生活防衛講座 その3

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1 時間給

朝7時に起きて夜9時に仕事から家に帰り着く人が一日あたり2万円もらっているとすると、このひとの時給は20000÷14で1428円である。
会社の側の理屈では労働時間が7時間なのだから、あとは通勤時間他で時給は2850円ではないか、というだろうが、それは企業の側の理屈なので知ったこっちゃない。
働くほうから見れば、あくまで1428円です。

初心のうちは、自分の労働の価値を社会の側がどのくらい評価しているか知るために時間給を基準にしてオカネという社会の究極の批評尺度をあてはめてみるのは良いことだと思われる。

凍死家などは時間給が1000万円を越える、というひとは普通にいます。
もっとも凍死家は時間給がマイナス1000万円を越える人も普通なので、時間給という尺度は「オカネが天井から降ってくる」場合にのみ有効であることがわかる。

而して、ひとは時間給のみによって生きるものには非ず。

医学の基礎を勉強しただけで、こんなグチャグチャな不気味な学問やれるかい、と考えて、むかないものはむかないので職業として医学に進むのはやめてしまったが、一方、数学のほうは稲妻のようなカッコイイ才能がなくて、これも飽きて、やむをえないので賭博師になろうと思ったが、全然関係のない工学系の発明でラットレースから出ることになった。
おにーちゃん、まさか家業をついで楽しようというんじゃないでしょーね、という妹の白眼視がそこで終熄したが、それとこの記事とは関係がない。

数学が自分の頭に向いている人間は朝起きた瞬間から数学のことを考えはじめて、自転車で学寮に向かうときも数学を考えていて、学内では、うっかり芝生を横切って、件のクソジジイに、「きみはこの庭の芝を横切る権利はないだろーが」と怒られたりして、時間給は計算してみると200円だったりすると思うが、
これはそういう病気なので、観点を変えれば大学は阿片窟のようなもので、目をうつろにして数式を虚空に描く学問依存症患者達がはびこっていて、それでも大学の外に放し飼いになると社会が危地の陥るというような理由で、多額の企業または国家のオカネを濫費して収容しているだけなので、そもそも給料をもらえるほうが間違っている、という考えもある。

ぼく自身は時間給時代は、ひどく短くて、芸能プロダクションが店の近くにあるせいで、やたら綺麗なねーちゃんが日がな一日うろうろしているのに眼がくらんで、カフェのウエイターをやって二週間でクビになった。

だから時間給についてエラソーに云々するわけにはいかないが、冒頭の数え方で1500円をくだるような時間給で働くのは文字通りの「時間給のムダ」で奨められない。
どうしてもマクドナルドでバイトをするしかないのなら、物価が途方もなく高いとは言っても、いまや時間給一時間3000円の域に達すると噂されるノルウェーでマクドバイトをやったほうがいいと思われる。
たしか去年からノルウェーもワーキングホリデービザに参加しているので30歳以下なら誰でも働ける。

えー、でもノルウェーのマクドもやっぱりただのマクドだから、という人がいそうだが、そういうのを「机上の悲観論」という。
想像力をもってみよ。
たしかに同じようにマクドで、床に落っことしたパテを素早く拾って焼いたりするバイトだが、きみが女ないしゲイであると仮定すると、横をみれば同僚のにーちゃんは、北欧的にジェンダー平等の観念が発達していて固そうな尻がつんと上を向いていて、ちょっとやさしくすれば週末は…(←これだから二週間でクビになる)

えー、おほん。
つまり、時間給を数えて働くのは時間給で測ることに意味がない収入にたどりつくためで、自分の収入が時間給という概念になじまなくなったときには、たいていの人間はラットレースからぬけだしている。
時間給という尺度の生産的な利用法は、そーゆーものであるよーです。

2 年収400万以下

約束の年収別サバイバルプランだが、年収400万円以下は、なにも考えずに外国へ移動するのがよいと思われる。
たった4万ドルできみを使えると思っているところが、もうきみのその会社なり業界なりでのきみへの評価 「安くこきつかえるじゃんw」が端的にあらわれている。

社長はきみに期待している。
同僚もきみを頼りにしている。
しこうして年収は400万円にとどかない。

そういう暮らしを10年もつづけるとどうなるかというと、心のなかに窠(す)がはいって、やがてその黒みはきみの魂に及んでしまい、
妙にうらみがましい性格になったり、「世の中は汚い」
「社長は口ばっかりで、おためごかしの嫌な奴だ」
「こんな会社に将来なんてない」
というような語彙と表現が頭のなかでぐるぐるしだす。
しかも、そんなこんなで、上目遣いに世の中を見ているうちに40歳になってしまったりする。

それではもう遅すぎる、ということはないが、20代のときの5倍くらいの跳躍力を要するので、やや「世の中バカなのよ」(←回文)というブラックホールにのまれつつある天体のようなものである。

