Monthly Archives: October 2014

「美しい国」の向こう側

A strong Japan has potentially some of the tendencies which the Prime Minister mentioned. A strong Japan has the economic and social infrastructure which permits it to create a strong military machine and use this for expansionist purposes if it … Continue reading

Posted in Uncategorized | 2 Comments

日本の横顔

1 遠くから日本と中国、韓国を眺めていると、おもしろいな、とおもうことがいろいろある。 たとえば日本のがわに「日本に住んでいる韓国人は出て行け」という運動が存在するのに韓国側には「韓国に住んでいる日本人は出て行け」と述べる運動が存在しないらしい。 韓国人や中国人とはやりとりが英語(ひとりだけフランス語)で、日本語インターネットでみる日本人と知識層がちがうのかもしれないが、韓国人のほうは、なんだかおっとりしていて、 「日本で反韓運動やってるでしょう?」と水を向けても、やってますねえ、すごいらしいです、で、なんとなく他人事である。 話は、すぐにどこの国のどの大学で求人があるとか、英語のアクセントをなおすにはどうすればいいと思うかとかで、自分の生活の話にもどっていってしまう。 あんまり日本人がどう思おうと興味がない、というのがありありとわかるので、こちらも話の接ぎ穂がない。 仕方がないので、ひとりで日本で起きていることを眺めていると「歴史修正主義」に反対する人たちが「反嫌韓運動」をしているひとたちにかみついていたりして、 天井桟敷からでは距離が遠すぎて、なんだかよくわけがわからない。 南京虐殺が存在したことを認めろ、と迫っているひとたちが、猛烈な罵詈雑言で、相手が黙り込むと勝ちどきをあげて「がっはっは、おれが勝った。しっぽまいて逃げやがった。バカめ」と述べていたりして、読んでいる方は、 南京市街に突入して、悪鬼のように中国人を殺しまくり、銃剣が折れそうなほどの勢いで誰彼をかまわず刺突して、バンザイを吠えるように三唱する丸眼鏡の陸軍兵士たち、あるいは韓国人の「ピー助」をひいひい言わしてやったぜと笑いながら、慰安所の筵がけの小屋からズボンをずりあげながら出てくる「皇軍兵士」を思い出させられて、言葉にならないほど、げんなりする。 面白いのは、ふつうの国では、こういう、話者の品性を過不足なく反映する言語の醜さはナショナルフロントと自称したりするタイプの、我が国の栄光を見よ、国権国家主義者の属性であるのに、日本では多くリベラル側の特徴であることで、なぜそうなったのかは、誰かの研究材料になりそうなくらい興味深い。 酷いことを言うと、この攻撃性と、この蛮性では、攻撃している相手より、よっぽど「皇軍兵士」に似ているんだけど、と思う。 どんな国の政府も情報操作のためのセクションを持っているが、数ある反対を一挙に踏みつぶして全体主義国家を完成するためには、わざとリベラル側に野放図な攻撃をさせて、いきりたつ御用学者を抑えて、「自己満足のために正義を利用している」と「良識がある国民」がリベラルの非人間性にうんざりしたところで、いっせいにリベラルがよって立つ場所を粛清する、という古典的な手法がある。 だいたい単純な正義意識をもったジャーナリストを利用して、こういうセクションが直接接触をもつアンダーグラウンドジャーナリズムの世界を通じて話をもちかけ、しばらくやりたいだけやらせる。 むかしからリベラル人には、単純な正義の味方を気取ったオチョーシモノが多いので、パチモン知識人のなかから、いちばん調子をこきそうな(←言葉がチョー悪い)マヌケを選び出して、わざと御神輿の上にあげてしまう。 