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医師になることが人生の保障になると思う人は、どうかしている、と前にも書いた。
枚挙的なことが嫌いな、哲学に向いた 若い人間にとって医学を勉強するのは地獄だろう。
医学に向かない人間が医師になる場合、取り得る道はふたつしかない。
自分の最善の友人たる自分自身に別れを告げて医師という社会的存在の仮面をかぶって、自分とは違うものになりおおせるか、医師であることをやめるか。

あんた、当たり前のことを言うのはいいかげんにしてくれ、と言われそうだが、人間には職業に対してさえ向き不向きがある。
医師としては、やることなすことダメで、おまえは人を殺す気か、とまで言われた若者が、歴史学に変わったとたん、別人になって、というよりも、本人と思わぬ邂逅をはたして、到底誰にも到達できない深い洞察を示す、というようなことはざらにある。

歴史は、そういう人間を必要とするので、もちろん社会の側もその能力に対して支払いをする。

エルウィン・ロンメルのように軍事的才能に恵まれる、という不思議な才能の持ち主まで存在する。
ロンメルは「イギリス人は頭が良い民族であるはずなのに戦場においては、どうしてこんなにバカなのだろう?」と真摯な疑問を記しているが、イギリス人がバカだったのではなくて、ロンメルが天才だったのである。
戦略はもちろん、局地戦闘においてまでロンメルは、ただ呼吸をするように易々とアイデアを生み出した。
迂回する。
ほら、ここにフランキングできる突出部ができる。
きみはなにを見ているんだ、ほら、この突出部をフランキングしてちぎり取ってしまえば、もっと遙かに巨大なバルジが、ここに現れるではないか。
三日でやれば空軍の優位とともに進めるだろう。
歩兵を伴わなければいいんだよ。
教科書どおりにものごとをすすめるのは愚か者のやることだ。

ロンメルはそういう調子で数倍の戦力をもつ連合軍を、翻弄して打ち砕いた。
軍事的才能はなかったが、軍事的才能を見分ける能力は十分すぎるほど持っていたウインストン・チャーチルは、破天荒にも、この敵国の将軍を激賞した。

ドストエフスキーは長編小説「賭博者」をたった半日で書いた。
大負けに負けたカシノから、日本語では「付け馬」という、負けの借金を取り立てる強面のおっさんが家までついてきていたからです。
ウソをついていた彼は、どうやっても書くのに一週間はかかる小説を一日で書いてしまわなければならなかった。

切羽詰まったドストエフスキーの「名案」は、世界で初めて口述筆記で小説を書くことで、ドストエフスキーは、このとき口述された言葉を紙の上の言葉に変えていった、知的な敏捷さをもった女のひとと結婚することになる。

ロンメルもドストエフスキーも、軍人・小説家という職業がこの世に存在しなければ、ただの凡人だったに違いない人達です。
それどころか、ドストエフスキーに到っては刑務所で一生を終えるひとだったでしょう。

職業が多岐にわたる現代では「ホットドッグをたくさん食べられる」という職業的な能力も存在して、身長173cm、体重58kgの日本人小林尊という人は「ネイサンズ国際ホットドッグ早食い選手権」で6連覇することによって高収入を獲得することになった。
日本での評判と北米での評判を見比べてみると、どうやら、海外での評判のほうが高いようで、「大食いをスポーツに変えた」伝説の人として、空手における大山倍達というか、カンフーにおけるブルース・リーというか、そのくらいの声望はあるひとのようです。

ほかに大した能力がなくても、親が有名な人物で、他人にちやほやされるのが上手だ、という才能だけで食べている人びともいて、パリス・ヒルトンやニコール・リッチーのような異能のひともいれば、もっと親が有名な政治家だというだけで、本人にはこれといった能力がなくても、一国をとりしきる職業についている安倍晋三や麻生太郎のような人もいる。

