言葉がとどかないところ2 _(哲人さんの返信2)_For everything a reason <哲学者の友だちとの往復書簡 IV>

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 唐十郎の数ある戯曲のどれかに、「きみが言おうと思ってることは、きみの口のかっこうで分かってしまうよ」といった意味の、ちょっと意地悪なセリフがあります。折にふれて思い出す。これを知ったのはずいぶん若い頃ですが、ちょっと意気阻喪させられると同時に、一種の爽快感もありました。(自分が他人に理解されないという鬱屈は、鬱屈もろとも周りに理解されてしまっているわけだ。なんと、なんと。ハハハ。)

 私は、言葉によって自分を他人に伝えることは難しい、という考え方を、できるだけとらないようにしてきたのだと思います。「私」とは私が語ったかぎりのものであり、そこに私は存在していて、その私のありようには、私以外の人も私と同じ資格で接近することができる。私が特権的に接近できるのは、私の身体だけ(私の身体を内側から動かすことができるのは、私だけ)。私の心は、周りのあなたが理解するとおりに、そこに――私の身体のあるところに――ある。こう言う方が、すっきりしてるじゃないか、という気持ちがあったわけです。

 いつ頃からこういう風に思ってきたのか、始まりをはっきりとらえることはできないけれど、けっこう長く、こういう考え方で暮らしてきたようです。この考え方が正しいのか正しくないのか、それは分からない。たんに好み、というものでしょう。私は大きな素数みたいな存在ではなくて、あなたの思いつくいろんな因数で簡単に割りきれますよ、と言いたいわけです。(そー言われてもいちいち割ったりしたくない、と返されそうなんだが。)

 でも、問題は私の好みではなくて、言葉は果たして伝達の役に立つのか、ということでした。

 「大きな辞書」で簡単に割り出せるようなことを語っているかぎり、言葉が伝達の用を果たしているのかどうか、という問いさえ思い浮かばない。やりとりは滞りなく進み、挨拶したり、感謝したり、約束したり、依頼したり、大抵のことが何とかなります。私たちの日常のほとんどの言語活動は、この水準に終始するようです。言語によって、対人関係を調節し、いろんな仕方で他人を動かして行く。

 意外にうまく行かないのが、描写するとか、記述するといった言語活動のように思われます。込み入った頼みごとでも案外すっと要点が分かるのに、込み入った道順を訊ねてその答えが分かりやすいことはめったにない。言葉は、対人関係の調節はうまくできるけれど、世界の事実を記録するのはもともと苦手なのでしょう。

 数学の言語が、対人関係の調節とまったく関わりがないのにうまく伝達の役に立つのは、二つ理由があると思います。

 一つ目の理由は、数学的事実というものが、分かる人には同じ形で分かる、という特徴をもっていること。数1と、ある自然数に1を加える操作が分かるなら、1たす1が2であり、2たす1が3である、ということは5歳でも50歳でも同じ形で分かっている。数学的事実に関しては、概念が人それぞれで大きく違うということはない。だから、Mishoさんの表記を参照して言えば、概念から記号列への写像 f も、記号列から概念への逆写像 f-1 も、それぞれの人でほとんど同じになる。日常言語は、個々の人が心に抱く考えがさまざまなので、この写像と逆写像のあり方が人によって違ってしまう。

 二つ目の理由は、数学言語を用いる言語共同体が、かなり厳しい排除の仕組みを備えていること。写像と逆写像のあり方が標準と違う人は、数学言語を使う仲間に入れてもらえない。

 「1/2足す1/3は2/5」と計算してしまう子どもは、日本の場合、小学校高学年で算数の「できない子」という扱いになる。たぶん、その後ずっと、数学言語の共同体には参加できない。「二分の一たす三分の二は五分の二、ふーん面白いね」とは決して言ってもらえない。「みんな平等」でも「民主的」でもない。小学校以降、かなり多くの人がそれぞれの段階で排除され、その結果、数学言語の表現と解釈がヘンテコな人は、数学言語を話す集団内にほとんどいなくなる。日常言語は、こんなに強い排除の機能を持ってはいないと思われます。

