Daily Archives: October 25, 2014

For everything a reason 3 (哲人さんとの往復書簡)

ふたりの人間が相対(あいたい)して、これから話そうとするときに、片方が述べた言葉が相手に直接つたえられて理解されるかというと、そんなことはありえないことだ、と考えます。 こんにちは、はもちろん直接伝わるでしょう。 ひさしぶりですね、になると微妙だが、礼儀ただしくしようとすれば、やはり直接言葉を受け取るべきだろうと思います。 ところで奇妙なことを言うと「こんにちは」という挨拶を受け取っている人は、実は「こんにちは」に相当する信号を相手が送っていることを知覚しているだけで、特に述べていることを聞いているわけではない。 鎌倉の焼鳥屋に行ったら、そのとてもおいしいけれども、ぼくの身体のサイズにはなにもかも小さくて、その「小さい感じ」がとても楽しい夜になった焼鳥屋で、お勘定をすませて、いざ帰るときになったら、金髪でピアスをした気の良いおにーさんが「あてあああーす」とかなんとか、結局は聞き取れなかった威勢の良い挨拶で送り出してくれました。 一緒にいた義理叔父に、「いまのなんて言ったの?」と聞くと、 いや、おれにも判らない、という。 さよなら、という意味かしら、と言うと、 いや「毎度ありがとうございました。また、どうぞ」という意味だ、と自信たっぷりに答える。 いま聞き取れなかったって言ったじゃん、と蓮紡議員の国会質問並に鋭い指摘をすると、 いや、それでも意味は精確にわかっているさ、と言ってすましている。 ところで、相対(あいたい)して会話しているひとは、通常、互いに、言語社会全体が絶えず書き換えているひとつの「おおきな辞書」を参照しながらお互いが述べていることを理解しているのだとぼくは感じます。 すさまじい、という言葉は11世紀の日本社会が参照していた辞書では、「なんだかぞっとするようで興醒めである」という意味だったのだと思いますが、いまの(日本語人が会話するたびに絶えず参照している)辞書には「すさまじい面白さ」という用例が載っているでしょう。 よく上がる例だと「やばい」という言葉は現在進行形で辞書が書き換えられたり書き戻されたりしていて、こう書いているいまも、「すごく良い」と「ダメっぽい」という相反するふたつの意味を往復している。 本来、内的意識と照応している言語に伝達の機能をもたせるために、どの言語社会も、この全員が編纂と執筆に参加して絶えず書き換えられている「おおきな辞書」を持っていて、これを参照しながら普段「伝達」を行っている。 しかし考えてみると、ここで「伝達」と呼んでいるのは、お互いがすでに知っていることの追認にすぎないわけで、壁にかかっているいくつかのシチュエーションカードのようなものを何枚か取り上げて、これとこれとこれ、というふうに生起順に並べてみせているだけであるように思います。 ギョーム・アポリネールという詩人は、パブロ・ピカソという若い画家の友達とふたりで時間ばかりを持てあましている毎日のある日、詩を量産して大金(たいきん)を稼ぐのはどうか、と言い出す。 どうするかというと詩句を書いたカードを何十枚かつくって、シャッフルして、並べ直すことによって詩を大量生産すれば、ちょうどT型フォードのように売れると考えた。 これは大変示唆的で、詩を大量生産するのは無理だが、会話などはおよそ、その程度のものだ、ということを暴露していることにおいて面白いと思う。 むかし、ぼくが子供の頃、母親のおさがりのSE30というコンピュータでよく遊んでいた頃、(もしかすると同時期に持っていたコモドールのアミガのほうだったかもしれないが)「ラクター」という、「おはなしリカちゃん」のソフトウエア版があって、この「ラクター」は自称コンピュータのなかに住む詩人で、さまざまな美辞麗句を駆使したり、ときに、というよりも、しばしば、びっくりするように鋭い警句を述べるのですが、種明かしは、 ラクターはコンピュータのAI史上有名なELIZAと同じ人工無能プログラム で、特に相手の言っていることを理解しているわけではない。 適当にシンボル的に連関のある単語をつなげて、もっともらしいことを言っているにすぎない。 一定の複雑さをもつ質問を述べると、突然怒り出して、おまえみたいな低劣な人間とは口も利きたくないと言っていなくなってしまう大庭亀夫みたいな人で、7歳か8歳くらいのぼくは、退屈すると、「ラクター」で遊んでいたものでした。 そうして、「ラクター」はまわりのたいていのおとなよりも、興味深い世界への理解を発揮してぼくを楽しませる「おとな」だった。 「おおきな辞書」は哲人さんが述べる社会性を請け負っている言語が網羅的にかかれた辞書で、 「言語は、自分と他人が同じ世界を見ているという社会生活の水準での確実性の上に、音声と身振りが配置されたものにすぎない」 と哲人さんが書かれた哲学上言語学上の教科書的真実は、この「おおきな辞書」について述べられたものであると思います。 哲人さんがここで述べられていることは「正しい」ことでもあって、現に、言語について考えることに決めた人は、みな、この定義を教室で 教わったことがある。 ぼく自身も、哲人さんが書いた文章のこの部分だけ、自分のラテン語教師が書いたのではないかと一瞬さっかくしてびびりました。 哲人さんの正体は、日本語を学習して、態度も出来もわるい学生だったぼくに復讐するためにはるばる波濤を越えて日本の国立大学に職を得た、あの天敵ハゲではないかと考えた。 ぼくが話したかったのは、もっと編纂参加者が限られた、多くの場合はたったのふたりでさえある辞書や専門辞書の場合です。 「相手が知らない/判っていないことを伝達しようとしている」場面を考えると、「おおきな辞書」は、まるで使いものにならないのは直感的にわかりやすいのではないかと思います。 社会的な合意を参照して追認するだけの「おおきな辞書」には載っていない概念や、概念自体が誤解されている語彙がたくさん出てきてしまうからです。 「悪魔の実在」について議論するのは、大陸欧州では、そんなに奇異なことではありません。 欧州言語は、神を「言葉によって知覚できず、言葉の集合の外にある」絶対として定義して発展してきたからで、世界で最も無神論者が多い連合王国人が最近になって安んじて「神なんて、いるもんかよ、けっ」と述べられるように成ったのは、「神」という仮定が、ちょうど18世紀の物理世界における「エーテル」と同じく、世界を矛盾なく説明するためにはどうしても必要だった時代が終わって、主に物理学者の挑戦を契機に、宇宙を説明するための仮定としては、存在を認めると返って邪魔になってきたからにすぎず、神が存在しえないという物理的知見から逆に言語の側へ影響して、たとえば、神と神を仮定した「調和のある世界」にこだわっていると、どうしても現実感すらない、あるいは生活言語では存在の有り様を解説することさえできない量子論から徐々に生活のほうへ広がってゆく「言語の崩壊」は、まだ神や悪魔を仮定して議論するひとびとが使う言語にまで影響するには至っていない。 だから悪魔の実在について議論することは可能なはずですが、日本語には宗教について参照すべききちんとした「ひとびとの意識が参照できる辞書」が言語社会全体として存在しないので、現実には不可能なのは、ご承知の通りです。 神と悪魔が対立的なものではなく、悪魔は「最高神になりえなかった神」にしかすぎず、と説明するのもそうですが、それ以前に言語の定義の問題がある。 いちど、50代の人が「正直に言って北村透谷は滑稽で、浅い」とオオマジメに述べているのを見たことがある。 … Continue reading

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