光へ向かって旅をする計画について

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死ぬのはイタリアがいいな、と時々おもう。
あの息もつけないほど圧倒的な美しさの夏のトスカナの田舎で、陽光が氾濫する庭で、ただ眩(まぶ)しさに瞑目するひとのように死ねたら、どんなに良いだろう。

へんなことを考える人だな、と言われそうだが、自分が死ぬ姿をあれこれ想像して、途方もなく悲しい寂しい気持ちになるのを楽しむのは5歳くらいのときからの習慣的な遊びなので、しかもこれは甘美な遊びで、30歳になったいまでは熟練しているといってもいいくらい真に迫って仮想的に死んでみるのも可なり。

マンハッタンは老人向きの町だが、マンハッタンは嫌だな、と思う。
あんなところで死んだら、道路を横断しそこなってクルマに轢かれたボロボロの猫の死体になったような気がするだろう。
ロンドンで死ぬのは索漠として退屈な感じがする。
パリならば高級娼婦のアパートで死ぬというのは、なかなか良い気がするが、死んでからモニさんに嫌われてしまうから採用できない案である。

ニュージーランドの大自然のなかで死ぬのも気分はいいと思うが、なんだか文明人の死に方として健康的すぎて、死んでから憮然とした気持ちになりそうな点で問題がある。

だから、やはりイタリアなのである。
官能と聖性がいりまじった、あの気が遠くなるほど美しい自然のなかで死にたい。
トスカナでもベネトでもよいが、シチリアなら完璧なのではなかろうか。

このブログには、膨大な、と自分で言いたくなるほどのイタリア旅行の記事が内蔵されている。
最後に一ヶ月半旅行しただけのイタリア行のときに書いたものに限っても、我ながらたいへんな量です。

「Sienaの禿げ頭」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/05/30/sienaの禿げ頭/

「移動性高気圧2」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/03/移動性高気圧2/

「InVacanza2」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/05/25/invacanza2/

「Sarteano」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/05/28/sarteano/

「Vernazzanoの斜塔」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/05/29/vernazzanoの斜塔/

「ノーマッド日記13」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/01/ノーマッド日記13/

「Arezzoの骨董市」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/02/arezzoの骨董市/

「ノーマッド日記14」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/05/ノーマッド日記14/

「カルボナーラの謎」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/13/pasta_alla_carbonara/

「スパゲッティ・ナポリタンの秘密」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/18/スパゲッティ・ナポリタンの秘密/

「豊かさは、どこへ行ったか?(その2)」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/17/where-have-all-the-flowers-gone/

「Back to Como」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/15/back-to-como/

「Parter noster」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/14/pater-noster/

「手作りの宇宙」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/11/手作りの宇宙/

「豊かさ、はどこへ行ったか?(その1)」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/10/豊かさ、はどこへ行ったか?(その1)/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/08/il-pranzo/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/07/mantova/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/06/ferrara/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/07/10/チェルノビオ/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/07/04/イタリア・ノート_1/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/28/「分解された光」のような幸福について/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/25/ピエモンテの畦道/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/21/麦わら帽子の思考/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/06/20/闇に目をこらす/

イタリアという土地柄には自然にも町にも人間にも、駐車場で日向ぼっこしている犬にさえ名状しがたい品の良さがあって、イギリスのような抜け目のない土地柄とは文明のていどにおいて雲泥の違いがある。
しかも文明の高さは細部にまで及んでいて、きみが夜の田舎の、人口が500というような小さな村の、12世紀くらいからあんまり変わっているとは思われない細い、ベスパならなんとかいけても、クルマではチンクエッタでも通りえない道をたどって、夜の12時ころ、月の光を頼りに散歩してゆくと、教会のドアがなぜだか、ほんの少し開いていて、しかも、ぽおっと、微かな光がもれでている。

ドアを開けてはいってみると、正面には十字架に磔(はりつけ)になったイエス・キリストの代わりに、絶命して横たわった神の子に両腕を広げて覆い被さって、嘆き悲しむ聖母マリアの巨大な像がある。

路地と路地がぶつかるところには、民家の、朝であれば菜園に水をやっているところに行き会って、ボンジョルノ、今日は良い天気ですね、でも午後から暑くなりそうだ、と短い言葉を交わす、気の優しい主婦がいる家の壁いっぱいに、キリストの絵が描かれている。