 日常言語の場合、皆の参照する「大きな辞書」に含まれる写像と逆写像の設定は大まかで、排除の働きも強くないため、「正直に言って北村透谷は滑稽で、浅い」と言ってしまう人が出てくる。これは、数学の言語共同体なら、「できない子」に分類される人なのでしょう。

 数学に「できる子」や「天才」がいるように、日常言語にも「できる子」や「天才」がいる。標準的な写像・逆写像の型に乗らない思考や記号列を作り出す人がいる。そういう人々の言葉、たとえば、詩人の言葉に接したとき、私たちは何をどうすることになるのか。北村透谷と田村隆一について、私の今回のこの返信にまつわる体験をお話ししましょう。

 北村透谷の書き物は、一つ二つ読んだことがあるきりでした。今度、岩波文庫の選集で、「処女の純潔を論ず」を読んでみました。まず、『南総里見八犬伝』の発端の一挿話が熱烈に論じられていることに、ひどく驚かされた。
 
 ではともかく、ということで、八犬伝を図書館から借り出して、透谷が論じる伏姫と八房の挿話を拾い読みに読んでみました。里見一族を呪いつつ斬首された奸婦、玉梓の怨霊が乗り移った飼い犬八房は、里見義実の戯れの約束を真に受けて敵将安西景連の首を取り、約束通り、恩賞に義実の娘の伏姫を要求する。義実は八房を殺そうとするが、伏姫は綸言汗の如しと諫め、八房を伴って深山に籠もる。だが伏姫は八房をあくまでも畜生と見なして身を許すことはなく、法華経の読誦書写の日々を送ります。この後、姫は処女のまま懐妊し、純潔の証しを立てるべく懐刀で割腹して果てますが、身に帯びた水晶の数珠が飛び散り、その後、関八州のあちこちに八犬士が産まれて活劇になる、というわけですね。

 透谷はまったく本気でこの挿話を取り上げていますね。この挿話が八犬伝全巻の核心で、残りはただの侠勇談にすぎないと言っている。透谷の論を単純化して示せば、怨霊の祟りと異類婚姻譚という魔物の世界が片方にある。もう一方には法華経と純潔がある。法華経に守られた伏姫は、純潔の証しを立てるために死なねばならないが、魔界に呑み込まれはしなかった。このいきさつが透谷を動かしている。ふむ。
 
 開化の混乱を生きた青年詩人には、明治の世俗社会が一種の魔界と見えたのかもしれない。クリスチャンとなって世俗の外に一歩出ることはできても、世俗の外に立つ一個人の立場で明治の社会を生きることは、物心両面で容易ではなかっただろう。そんな連想が浮かびます。八犬伝にこと寄せて、透谷は、明治の社会で個人であることの困難と、その真の意義を語ろうとしている。
 
 これは一葉や啄木とそっくりに見える。これら夭折した詩人たちは、漱石の造型した三四郎や代助とは違い、財産や門地といった防御壁をもたない裸の個人でした。さらに、福沢とも違って、一身独立して一国独立す、と言わない。国家と結びつこうとせず財産の後ろ楯ももたない若い詩人が、貧しい明治の社会で自立した個人として生きるのはほとんど無理なことだった。八犬伝のこの挿話は、一見しょうもない怪異譚なんだが、透谷は自分の境涯をそこに見たようだ。
 
 とまあ、私の場合、「処女の純潔を論ず」を卒読して言い得るのは、こんなことになります。怨霊譚、異類婚姻譚と法華経もしくはキリスト教、土俗的魔界と宗教的浄福、明治社会と一個人、世俗内と世俗外、こういう対比的な枠組みを使って、透谷の言葉からその心事を推量してみる。
 