別に日本に限らず大衆社会とはそういうもので、ある程度有名になれば後ろをぞろぞろとたくさんの「反全体主義・国権国家主義」のひとびとがついて歩き出す。 あとは、おもいのまま、一網打尽であるのは言うまでもない。 年をとっても老婆にはジェンダーの問題で成れないので、来世を待たなければ老婆心はもてないが、ダイジョーブなんだろうか、と思う。 なんだか政府の思惑どおり、筋書き通りの気がする。 情報を操作するほうは、その道のプロである。 第一、他国人から見ても戦争をはじめて戦争犯罪を繰り返すのは社会の政治的な質よりも国民性の問題で、 日本研究者のなかには何よりも「リベラル」の言動を見て「ああ、やっぱり」と思ってみている人がいそうな気がする。 中国人に、この話をしたら、「日本人は、そうだよ」と言って、おまけに、当たり前ですよ、と言って、ふきだされてしまった。 日本の人に良いところがあるのはわかりきったことで、ドラゴンボールZもナルトも、中国系人にとっても共有財産で、日本の人がおもわず想像してしまうようなおどろおどろしい憎悪ではないが、中国の若いエリートは、よく「日本人の蛮性」ということを述べる。 東アジアきっての好戦的民族、他者を陥れたり攻撃したり、貶めたり、政治においても糾弾するのが三度の飯より大好きというイメージは、韓国からインドまで、あまねく広がっている「大和民族」のイメージでもある。 南京市民に襲いかかる皇軍兵士と寸分変わらない快哉を叫ぶ日本のリベラルは何のためにあんな論争の仕方をするのだろう、と疑問を口にすると、 「勝って、相手の顔を泥水のなかにぐりぐりするのが好きなんでしょう。日本人だもの。右も左もない」と言う。 当然、という顔つきです。 こちらは日本にいたことがあるので、そうだっけ、と、どんな社会だったか思い出そうとするが、考えてみれば最後に数ヶ月滞在してからまる4年経っていて、ちゃんと思い出せない。 そのうちに、めんどくさくなって、中国人友達が器用に散蓮華に乗せて食べている小籠包の話に移行してしまった。 きみは黒酢で食べてるけど、ほんとうは紅酢のほうが、おいしいんじゃないの? きざみ生姜はなしでいいのか? それとも、ないからショーガない? 2 考えてみると、子供のときに訪問した日本は、もっと手触りのよい、すべすべしてやわらかい社会だったような気がする。 Uさんという60年代から日本に住んでいるドイツ人ばーちゃんに述べたら、「そんなことはありません。日本は昔から野蛮な国です。どうしてあなたは、そんな事実と異なるくだらないことを言うの」とバシッと言われてしまったことがあったが、こちらは頭のなかに、葉山のかき氷屋さんの店先で揺れている「氷」の赤い旗や、森戸海岸の沖からみえる夏の太陽に照らされた鎧摺の山、あるいは青山のヘアドレッサーで、なあんだガメ、元気ないなー、よおおおーし、おねーさんが明日デートしてやるから、めかしこんでこいよ、キディランドでも行こか」と述べたりしてくれた、わしの最愛の年長の友だち歌子や、 思い出してみると、Uさんのように、きっぱり「日本は昔から野蛮な国だ」と言い切る気持ちのキリがつかなくて気持ちが曖昧になる。 ここで「維新號の豚まん」と言い出すと、食い意地が張っているのがばれてしまうが、銀座の維新號本店で、戦後すぐは東京人にとってゆいいつの肉がはいった食べ物だったという、あのでっかい豚まんを頬張りながら、デパ地下をめざして歩いてゆくのが楽しみだった。 荒廃した六本木やモニが死ぬほど嫌っていて世界堂にクルマで寄るくらいしかできなかった新宿と違って、銀座はわしにとっては子供の頃にストップオーバーで東京に滞在していた頃から終始一貫、おもろいものが理不尽なくらいたくさんある遊園地みたいなところだった。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 10 Comments

