孤茶と訪問する昭和史6(孤茶の回)

(昭和訪問記事は孤茶どんと交代で書いているので、今回は、以下、孤茶さんが書いた記事でごんす)

1970年というと、カラーテレビがうちに来て一年か二年経った頃で、当時おれは小学五年生だったから、流行の「スマイルマーク」と呼ばれた黄色地に黒でニコニコ顔が描かれた丸いバッジなんかを胸につけていて、裾の広がったベルボトムのジーンパンツ(Gパンという名が一般的になるまえは、そう言っていたような記憶があるけど、もしかしたら北海道の山奥だけかもしれない)なんか穿いちゃって、雪融け頃の空知川の水面にかかる霞みたいにボンヤリした毎日を送っていた。
その年にビートルズが解散して、翌年にはザ・タイガースが解散。パブロ・カザルス先生が国連で鳥の歌を演奏するも、かつての神憑った指遣いはカタルーニャの彼方に消え去り、無残な旋律の間に潜む執念にも似た息遣いが聴く者の心を鷲掴みにした。ジョン・コルトレーンが亡くなって3年ほど経った頃だ。大阪では万博が開催されて、そこでレッド・ツェッペリンが来日演奏して、イタリアのパビリオンではブイトーニのスパゲティが紹介されて、それをきっかけに日本で販売されるようになった。でも、そんなことは北半球のアジアの東の島国の北の最果ての山奥の少年には、まったく関係のないできごとで、おれはクレイジーキャッツのコントに笑い転げていたのでございました。
むかしの記憶は、白黒画像の標準語で蘇ってくる。そんで、やたらとセンテンスが長い。ほんとうは北海道弁の荒くれた田舎だったけど、でも、そこは世界の中心だった。おれの。

沢田研二と萩原健一は当時の二大スターで、ジュリーこと沢田研二は喉を開いた伸び伸びとした歌声で、いっぽうのショーケンは喉を締めて苦しそうに歌っていた。
カンテ・フラメンコだと、アンダルシア地方のさらに南のマラガ辺りが喉を締める歌い方で、北に行くほど喉を解放する歌い方になるんだけど、喉を締める方が禁欲的なんだよ、と聞いたことがあって、へえ。と納得しかけたものの根拠のわからない話で、それはウソかもしれない。
近所の従兄にはふたりの姉がいて、ジュリー派とショーケン派に分かれて対立していたかというとそうではなくて、ふたりとも加山雄三の若大将ファンだった。「しあわせだなあ」なんていう突き抜けた歌の45回転EPドーナツ盤にうっとりしていて、やっぱり十一歳の少年には関係のない世界だった。
1959年うまれだからね。ビートルズには間に合ってない。今ではクラシカル・ロックと呼ばれるハードロックなんかも少しは聴いたけど、中・高生の頃はコルトレーンやドルフィーみたいなジャズばかり聴いていて、家ではバッハの無伴奏チェロ曲なんかを弾いていた。ぜんぶ死んでしまった人たちの音楽じゃないか。田舎では音楽の話ができる同級生なんかいなくて裏山のエゾリスもジャズには興味がないようで、団塊のオトナたちのバンドに混じって、ウッドベースで4ビートを刻んでいた。音楽にかんしては友達が少なかった。

