくもないが、もともと他人が憎くてたまらない、という謎の気合いが下地として透けてみえるので、あんまり「功を奏す」というところまではいかないよーです。

国家社会主義的傾向がどんどんひどくなったり、ほとんど理由が不明な隣国への憎悪が膨れあがっていたりする現象は、いうまでもなく言語が孤立していて相変わらず「日本語の洞窟」に住んでいるからで、と書いていってもよいが、実はこの「言語の洞窟」から比較的自由なのは英語とスペイン語世界くらいのもので、ぜんぜん異なる文明が一カ所に犇めいていて人間が大規模に年中行き来している欧州を除いては、ロシア語世界も中国語世界も、といっても中国語はパーなので後者は中国系人からの伝聞によるしかないが、同じようなものと言えなくもない。

判ることは日本語世界の場合は、あからさまにものごとがうまくいかなくなりつつあることが地球の反対側にいても話題としてよく聞かれるくらい知られつつあることで、どうやら日本社会では女びとが奴隷とあまり変わらない立場であるらしいこと、ゼノフォビアが重症で移民による畸形人口比の解消などは、はっはっは、冗談はよしこさん(©林家三平)であるらしいこと、福島第一は「アンダーコントロール」どころか、当初よりもよっぽどひどくなって、ごまかすにも手も足も出なくなっているらしいこと、なんだかやたら戦争をしたがる人間が増えているらしいこと、中村修二のノーベル賞インタビューで述べられることを聞いていても、日本の会社は相変わらず社員のものはおれのもの、社員の家族もおれのもの、おれのものは、あたりまえだけど、おれのもので、社員のオカネも時間も、どうかすると人生そのものも会社のもので、あんまりわがままは言わせてもらえそうもない、という個人にとってたいへん厳しい生きづらい社会であるのが第一。

次にはそこまでして入れあげているのに、なぜか出来てくるものは冴えなくて、15年前ならばテレビはソニーとシャープで、コンピュータでも東芝とソニーが高級機で、ほんとうは日本製が欲しいけどオカネがないからacerや asusで我慢するべ、だったのが、いまはテレビで最も高いのはサムソンで、同じスペックのソニーのほうが安いが店員が、「ソニーは製品の思想が古くてニュージーランドみたいにホームオートメーションが普通に成っている国には向かないと思いますよ」という。
わし家はオートメーションなんちゅう、おそろしいシステムではないが、テレビなら大きさは65インチ、HDMIは少なくとも4つ、wifiにフックする機能と2.0でもいいからUSBのソケットがふたつはないと嫌なので、…と必要な条件を列挙すると日本製品で買えるものはなにもなくなって、コンピュータはアップル、テレビはサムソン、クルマはBMW、ランドローバー、シトロン、掃除機はどれもダイソン、セキュリティシステムは台湾、自動のゲートとガレージドアはオーストラリア、冷蔵庫はニュージーランド、自転車はアーンドラとイタリア、アメリカ、キッチンのホブはフランス、皿洗い機はスウェーデン、…と、さっき、この記事を書こうと思って家をうろうろしてみたが日本の会社のロゴがはいったものはパナソニックのマイクロウエーブがひとつあるだけだった。
あ。あとシマノの釣りのリール。
ヨットの(ヨットの世界では高級エンジンの)ヤンマーのエンジンをいれるのも忘れている。
でも、それだけです。
みっつ。

理由のひとつは、よく話題になる「日本の工場マネジメントの下手さ」で、同じ中国の地方に工場をつくっても、日本の人は要求が過大で、だいたい中国のひとびとのほうは面従腹背に陥って、日本の会社側がよく事態を把握できずに訳がわからないでいるうちにコントロールを失ってゆくのだという。
Made in Chinaと言っても工場管理手法によって品質に雲泥の差があるのはいまの世界ではふつーの消費者も心得ている常識だが、日本企業の工場のなかには平然と「安かろう悪かろう」製品を製造しつづけているところがある、と、なにげなし、やや低いつぶれた形の鼻を高くして、近所の、仲の良いビール友だちのドイツ人おやじが述べていたのを思い出す。
外国人と付き合う、付き合いかたの下手さが、製品の質に及んでいる。
なるほど、メルセデスSクラスとかは、「トルコ人のつくった芸術品」ちゅうもんね、とおっちゃんにいうと、ガメ、きみは国際親善という言葉を知らんのかね、ホスピタリティというものは異文化間では大事なものだぞ、と怖い顔をしてにらまれた。

日本語インターネットをみると、「外国の人がみたらどうおもうか」
「世界に対して日本人として恥ずかしい」という言葉がよく出てくるが、パスポートを一個しか持たしてもらえないらしい日本政府の呪いがかかった日本の人とは異なって、パスポートを複数もってちゃらちゃらして暮らしている身の上としては、国などはどーでもよいのでわ、都合がわるい旅券はどんどん捨てて、居心地がいい国の市民権をどんどんとってしまえばいいだけなのでわ、と考えるが、それを別にしても、傍からみていると、どちらかといえば、「誰も日本のことに関心をもっていない」ことのほうが、窓から差し込む一条の光線を渇望する日本人にとっては重大で、いまの世界は1930年代の世界の半分も日本に関心をもっていない。