日本語ノート2

日本語の底の闇へ歩いていって、たとえば政治と個人の葛藤が立てる軋音を聞きたければ、やはり吉本隆明よりも堀川正美のほうがいい。 吉本隆明が自分の「絶望」に酔っ払ってしまった、そのさらに下の奈落まで堀川正美は降りていったからで、たとえが悪いが、潜航限度を遙かに超えて深い水深に沈潜して、鋼殻が水圧に耐えかねてあげる悲鳴であるとでもいうような日本語は、堀川正美だけがたどりついたものだった。 吉本隆明は、絶望、絶望と述べて同時代の誰彼にも「おまえは絶望が足りない。もっと深く絶望しろ」と述べることが多かったわりには、本人は、やさしい笑顔と近所の人に「先生」と呼ばれたりする下町風の「知識人への敬意」を単純に愛した人で、自分個人の生活には光が射しているが、堀川正美は、生活というようなものには遙かに背を向けて、吉本隆明が推奨する「絶望」の、その向こうの誰にも届かないさきへ歩いていってしまった人だった。 ぼろぼろな敗戦の、前線から引き揚げてきた復員兵士の眼で、鮎川信夫は戦後の日本を眺めていて、吉本隆明のように特に絶望など志さなくても、鮎川の詩を読んでいると、本来は抒情詩人であったこの人が、戦後の日本社会においては、そこに蠢く人間たちをさえ「意匠」と感じて眺めていたのがわかる。 国情のちがい 心性のちがいはどうしようもない いかに私が外国かぶれでも 愛という言葉は身につかぬのである 身についていたら とっくに破滅していたろう _「愛」 と述べた詩人は、自分が「愛」という言葉を口にしたことがなく、「愛」を口に出してささやかれたことがないことを「愛」という感情そのものが舶来であることに理由を求めるのが常だったが、真実はどうだったろうか。 堀川正美は、しかし、鮎川が立っていた地平線をさえ通り越して、日本語世界には珍しい乾いた感情が言葉をひび割れさせ、変形させるところまで到達してしまっていた。 そこでは表現も言語も壊れて、美しさは浅薄なものとみなされ、完成された表現は、虚偽であるとみなされた。 わたしのイロニーはいまや一本の犬釘となる この木偶ピノキオの心臓に打ち込む 心臓に打ち込む よく心ひらいた御窓よ はめ殺しの窓を許せ 日は輝いて降る霜をみつめる年々 すぐにあなたの年齢を追いこすさ 深い秋    もう ないさ _ねむれ 姉貴 国友千枝追悼 と書く詩人には、現実の世界では、夜のあとに、また性懲りもなく太陽があらわれて、朝がくることが訝しくて仕方がなかったことだろう。 日本語が絶望に届いていたのは、だいたいこの頃までで、70年代といえば、すでに中年になってから徴兵されて戦場へ送られた大岡昇平や吉田健一を除けば、飢餓と陰惨な軍隊内部の暴力を生き延びて、戦いといえばほとんどの場合、現地の村落を襲って食べ物を収奪するか、女たちに襲いかかることを意味していた戦場から生還した鮎川信夫たちの世代は40代から50代であったはずである。 石原吉郎が死に、鮎川が死に、田村隆一や、北村太郎たちが死んで、日本語が記憶した「絶望」は、彼らの死とともに失われていく。 最大で直接の原因は「詩が読まれなかったから」で、二千部や三千部を刷って大量の返品がある詩集などは、ふりかえれば当時の日本語世界の最高の到達点でも、すでに物質的繁栄に浮かれて、コピーライターの言葉に踊るようになっていた社会では見返られることすらなかった。 ひどいことを言うと、きみが「日本語を捨てることにした」というときの、その「日本語」は、近代の遠くから日本語をここまで追いかけてきたぼくにとっては、ちょうど猿類の母親が死児を抱えて生活するように、日本語という一種独特な洞窟の壁に、もっとも心地よく反響する表現を売りさばいて、とうとう日本という社会の性格をつくりあげてしまった、商業的コピーライターたち、たとえば糸井重里のようなひとたちが、幾ばくかの見返りのために無惨に刺し殺してしまった日本語の屍にすぎないのだと思う。 きみが新しい生活を始めた町は、英語人の町で、英語は実務的で、不動産契約にもっとも向いた言葉だとフランス人がよく憫笑するように、情緒が剥落した言語だが、その奥には、人間性へのあきらめや、人間そのものへの途方も無く深い絶望が眠っている。 20年後、30年後、きみがそこにたどりついたときに、ぼくの母語について、きみがどんな感想を抱くか、ぼくにはわからない。 これからぼくは、肉体の原形をとどめないほど破壊された日本語を前において、検屍する人のように、日本語というかつては美しかった言語の肉体にメスをいれていくだろう。 紫色の痣斑、くずれた顔、とびだした眼球というような様相を呈しても、なぜか屍体というものは、やさしい、なじみ深い感じのする、言ってみれば、ずっと会いたかった友達と邂逅するような気持ちになるのを、きみは知っているだろうか。 もう誰もいなくなったこの部屋で、ぼくは日本語のうえに上体を屈ませて、夢中になって音韻に付着した褐色粒や、みつかりにくいところに隠れていた糜爛を注意深く眺めて、その理由を考えている。 そのことを、なんてムダなことをするのだろう、といつかきみは手紙で笑っていたが、そうでもないのさ、 日本語が大好きだというのが第一の理由だが、ほかにも理由はある。 その理由を話すのは、いまは早すぎる。 きみが英語の奥底の暗闇にとどいたとき、きっと、ぼくも打ち明ける。 そのときまで。