GSの話だ。GSと言っても、グスタフ佐々木のことではない。ていうか誰だ、それは。グループサウンズです。グループサウンズがテレビや芸能誌(昔は「月刊明星」やら「月刊平凡」といった十代のナウでヤングでハッピーな若者向けの芸能歌謡誌があって、付録に歌本という小冊子が付いてて流行歌の歌詞の上にコードネームが振られてた)を賑わせた。
けれども。
連日テレビで放送された割には、そのブームはせいぜい数年間で、レコード売り上げもパッとしなかったのは、「テキトーなオトナたちに仕掛けられたブーム」だったからで、なんか海の向こうで流行ってるみたいだし、ガキなんざ、こんなもんで満足しちゃうんじゃないの? と思って真似して作ったら、当のガキどもは、思惑通りには興味を示さなかったってことではないかと睨んでる。
無国籍芸能とでも言えばいいのか。ちょっとフシギな芸能。
もうちょっと補足しておくと、絶大な人気を誇ったザ・タイガースは、もともと京都では知られたアマチュアバンドで、歴とした実力派だったのは岸部一徳のベースを聴けば、わかる。いいベース弾きです。それなのに、数々のシングルカットされた曲の中にメンバーの作詞・作曲した曲は、ひとつもない。ザ・テンプターズでも最初の二曲と、他に一曲くらいか。
本格派で鳴らしたザ・ゴールデン・カップスはどうかと見てみると、これも全くない。すべてプロである他人の作った曲です。彼らはライヴで望まれてもシングル化されたヒット曲を歌うのを嫌い、米国や英国でヒットしたロックやR&Bのカバーを好んだというから、ま、そういうことだ。
キワモノみたいに思われてるけど、ブルーズやらせたら当時としては巧く、おまけにメンバーに作曲家で編曲家の星勝がいたザ・モップスならどうだ、と思ったけど、はたしてレコード化された自作曲は、なかった。
だいたいデビューが決まるとグループ名を変えられ、「これ着てね」とお揃いの変な服を着せられて変なアダ名つけられて「今日から、おまえサリーな」とか言われちゃう。え~、おれ渡辺ボルケーノがいいな、って言っても聞いてもらえない。でもまあ細かいことを我慢すればメジャーデビューできるんだと耐えて言うこときいたら、ロックじゃない曲(でも良い曲多いよね)歌わされて「ここで首傾げて人差し指さしてウインクだ!」って軟弱な振りまでつけられて「なんかハナシが違う」ってブーたれてる奴らの歌だから、派手な宣伝のわりには売れなかったんだろう。
テレビで見るとつまんないけど、高座に上がると別人みたいに面白い噺家みたいなもんで、ライヴでガチのオリジナルとかやると凄いけど、そんなことしたらテレビ見てファンになった娘さんは「え~……」って困惑しちゃう。
それでも一部に熱烈なファンはいた。手本というか見本にした西洋世界のロックと、日本の流行歌が衝突し、期せずして不思議なオリジナリティーを持ってしまったってことでしょう。でも、そんな新鮮な衝突は長続きしなかった。

そんなところに大手レーベルから見向きもされなかった「フォーク」が、下手なりに「やむにやまれない」欲求を自分で歌にして、ギター掻き鳴らしながら自分で歌い出すと、当時の若者がワラワラ寄ってきた。音楽性や技術ではグループサウンズのほうが明らかに勝ってるんだけど、ギターひとつで真似できるんだもん。GSはなにぶんブーたれてるもんで、ヤラセで女の子たちをバタバタ失神させてみたりしてもイマイチで、思い入れを本気で叫ぶフォークのほうが盛り上がっちゃうんだが、フォークソングは一部を除いて「四畳半的叙情世界」ばっかり歌ってたわけで、のちにユーミンなんかのニューミュージック(テキトーなネーミングだよね)が「ビンボーなのはしょうがないけど、ビンボ臭いのは、ヤだ」って登場する下地をつくった。
この頃、どっかの音大の教授が「よしだたくろうの曲は、詩が音符に乗りきらず字余りになってて、やはり米国生まれのフォークソングは日本語との馴染みが悪いのかもしれませんが、彼のつくる旋律は日本固有のヨナ抜き音階と言われる四度と七度の音を抜いた音階で、これは民謡と同じで、だから日本人の心を打つのです」などと今思うと相当デタラメな解説をしていて、後に雑誌などでも同じ解説を何度か読まされた。
歌詞の字余り問題は、この後ますます顕著になっていくし、音階の件はトニック、ドミナント、サブドミナントからなる簡単なコード進行や、ありがちな循環コード進行などの定型にペンタトニック・スケールの旋律を乗せただけのことで、ヨナ抜き音階が日本特有なんて嘘っぱちで、ペンタトニック音階の旋律は世界中にあります。アジアに限っても、ほとんどの国にある。
あと、当時のフォークのリズムパターンは、強いて分類するとカリプソが多い。ぜんぜん日本の伝統に根ざしてない。日本の庶民の伝統芸能は浪曲や都々逸、文楽、地唄。端唄といった口承文学だったのが戦後になって否定といっていいくらいに廃れてしまった。民謡でも時代に合わせてエレキギターやシンセサイザーを取り入れて新作が次々と出てくるのは河内音頭くらいのものじゃないだろうか。
戦前のものの否定と、テレビやレコードの爆発的な普及で芸能メディアの流行ペースは格段に速くなっていたから、グループサウンズというのも出るべくして出てきた形態のひとつなんだろう。なんか評論みたいなこと言ってるけど。