 うまく行くかどうかはさておき、何らかの概念の枠組みを詩人の言葉に当てがって、そこに浮かび上がるものを見る。これ以外に、隔たった時代の言葉を分かるための方法というものはなさそうです。でも、このやり方は、相手を個性としてよりも類型として見ることにつながりやすい。そして、対象が評論だから成り立つことかもしれない。詩作品ならばどうなるのか。

 よい詩というものは、「ああ、これはよいな」と思って記憶にとどめておくことができるだけでしょう。「どこがよいか」とか「なぜよいか」などと評釈を始めるのは禁物で、説明すればするほど、その詩の良さから遠ざかるような気がします。(教室で詩を習うと、どんなよい詩でも色褪せて感じられる。)

「するどく裂けたホシガラスの舌を見よ
異神の槍のようなアカゲラの舌を見よ
彫刻ナイフのようなヤマシギの舌を見よ
しなやかな凶器 トラツグミの舌を見よ

彼は観察し批評しない
彼は嚥下し批評しない」

 これはよい。なぜよいのか、当然それを語ってはならんのですが、それでは話の接ぎ穂というものが無いわけで、野暮を承知で、私がこの詩句を見て、まず直観的に思ったことを披露します。それから、この詩句をめぐってちょっと面白い体験をしたので、それを報告しましょう。
 
 鳥って、舌がありましたかね。あるんだろうな。ツバメのヒナが親鳥から餌をもらおうとして大口開けて騒いでいるTV映像なんかを思い起こすと、舌は確かにあるようだ。鳥は、私の印象では、哺乳類に比べて人間が感情移入することの難しい生き物で、それは、目元と口元に表情が無いからだろうと思います。目はただ皎皎と見ひらかれている。嘴は硬く、笑顔を作ることは無い。彼らは私たちの手の届かない天空にいて、捕らえることはできない。地上の何かを見つけると、遠くから一気に飛来して襲う。まさに、異類、です。
 
 その異類には、槍のような、ナイフのような、裂けた舌がある。彼らは観察し、呑み込むが、何か当方にご意見をお聴かせいただける、というわけではない。徹底的に、異類である。私たちは、彼らに拒まれながら、彼らを見ることができるだけだ。
 
 まあ、こういう連想をしました。よい詩句だ、と思わせられた効果を言葉にすれば、こんな感じになる。
 
 さてそれで、このところこの田村隆一の詩句をなんとなく頭の片隅において、ガメさんの返信にどう答えようかな、と考えていることがよくありました。夜ベッドに入っても、なんとなく考えている。ある日、寝入りばなに、よく知っている人を人混みでちらっと見るような、なんだかそんな感じでなにか想念が意識をよぎるのです。今のなんだろ?と思って、意識を覚醒の方にもっていくと、もう分からなくなる。取り戻せない。でも、鳥と、どうやら眼に関する何かと、差し迫ったような懐かしいような情調がともなった一つの想念だった、という感じは残りました。
 
 別の日、夕方帰宅する途中にこの詩句をなんとなく考えていると、小道の角を曲がったときに、またふと、何かの想念が意識をよぎる。差し迫った情緒をともなっていて、よく知っているような、鳥と、眼。ん?今のなんなんだ?と思って捕まえようとすると、逃げてしまう。また別の日、机の前で休憩しているときにも、同じ情調をともなった何かがふっとよぎる。結局、都合4回こういう経験がありました。
 
 4回目のときには、何かが心をよぎると同時に、「見なさい」ということばが、旋律に乗って浮かんできた。歌の切れっ端なので、えーとえーと何だこの歌は、と考えたら思い出した。その部分の歌詞は以下です。
 
 「「見なさい」あなたの眼が
 「見なさい」わたしを見た
 「怖れるなかれ、生きることを」
鷹の目が見つめてきた」
 
 これは、「鷹の歌」という中島みゆきの歌の一部です。なるほど、確かに、鳥と、眼と、見ること。で、「見なさい」というところは差し迫ったような曲調です。(YouTubeにはよい音源が無かった。素人さんの「歌ってみた」ばかりでした。)
 