ビンボである、というのは常に一面ではよいことで、全財産売り払ってしまえばポケットにはいって、航空券とワーキングホリデービザスタンプが押してあるだけのパスポートをもって、エコノミークラスのシートに身を沈めれば、それだけで新しい人生がはじまってしまう。
人間の一生で、これほどの贅沢な瞬間はないとも言えて、世界中の、どんな富豪ジジイもうらやましがるだろう。
オカネを稼ぐ目的のひとつはオカネで買えない豪奢にひたることだが、
その初めのひとつは冒険の書の第1ページを開くことであると思う。

3 年収400万〜600万

貯金をする通貨を選ぶ、ということは大事なことで、アイスランドで金融危機が「庶民」に直截影響を与えたのは、たとえばホームローンを組むときにコンピュータのスクリーンを見せて、
「円で組みますか?アメリカドルで組みますか?それともポンド?」というふうにやっていたからで、円のところをみると、年利がドヒャッ1.5%とかなので、円でホームローンを組んだ人が多かった。
為替リスクの説明は法律で義務づけられているので、きちんと説明されてはいたはずだが、ふつーの「庶民」たるもの、そんな難しいことを説明されてもわからないので、まあ、ダイジョブだろ、と思って円にしてみたら全然ダイジョブでなかった。

よく市場がちょっと波立つと「世界の投資家が安全通貨と目される円に向かってなだれこみ…」という解説があって、日本の人は、おおおお、やっぱりわしらって信用あるのね、つおい、と思うようだが、それは誤解で、
ここで「安全通貨」というのは一週間の範囲でおおきく動かない通貨で、ここで述べられる「投資家」はオカネを借り集めて毎月利益をあげるのが義務のヘッジファンドみたいな「投資をビジネスとしている」機関なので、「次の動きが見えるまでリスクを避ける待避港」みたいなものだと思ってよい。

言葉を変えれば「枯れた市場」で突拍子も無いことが一夜で起きたりしない安心感があるかわり面白いことは何もない。

つまり利益も生じない。

残念ながら、加工貿易に依存する産業体質の古さもあるが、なにしろ
「人口が減っている」
「人口が老化している」という、市場凋落の二大絶対要素を抱え込んでいるのに、肝腎のこのふたつの要因への解決策は放ったらかしで、アベノミクスで復活だ!とか、産業世界を知らないもの特有なご託を並べて、
なるべく楽に気分だけで経済を復活させようと思う人がうじゃうじゃいる日本のような市場がまともな将来をもっているわけがないことくらい、相当アマチュアな凍死家でも知っている。

日本の市場はいまや沼沢の上に建設された楼閣のようなもので、いかに壮麗な建物をたてても、地盤が、問題がくすぶりつづけた揚げ句腐敗して、メタン沼沢の泥濘と化してしまっているので、傾いて倒れるか、アッシャーの家のごとく、振り返ってみると、ずぶずぶと沈んでいるか、どちらかの可能性しかない。
一喜一憂が、やがて一喜二憂、一喜三憂に変わって、自分が強いつもりで負けがこみだしたひとの常で、やがては負けても勝ったと言い募り、負け続けて破滅が迫っても「もうひと勝負」と言い出して、どんどん事態は悪くなってゆくだけであろうと思う。

国内にいながら決定的な破滅をやり過ごす方法は個人にとってはおおきく分けてふたつあって、ひとつは金(きん)を買うことで、もうひとつは通貨を買うことです。

金を買うのは、当面現金化しなくてもよい見通しがある場合で、金は意外なくらい主に脆弱な財政基盤の国家の売買によって下落したりもするが、長期的には右肩あがりで、違う言い方をすると「暴落したときに売らないで済む」のなら、常に良いリスクヘッジ商品です。

凍死家にとっては常識でも、あんまり普通の人が知らないことを述べておくと、通常の銀行/投資企業は金の買い取りを拒否することが出来る。
ところが、ほんとうはあんまりブログのようなところで書いていいことではないが、どの国にも買い取りを拒否できない会社が指定されていて、日本では田中貴金属という会社がこれにあたる。
日本の蓄財家が田中貴金属の100gインゴットばかり買うのは、要するにそういう理由で、その先はモゴモゴ言ったほうがよいが、金を買うなら、考えた方がよいことであるよーだ。

もうひとつの通貨のほうはレバレッジをかけるとFXそのものになってしまうが、防衛的に利用することも出来て、その場合は、自信がなければ基軸通貨にするのがよい。
中国人たちがUSドルばかり買いあさるのは、USドルが基軸通貨とみなせるからで、円がUSドルと同じ思想に立った通貨政策をとることのアホらしさはここにもあるが、いまは個人の防衛策を考えているので、そんなことを言っても仕方がない。

ユーロの挑戦を退けて、世界基軸通貨のディフェンディングチャンピオンとなったUSドルは、マイナーカレンシーのオーストラリアドルやニュージーランドドルとは本質的に異なる資産なので、収入のいくらかを分けてUSドルで積み立てておくのは悪い考えではないとおもわれる。

年収400万〜600万というところにいる所帯は、伝統的な蓄財法が最も有効な収入レベルで、他にもたくさん方法があるが、そっちのほうは商売のファイナンシャルアドバイザーに任せるとして、この記事のほうは締めくくりにヘンなことを書いておく。