まあ、そんなことより面白いのは並行して萌芽していたロックだった。1970年前後には「ロックは英語で歌うべきか、それとも日本語で歌うべきなのか問題」があった。略して「ロックは英で歌うべれとも本語べなか問題」だ。いや申し訳ない。あんまり略してないし、おまけにウソだ。でもまあ、とにかくそういう問題があって、熱い論争になっていた。
テレビでも喧しく討論してて、論点は「日本語で歌うのが日本人。そうじゃないと日本人の心に届かない」てのと「ばーか。ロケンロールてのはアメリカのものなんだから英語で歌うの。あのリズムに日本語のリズムは乗らないの!」と、こんなことを大まじめに殴り合わんばかりの勢いで激論を交わし、お互いが一歩も譲らぬ平行線で、おれはコドモながらにこれを見て「もう、どっちだっていいんでないかい」と北海道弁で思ってた。
ザ・タイガースに「おれと組もうぜ」と誘って東京に連れてきたはいいけど、この人と一緒にしておくとすぐ壊れちゃうからと、レコード会社からハシゴを外された末にいろいろあってヨーロッパを回って帰ってきた内田裕也さんは甲高い声で、「ロケンロールは英語じゃなきゃ。あれはただのミュージックじゃない。ウエイ・オブ・ライフなんだ。よろしく」みたいな「ロックは英語で派」だった。反論すると安岡力哉を使って拳骨食らわせちゃうんだから。
だけど、ある日いっぺんに、この問題は、あっけなくカタがついた。
E.YAZAWA。キャロルの登場です。
ファンキーでモンキーでベイベーで、おどけてる。これがヤザワ。ヤザワの心の叫びがロックよ。英語じゃない。日本語じゃない。ハングルでもない。ハングリーです。これ大事。ハングリー、ハングラー、ハングレスト。ね。ヤザワはいつもハングラー。よろしく。
いくら何でもそんなこと言ってないと思うが、ヤザワのその扇情的な歌と人気の前には論争なんて無意味だった。「あ。歌っちゃったよ。日本語で」と。それでもまだ頑固に英語に拘る派は、「でもほら、ああいうヘンな層にウケてるだけでしょ。普通の人には受け入れられてない」とか負け惜しみ言って、見ないフリしてたら、宇崎竜童率いるダウンタウン・ブギウギ・バンドがダメ出し的に普通の人の人気を攫ってしまったので、英語派は消滅した。やはりE.YAZAWAは偉大だったのか。Tシャツとタオルは買っておくべきだったのかもしれない。
このヤザワを見出したのも内田裕也さんで、もう「ロックは英語」なんて言わなくなってた。裕也さんは沢田研二もデビューさせてるし、ジェフ・ベック呼んでみたり、日本のロック・シーンに貢献してる。自前の音楽はアレだったけど、この功績はもう少し評価されていいのではないか。