Posted in Uncategorized | 1 Comment

Summer Wine

1 夏になれば飲み物も変わる。 ニュージーランド特有の質量をもっていそうなほど強烈で透明な午後の太陽の光が反射する芝を眺めながら飲むSauvignon Blancはニュージーランドで生活する楽しみである。 日本にも岩牡蠣があって、たとえば有楽町のFCCJ(外国人特派員協会)のバーから通り越しに見えるサトー製薬の「サトちゃん」の気温計が37℃をさすのを眺めながら白ワインと一緒に食べるのは東京らしいスリルも味わいもあったが、ニュージーランドにはClevedonの牡蠣があって、生で、あるいは天ぷらにして食べる。 タルタルソースでもおいしいが、ホワイトビネガーで食べると、ぶっくらこいてしまうほどおいしい。 10月になって、もう昼間(ちゅうかん)は夏で、緑の洪水のような自分の家の庭のなだらかな広がりと、白アンチョビと牡蠣の天ぷらを肴に、よく冷えたSauvignon Blancやロゼを飲みながら午餐ができあがるのを待っていると、夏だー、と思う。 日本では、ババリア人の影響なのだろうか、ビールは夏ぽい飲み物で、ビルの屋上ででっかいマグになみなみと注いで、一気に飲み干して、口の周りに泡をくっつけて「ぷはああー」というイメージがあるが、イギリスやニュージーランドでは、(最近はアメリカ人の影響で変わってきたけれども)どちらかという寒い天候のイメージがある飲み物で、飲み方も、半パイントのビールをふたつの手のひらで抱え込んで、ちびちびと飲む。 どこかで聞いたことがある人もいるだろうが、若い欧州人がワインを飲まなくなってひさしい。 週末になればダンスクラブに繰り出して、ときには裸になって踊り狂うクラブカルチュアのせいで、ワインは見捨てられたように飲まれなくなって、ジンとウォッカが取ってかわった。 20歳くらいの頃は、クラブのフロアで、グラスから飲むのがめんどくさくなって、ウォッカを瓶からラッパ飲みしたりしていたが、酔いの刺激は強烈で、まるまるひと晩の記憶がないのは普通のことだった。 ワインのほうはといえばお行儀のよい社交の道具で、初めて行く超高級レストランで、Tシャツとスニーカーのチョードレスダウンででかけて、なんとなくバカにした態度のウエイターおっちゃんも、テイスティングの仕草を確認すれば、いっぺんして悔い改めた態度になって、うやうやしくなる、というような下品な世界に属している。 母親がロシア人の女の友達の家のパーティに出かけて、スウィミングプールに古典的な飛び板がついているのをおもしろがって、バク宙で飛び込んだり、二回ひねりで飛び込んだり、しまいには60年代のサイコーにクールな映画「Harper」に出てくるローレン・バコールの娘のマネをして、ツイストで踊り狂ってみせて、くたびれはてて、カウチに深々と座り込んで、半分ねむっていたら、パーティのホステスが、やってきて、これを飲んでみろ、と冷凍庫からとりだしたばかりの、ロシアの、見たことのないラベルのウォッカの瓶をもって立っている。 「飲み過ぎたから、いらない」というと、両手を腰に当てて、 「ガメ、きみは、わたしのウォッカが飲めないというのかね」と、ふざけて述べる。 ふざけてるけど、どうやらこれには、このチョー美しい高校生の女びとの栄誉と誇りがかかっているようだ、と理解して、その氷よりも冷たい液体を一気に飲むほすと、凍った炎がのどを通過するようで、ウォッカという飲物の素晴らしさを理解したのは、そのときが初めてだった。 酒も飲み過ぎると興味がなくなるもので、この頃はもとにもどって、おとなしくワインばかり飲んでいるが、ときどきジンやウォッカを飲むと、モニさんと結婚するまえの、ろくでもない、でもおもいだすと、心臓を小さな棘でちくりとさされたような、感情でないもので涙腺を刺激されたような、不思議な気持ちになる。 2 分厚いコートを丹前のように着込んだばーちゃんふたりが、冬の朝のバルセロナの舗道にだしたベーカリーのテーブルに向かい合って座ってスペインのあのはちみつを塗ったクロワッサンとカバ(スペインの発泡酒)でおしゃべりに熱中している。 グラシアのカーサブランカがあるのとは反対側の端っこにある坂道の途中で、 「ガメの道順はわかりにくいなあー」とつぶやきながら、あの坂道をハモンショップに向かって歩いたjosico はんは、もう少し坂を先までのぼっていれば、このベーカリーの前を通ったはずである。 ベーカリーのテーブルでカバを飲むのはヘンだが、あの近所の人はいまでもそうしているに違いない。 カタロニア人のマネをしてporron http://www.worldwinder.com/2013/01/17/drinking-wine-from-a-porron-in-spain/ からワインを飲むのが、グラシアにいるときの、ぼくの、モニが笑いながら顔をしかめる習慣だが、モニさんは笑っても、不思議や、バルセロナにいるときには、porronのみでないと赤ワインはおいしくない。 英語人のぼくには俄には信じがたいほどカッコイイ名前のカタランのガールフレンドと一緒に日本の四国島に住んでいるルークは、porron飲みが出来るかしら、と考えて、あのなんだか途方もなく無垢な魂のオーストラリア人ルークも、日本語世界の薄汚さに嫌気がさして日本語を使うのをやめてしまっているのを思い出して、ちょっと酔いがさめる。 カバでつくったサングリア や、イチゴやオレンジやグレープを、これでもかこれでもかこれでもかといれた裏通りの料理屋のおばちゃんがつくってくれるサングリア、 バルセロナには夏の飲物がたくさんあって、やわらかい、それでいて爽快な飲み味を思い出すと、バルセロナがなつかしくなる。 グラフィティだらけのシャッターが降りた、夜更けのバルセロナの裏通りを歩いて、そこにだけ人恋しさの光が射しているような小さな広場に面した一角に出ると、 「Bona nit」 「Adéu」 カタロニア語の、少し誇りがこもって浩然とした響きが、あちこちで壁に反射している。 3 落ち着いて考えてみると、もうあんまり日本語の側に立って日本語と関わっていてはいけないのだな、と考えたのは、日本語に名物の、訳がわからないくらい理由もなく失礼なひとたちや、これと目を付けると、ほとんど永遠につきまとって、あれこれと秘術をつくして中傷を述べ続ける不思議なひとびとに嫌気がさしたというよりも、日本語人と世界への関心のもちかたが根本から違うからなのではないかと思いあたった。 あれ以来、ここまででたくさんの友達の日本の人が指摘してきたが、集団サディストたちも、突然やってきてひとつかみの悪罵を投げつけて自惚するらしいひとたちも、どうやらほんとうに「他人の視線」が自分をまで決定するらしい。 「自分が楽しければいいんじゃないの?」 … Continue reading

