Monthly Archives: January 2015

生活防衛講座 番外編

ただ生き延びたいと願っていただけだった、とシャーリーズ・セロンがインタビューで述べている。 15歳のとき、自分に襲いかかる父親を母親が銃で撃ち殺す、という人生のスタートだった。 母子で移住したアメリカでは手切れ金のようなものを母親から渡されて「あとは自分で生きていけ」と言われた。 母親はミラノに移っていった。 ゆいいつ自分ひとりで稼いでいける可能性のある職業で、そのために低賃金のファッションモデルをして貯めたオカネをレッスンにつぎこんだダンスは足の怪我で続けていけなくなった。 食べていける見込みがなくなったニューヨークを捨てて、16歳のシャーリーズは女優として生きるべく単身ロサンジェルスに向かう。 片道だけの切符代は母親が不承不承だしてくれた。 一晩泊まり(日本でいえばドヤ街、毎日前払いで一日ごとに精算する)の安アパートで仕事を探す毎日だったが、オック語の姓を持つアフリカーンス語訛の強い英語を話す16歳の女びとに仕事をくれるもの好きなプロダクションはなかった。 気が狂いそうだった。 やがて一文なしになった。 青ざめた顔で、白くなった唇を震わせて、自分をバカにしきったような口を利く銀行員は、カウンタの向こうで「これ南アフリカ振り出しの小切手ではないですか。こんなものカリフォルニアの銀行で受け取るところはありませんよ。 ダメです。現金化なんかできません」と述べる。 長い行列が自分の後ろに出来ていくのを意識しながら、それでもオトナたちのルールに従って静かな口調で懇願していたシャーリーズは、とうとう耐えきれなくなって「生涯でいちばん下品な」金切り声で、 「じゃあ、あなたはわたしにいったいどうしろというの? このカネがなければ、わたしには今晩泊まるところがないのがわからないの? わたしには食べるパンもないのが、あなたにはわからないの?」 泣きながら叫んでも銀行員のほうは肩をすくめるだけだった。 そのあとに起きたことは有名で、長い行列に辛抱強く並んでいたひとりの男が、不思議な国際金融取引上の知識をもっていて、銀行員にやりかたを教えて、南ア小切手を現金化してみせる。 なんだか壊れたお話人形のように繰り返しお礼を述べるアフリカーンス語なまりの女の子に、いやたいしたことじゃないのさ、このひとに、ぼくにはたまたまあった知識がなかっただけだよ、と述べて立ち去っていくが、途中で気を変えて、シャーリーズのところに歩いてもどると、名刺をわたして、なにか仕事があるかもしれないから、仕事を探しているのならここに電話してね、と言って歩みさっていった。 この親切な男が五指にはいる有名なハリウッドのマネージャーであることを、まだこの南アフリカ人の若い娘は知らない。 シャーリーズ・セロンがやがて大スターになってゆくのは、神様だけが知っていたことです。 この場ではシャーリーズ・セロンは、これで今晩、危険がいっぱいのロサンジェルスの大通りで、ホームレスとして道ばたで眠らないですむ、という安堵で頭がいっぱいだったし、ハリウッドでは名が知られたタレント・エージェントのジョン・クロスビーも、思いつきで、なんとなく気の毒で、名刺を渡しはしたものの、ひどいアフリカーンス訛の、スタイルはいいけれどもパッとしない容貌の若い娘が、あとで世界を代表する美人女優といわれて、オスカーを獲得するとは夢にも思わなかった。 なぜこんなくだらない話を長々と書いたかといえば、人間には自分の一生がこれからどうなっていくか判らないのだ、ということが言いたかったからです。 フライドチキンのチェーンをはじめるためにオンボロ・ステーションワゴンの後部座席で毎晩眠る、もう60歳をすぎたのに、14歳で家出して以来、良いことが何もない人生だったカーネル・サンダースがいくら気の強い老人でも、そこから5年間に自分の身の上に起きる成功をかすかでも予見できたはずはないし、ビジネスで成功する夢だけを財産に、52歳になるまで失敗につぐ失敗、ありとあらゆる不運、おまけに病魔にまでとりつかれて、文字通りボロボロの中年セールスマンだったレイ・クロックが、まさか自分が生きているうちに自分が築いたハンバーガーレストランチェーンの王国の繁栄を目にすることになるのを知っていたわけはない。 ニュージーランドのトランピングの習慣を知らずに南島に買った巨大な農園のゲートに鍵をかけて閉じてしまって「カネモチハリウッド人の横暴」としてニュージーランド人たちの怨嗟を買う嚆矢となった「世界で最も成功したカントリーシンガー」シャニーア・トゥエインは、まさか当の自分が「身勝手なカネモチ」として攻撃されるようになるとは、ホームレス時代、トロントのシェルターやバスを転転として、ひと晩の寝場所をみつけるのに苦労していた頃は思いもよらなかった。 パーティで、 自分がむかし食べるのに困ったあげく、ひと晩だけだ、と自分に言い聞かせて、売春をして、その次の夜、レストランで眼のまえにだされたステーキが自分の肉のようにおもえて食べられなかった、と自分の職業的一生をまったく滅茶苦茶にするかもしれない、お酒をのみすぎた夜の気まぐれから、しなくてもよい告白を見るからにケーハクなイギリス人のオカネモチの青年に述べた 女優は、その魂にまで及んだ屈辱がいまでも忘れられないのだと思う。 もちろん、ひと晩だけですむわけはなかったわよ、と言った美しい人の、炎があがっているのに暗い眼の光を忘れるわけにはいかない。 もうダメだ。 絶対にここから自分を救い出すことなんか出来るわけがない、と思い詰める、眠れないまま過ごした明け方の時間をもたない人は、多分、この世界にいないだろう。 八方ふさがり、というが、八方どころではなくて、自分のいる場所のまわりが360度隙間なくしっくいでかためられたような、「不可能」が囲繞して、自分だけが世界のなかで「意味」をうしなってゆく瞬間は、しかし、思いがけないことに誰もが経験する瞬間なのだと思う。 そういうときに「いろいろなことを考えてみる」「ひとつひとつ考えなおしてみる」とよいというのは現実には小狡く一生を立ち回ってきた人間のたわごとで、普通には、ただのナマケモノの習性を発揮して「考え」たりしていれば、事態はますます悪くなってゆく。 どうすればいいかといえば、解決策はただひとつで、とにかく玄関のドアを開けて太陽の光のなかへ、あるいは降りしきる雨のなかへ、物理的に出てゆく以外にはない。 スーパーマーケットの掲示板から千切ってきた電話番号をにぎりしめて電話口で必死で自分を売り込んだり、就職の知恵を書いた本を買うときに本屋のおねーさんに「がんばって」と励まされて、「頑張って」て励まされるなんて最低で、でも屈託のない笑顔は少しありがたいと心を和ませたり、乾いた町の通りを乾いた唇とかさかさの肌で大気をこすれあわせながら歩いてみる。 手足を、からだを動かして、どこまで自分の体が動き続けていられるものなのかを試してみる。 人間が機械でないのは、なんて残念なことだろう、とつぶやいてみる。 機械なら泣いたりしないですむのに。 やがて、肉体の疲労のなかで、自分の体そのものが街の風景のなかに溶けて、自分が自分でない、この風景のもののけのように感じられるようになってくると、突然、きみのまわりに、きみに似たもののけたちの姿が見えるようになって、でもそれが、ひとりひとりが仲間で、自分がひとりではないんだ、みなこの漆喰のなかで声を殺しているんだと気がつくときがくる。 それに気づくことこそが最大の生活防衛策で、まだ会ったことのない親友に必ず会える日がくることを理解することが、もっとも自分の一生を安全にすることなのだと思うことがあるのです。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 7 Comments