「もう何もかも捨てて、東京に出て歌手になっちゃおうかな」と、ヨタ話を飛ばしても、目の前の男は笑わなかった。それまでは何を言っても笑っていたのに。笑うどころか、訝しげな表情で、おれに訊いたのだった。
「誰かから聞いたの?」
え。なにが?
「おれが昔、東京で歌手だったこと」
え? ……うっそ!
「いや。ウソじゃないけど……。なんだ。知らなかったの」
知りませんでした。歌手、ですか。
「うん。グループサウンズだけどね」
さいしょはボーヤ(バンドボーイ。楽器を運んだりセットしたりの雑用係)から始めたという。苦労とは思わなかった。いつかスターになれると信じていた。福島の高校では人気者だったのだ。ファンの女の子もたくさんいた。歌には自信があった。「だから下宿じゃサインの練習ばっかりしてて。ばかだよね」綺麗な標準語だった。福島弁は若いうちにすっかり抜けてしまったのだろう。
バンドの名を聞いたが、おれは知らなかった。男はグスタフ・ササキ(仮名)といったが、その名も有名ではなかった。「そうだろね。売れなかったもん。ひとっつも」せめてレコードの一枚も出して、故郷に錦を飾りたかったが、まったく叶わなかった。オリジナル曲を持つわけではなかったが、名の知れたグループサウンズの曲ならだいたい歌えた。器用なコピーバンド。それでも仕事はあった。ビアガーデンやキャバレー。当時はある程度の水準だったら、バンドの仕事は選り好みさえしなければ食うに困ることはなかったのだ。カラオケが普及するまでは。
「おっ。知ってるねぇ。そうなんだよ。カラオケなんだよ。……ああ。ジャズやってたの。ふうん。昔は簡単だったよね」ササキは遠い目をしてビールをもう一杯たのんだ。
それから少し、おれたちは昔のドンバのナシハ(バンドの話)で高揚した。同じだったんだもん。ステージを終えると物陰で、店のマネージャーがその日の日当を配ってくれる。店によっては酔客の残したオードブルを振る舞ってくれる。「冷えた唐揚って、あれマズいのに旨いよね」
複数のバンドが出演する場合、次のバンドに人気をさらわないように、ネジを緩めてドラムセットの皮を弛ませちゃう話とか。あれやられると、どんなに巧いドラマーでもヘタに聞こえちゃう。ひどい話だ。
そんな話をして、いつかギターを弾いてくれ、と頼まれた。それに合わせて歌いたい、と。
いいすよ。ギターも少しなら弾けますから。そう答えて、その日は別れた。

それからも、なん度か会った。ササキの家は、当時おれが住んでいた郡山市の近隣の町で、うちの奥さんと連れだって花火大会や花見に行ったり、うちの奥さんがタイに里帰りしたときに検疫のことを知らずに持ち込んだ生のマンゴスチンとライチのお裾分けを届けに行ったり、夫婦同士のつきあいになっていた。うちの息子が生まれるまえのことだ。
「ギター? 次でいいよ。今回は持ってこなくていい。ちゃんと歌の練習してからだ」毎回そう言った。「それよりも、こないだ貰った果物ね。あれ、庭に種を植えたら芽が出てさぁ、けっこう伸びてきたんだよ。福島じゃ寒いから、実はならないと思うけどね。伸びたの。見においでよ」
ササキの古くからの知り合いという人とも知り合った。団塊ど真ん中で、ササキの小学校からの同級生ということだった。「へえ。あいつ歌手だった頃の話なんかしたのか。珍しいな。友達のいない奴だから、仲良くしてやって。でも、昔の話はあんまり深く訊かないほうがいいかもね」
なんで?
「うん」嬉しそうに言った。「東京で歌ってた頃、最初の奥さんが、あいつの実の弟と駆け落ちしちゃったんだよ」
え。
「そんで何もかもイヤんなって、こっちに戻って来たんだけどね」
……。
「もうすっかりヒトが変わっちゃって。んで、それ以来、弟とは絶縁状態。まえの奥さんはね、今のと違ってすんげえ美人。ま、今のカミさんは若いよな。一回りくらい下なんだっけ」
もういいですよ。そんな話、もういい。
「なんでだよ。あの町じゃ、みんな知ってる事だぜぇ」
田舎に住むということは、こういうことなのかな、と一瞬思った。