「スーツを着て歩く人間はジーンズをはいて歩く人間よりもムダなカネを使う」というのは、いまでもほんとうで、公園の芝生や階段に腰掛けて、豚まんにかじりついてお昼ご飯にできるジーンズの人はスーツでランチタイムの居酒屋に向かうサラリーマンよりも、やはり生活コストが安い。

えー、でも、おれ背広で階段に座るよ、という人もいるが、ライフスタイルの本質的な違いは、そういうものではなくて、電車で通うところを自転車を好み、会社帰りの一杯もサドルにまたがって酒屋の店先でチビ缶を飲み干す人では随分余計なオカネの使い方が違うようです。

それはつまり、もともと「大卒の人間が企業に入って働いた場合、小さい家を借金して買ってやっと暮らせる」ようにデザインされた現代社会の、そのデザインにどの程度乗るか、ということで、近代のデザインから遠ざかれば、それだけラットレースの仕組みから遠くなってゆく。

4  ちかれたび

オカネの話を書くのがこんなに退屈なものだとは思わなかった。
ひとりづつ、友達や、ラットレースから上手に抜け出した日本の著名人(例:大橋巨泉)を書いていこうと思ったが、オカネについて書くことはツエツエバエに刺されるのと同じ、ということが判ったので、やめちにした。

ひと頃、日本で、特に若い人のあいだに流行ったように見える「支出を最低に抑えて低収入で生活を楽しむ」試みは、実は、英語世界では伝統的な考えで、何百年にもわたってさまざまな試みがされてきたが、本質的にはラットレースを周回おくれで歩いてまわるだけのことで、あんまり良い考えではないようだ。
論理的に述べても、20代から40代くらいまでは一見有効でも、親のカネや子供の扶養をあてにすることになって人間性の面で問題が出てきたり、ちょうど強制保険もなしにクルマを運転しているようなもので、人間が生きていくのには付きものの「事故」が起きれば、計画全体の余裕のなさが災いして、一瞬で取り返しがつかないことになる。

世の中の99%のことはオカネでカタがつくが残りの1%こそが人間にとって大事な一生の部分なのだ、ということを思い出して、せめてもオカネに邪魔をされないで一生を送りたいと考えるのがよいらしい。

がんばらないぞー、と気合いをいれながら、まあ、気楽にオカネを貯めましょうぞ。

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2 Responses to 生活防衛講座 その3

  1. Yamakawa says:

    初めまして
    最近このブログを知りました
    そろそろシューカツが始まる日本の大学生です
    周りはもう就活一色でいかに有名企業に入るかで
    みんな一生懸命です
    僕はなんとなくシューカツしたくないなと考えていたので
    新卒で企業に入って精一杯働く以外の選択肢がとても新鮮で
    少しだけ気が楽になりました
    日本語でこんな話を聞くことが出来たのは幸運でした
    ありがとうございます
    もしよかったらまたこんな話を聞かせてきださい

  2. パレット says:

    このシリーズ、本当にためになった。特に若い人にとっては陽光のようなエントリになると思う。

    というのはさ、こういう話題になると、よく目にするのは、成功者が教えてあげるという経営セミナーへの誘導みたいな文章や、若くして比較的高所得を得た者たちが低所得者を見下しながら高説を垂れるという内容ばっかりだからだよ。彼らには時給1000円ちょっとで働く派遣労働者や、シングル・マザーや、高卒の学歴しかない人や、精神的な病気やその他の事情で通常のキャリアパスを踏み外した人びとへの共感や慈しみはあまり感じられない。それどころか、そうした人びとを見下すことで自己の優越を感じていそうな人までいる。

    ガメさんみたいに若いお金のない人を、利用するでもなく、見下ろすでもなく、仲間として温かく手を差し伸べてくれる人は少ないんだよ。得難いんだよ。

    社会的に弱い立場に置かれた人は、ネットを開けば毎日自分たちを馬鹿にして、そこから離れたところで馬鹿者どもを賢げに類型化する「成功者」たち、もしくはそれに自分を擬した「名誉成功者」たちの内輪の戯れ言を目にすることになる。

    ガメさんの文章は、なんというか、疲れ果てた人の顔を何も言わずにそっと撫でる手のようだ。触感や体温がある。それは内容を論理的、経験的、知識的に十全に理解できなくても、こころに触れるものがあるということだ。そうしたものを貫いて、人間としての愛情を感じられるということだ。

    そしてそしてそれこそが今の日本のリベラルや若手「論客」に一番欠けているものだと思う。

    日本語インターネットでは、弱った人びとが自分のよすがを求めて、文章に満ちた空間を見つめても、そこは虚空で、得られるものがなくしょんぼり背を向け踵を返す光景が無数に展開されているのかもしれない。誰にも抱きしめられない人がいるんだよ!本当に多いんだ。日本という世界を録音したら、そういう呻き声が歪んだディストーションとしてところどころ姿を現わすにちがいない。

    寒空の下にいたのが、暖かい部屋に迎え入れられて、ふるまわれた豚汁に感動するような、そんな出来事が一つでも増えたら素晴らしいと思う。

    俺にとってこのブログはそんな感じだよ。ありがとう。

コメントをここに書いてね書いてね

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