生活防衛講座 その3

1 時間給 朝7時に起きて夜9時に仕事から家に帰り着く人が一日あたり2万円もらっているとすると、このひとの時給は20000÷14で1428円である。 会社の側の理屈では労働時間が7時間なのだから、あとは通勤時間他で時給は2850円ではないか、というだろうが、それは企業の側の理屈なので知ったこっちゃない。 働くほうから見れば、あくまで1428円です。 初心のうちは、自分の労働の価値を社会の側がどのくらい評価しているか知るために時間給を基準にしてオカネという社会の究極の批評尺度をあてはめてみるのは良いことだと思われる。 凍死家などは時間給が1000万円を越える、というひとは普通にいます。 もっとも凍死家は時間給がマイナス1000万円を越える人も普通なので、時間給という尺度は「オカネが天井から降ってくる」場合にのみ有効であることがわかる。 而して、ひとは時間給のみによって生きるものには非ず。 医学の基礎を勉強しただけで、こんなグチャグチャな不気味な学問やれるかい、と考えて、むかないものはむかないので職業として医学に進むのはやめてしまったが、一方、数学のほうは稲妻のようなカッコイイ才能がなくて、これも飽きて、やむをえないので賭博師になろうと思ったが、全然関係のない工学系の発明でラットレースから出ることになった。 おにーちゃん、まさか家業をついで楽しようというんじゃないでしょーね、という妹の白眼視がそこで終熄したが、それとこの記事とは関係がない。 数学が自分の頭に向いている人間は朝起きた瞬間から数学のことを考えはじめて、自転車で学寮に向かうときも数学を考えていて、学内では、うっかり芝生を横切って、件のクソジジイに、「きみはこの庭の芝を横切る権利はないだろーが」と怒られたりして、時間給は計算してみると200円だったりすると思うが、 これはそういう病気なので、観点を変えれば大学は阿片窟のようなもので、目をうつろにして数式を虚空に描く学問依存症患者達がはびこっていて、それでも大学の外に放し飼いになると社会が危地の陥るというような理由で、多額の企業または国家のオカネを濫費して収容しているだけなので、そもそも給料をもらえるほうが間違っている、という考えもある。 ぼく自身は時間給時代は、ひどく短くて、芸能プロダクションが店の近くにあるせいで、やたら綺麗なねーちゃんが日がな一日うろうろしているのに眼がくらんで、カフェのウエイターをやって二週間でクビになった。 だから時間給についてエラソーに云々するわけにはいかないが、冒頭の数え方で1500円をくだるような時間給で働くのは文字通りの「時間給のムダ」で奨められない。 どうしてもマクドナルドでバイトをするしかないのなら、物価が途方もなく高いとは言っても、いまや時間給一時間3000円の域に達すると噂されるノルウェーでマクドバイトをやったほうがいいと思われる。 たしか去年からノルウェーもワーキングホリデービザに参加しているので30歳以下なら誰でも働ける。 えー、でもノルウェーのマクドもやっぱりただのマクドだから、という人がいそうだが、そういうのを「机上の悲観論」という。 想像力をもってみよ。 たしかに同じようにマクドで、床に落っことしたパテを素早く拾って焼いたりするバイトだが、きみが女ないしゲイであると仮定すると、横をみれば同僚のにーちゃんは、北欧的にジェンダー平等の観念が発達していて固そうな尻がつんと上を向いていて、ちょっとやさしくすれば週末は…(←これだから二週間でクビになる) えー、おほん。 つまり、時間給を数えて働くのは時間給で測ることに意味がない収入にたどりつくためで、自分の収入が時間給という概念になじまなくなったときには、たいていの人間はラットレースからぬけだしている。 時間給という尺度の生産的な利用法は、そーゆーものであるよーです。 2 年収400万以下 約束の年収別サバイバルプランだが、年収400万円以下は、なにも考えずに外国へ移動するのがよいと思われる。 たった4万ドルできみを使えると思っているところが、もうきみのその会社なり業界なりでのきみへの評価 「安くこきつかえるじゃんw」が端的にあらわれている。 社長はきみに期待している。 同僚もきみを頼りにしている。 しこうして年収は400万円にとどかない。 そういう暮らしを10年もつづけるとどうなるかというと、心のなかに窠(す)がはいって、やがてその黒みはきみの魂に及んでしまい、 妙にうらみがましい性格になったり、「世の中は汚い」 「社長は口ばっかりで、おためごかしの嫌な奴だ」 「こんな会社に将来なんてない」 というような語彙と表現が頭のなかでぐるぐるしだす。 しかも、そんなこんなで、上目遣いに世の中を見ているうちに40歳になってしまったりする。 それではもう遅すぎる、ということはないが、20代のときの5倍くらいの跳躍力を要するので、やや「世の中バカなのよ」(←回文)というブラックホールにのまれつつある天体のようなものである。 ビンボである、というのは常に一面ではよいことで、全財産売り払ってしまえばポケットにはいって、航空券とワーキングホリデービザスタンプが押してあるだけのパスポートをもって、エコノミークラスのシートに身を沈めれば、それだけで新しい人生がはじまってしまう。 人間の一生で、これほどの贅沢な瞬間はないとも言えて、世界中の、どんな富豪ジジイもうらやましがるだろう。 オカネを稼ぐ目的のひとつはオカネで買えない豪奢にひたることだが、 その初めのひとつは冒険の書の第1ページを開くことであると思う。 3 年収400万〜600万 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 2 Comments