どの人も、通常の見地からは、それがどんな才能なのか、うまく可視的に見えてこない点で、強い言葉でいえば「あぶく」のような才能にしかみえないが、もう働かなくてもいいくらい高収入をあげているので、やはりおのおのの不思議な職業について才能があるのでしょう。

このあいだの「反サバイバル講座」について、宮前ゆかりという、いいとしこいて不良な上に正義漢の人が「呼ばれた方向に行けばいいんだよね」と述べている

https://twitter.com/MiyamaeYukari/status/563768414276042752

その通りで、むかしは神様が呼んでくれたが、いまは神様は昏倒しているので、うまく「遠くから自分を呼ぶ微かな声」が聞こえる場所に自分を運んで、「正しい」ことをおおきな声で絶叫するひとびとや、言わずもがなの正義の合唱の向こう側から、途切れ途切れに自分を呼んでいる声に耳を傾けなければならない。

冬の夜、窓際の椅子に座って、どこへ行くという宛てもなさそうなベンキョーのあいまに、霜が付いた窓を開けて、オレンジ色の街灯がともった町を見ている。
クルマのエンジンの音がして、クルマのブレーキの音がして、酔っ払いが夜空に向けて叫ぶ意味のない叫び声や、救急車が走ってゆく音がして、いま聞こえたのは女の悲鳴ではなかったかときみを緊張させる。

夜更けの町の騒音のあいまから、低い、小さな声で、泣いている声がする。
きみは、びっくりして聞こえるはずのない「泣いている声」の方角に眼をこらしてみる。

朝になれば、きっと忘れてしまうが、そのときに聞こえたすすり泣く声は、ほんとうの声で、戦場になった自分の町で殺された母親が息子にとりすがって泣く声や、両親を失った幼い子供が毛布の下で声を殺して泣く声、
あるいは、競争の激しい社会で、どうすれば学歴もなにもない自分が生きていけるというのだろう、と怯える若者が流す涙や、自分には一生と言えるほどのものはなかったと考えながら死に臨んでいる老いた男の頬を伝う涙、
きみがたしかに聴いたと思ったあのときのすすり泣く声は、現実の声で、きみの心が世界に向かって開いた瞬間に、きみの心にとどいてしまったのだと思う。

その声がおおきくなる方角へ歩いていくのが良い。

社会というジグソーパズルには寸分たがわずきみの形をしたピースが空いたままになっていて、きみがくるのを待っている。
自分の短い経験からいうと、特に自分のほうから探しに行く必要はないようです。
「聴き取りにくい声」が聞こえる魂には、自分が行くべき方角も次第に明瞭にわかってくるものであるらしい。
右往左往をやめて、自己満足にすぎない正しいことの合唱に加わるのもやめて、ひとりでいよう、ひとりで耳をすまそう、と心に決めるのがよくて、聴き取りにくい声が聞こえはじめてしまえば、およそ、「どうやって生きるか」というような疑問は、どうでもよくなってしまうもののようです。

さあ、声がするほうへ。
光へ

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2 Responses to

  1. Dr.K says:

    インフルエンザにかかって、半年ぶりに思わぬ連休となったおかげで、普段はしないネットブラウジングに時間を費やしていたら、このblogに再び辿りつきました。
    感謝。

  2. Yamakawa says:

    「声」「反サバイバル講座」の2つの記事を読んで、これからどうしていこうかを
    自分なりに考えているのですが、まだまとまりません
    なんというかインパクトが強すぎて、うまく言葉にできないのですが、
    確実に僕がずっと感じていたモヤモヤの核心を射抜いているような気がします

    僕の人生を僅かづつですが、ゆっくりかつ確実に変えてくれる言葉に出会えたと思います
    お礼申し上げます

    自分にも「聴き取りにくい声」を聞くことのできる能力があるかわかりませんが、
    1度レールをはずれたら就職できないぞという社会の大きな声には負けずに済みそうです

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