話してみても比較的日本に関心があるのは韓国の人と中国の人くらいで、アメリカ人なら西海岸どまりで、こういうことは普段接する人間の観察に基づくのでそういう事情もあるのかも知れないが、ニュージーランドなども太平洋圏にあるのに、日本の話題はなにも聞かない。
旅行先として選ばれるのは欧州か、さもなければ3時間くらいで行けるフィジー、ニューカレドニアで、アメリカはエンターテインメントニュースやバラエティショーがよく流れるが、特に行きたい国とも思われておらず、要するに、ほんとうに関心があるのはヨーロッパだけで、あとは、たしなみというか、少しは知っておかないと、たとえばビジネスで出会った日本の人に話しかけられたときに、人民服を着て自転車の洪水のなかを出勤するのはたいへんでしょうね、というようなマヌケな受け答えをすると社交生活にも仕事にも差し支えるので、一応目を配っておかなければ、という程度であるように見受けられる。

違う方角から言うと、いまの世界では基本的に日々英語によって提供されている情報がすべての参加者によって共有されている、というのがルール・ナンバー1で、普段のスカイプ越しの会話でも引用されるのは、Financial Timesであり、The Economistであり、WiredやNational Geographicで、「インターネット情報」よりも、相変わらずの旧態依然とも言えて、英語のマスメディアが、しかし以前とは比較にならない大規模に世界中で基本情報として共有されていて、これが、いまの世界の、一種の「常識」に似たものを形成している。

この「常識」への批判勢力も、また英語で、Al Jazerra、RT をあげるまでもなく、英語という言語自体に常識としての機能を持たせようといまの世界は努力していて、なぜ「英米人」が大嫌いなひとびとまでがその努力の渦中にあるかというと、英語自体がすでに世界語で英米人の言語とみなされていないからなのは、前にも述べたと思う。

日本の人が日本語の側から見ている「日本を意識している世界」は、はっきり言えば、誰かがつくりあげたちゃちなつくりもので、日本は実際には文字通り言語が隔絶した暗闇のなかに立っている。
こちらからそちらは見えないし、そちらからもこちらが見えることはない。

日本の人は奈落や幕裏に潜む黒子のように暗闇のなかで蠢いていて見えないところで暮らしているのに、自分達を世界が見守っていると誤解しているのは、たいへんに危険なことで、正直に言って、日本語でやりとりされている中国や韓国についての議論、イギリス人と結婚してイギリスに何十年も住んでいるという人達のイギリス社会への本質的な誤解に満ちた報告への盲信、まして福島第一事故後に形成された原発事故と放射能についての日本の人の科学者ぐるみの「日本的常識」など、世界が仮に注視していたら厳しい拒絶にあうと決まっているものまで、なんとなく世界の信認を得たようなことになっていて、だからこのままでいいや、という空気になじんでいるのを見ると、暗闇のなかをマウンテンバイクで崖をめざして一心にペダルを踏んでいる人をみているようでスリルがある。

その崖の向こうに続いている道、きみの頭のなかにあるだけの幻覚なんだけど。
それをきみに知らせるために、ぼくには、いったい、どんな手段が残っているというのだろう?
シャツを手にもって腕をちぎれるほどふってみればいいのか、声を限りに叫ぶか、あるいは、手と足をバタバタさせて飛び跳ねてみればいいだろーか。

きみはもう崖の50メートルほど手前まで来てしまっている。
日本語というカーテンを透かして日本側がみえる数の少ないひとたちは、手を口に当てて恐怖に目を見開いている。

だから、ときどき無性に呼びかけたくなる。
もうぼくに出来ることは、なにも残っていないけれど。

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2 Responses to ノーマッド日記18

  1. 現代の世界史の主役は資源に満ちた英語圏と南米などスペイン語圏だというのは分かる。
    資源や面積的には大して広くない場所に押し込められた多くの人口は、
    狭い中でイライラし、些細なことで争いあったりして、広大な庭を持てる資源国から見れば、
    さぞかし滑稽なことだろう。
    原発がいずれ崩壊して世界中に放射能を撒き散らすと分かっていても、
    今日、食いつなぐためには、麻薬のようにそれに手を出さなければならない、
    世界の貧困のしわ寄せを受けた国々が多くある。
    現在の資源の平等から程遠い国境秩序に基づいた格差を甘受しなけばならない彼らにとっては、
    世界を滅ぼしかねない技術に外国が制限をかけられない内政不干渉の原則は
    最も重要な民族自治権の要だ。
    いかに技術が進歩しようとも、それを平等に分配しない社会制度の下では何の意味もない。
    そして、いかに「技術が危険だ」と叫んだところで、貧困を打開する唯一つの可能性が
    技術である限り、人類は貧困層から絶滅に向かって危険な技術に猛進するしかない。
    それが新興国が見習おうとしている日本の高度成長期の記憶だ。

  2. 最近このブログを発見しました。少しずつ読ませていただいています。この記事について言えば、そういや最近ITとかAV関係で日本の製品って少ないなと気付かされました。20年くらい前までは日本企業の製品が多かったのに。車は日本車がすごく多いですけどね。アメリカはオレゴン州ポートランドに住んでいます。

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