生活防衛講座 その2

1 住宅 銀行からオカネを借りて自分の家を買う、という行為は経済論理上はたいへんバカげた行為であることはよく知られている。 特に日本では無意味に近い。 ニュージーランドの伝統的なホームローンへの感覚は、固定金利9%の15年ローンで、1990年代ならば3寝室の一戸建で二台クルマがはいる車庫がついて庭がある家が15万ドルだったので、ざっと見積もって頭金なしで一ヶ月の支払いが$1500で支払いを終える頃にはだいたい倍の30万ドル弱を支払って家が自分のものになる。 大学を卒業するのは21歳なので大学で知り合った伴侶と結婚して初めの家のホームローンを支払い終えるときには36歳。収入がふたりあわせて10万ドルくらいなので月給というようなものに直せば9000ドル(当時の円/NZドルレートでは50万円)なので、フィジーやタイランドに一ヶ月くらいずつ休暇で遊びに行って子供をふたり育てても余裕をもって暮らせた。 いまは金利は6%に落ちて、その代わり3寝室の同じ家が60万ドルはするので逆にホームローンを組んで家を買う人は少なくなっている。 自分の家は通常資産に数えない。 なぜなら自分が住んでいる家は一円も生まないからで、いつか確かめてみたことがあったが、日本でもこの習慣は同じであるようです。 つまりホームローンを組んで自分の家を買うというのは借金をして「ゼロ資産」を買うことなので、のっけからただの無駄遣いとみなされる。 一方では前回述べたとおり日本では7000万円で買った住みなれた家を売って8000万円で売れるということは稀で、どちらかといえば4000万円くらいになってしまうことのほうが多い。 よくしたもので、いまみるとホームローンの利息も1.2%というような夢のような利息なので、15年かけて払っても600万円ほどしか利息を払わなくてもいい勘定になるが、それでも例えば鎌倉で25万円の家賃を払って住んでいる人は、いつでも川崎の9万円のアパートに引っ越せるが、家を売るというのは、日本のように慢性的に地合がわるい市場では「売りたくなったから今日売ります」というわけにはいかないので、急に売ろうとおもえば、7000万円の家も3000万円になるのがおちである。 自分ではめんどくさいので日本でも鎌倉・東京・軽井沢と家を買ってしまったが、えらそーだが、こういうバカなことをするひとはオカネが余っているからそういうバカなことをするので、だんだんスウェルが高さを増すいまの世界を渡っていくためにはどうすればいいかというこの記事の趣旨とあわないので、われながら(←古用法)シカトする。 結論を先に述べると日本で住宅を購入するのは経済的にはたいへんに愚かな行為で、家賃を払って住んでいたほうがよい。 20年なら20年という、その社会で通常「このくらいの年数でホームローンを完済するのがふつう」とされている年数で住宅の価格が二倍になる社会でなくてはホームローンを組んで家を買うのは努力して資産を失う愚行なのでやめたほうがよい。 自分の家を借金して買うという経済行為を正当化するゆいいつの言い訳はキャピタルグロースで、それが見込めない場合、簡単に言って(日本の市場でいえば)見栄を買うだけのことで「見栄」はどこの国のどんな市場でも最も高くつく商品だからです。 2 職業 現代の世界では打率がいくら高くてもホームランがでなければラットレースから抜け出せない、という。 キャリアをベースボールに喩えているので、生活費に400万円かかる社会で600万円稼いでいることには、あんまり意味がない、400万円しか給料ではもらえなくても、たとえば作曲した曲がベストセラーになるとか、発明したものが何億円かもたらしてくれるとか、文字通り「桁違い」の収入をうみだしてくれる職業でないと他人や他人がつくった会社の社員として働くことには意味がない。 ゲームでいえばチビキャラを倒して経験値をあげながらも目的としているのはボスキャラを倒してステージをクリアすることなので、チビキャラを倒すのにいくら習熟してもボスキャラを倒す技があって、次のステージにジャンプできなければラットレースからは抜け出せない。 そうして、たとえばきみが22歳の人間だとして、仕事を始めた当初の目的は、経済上は、あくまでもラットレースから抜け出して「食べるために稼ぐ」社会の支配層の側が「大学卒業者程度の人間が懸命に働いてやっと食える」ようにデザインした毎日から脱出することが目的です。 自分の職業的人生の価値と経済上の職業の価値が頭のなかでごっちゃになっているひとは、自分の職業の「経済的側面」と「意義的側面」を分けて考えるべきで、それが出来ないで、(昔の日本語でいうと)「自分探し」を職業を通してするようでは、ラットレースの社会の側がデザインした罠から抜け出せなくなってしまう。 欧州やNZやオーストラリアでは、もうどうして良いか判らなくなるとふたつの職業をもって、朝から夕方は店員で夕方からは看護師というようなのは普通で、アジアでも台湾のひとなどは女のひとは昔からふつうにそうやっていた。物理的に、いわば体力的パワーにものを言わせてラットレースから脱け出そうという試みで、ストレスに耐えて永続的に続けられる人は、たとえば夫婦で若いときからこれをやって50歳くらいでラットレースから抜け出すが、そういう例は実はニュージーランドでも普通に存在する。 なんだか力任せで乱暴におもえても、大企業でサービス残業だかなんだか、ええかげんな名前がついている無賃労働で夜まで残るくらいなら、単純なマニュアル労働でもなんでもいいからふたつ仕事をしたほうがいい、という意見は納得ができるもので、たいへんそうだが、やってみる価値がないとはいえない。 仕事をみつけるときのタブーは、「先にいけば高収入だから」という職場で、そんなことは起きても稀だから、まあ、ウソに決まってるな、とおもうほうが良い。 具体的には「当初1000万円だすけどダメだったら下げるからね」という雇い主は信用してもよいが「初めは300万円だけど頑張れば将来はすぐ1000万円だすからね」という雇い主を信じるのは、信じるほうが悪い。 昇進にしても地位にしても同じことで、20世紀はもう終わったので、初めに良い条件が出せない雇い主は、だいたい詐欺師みたいなものだとおもったほうが自分のためであるとおもわれる。 ついでに言うと医師や一定分野の技師のように細分化がすすむ方向がみえているテクノクラートも「土方化」がすすむのはわかりきったことなので、そういう職業につくのもラットレースがやや高級になるだけで、永遠にコーナーからコーナーへ、hand to mouthで、走り続けなければいけないのは判りきっている。 ふつうに工学系の大学を出て、いきなりラットレースを脱した友達の例をひとつあげれば、わし友オーストラリア人Cは卒業して、西オーストラリアの道路がない大辺境に始まって、オイルリグの技師としてキャリアを始めた。 地平線まで自分の土地であるような牧場が買いたかったからで、北海、アフリカ、あとどこだったか忘れたが、毎日ヘリコプターで通勤する(←道がないので他に到達方法がない)生活を十年送って、日本円で3億円くらいためた。 荒くれ男たちに混じって、山賊と銃撃戦を交えたりして、なかなかかなかなな波瀾万丈の技師生活を経て、いまは、念願どおり牧場を買って十年辛抱強く待った奥さんと暮らしています(^^; ひとによってさまざまだが、 1゜ オカネと正面から向かい合って、自分なりに勝算が見込める「ラットレース脱出計画」を立てる 2゜ 世間的な見栄は顧慮しない 3゜ プライオリティをはっきりさせて余計なことを考えない というようなことが守られている点で。20代〜30代でラットレースを抜け出すひとは共通しているように見える。 3 いいことはある ラットレースを抜け出す方法はいろいろで、アスピナル卿のようにブラックジャックで勝ちくるって、こんなに賭博が下手なやつが多いのならば自分が胴元になったらもっと儲かると考えて自分でカシノを開いてレースから抜け出るひともいれば、ある晩、泥酔してお小遣いで ビットコインを買ったのをすっかり忘れていて、ある日、「このパスワードはなんだ?」と疑問におもって開いてみたら、そこにはいつのまにか大値上がりして2億円を越えるビットコインが燦然と輝いていた運のいい酒好きなアメリカ人サラリーマンもいる。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 2 Comments