Posted in Uncategorized | Leave a comment

共同体への公共意識と手続き主義_1

ロンドン中心部を歩いていてうんざりするのは戦勝記念物がやたらめたらあちこちにあることで、勝ったあー勝ったあーまた勝ったあー、勝たでもええのにまた勝ったあー、という鬱陶しい「英霊の声」が聞こえてきそうな気がする。 まことに下品の極みで、イギリス名物フーリガンの淵源が実は国民性の奥底に本質として流れているのではないか、と疑わせるのに十分であると思う。 イギリスがドビンボで弱小、そもそもの出だしにおいては自分達の女王が敵の遠征軍司令官におおぴらに強姦されてしまうわ、ひょっとして、このボロい国てカトリックのおっさんたちに分け取りにされちゃうんじゃね?という疑心暗鬼に苛まされるわ、のチョー悲惨な生い立ちから、勝てるもんなら勝ってみい、の不敗の体制を築くに至ったのは、とどのつまりはイギリス人が他国の社会に先立って「公共」(public)という概念をもったからだった。 Lord Nelsonは、トラファルガー沖でフランスとスペインの連合艦隊に遭遇したとき 「England expects that every man will do his duty」と なんだか、50インチLCDテレビの前でヒマをこいているおっさんのようなことを信号旗に託して述べたが、もうすぐ戦闘だというのに、こんなムダな信号を送ろうと思ったのも、当時(1805年)には、すでに、じゅうぶんにイギリス人の下層にまで「公共」という概念が行き渡っていて、個々ばらばらな考えにはしっていては社会は全体として弱体化してボロくなる、という思想が行き渡っていたからだと思われる。 オークランドに移住してきた日本人や韓国人は、ニュージーランド人があまりに自分のことしか考えていなくて、そういうことはクルマの運転の仕方などにもあらわれて、車線を変更するときに方向指示器は自分が割り込みたいときにしか使わないし、左折も右折もインディケートなし、他のクルマにぶつかっても、多少のへこみならば隙があれば逃げる、という態度であることにボーゼンとするらしい。 あるいは家の外壁の修繕の見積もりに木曜日に行くからと言っておきながら次の週の月曜日にくる。 芝を刈りに水曜日の午後にうかがいますと述べておいて、前日の火曜日の朝にやってきて、どうやったら国内の叛乱を抑えながら隣の王国を侵略できるかという極めて難しい問題を沈思黙考しつつあった、主人(←ゲーム画面を眺めているわしのことね)の静寂を破って驚かす。 アメリカ人やイギリス人もよくぶっくらこくオーストラリア人やニュージーランド人のビジネス習慣について触れれば、仕事の依頼のemailが来ても興味がない場合には、めんどくさいので返信をいっさいださない。 なんだか、ひらたく言えば、チョーでたらめで、これでどうやって社会が成り立っていくのだろう、きっとこの国は崩壊寸前なのに違いないと考えて故国に帰ってしまう人もいるそーです。 外から見ると、オークランド住宅地の名前の良い通りは、おおきな見栄えのよい家が建ち並んで、静まりかえって、仮にビンボ人が通りを歩くというと、「けっ、おまえらもうすぐ革命を起こしてギロチン台に送ってやるから覚悟しろ」と思うこと間違いなしだが、内実は、問題がないことはない。 高級住宅地の家の値段があがりすぎて、賃金の上昇などはまったく追いつかないので、無理をして銀行からホームローンを借りすぎたあげく、返せなくなって、貸家にだす。 貸家といっても、そういう家は一週間の家賃が30万円を越える。 日本風に月で数えれば家賃が120万円を越えるので、おいそれとは借りられる人が見つからない。 ついには14人くらいの人間が共同で借りることになる。 いくら「豪邸」だと言っても14人7カップルで共有したりすればストレスがたまるので、というのは推測にすぎないが、週末ごとにプールサイドでパーティを開いてバカ騒ぎする。 こういう場合、近所はどう反応するかというと、オークランド市役所には24時間の騒音苦情対応デスクがあるので、ここに電話して文句を述べる。 ところが夜中の2時くらいでめんどくさいのだとおもうが、やってくる担当人は、クルマの窓を開けて耳をすませてみて、「たいしたことない」と判断して帰ってしまったりする。 ステレオの類いを接収する権利を持つ苦情対応係が動かないとみるや、7x2住民は大胆になって、ある通りの家などは日曜日にバカ騒音が聞こえるので窓を開けて騒音の方角を見たら屋根の上で20人くらいのひとびとが踊り狂っていた。 ニュージーランドはパーティピルやマリファナ、覚醒剤にいたるまで国民ひとりあたりの所持率が常に世界のベスト10にはいっているというストーン王国なので、やってるほうも何をやっているかわからなくなっていて、この世の終わりのような騒音が響き渡ることになる。 カウンシルが対応しないようだとなると今度は「ネイバーフッドウォッチミーティング」という「ご近所緊急会議」が開かれて対策が協議される(^^; 各人がそれぞれ意見を述べ、事務弁護士を雇って書類をつくって大家にクーリエで発送します。 ニュージーランドでは日本のような国と異なって口に出して誰か他人の行為に対して文句を述べるというのはたいへんなことで、その後段には法廷か暴力的な手段しか残っていない (実際、アジア人の学生達が高級住宅に住んで、高級住宅地だからまわりは穏健で上品だと油断したのでしょう、毎日、朝な夕なに改造エグゾーストでぶおぶおゆわしていたら、ある週末の未明に近所のおっさんたちがクリケットバットやゴルフクラブを片手に、ぞろぞろとあらわれて、片っ端からクルマをぶちこわしてしまった有名な出来事がある) ので、書状を見た瞬間に家の持ち主は恐慌状態で店子を追い出して対応することになる。 と書くと時間の経過がわかりにくいが、だいたい初めに大騒音パーティが起きてから、ついに書状に至るまで一年ほどかかることが多いよーだ。 なんだか煮え切らないまま、ずったらずったらと解決に向かうのはニュージーランドも英国風の文明であるというべきで、 本家の連合王国は、もっと憎悪のもちかたが気長で、以前、実家の郊外の家の近所には、生け垣をめぐって隣家と60年ほどいあがみあっている家があった。 「公共の利益」という考えが時代遅れと感じられるようになったのは、やはり世紀が変わって、21世紀に、移民がどっと増えたからで、これは英語圏の大都市全体の傾向です。 公共、という空間が最もおおきなのが国家的な公共意識をもつイギリス人とアメリカ人、最も小さいのが家族から公共の域が外に広がらない中国人というが、いまの現実は、全然そんなことはなくて、中国語を話すひとびとのなかでも香港人などはたいていの英語人よりも「公共」の範囲がおおきいようにみえる。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 1 Comment