 田村隆一の言葉が、この歌を呼び出していたわけです。あの詩句が、この歌を私の記憶の中で呼び起こしているのに、私にはその自覚がない。意識して捕まえようとすると、逃げ去ってしまう。言葉が、脳という物理的装置の中で、まさに物理的に別の言葉を呼び起こしたらしい。だが、脳の持ち主は、まるっきりマヌケで、そんなことはつゆ知らない。こういうことってあるんだなー、というおもしろい体験でした。
 
 ちなみに、中島みゆきのこの歌は、歌詞カードで確認すると、まあ凡庸な、と言っては失礼だが、わかりやすいエピソードを言葉にしたものです。ところが、歌で聴くと、俄然、難解な詩になる。
 
 (実は、今回この返信を書くために、初めて歌詞カードを見て、歌詞を黙読すると単純で分かりやすいことに驚きました。なのに、なんだか難解な歌だなー、と思って聴いていた。歌い手の意図は、無意識に難解な方を指しているのじゃないか。以下、難解な所以をちょっと説明します。)
 
 「「見なさい」あなたの眼が」という「あなた」は、歌詞カードで読めば、前に出てきたある男なのです。だが、歌で聴くと、誰のことだか分からない。というのは、「見なさい」が女振りの歌い方で歌い上げられるからです。(歌い手は男振りに歌うこともできたはずです。)だから「見なさい」と言っている「あなた」が前出の男だなんて、全然思いつきもしない。
 
 末尾の「鷹の目」の「鷹」も、歌詞カードを見ると、昔は「鷹と呼ばれた男」のことを指すと読めるけれど、歌で聴くと、何のことやら意味不明になる。黙読と違って、歌ってゆくと数十秒余の時間が経ってしまうので、同じ対象を指す表現として受け取りにくい。
 
 結局、歌われた世界では、「見なさい」と命ずる「あなた」がいて、その「あなた」は聴き手には誰だか分からなくて、その誰だか分からない存在は「鷹の目」を持っていて、上から「わたし」を見つめていて、「生きることを怖れるな」と告げている、というとんでもなく形而上学的な光景になってしまう。この「あなた」って、ひょっとして、神なの?という、日本語の歌謡としては、まずあり得ない印象が生じます。
 
 「人間の手の届かない上空に、私たちを見ている異類がいて、人間はそのものをただ見上げることができるだけ。そのものは観察し嚥下するが、批評しない。生きることを怖れるな、とのみ告げている。」
 
 説明っぽく言えばこんな「解釈」を、私の脳は、田村隆一の詩句と中島みゆきの歌唱を結びつけて勝手に作っていたようです。ところが、脳の持ち主は、意識に邪魔されて全然自覚できない。4回目にやっと気がついたのでした。
 
 詩を読むというのは、こういう風に、意味を意識的に考えたりするのとは違う水準で、読む側の言語体系が衝撃を与えられる体験なのだと思われます。その衝撃を伝達したり増幅したり変調したりする操作は脳が勝手にやる。そうやって言語が言語を呼び起こし、読み手の言語体系を作りかえるのでしょう。
 

 田村隆一の「言葉のない世界」の終り二行は、こうなっていますね。

 「ウィスキーを水でわるように
 言葉を意味でわるわけにはいかない」
 
 相手を類型としてではなく、個性としてとらえようとするなら、相手の言葉をただただ聴き、あるいはただ読み、「言葉を意味でわる」作業はほどほどで止めて、言葉が自分の中の何かを呼び起こすのを待つ、というやり方しかないのだと思います。
 
 個としての他人を本気で理解しようと思ったら、各種の辞書を頼りに類型化する作業はやめて、ただ一緒にいて、言葉を聴き、振る舞いを共有して、自分の中になにか変化が起こるのを「後から知る」というやり方しかないのでしょう。

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