生活防衛講座 その1

2009年には、「アイスランドの次はニュージーランドだ」と皆が述べていた。 ここでいう「皆」というのは文字通り世界中のアナリストで経済が少しでも判るひとなら定見ということになっていて、「次はニュージーランドだ」という。 ニュージーランドが国家として倒産するだろう、という意味で、論拠の最大のものは5yearCDSが206.3bpsから215.2bpsに上がったので5年以内にニュージーランドはデフォルトになるだろう、ということだった。 その頃クレジットクランチ直後のロンドンにいたぼくは、クレジットクランチの直前に手じまいにしたオカネをニュージーランドに投入することにした(←下品)。 いろいろな資金がニュージーランドから大慌てで逃げ出すのが手にとるように見てとれたからでした。 5年たってみると経済や市場の権威のひとたちが述べた事はすべておおはずしで、正反対というか、いまはニュージーランドはバブルのただなかにある。 この奇妙な事情のあとさきは説明する必要を感じないが、単純に凍死家と経済家の考えることはそれだけ違う、という意味で書いている。 ずっとむかし、蒐集している日本語雑誌をカウチに寝転がって眺めていたら読者の経済相談室、というような風変わりな企画があって、「短大に行った学歴の平凡な主婦」と自分を表現している人が、 「たいへん素朴な質問で恐縮ですが、日本は人口が減っているのに、最近は住宅ブームで新規住宅が建設ラッシュで地価も騰がっています。 人口が減れば家はあまるとおもうのですが、なぜですか?」 と書いてある。 評論家の人が、ほとんど苦笑が見えるような感じの筆致で、でも嫌味がない言い方で、経済はそういう単純なものでない旨を懇切丁寧に書いている。 読み捨てを基本とする週刊誌を、まさか何年も経ってから読む意地悪な読者がいると、この大学教授の肩書がある評論家の人は想像もしなかっただろうが、読んでいるほうは、この問答があった一年後、住宅が過剰供給におちいって暴落したのが判っているので、軽い溜め息をつきたい気持ちに駆られます。 余計なことを書くと、日本の住居用建物市場は奇妙な市場なので有名で、まず既存の住宅に「中古住宅」という、ものすごい、嫌がらせのような名前がついているマンガ的な細部から始まって、1990年に建った家は「築25年」であるという。 社会通念として家が年齢を加えるごとに減価してゆくという中古車市場に似た市場常識に支配されていて、 ちゃんと計算してみたことはないが家を買うよりも借りたほうが経済的には遙かに賢明、ということになりそうな不思議な市場をなしている。 他の国ではどうかというと、建物が出来たのが1000年前で、床にクリケットボールを置くと、コロコロコロと勢いよく転がるのを喜色満面で見つめた買い手が、「おおお。歴史の勢いですな、これは。角の根太のあたりが腐っているのもわくわくする。直すのに手間がかかりそうだ」と相好をくずしながら述べて、その場で売買契約を結ぶイギリスのようなヘンタイな国は極端としても、ニュージーランドでも、家を観に来た買い手が、 「コンクリートブロック、というと50年くらい経っている建物だろーか」と訊くと、不動産エージェントが、さあー、多分1960年代だと思うんだけど、ともごもごいう、という好い加減さで、なぜそうなるのかというと、誰も家が建って何年経過しているか、というようなことは気にしていなくて、 建物が健全かどうか、デザインがカッコイイか、クルマは何台駐められるか、あるいは最近はバブルで土地がものすごく高くなったので敷地がどのくらいあるか、というようなことしか考えない。 そうして言うまでもなく、最も価格に影響するのは通りの名前と地域の名前で、クライストチャーチならば地域名よりも通りの名前がすべてだが、オークランドでは住所の宛名にハーンベイ、リミュエラ、パーネル、…というような名前が入るかどうかで決まる。 もう少し余計なことの続きを述べると、英語圏では、どの国にも、ここ50年ほど価格が下がったことがない通りが存在して、たとえば日本の人が知っていそうな通りならばマンハッタンのパークアベニュー沿いのアパートメントはいちども価格がさがったことがなくて。モニさんが両親からプレゼントされたアパートメントはここにあるが、不況でも不動産市場が暴落しても、日本が宣戦布告しても、小惑星がニューヨークに激突しても、価格がさがるということはない。 いっぺん買えてしまえば、価値はあがってゆくだけです。 日本の住宅市場があまりに特殊なので日本に住んでいる人の目にはなかなか見えにくいことだが、たとえばニュージーランド人は、もともとは大学を卒業するとローンを組んで3寝室の家を買って、それから平均10回家を売買して、人生の後半に到て子供が独立すれば、それまで5寝室の床面積が300平方メートル、敷地が1200平方メートル(←1000〜1250平方メートルが、もともとは高級住宅地の標準的な住宅の敷地面積だった)の家に住んでいたのを売り飛ばして、10個程度の、理想的にはブロックごと買ったフラットを持ち、死ぬまで家賃収入で暮らす、というのが物質的に成功する人生のモデルで、イギリスも、ディテールは異なるが、一生の財政プランの骨格は同じです。 いまはバブルのさいちゅうなので、初めの3寝室が、あんまり良い住宅地でなくても、60万ドル、日本円になおせば5500万円もしてしまうというバカバカしさで、どうするかというと、やはり同じバブルの渦中で、しかも絶対収入金額が多いオーストラリアに出稼ぎに行って稼いで貯金する人が多い。 