春だった。
ササキの奥さんから電話をもらったが、そんなことは初めてだった。いつもはササキが電話してくる。「お父さんがね、入院しちゃったんです。ちょっと今、うまく喋れないんでアレなんだけど、もし良かったら顔でも見にきてあげて。会いたがってるの」と病院の名を告げた。
酸素吸入器をつけているので、うまく喋ることができない、ということだった。肺の病気だそうで、申請すると医療費のかからない珍しい難病だと、ササキの奥さんは言った。病名を訊くと、「なんかね、ムツカしい名前の病気」と目を伏せた。
あたりまえだが、ベッドで寝ているササキは元気がなく、おれたち夫婦の顔を見ると、タイの寺院で願いを込めて仏像に貼りつける金箔よりも薄く頼りなく笑った。
「おなか、おっきくなったね」と、うちの奥さんを、くい、と顎で示した。
うん。出産予定は八月です。
うんうん、とササキは頷いて、吸入器越しの遠い声で、自宅の庭の南国の果物の木の話をし、病気が治ったら歌うからギターを弾いてくれ、と言い、疲れた、と一言述べて肩で息をし、目を閉じた。

ふたたびササキの奥さんから電話があって、葬式の日取りの案内を告げられたのは、その見舞いから三週間も経った頃だった。体調の良いときは、おれが見舞いの時に持っていった幾つかの知恵の輪で、嬉しそうに遊んでいたという。
「あの知恵の輪は」とササキの妻が言った。「あたしが貰ってもいいでしょうか。あのひとが遺した物って、あんまりないんです」
もちろんです。
葬儀は、よく晴れた日だった。知らないおばさんが、うちの奥さんを見て「お葬式に参列する妊婦さんには魔除けの鏡を持たせないとダメなのよ」と小さなコンパクトをくれた。
驚いたのはササキに三十歳近い息子がいたことで、なん度も遊びに行ったのに、その姿を見たこともなければ、そんな事実も知らなかった。なんでも高校生の頃から郡山に下宿して以来、ずっと別居していたということで、ササキの妻の「あのひとの息子です」という、そっけない紹介で、前妻との子ではないかと推測した。親族席にササキの弟を探したが、それらしい者はいなかった。
うちの奥さんは、初めて見る日本の葬式が珍しいようで、「泣いてるひとがいるよ」と驚いていた。タイでは幼い子供の葬式でもなければ、泣く者はいない。葬式は、生き残っている者たちがお互いの生存を確認し、笑顔で集合写真を撮る良い機会なのだ。大人にたいしては、泣かなくともいい。「だって、もうじゅうぶん生きたでしょ」
読経のときの大きな鈴(りん)の音に小さく「オッホー」と応え、どうかぜひ、と招かれた精進落としの席の折り詰めを見て、ひどく感心していた。
おれは、小さな声のタイ語で、うちの奥さんに訊いた。おれが死んでも、泣かないでしょ。
「え? いや。うーん。いや。そんなことない」と、うちの奥さんは不意を突かれて目を泳がせた。「泣くよ。うん。泣く。とても泣く」
ああ、こりゃ泣かないな。でもいいや。おれが微笑むと、うちの奥さんも微笑んで、「マイペンライ(だいじょうぶ)。ちゃんと憶えててあげるから」と言った。

それからなん年も経って、おれのギターは、あの震災でヘッドが割れ、ほかの物と共に処分した。楽器が壊れるのを見るのは、つらいものだ。かたちだけでなく、記憶みたいなものも一緒に壊れてしまう。
持ち物の殆どを処分して、よく晴れた空みたいに、いっそ清々しい気持ちになったものだが、あれからもうすぐ四年。今また服を買い、本も買い、ギターまで買ってしまい、ものは徐々に増えていく。
でも、生きていくってのは、あたらしいギターを買うってことで、だけど、それを弾くひとは日々齢を重ねていって。
あたらしい瓶の古酒だね。古酒は旨いものほど早くなくなるというのに、なぜおれは未だ生きているんだろう。
それでも妻はおれのことを憶えていてくれると言うのだから、マイペンライだ。
(内田裕也さん以外は敬称略)

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One Response to 孤茶と訪問する昭和史6(孤茶の回)

  1. katshar says:

    俺も憶えておくからマイベンライ。

コメントをここに書いてね書いてね

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