The cracked code_1

日本語人と同じ地面に立って世界を眺めてみたらどんな景色が見えるだろう?、ということがぼくの興味だった。 うぬぼれてるなあー、と言われるに決まってるが、ぼくは日本人の頭になりきって考えることが出来るていどには日本語に熟達している。 相手が自分が賢いと思い込んでいるだけで自明な程度に頭が悪い場合に、気が遠くなるほどの長い間「言いたいだけ言わせておく」のはイギリス人に限らず、ある種類の欧州人がよく使う方法だが、「言わせておく」期間にぼくをニセガイジンだと「証明」してみせた日本人たちは、厳格すぎたかも知れない自分へのルールを取り外して突然英語を話しだした相手を見て恐慌に陥ってしまって、あちこちで笑いものになって気の毒だったが、ぼくのほうは彼らは彼らが予期しないやりかたで「バカよけ」の盾になってくれた点で感謝している。 皮肉で述べているのではなくて、とても手間が省けた。 でも、もうさすがに飽きてしまった。 これからは、日本語人と同じ地面に立つのは(たいへんなので)やめて趣味に返って、好きなときに好きなように話しかけたり、ブログを書いて、わがままぶりを発揮して、自分の興味だけで日本語を続けたい。 「好きなように」には今度は自分の話もするということも含まれている。 今度は「最大公約数」ぽい「日本人」でなくて、日本語を通じて知り合った友達たちに話しかけることに決めたからで、josicoはんやイルリメさんやもじんどん…という友達が対象なので、これまで本名はもちろん、さまざまな話を聴かせてくれた友達たちにガメ・オベールという名前のチョーへんてこな友達の話はしないですませてきてしまったが、なんだか気がとがめてきたので、ちょっとくらいばらしてもいいか、というか、ばらさないといけないのでわ、という気がしてきたということでもある。 たとえば、ぼくが、新興宗教のトレーニングキャンプに加わったとして、初めの自己紹介をどんなふうにすればいいだろう? むかしHermes Trism   @hermes_trism が、ぼくを紹介しようとして、 「在NZイギリス人投資家の日本語ブログ」と定義したときに、「もうこの紹介だけで、なんだか、すごく『あれ』だよね」と、ふたりで声を殺して笑いあったが、チョーなんだか『あれ』な大庭亀夫の紹介をしているHermes Trism 自身が、「スコットランド人科学者の日本人より達者な日本語ツイート」を書いている、もっと『あれ』な人なのである。 あんまり書くと怒るが、「もじんどん」 @mojin の正体は欧州某所で外宇宙を見つめることを仕事にしている天文学者で、子供向けSFの設定みたいな人で、肝腎なところになるといつも「おお!お昼ご飯をつくらなきゃ」とゆって逃げていってしまうすべりひゆ @portulaca01 はイタリア語で思考するほうが日本語で思考するよりもずっとうまく行くことが多い『あれ』なひとで、つまりは、なんだか『あれ』な人の塊が日本語のTLを形成しているひとびとで、くだらない人間たちがしつこくつきまとって、みなをうんざりさせなければ、日本の人が「いままで見たことがなかった新しいもの」を見られた可能性はあると思う。 でも薄汚い言葉でつきまとって、そういうサークルを誰にでも見える「可視」の場所から、限られたメンバーだけの「不可視」の場所に追いやってしまうのは、どうやら、日本語世界の宿命であるようで、いまは「考えがあまかった」とお互いを笑う以外にはない、というふうに皆が感じている。 日本の人は、ほんとうは「自由に議論が行われる場所」など欲していないのだと思う。 そうでなければ、あんなフーリガンなみの「リベラル」をのさばらせておくわけはないだろう。 ある発言でびっくりしてフォーラムに加わってもらったJさんという人などは、まるでふだんのツイッタでは「バカを装っている人」のようで、同じ日本語で書かれているというのにツイッタとフォーラムでは別の人間であるよーです。 最後のお節介だと思うが、あんまり考えてみなくても、集団サディストが猛威を奮う日本語世界でだけ特徴的なこういうことどもは、ふつーに考えて、日本語文明全体にとって、ものすごいマイナスなのではなかろーか。 なぜ、これほどの異常な事態を放置しているのだろう、と不思議な気がする。 どうして自分がくつろいでいる居間に突然土足であがりこんで糞尿をぶちまけていくようなことをする彼らを日本人は許しておくのだろう? 日本語の世界へはいりこんでいるときの自分の気持ちと英語/仏語の家へ戻って暮らしているときの自分の気持ちの違いは、実は、いまでもちゃんと判ってない。 なにかが決定的に異なっているのに、日本語でうまく言えない。 意外と物質的なことだろうか、と考えてみたこともある。 「そんなこというのは酷い」と思うかも知れないが、ぼくは子供のときに日本にいたときから日本の人が豊かだと思ったことはない。 理由は難しいことではなくて、しばらく日本に住んでいるあいだに、たとえば「食器洗い機」がないことに気がついた、というようなチョー単純なことです。 ニュージーランドの30代の中小企業のカチョーさん、というような人の生活を考えてみると、 彼は、多分、オークランドの世田谷に住んでいて、子供がふたりいて、だいたい敷地が200坪くらいで、寝室が5つある家に住んでいるはずである。 寝室の他に2DKという、Dのダイニングと2LDKのLであるラウンジがある。 午後5時少し前に「NZ世田谷」で最も一般的なクルマであるBMWで家にたどりつくと電動ゲートを開けて、これも電動のガレージドアをクルマのなかからコントロールを使って開ける。 冷蔵庫を開けて白ワインを飲みながら、奥さんが帰ってくるまでの30分でつくれる料理を考える。 ホームサーバーは普通なので、少しテクノロジーに興味がある人ならば、タッチパネルか、そうでなければジーンズのポケットにはいっているメモリで音量で好みのプレイリストの曲が次次にかかる。 いいとしこいてAriana Grandeの最新の曲にあわせて巨体を揺すらせながら「ケララ風揚げ豆腐カレー」をつくっている。 週末にはベビーシッターを頼んで、ぬはははは、と思いながら、モダンダンシングのあとで埠頭のヒルトンに泊まってエッチしちゃうもんねー、と思いながらカレーをつくっているのだと思われる。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 5 Comments