普通の人が目にする日本語の記事は、経済専門家にくわえて、なんだかよく判らないブロガーみたいなひとが、厳粛な顔つきで思いつきを書いていて、自民党が大勝したのでアベノミクスが本格化して景気がよくなるだろう、とか、来年は日本経済は崩壊して全員路頭に迷うだろう、とか、専門家も受け狙いブロガーも禿げ頭の「経済学者」もみながいろいろなことを述べて、賑やかだが、数学モデルを考えてみればすぐに判るというか、前にも書いたが経済も市場もランダムウォークで、もしかすると普通の人の直観とは異なるかもしれないが、予想のようなことが成り立つわけはなくて、簡単に言えば「アベノミクスで景気がよくなる」と述べる人も「日本は轟沈する」と述べる人も、どっちもええかげんなウソツキで、現実はどうなのかといえば、 株価チャート、というものがあるでしょう? あんなものでもただの迷信で、というと、どっと怒りの声が浴びせかけられるだろうけど、迷信は迷信なので、血液型診断と同じで、まして窓が開いたとか、窓がふさがったとか、はははは、きみダイジョーブか、というくらいヘンなものであると思う。 アベノミクスに踏み出したことがいかに国民ひとりひとりに破滅をもたらしうる、国家経済主義者らしい奇策で、その奇策のむなしさはSNBが出した正統金融政策によって、立ち会いで変わった横綱があっさり小結に押し出されてしまったとでもいうような、みっともない姿で国際市場のまんなかでたたずんでいるが、そういうことは「予想」ということではなくて、経済にはやっていいことと悪いことがある、というただそれだけのことだが、もう何回も繰り返し書いたので、もうここでは述べない。 日本の人にとっての焦眉の急は、自分の生活と、こっちはもっと難しいが、自分の将来の生活を防衛することで、経済家やブロガーのインチキなご託宣はどうでもよいから、足下を固めなければ、欧州も日本も、ただでさえグラビティポイントが高い船体の経済なのに、ぐらぐら揺れて、不気味なことこのうえない。 理由の説明を省いて現実の説明に終始すると、世界じゅうのオカネモチがやっていることは、ラットレースから抜け出すことによって産まれた余剰のオカネを「値下がりしたことがない通り」に住宅を買ってキャピタルゲインに期待するか、本質的には同じ投資の考え方だが集合住宅を買って家賃収入をつくってキャピタルゲインにつなげてゆくことを期待している。 本来は通貨は生活に必要なものや生活を楽しむものに使われるべきで、夫婦のクルマを買い換えたり、よりよい「自分達が住む家」に移ったり、家具調度、子供の自転車、というようなものに消費されるべきだが、ブッシュが政権につくまでほぼ40年にわたって住宅価格が安定していたかつてのアメリカ社会(←キャピタルゲイン目当ての住宅投資が出来ないことを意味する)、分厚くて莫大な中間層をもっていて、しかもその「中間層」に工場労働者から管理部門の部長クラスまでが含まれていたアメリカ社会とは異なって、ほんとうはもうオカネがいらない家庭にしかオカネが流入しないので、行き場を失ったオカネが住宅投資に向かって、住宅がどんどん非現実的な価格になってゆく、という循環に陥っている。 その結果なにが起こるかというと社会が繁栄すればするほど社会の9割を越える層はどんどん貧乏になって、住宅の価格の高騰で最も肝腎な家を奪われてしまうことで、一軒の家に6,7人で住んでやっと家賃を払ういまの都市部ニュージーランド人の生活は、中間層の生活の質がホームレスに無限に近づいているいまの社会を忠実に反映している。 言うまでもないがアベノミクスが「社会の繁栄」と呼んでいるのは、西洋型の「オカネがあまった人間の懐に更におおくのオカネがはいる社会」の繁栄のことで、分配の構造が変わらない以上、繁栄は直截生活の質の低下に結びついてゆく。 逆にアベノミクスが失敗すれば個々の日本人から借用した形になっているオカネは永遠にもどってこないままディーラーの手元におさまってしまうわけで、この場合は、いちど沈降した経済社会全体を元のGDPパーキャピタ25位あたりに戻すことも難しくて、あんまり使わないほうがよい指標であると言えなくもないが、日本語ツイッタで、円の実質実効貨幣価値は、 すでにプラザ合意以前の70円程度にさがっていると教えてくれた人がいて、確かめてみるとそのとおりで、うひゃあ、とおもったが、あんまり経済に興味ないもん、という人のために簡潔に述べると、何のことはない、日本はすでに中進国になっていて、「アベノミクスが、うまくいったら先進国にもどれるかんね」というところまで、名実ともに、通貨の価値もともに、ずるずるとアベノミクスのすべり台を滑り落ちてしまっている。 SNBの決定がマスメディアが伝えるより世界経済に対しておおきな影響を与えていることや、アベノミクスがすでに失敗としかいいようがない様相をみせて日本を一挙にビンボ地獄に送り込もうとしていることは、別に、ここに書いても仕方がない。 次回から、個々の人間、ケースバイケースで、このだんだん無茶苦茶になりつつある世界を生き延びてゆくには、どんな具体的な方法があるか、退屈でも、ひとつひとつ述べてゆこうと思います。 (画像は家の引っ越し。いらなくなった建物をちょうど自動車を買うように建物ヤードで買って、こうやって建物ごと使う場所まで移動させまする)