あるいは、日本の水田にそっくりな、ベネトの、じーちゃんがママチャリでぎっこら漕いで立ち去ってゆく、なんだか佐久みたいなあぜ道にクルマを駐めて、なんでこんなに青空がおおきくて、なにもかもやさしい美しさなのだろう、とぼんやり考えながら歩いていると、マリア様のいる小さな祠があって、老いた女のひとが、なにごとかを一心に祈っている。

宗教的社会は通常特有のケーハクに陥りやすいのに、イタリア、メキシコ、スペインは、ケーハクに浮き出てゆくどころか、まるで息をつめて沈潜するように、深く深く、密度が高い「静かさ」のなかに沈んでゆく。
能楽が好きなひとは皆しっているように、あの能舞台のある空間で「音が沈む」という不思議な体験をするが、イタリアでは、文明全体が濃密な沈黙のようなもののなかへ沈んでゆく。

イタリア人は多分「イタリア」と言われても、話がおおきすぎてピンとこないので、ピエモンテとかPugliaとか、どんなに頑張っても、その程度のおおきさしか「ひとまとまり」として感じないように見えるが、外国人から見ればイタリアはイタリアで、あの長靴は共和制ローマ人が脱ぎ捨てていった文明そのものの履き物で、なんだか間投詞と間投詞のあいだにさえ文明がぎっしり詰まっているのがイタリアなのであるという気がする。

だから、死ぬのはやっぱりイタリアがいいが、両親のチェルノビオの山荘で死ぬ、というようなのは、いかにも卯建(うだつ)があがらない息子然として嫌なので、家を買うかなあー、でもまだ高いよなー、EUエコノミーは大丈夫メルケルが頑張っているあいだは、なんだかつぶれそうもないが、主だったヴィッラの半分くらいを買い占めているロシア人は、プーチンの国権主義的強欲が災いして、おおごけにこけそうです。

悪魔がでるせいで毎夜の食事の前に悪魔祓いの儀式が必要なレストランのある小さな島や、ムッソリーニが殺された現場に、低い、黒い十字架がある湖畔もいいが、もっとずっと南で、マフィアが支配する田舎に住んで、もう文明も公正も、自分にはどうでもよくなったとつぶやきながら、どんどんぼけて死ぬのがいいかもしれない。
人間の一生みたいに中途半端な長さのものを真剣に考えても致し方がないであろう、と納得しながら死ぬのは流線形でかっこいい死に方であると思われる。

オークランドはもう夏で、夏の太陽が照って、芝生はよみがえって、人間には手が届かない光化学反応が散乱する緑の宝石箱のようなニュージーランドの庭で、ずっと死のことを考えていると、もう少し手をのばせば「生きる」ということの意味に届きそうな錯覚がわいてくるが、
どうせまだダメで、もう50年というようなバカバカしい長さを生きて、
死ぬ瞬間か、死後の瞬間に、ちょうどブッダがミルク粥に宇宙の影が射す野見たようにして、(もちろんブッダの普遍に及ぶわけはなくて自分ひとりのことにすぎないが0やっと時間性を失って同時いっせいに甦った言語のなかで、視界の片隅を通り過ぎる影をみるようにして、「生きる」ということを理解するのかもしれません。

光を見つめて盲いたひとにしか見えないものがある、という。
まだ太陽を見つめる勇気はないので、小さな太陽のようでなくもない、モニさんや、小さい人たちを見つめて、鏡に自分の姿がちゃんと映るように、慣れてゆくしかないのでしょう。

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3 Responses to 光へ向かって旅をする計画について

  1. musicaforesta says:

    今朝は、ちょうど朝日が東の空を染め始める頃に起きて、濃いミルクティーを飲みながら太陽が昇るのを眺めていると、なぜか死についての思いが、ぼんやりととりとめもなく私の周りを行ったり来たりしていました。
    もうすぐ還暦を迎えるのだから身近なのは当然なのだけど、未熟な私ゆえ、そこにはまだまだ恐怖が潜んでいる。でも、一瞬かもしれないけど、この記事が持つ圧倒的な透明な光が無明を払ってくれたように感じています。

    ガメさんのことを、どうしてもまだ三十路の人と信じられないのは、ガメさんがほとんど悟りの境地に達しているからなんだと、この記事を読んであらためて強く思いました。
    必ず夏のトスカナに行きます w

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  2. hermestrism says:

    微分、お金、Psy、夕焼け、目、光、エネルギー。

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  3. iori says:

    ぐおー、連続投稿すみません!
    死の事について考えることは、私の生まれた小さな木造二階建ての家にある、暗い階段のこと、というイメージが私の中にはある。
    何時の頃からか、嫌なことがあってもなくても、一日の終わりの眠りにおいて、その日の自分はとにかく死ぬのだな、という認識で生きる人間になってしまった。
    精神科かなにかの本で、夜眠れない人々のことについて書いてあって、それによると眠ると自分が死ぬようで怖い、特に夜に眠りたがらない子供というのは、眠ることで(何かが)「終わってしまうのが」怖い、というのを読んで、なんとなく「採用!」って感じがしたからかもしれない。
    真っ暗で人の気配のしない実家の階段は、登り切ったところに裸電球があるだけで、勾配は急で、しっかりした踏み板にさす黒々とした影がどうしても異界の様だった。
    階段は下を振り向くと、闇が広がっていて、突き当りは小さな洗面台とトイレのドアがあるが、トイレに繋がる床は真っ黒なタイル張りで、タイルの模様が渦巻の様になっていて、まるで階段の下に奈落が落ち込んでいるかのように見えて、いつも不気味だった。
    これも夢で見たのか、白昼夢で得たイメージなのかはっきりとしないんだけど、一日、一日を眠って覚醒するごとに、私はあの家の階段を一段、一段登っているような気がする。
    うすぐらくて、埃の色をした塗り壁にぎゅっと押し込められた登り筒のような狭い階段を、一段、目覚めると私は登っている。
    そして、後ろをふと振り返ると、昨日の自分が首をつっている。
    その後ろには、一昨日の自分が、その後ろにはさらに以前の私がずらっと死体になっていて、一段一段が私の生と死の象徴になっている。
    後ろに後退することも出来ず、ただ足元には、暗がりに茫漠と照らされた、よく磨かれたしっかりとした木の踏み板があり、そして今日の夜も気絶するように眠ると、一日の分の自分が死ぬのだ、という半ばあきらめに似たような、しかしもはや自分一人だけの教条を守る喜びのようなものが、そのことを考えると、私の胸に去来する。おぞましいルーチンでも、ルーチンはルーチンで、そこには安定と安心がある気がする。
    一日一日を死んで、また新たな自分として一日の為に新しい生になる、というイメージ(生き返る、という言葉は使ったことが無い)は、とてもいいことがあって、世界5分前仮説の応用なんだけど、これが生きるためによく効くと思っている。
    例えば、世界に拒絶されるような出来事があったとする、家族に存在を否定されたり、身近な人間全員が敵の様だったりした時、世界は5分前に誕生した、と思う。
    親がいくら私の存在を否定したとしても、それはその事実ごと、たった五分前に私の存在と共に生まれただけなのだ、という考え方をすると、なんだか肩の力が抜けるというか、全てどうでもよくなる。しかも、これは誰にも否定できない。もしかしたら妄想というだけではなく、本当にそうかもしれないという、スリルがあるw
    だとしたら、何故私は、望まれない存在として存在しているのか?というなんか逆にスカッとした謎だけが残る。チャレンジャーなのかもしれない…(やばい)
    フェニックスはわりと死んだり生きたり忙しいクリーチャーだけど、彼もなかなかにさばさばした性格だと思う。一日に生まれ一日に死ぬ存在と言えば太陽だけど、私はどうしてもあの階段に「太陽」的なものを感じない。むしろあれは、黄泉の国に繋がる洞窟だろうと思う。
    一日生き、苦しみを受ける器としての生をなんとか全うすると、一日分死ぬ。ただしこの世界観だと、モノスゴク停滞するような気がする笑
    現に、私の居る階段は永遠に伸び続けているように見える。
    ランダム配置された物理世界の面白い所は、私の実家の階段は、登る時右手は壁なんだけど、左手は店と隣接しているので、物置に繋がる、すりガラスの戸になっている。
    自死の永遠の階段を離脱する方法は、私が望めばある、そんなことをすりガラスの引き戸を思い出して考える。
    なんかめっちゃ暗い話してゴメンです!!!私はわりと死についてよく考える人間で、慣れてるんだけど、他の人にしたらぎょっとするようなことかも。言葉にすると厳めしくなっちゃうね
    それでは。

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