アスペルガー人とゲーマーズ

1 日系アメリカ人の中村修二がノーベル物理学賞を取ったのは良いことだった。 誰もが知っているとおりノーベル賞はそのときどきの政治力学が強く働く場で、20年を「待たされた」中村修二は、もう自分にはノーベル賞はまわってこない、LEDではやはりダメか、と諦めていたことだろう。 良いことだった、というのは件のトーダイおじさんたちのひとりSさんから、自分の若い部下で、地方の国立大学しか出ていないことに強い屈折を感じていたひとから「東大卒でなくても、(研究が)やれるのではないかと希望が持てるようになりました」という、なんだか、事情を知らなければ、くすっと笑いたくなるような、単純簡明で向上心の強い20世紀的な若者の顔が思い浮かぶようなemailが来て、年が離れてはいるが、内心では友人のように考えていた人間なので嬉しかった、という、こちらも傍からみれば、なんとなく年齢に較べて純朴に過ぎるような、朴訥なSさんの顔が思い浮かぶ、 暖かい気持ちにさせられるemailが来ていたことが第一の理由と思う。 もうひとつには、いまのところ弊履破帽の骨董扱いに近い日本の高等教育環境のなかで勉強していても、ちゃんとどこの町のどんな研究室でも伍していけることが追認された気分がして、少し、晴れ晴れした気持ちになった研究者たちもいるのではなかろうか、という気がする。 企業からアカデミアにはいる例が多い日本では、特に、勇気づけられた人も多いに違いない。 中村修二は、「怒りがわたしのエネルギーです」と述べた、という。 怒りは燃料で言えばエチルアルコールで、透明な炎で、研究人のエネルギーにはなりそうもないので、「憎悪」という言葉が嫌なので「怒り」に言い換えたのだと思うが、日本語インターネットで拾い読みに読んでいっても、自分を認めなかった日本への怒りや、日本人への怒り、…と書いてあって、「怒り」を「憎しみ」と変換したほうが理解しやすい言葉に満ちていて、なるほどそういうことはあるのは知っているが、日本の人だなあ、というか、ここに至るまで感情的につらくなかっただろうか、 会社の廊下で「なんだ中村、おまえ、まだ辞めてなかったのか」と言い放った役員の顔を思い出して眠れない夜があっただろうなあ、 このひとが歯をくいしばってこちらを見据えるような表情のあの写真は、カメラのレンズの向こうに、自分への軽侮を隠さなかった、あるいは「日本経済新聞」という仮面をかぶって、自分を袋だたきにたたきに来た日本の社会のひとりひとりを睨んでいたのかなあ、と考えて、しばらく、もの思いにひたってしまった。 気を取り直して、日本語インターネットを眺め直してみると、中年世代以上で海外で職業人として生活している人には、「この発言はとてもよく判る」と述べている人が多くいて、そういうひとびとの他の発言をみてみると、自分がいかに日本社会と相容れないで足蹴にされるようにして国の外に出てきたか、それ以来、ただ日本社会への敵愾心と「負けるものか」という気力だけでいまの地位を築いたか、というようなことが指揮者であったり、画家、建築家、さまざまな分野に及ぶ人が述べていて、やや奇観様(よう)の光景を呈している。 アトランタオリンピックの水泳決勝で、どの国の選手も緊張で破裂してしまいそうな表情で、なんとかして自分の、これから、スイミングプールに飛び込んで、200メートルを、先頭を切って泳ぐことを期待されている肉体と筋肉とをリラックスさせようと懸命になっている。 「必死の面持ちでリラックスしようとしている」と書くと、滑稽だが、スポーツ選手はそれが宿命で、腕をふり、首をまわして、「リラックス」という気分を横紋筋の筋原繊維細胞の隅々まで行き渡らせようとしている。 カメラがひとりひとりの表情をアップで追っているときに、他の選手は精神の一点に集中して、カメラが存在しないかのように振る舞っているのに、たったひとりだけカメラに向かって微笑みかけている選手がいる。 ニュージーランドの代表選手で、たしか、あのとき19歳だったと思う。 カメラがびっくりしたように動きを止めて、その若い選手をズームアップしだすと、にっこり笑って、手のひらを開いて、 そこには、でっかい目の落書きがしてあって、その下に「ハーイ、マム! 元気?」と書いてあって全世界のテレビの前のひとびとをずっこけさせたものだった。 