Posted in Uncategorized | 1 Comment

孤茶と訪問する昭和史6(孤茶の回)

(昭和訪問記事は孤茶どんと交代で書いているので、今回は、以下、孤茶さんが書いた記事でごんす) 1970年というと、カラーテレビがうちに来て一年か二年経った頃で、当時おれは小学五年生だったから、流行の「スマイルマーク」と呼ばれた黄色地に黒でニコニコ顔が描かれた丸いバッジなんかを胸につけていて、裾の広がったベルボトムのジーンパンツ(Gパンという名が一般的になるまえは、そう言っていたような記憶があるけど、もしかしたら北海道の山奥だけかもしれない)なんか穿いちゃって、雪融け頃の空知川の水面にかかる霞みたいにボンヤリした毎日を送っていた。 その年にビートルズが解散して、翌年にはザ・タイガースが解散。パブロ・カザルス先生が国連で鳥の歌を演奏するも、かつての神憑った指遣いはカタルーニャの彼方に消え去り、無残な旋律の間に潜む執念にも似た息遣いが聴く者の心を鷲掴みにした。ジョン・コルトレーンが亡くなって3年ほど経った頃だ。大阪では万博が開催されて、そこでレッド・ツェッペリンが来日演奏して、イタリアのパビリオンではブイトーニのスパゲティが紹介されて、それをきっかけに日本で販売されるようになった。でも、そんなことは北半球のアジアの東の島国の北の最果ての山奥の少年には、まったく関係のないできごとで、おれはクレイジーキャッツのコントに笑い転げていたのでございました。 むかしの記憶は、白黒画像の標準語で蘇ってくる。そんで、やたらとセンテンスが長い。ほんとうは北海道弁の荒くれた田舎だったけど、でも、そこは世界の中心だった。おれの。 沢田研二と萩原健一は当時の二大スターで、ジュリーこと沢田研二は喉を開いた伸び伸びとした歌声で、いっぽうのショーケンは喉を締めて苦しそうに歌っていた。 カンテ・フラメンコだと、アンダルシア地方のさらに南のマラガ辺りが喉を締める歌い方で、北に行くほど喉を解放する歌い方になるんだけど、喉を締める方が禁欲的なんだよ、と聞いたことがあって、へえ。と納得しかけたものの根拠のわからない話で、それはウソかもしれない。 近所の従兄にはふたりの姉がいて、ジュリー派とショーケン派に分かれて対立していたかというとそうではなくて、ふたりとも加山雄三の若大将ファンだった。「しあわせだなあ」なんていう突き抜けた歌の45回転EPドーナツ盤にうっとりしていて、やっぱり十一歳の少年には関係のない世界だった。 1959年うまれだからね。ビートルズには間に合ってない。今ではクラシカル・ロックと呼ばれるハードロックなんかも少しは聴いたけど、中・高生の頃はコルトレーンやドルフィーみたいなジャズばかり聴いていて、家ではバッハの無伴奏チェロ曲なんかを弾いていた。ぜんぶ死んでしまった人たちの音楽じゃないか。田舎では音楽の話ができる同級生なんかいなくて裏山のエゾリスもジャズには興味がないようで、団塊のオトナたちのバンドに混じって、ウッドベースで4ビートを刻んでいた。音楽にかんしては友達が少なかった。 GSの話だ。GSと言っても、グスタフ佐々木のことではない。ていうか誰だ、それは。グループサウンズです。グループサウンズがテレビや芸能誌(昔は「月刊明星」やら「月刊平凡」といった十代のナウでヤングでハッピーな若者向けの芸能歌謡誌があって、付録に歌本という小冊子が付いてて流行歌の歌詞の上にコードネームが振られてた)を賑わせた。 けれども。 連日テレビで放送された割には、そのブームはせいぜい数年間で、レコード売り上げもパッとしなかったのは、「テキトーなオトナたちに仕掛けられたブーム」だったからで、なんか海の向こうで流行ってるみたいだし、ガキなんざ、こんなもんで満足しちゃうんじゃないの? と思って真似して作ったら、当のガキどもは、思惑通りには興味を示さなかったってことではないかと睨んでる。 無国籍芸能とでも言えばいいのか。ちょっとフシギな芸能。 もうちょっと補足しておくと、絶大な人気を誇ったザ・タイガースは、もともと京都では知られたアマチュアバンドで、歴とした実力派だったのは岸部一徳のベースを聴けば、わかる。いいベース弾きです。それなのに、数々のシングルカットされた曲の中にメンバーの作詞・作曲した曲は、ひとつもない。ザ・テンプターズでも最初の二曲と、他に一曲くらいか。 本格派で鳴らしたザ・ゴールデン・カップスはどうかと見てみると、これも全くない。すべてプロである他人の作った曲です。彼らはライヴで望まれてもシングル化されたヒット曲を歌うのを嫌い、米国や英国でヒットしたロックやR&Bのカバーを好んだというから、ま、そういうことだ。 キワモノみたいに思われてるけど、ブルーズやらせたら当時としては巧く、おまけにメンバーに作曲家で編曲家の星勝がいたザ・モップスならどうだ、と思ったけど、はたしてレコード化された自作曲は、なかった。 だいたいデビューが決まるとグループ名を変えられ、「これ着てね」とお揃いの変な服を着せられて変なアダ名つけられて「今日から、おまえサリーな」とか言われちゃう。え~、おれ渡辺ボルケーノがいいな、って言っても聞いてもらえない。でもまあ細かいことを我慢すればメジャーデビューできるんだと耐えて言うこときいたら、ロックじゃない曲(でも良い曲多いよね)歌わされて「ここで首傾げて人差し指さしてウインクだ!」って軟弱な振りまでつけられて「なんかハナシが違う」ってブーたれてる奴らの歌だから、派手な宣伝のわりには売れなかったんだろう。 テレビで見るとつまんないけど、高座に上がると別人みたいに面白い噺家みたいなもんで、ライヴでガチのオリジナルとかやると凄いけど、そんなことしたらテレビ見てファンになった娘さんは「え~……」って困惑しちゃう。 それでも一部に熱烈なファンはいた。手本というか見本にした西洋世界のロックと、日本の流行歌が衝突し、期せずして不思議なオリジナリティーを持ってしまったってことでしょう。でも、そんな新鮮な衝突は長続きしなかった。 