アトランタオリンピックのフリースタイルで2つの金メダルと2つの世界記録を手に入れたDanyon Loaderで、ニュージーランドでも「いくらなんでも不真面目だ」と怒る人がいたが、キィウィらしくて良いではないか、と言う人や、金メダルとって一位になったんだから、いいじゃない、それで、という、いつものニュージーランド人得意のええかげんさが発揮されて、笑い話で終わった。 あるいはロンドンオリンピックで、ヨットの470dinghyで金メダルを獲得した、17歳のJo Alehと16歳のOlivia Powrieは、決勝の最後の直線水路まで、なんだか、このふたりの所属するヨットクラブのあるコヒマラマの浜辺のベンチに腰掛けて、近所のベーカリーから買ってきたステーキパイを食べながら、近所のよもやま話にふける女の高校生ふたり連れの気楽さで、話しては、笑いあっていて、決勝をテレビで観たひとを「これは練習風景なのか?」と訝らせた。 近所のおばちゃんの証言によると、「私は、マイクロフォンが拾ったビクトリアアベニューのデイリー(←雑貨屋)の話をしているのをこの耳で確かに聴いた」ということだった。 このほかにも、オリンピックの試合前夜に全員で下町のパブで酔っ払って、次の朝の試合に出場できなかったバレーボールのチームや、ニュージーランド人がいかに競争においてリラックスしているか、というよりも、全然緊張しないか、あるいはぶったるんでいるかについての傍証はいろいろあるが、キリがないので、このみっつの例だけでやめておく。 2 21世紀の世界を担ってゆくのは、コミュニケーション能力を代償として、知力が高く集中心と知的持続力に秀れた「アスペルガー人」と、速い速度で変化する動的に動いてゆく現実事象の抽象能力が高く、あっというまにゴールへのショートカットを発見して殺到する「ゲーマーズ」のふたつの種族であることは、ほぼ自明であると思う。 社会の競争の激しさが20世紀の比でないのは出だしから明らかであるからで、たとえば20世紀においては「静的な権威」の象徴ですらありえた金融ですら、当時22歳のMITを出た新卒社員にすぎなかったアスペルガー人たちによって、ゲーマーズが「通常人」には到底ついていけないスピードで、いわばアイスホッケーのパックを追う業界に変貌した。 20世紀の段階でもすでにスティーブ・ジョブズやビル・ゲイツのようなアスペルガー的な傾向の強い人間が新しい産業を興したが、行ってみればすぐわかるのさ、というか、シリコンバレー、ベルリン、メルボルン、バルセロナ、というような、いまこの瞬間に新しいビジネスモデルや技術的アイデアで沸騰するように沸き返っている町へでかけて、企業の主立った人びとに会ってみれば、たいていはアスペルガー人で、直感的な割合でいうと、7割くらいにもなるのではないだろうか。 みな一様に「奇矯な」という古めかしい表現が似合いそうなひとびとで、コミュニケーションがてんで下手で、パーティなども酔っ払ってバカ騒ぎをするか、テーブルにひっそり腰掛けて、なんだか居心地が悪そうに座っているかで、しかし打ち解ける回路が見つかれば、これほど話していて楽しい仲間達はいなくて、つまりはぼくの友人達だが、憑かれたように話しだしたかと思うと、今度は黙り込んでしまう、このひとびとが正常である世界では、20世紀の「正常人」は、いかにも生産性も創造性もないデクノボーで、冴えない批評のような繰り言を述べているだけの凡庸で退屈な人間の集団に見えてしまう。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/04/28/いつか、どこかで/ 不思議なことにゲーマーズのなかで抜群の知力をもつひとびとは、数は途方もなく少ないが、アスペルガー人と相性が良いようで、多分、「アスペルガー人が考えていることがわかる」点と、その考えと退屈で凡庸で頑固で、しかも数の上では圧倒的に多数の「正常人」の世界との折り合いをつける方法を機敏に発見する点で、このふたつの種族は共生しているものであるらしい。 ゲーマーズの最良の部分は、憎しみを帯びて帯電しやすいアスペルガー人の肩に手をやって、笑顔をとりもどさせる。 The Blues BrotersやMonty Python、The Three Stooges、Marx Brothers、はてはT.S.EliotにDylan … Continue reading

Posted in Uncategorized | 7 Comments