そんなところに大手レーベルから見向きもされなかった「フォーク」が、下手なりに「やむにやまれない」欲求を自分で歌にして、ギター掻き鳴らしながら自分で歌い出すと、当時の若者がワラワラ寄ってきた。音楽性や技術ではグループサウンズのほうが明らかに勝ってるんだけど、ギターひとつで真似できるんだもん。GSはなにぶんブーたれてるもんで、ヤラセで女の子たちをバタバタ失神させてみたりしてもイマイチで、思い入れを本気で叫ぶフォークのほうが盛り上がっちゃうんだが、フォークソングは一部を除いて「四畳半的叙情世界」ばっかり歌ってたわけで、のちにユーミンなんかのニューミュージック(テキトーなネーミングだよね)が「ビンボーなのはしょうがないけど、ビンボ臭いのは、ヤだ」って登場する下地をつくった。 この頃、どっかの音大の教授が「よしだたくろうの曲は、詩が音符に乗りきらず字余りになってて、やはり米国生まれのフォークソングは日本語との馴染みが悪いのかもしれませんが、彼のつくる旋律は日本固有のヨナ抜き音階と言われる四度と七度の音を抜いた音階で、これは民謡と同じで、だから日本人の心を打つのです」などと今思うと相当デタラメな解説をしていて、後に雑誌などでも同じ解説を何度か読まされた。 歌詞の字余り問題は、この後ますます顕著になっていくし、音階の件はトニック、ドミナント、サブドミナントからなる簡単なコード進行や、ありがちな循環コード進行などの定型にペンタトニック・スケールの旋律を乗せただけのことで、ヨナ抜き音階が日本特有なんて嘘っぱちで、ペンタトニック音階の旋律は世界中にあります。アジアに限っても、ほとんどの国にある。 あと、当時のフォークのリズムパターンは、強いて分類するとカリプソが多い。ぜんぜん日本の伝統に根ざしてない。日本の庶民の伝統芸能は浪曲や都々逸、文楽、地唄。端唄といった口承文学だったのが戦後になって否定といっていいくらいに廃れてしまった。民謡でも時代に合わせてエレキギターやシンセサイザーを取り入れて新作が次々と出てくるのは河内音頭くらいのものじゃないだろうか。 戦前のものの否定と、テレビやレコードの爆発的な普及で芸能メディアの流行ペースは格段に速くなっていたから、グループサウンズというのも出るべくして出てきた形態のひとつなんだろう。なんか評論みたいなこと言ってるけど。 まあ、そんなことより面白いのは並行して萌芽していたロックだった。1970年前後には「ロックは英語で歌うべきか、それとも日本語で歌うべきなのか問題」があった。略して「ロックは英で歌うべれとも本語べなか問題」だ。いや申し訳ない。あんまり略してないし、おまけにウソだ。でもまあ、とにかくそういう問題があって、熱い論争になっていた。 テレビでも喧しく討論してて、論点は「日本語で歌うのが日本人。そうじゃないと日本人の心に届かない」てのと「ばーか。ロケンロールてのはアメリカのものなんだから英語で歌うの。あのリズムに日本語のリズムは乗らないの!」と、こんなことを大まじめに殴り合わんばかりの勢いで激論を交わし、お互いが一歩も譲らぬ平行線で、おれはコドモながらにこれを見て「もう、どっちだっていいんでないかい」と北海道弁で思ってた。 ザ・タイガースに「おれと組もうぜ」と誘って東京に連れてきたはいいけど、この人と一緒にしておくとすぐ壊れちゃうからと、レコード会社からハシゴを外された末にいろいろあってヨーロッパを回って帰ってきた内田裕也さんは甲高い声で、「ロケンロールは英語じゃなきゃ。あれはただのミュージックじゃない。ウエイ・オブ・ライフなんだ。よろしく」みたいな「ロックは英語で派」だった。反論すると安岡力哉を使って拳骨食らわせちゃうんだから。 だけど、ある日いっぺんに、この問題は、あっけなくカタがついた。 E.YAZAWA。キャロルの登場です。 ファンキーでモンキーでベイベーで、おどけてる。これがヤザワ。ヤザワの心の叫びがロックよ。英語じゃない。日本語じゃない。ハングルでもない。ハングリーです。これ大事。ハングリー、ハングラー、ハングレスト。ね。ヤザワはいつもハングラー。よろしく。 いくら何でもそんなこと言ってないと思うが、ヤザワのその扇情的な歌と人気の前には論争なんて無意味だった。「あ。歌っちゃったよ。日本語で」と。それでもまだ頑固に英語に拘る派は、「でもほら、ああいうヘンな層にウケてるだけでしょ。普通の人には受け入れられてない」とか負け惜しみ言って、見ないフリしてたら、宇崎竜童率いるダウンタウン・ブギウギ・バンドがダメ出し的に普通の人の人気を攫ってしまったので、英語派は消滅した。やはりE.YAZAWAは偉大だったのか。Tシャツとタオルは買っておくべきだったのかもしれない。 このヤザワを見出したのも内田裕也さんで、もう「ロックは英語」なんて言わなくなってた。裕也さんは沢田研二もデビューさせてるし、ジェフ・ベック呼んでみたり、日本のロック・シーンに貢献してる。自前の音楽はアレだったけど、この功績はもう少し評価されていいのではないか。 「もう何もかも捨てて、東京に出て歌手になっちゃおうかな」と、ヨタ話を飛ばしても、目の前の男は笑わなかった。それまでは何を言っても笑っていたのに。笑うどころか、訝しげな表情で、おれに訊いたのだった。 「誰かから聞いたの?」 え。なにが? 「おれが昔、東京で歌手だったこと」 え? ……うっそ! 「いや。ウソじゃないけど……。なんだ。知らなかったの」 知りませんでした。歌手、ですか。 「うん。グループサウンズだけどね」 さいしょはボーヤ(バンドボーイ。楽器を運んだりセットしたりの雑用係)から始めたという。苦労とは思わなかった。いつかスターになれると信じていた。福島の高校では人気者だったのだ。ファンの女の子もたくさんいた。歌には自信があった。「だから下宿じゃサインの練習ばっかりしてて。ばかだよね」綺麗な標準語だった。福島弁は若いうちにすっかり抜けてしまったのだろう。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 1 Comment

孤茶と訪問する戦後昭和史5

雪が積もり出した午後、日本橋三越本店のライオンの脇に立っていると、その頃はまだ走っていたトローリーバスのパンタグラフと架線のあいだに青い火花が散って、積もってきた雪に反射して、それはそれは美しかった、と義理叔父が述べている。 従兄弟とぼくが東京の町並みの醜さを冗談にしてふたりで笑っていたので、自分の故郷である東京を不憫におもったのでしょう。 ちょうどハリウッド女優の荒れた肌をフォトショップが修正するようにして、義理叔父の記憶も修整されていたに決まっているが、それにしても、京橋のうなぎ屋のテーブルをはさんで、義理叔父が話し出した「むかしの東京」は驚くべき町だった。 それは宮崎駿が描き出す、あの和洋折衷というか、遠い昔の日本と遠い彼方の「西洋」への憧れに満ちた日本の姿に似ていて、聴いているだけででかけてみたくなる町のようでした。 ところどころ、びっくりするような所があって、笄町から交差点を渡って、龍土町へ、龍土町からもういちど交差点を渡って霞町側へ行くと、根津美術館へつづく緩やかな坂道がモニとぼくが広尾山に住んでいたときにもあったが、その坂道の左側は義理叔父が中学生で、学校の帰り道に南青山の友達の 家に寄っていった頃には、まだ長屋という名前のスラムがあって、つぎはぎだらけの服や、まるで戦後の掘っ立て小屋がタイムスリップで紛れ込んだような一角があったという。 義理叔父はずっとあとで田宮虎彦の短編集を後で送ってくれて、霞町のスラムの様子が描かれていて、そのときは、へえ、と思ったが、もう題名も描写も忘れてしまった。 本自体はロンドンにあると思う。 パンケーキとホットケーキは日本では別のものでね、と義理叔父が楽しそうに話している。 またかよ、と従兄弟が父親に悪態をついたので、義理叔父がよく話す話題であるということがわかる。 ホットケーキはパンケーキよりも分厚くて甘いのだよ、という。 鎌倉ばーちゃんは帝国ホテルのホットケーキが好きだったが義理叔父はなぜか池袋の丸物百貨店のホットケーキが好きで、ばーちゃんにせがんで連れて行ってもらった。 丸物百貨店はあとのパルコで、そうだあそこには10円のジープを走らせるゲームがあって、と話し出したが、いくら聞いても、英語でも日本語でも、どういう仕掛けのゲームかは判らなかった。 パンケーキはずっとあとだよ、と義理叔父が言う。 おれが高校に入ったあとで、だから、70年代のまんなかくらいではないかしら、青山の歩道橋の近くにあって、雪印乳業の経営で「SNOW」という名前だった。 国語の教科書にスタインベックの子馬の話があってね、というので、英語でなくて国語なの?と聞くと、 だってスタインベックを英語じゃ、まだ読めないだろう、と要領を得ないことを言う。 だってスタインベックは英語じゃないですか。 いや日本語なんだよ、日本語だけどスタインベックで、といよいよ要領を失ってきたので、めんどくさくなって、あとは黙って聴くことにした。 その子馬の話にパンケーキが出てきて、子供がね、 「子馬の話じゃなかったの?」 いや、子馬の話なんだけど子供なんだよ。 パンケーキの上で目玉焼きをぶちゅっとつぶして、ベーコンで食べて、 それがあまりにおいしそうなものだから、ずっと「パンケーキ」というものに憧れていたのだよ、おれは。 ベーコンにメープルシロップかけないの?と従兄弟が疑問を述べる。 日本人はベーコンにメープルシロップかけたりしません、となんだか義理叔父はきっぱりと述べている。 従兄弟とぼくは、ふたりで顔を見合わせて、だっせー、メープルシロップかけないでベーコンとパンケーキ、だっせー、と声をあわせて合唱している。 井上陽水の「傘がない」がよくかかっていた「SNOW」を出て歩道橋を渡ると「ユアーズ」という輸入品専門のスーパーマーケットがあって、深夜の1時に東洋英和の女子高校生の友達とふたりでハリウッド映画に出てくるしゅわしゅわ泡が出る「シャボン」を探して店じゅう歩きまわった。 不良じゃん、と従兄弟とぼく。 ビブロスというディスコがあってね、というので、 「Studio 54」のパチモンのクラブだな、と従兄弟が言うと、義理叔父のほうはマンハッタンのチョー有名なStudio 54のほうを知らなくてびっくりしている。 沢田研二と萩原健一がよく朝まで狂ったように猥談にふけっていた青山墓地下の「サラ」(この店は、2005年頃だったかに行ってみたら、まだあった)や午前2時になるとオカマのおねーさんたちがバーにずらっとならぶレストランの「O&O」、アグネス・チャンがマネージャーを盾にバーの隅っこで一心不乱に勉強していた「防衛庁の正門前のハニービー」、都会の子供がいきがって行きそうな店がみんな出てきて、初めは茶化しまくっていたものの、東京の子供たちの生活が目に浮かぶようで楽しかった。 ロンドンはバスクやカタロニアの町まちとは異なって子供にとっては「夜」が存在しない町なので、なんだか羨ましい感じがする。 高校生になると、夜の10時というような時間に電話がかかってきて、早くに就寝した鎌倉ばーちゃんやじーちゃんを起こすまいとして、慌てて必死に電話機にとびつくと、受話器の向こうから、ぼくも知っているトーダイおじさんのひとりMさんの声が聞こえてきて、おい、六本木の香妃園でカレーを食おうぜ、という。 自転車に乗ってでかけると、Mさんは妙ににやにやした顔をして待っていて、 京橋のフィルムセンターで観たダリの「アンダルシアの犬」がいかに面白かったかに始まって、当時は忘れられた存在であったはずの小津安二郎の映画の面白さ、溝口健二や、川島雄三の映画の素晴らしさについて力説するのだそうでした。 あとで判ったのは、Mさんは通学の途中で一目惚れして、毎日3通ずつ(!)ラブレターを書いては出していた相手の「アオイさん」が、通っていた女子高校も投げ出して、家出して、アメリカ人のボーイフレンドを追いかけてカリフォルニアに行ってしまい、あまつさえ、ボーイフレンドが寝ているベッドから電話をかけてきて、私をほんとうに愛しているならオカネを送ってくれ、と言われて、このまま人生を廃業したい、と思い詰めるほどショックを受けていた頃で、日本の古い映画への熱狂も、その頃は麻布警察署の隣の二階にあったという香妃園の広いテーブルをはさんでの軽躁も、みな手痛い失恋の故で、理由はわからなくても、6年制の学校の長いつきあいで、なんとなく友の異様な様子がわかって、めんどくさがりやの義理叔父も、期末試験を三日後に控えていても、なにも言わず、一緒に笑って、テーブルの上のカレーを平らげて、お互いに疲れ果てるまで、しゃべりにしゃべったもののようでした。 それから自動車整備工場の娘の「美代ちゃん」が後年、浅田美代子という名前で女優になったり、渋谷から赤十字産院下まで走っていた通常の都バス料金の半額の「エロバス」で見かけて、腰をぬかすほど綺麗だった女学館の学生が三蔵法師になってテレビ番組に出てくるようになって、やがて白血病で死んでしまったり、義理叔父の昔の東京話は、まだまだ続くが、この記事は古茶さんに約束したまま、ほうっぽらかしになっていた「昭和シリーズ」の続きを書くのが目的で、というのは古茶さんの記事のほうが本題なので、水を向ける、という表現の用法が合っているかどうか判らないが、水を向けるための記事で、続きは古茶さんの記事を読んでから、にしたいと思います。

Posted in Uncategorized | 1 Comment

年をとるということ

1 20歳であるということは希望よりも痛覚が発達した心を持っているということである。 必然的に、痛みにくい心をもったおとなは、すべからくバカであって、良いも悪いもなくて、年をとっているということは人間の痛みをナマで感じられなくなってしまっているという点で愚かなのだというほかはない。 23歳に至らない人間を「若者」と呼ぶことにすれば若者の正義は、ただ若いということにある。 年齢にはたいした意味がない。 若い人間はいつまでも若い。 年齢で人間を区切ることには意味がない。 いづれも10代と20代を、その後の一生の準備に過ごすという凡庸だが決定的な謬ちを犯してしまった人間の繰り言であって、もっともらしいだけで、かけらほどの真実もない。 ぼくは自分が30歳をこえてジジイになってしまったにも関わらず、年をとった人間が本質的に嫌いなのであると思う。 30歳を越えてしまった人間は、 1. 通りを渡りはじめたときに通りの向こう側に着くまでのあいだに自分と恋人が存在として消えてしまったりしないと意味もなく信じている。 2. 世界が「意味」に満ちていると妄想したがる 3. セックスのように破滅的で破壊的な行為を日常の一部とみなしだしている というような点で、すでに反人間的な存在であるとおもわれる。 他にもいろいろ余罪があるが、書くのがめんどくさい。 岩田宏が、 あこよ あこよ 大きな声じゃ言えないが としよりにだけは気を許すな としよりと風呂に入るな あこ とまだ幼児だった娘に対して書いたのは年寄りというものの「老い」だけではない、本質的な薄汚さを知っていたからだろう。 2 三島由紀夫が千年を越えて生きる天人にも寿命があって、やがて五衰があらわれると述べている。 衣裳垢膩 頭上華萎 身体臭穢 腋下汗出 不楽本座 と言う。 着ているものが垢じみてくる 髪飾りが枯れてくる 体臭が臭う 腋に汗をかくようになる 分を知るということがなくなる たかが外観のことではないか、と言う人は、哲学が理解できない人だろう。 着ているものが垢じみても平気なのは、「人間は外観よりも中身だ」というような世にもケーハクな考えにとらわれて、世界と真剣に張り合って生きる気概をなくしてしまった人なのでもある。 肉体が臭い、腋に汗をかくのは、肉体が少しづつ屍体に近づいている徴である。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 3 Comments