Monthly Archives: March 2015

壊れた英語について 

Discover Possible、という大きなサインが町じゅうのあちこちに掲げられている。 無論、英語として間違っている。 広告主はオークランドの数少ない大学のひとつオークランド工科大学です。 出稿前のチェックが甘かったのかというと、そんなことはなくて、店頭にもテレビにも、あるいはFMから流れてくる会話にも「文法を枉げた英語」は氾濫していて、流行、と呼んでもいいと思われる。 1995年に「Broken English City」という言葉が聞かれ出した頃には英語がろくすぽ話せない移民たちであふれだしたロンドンへの揶揄の言葉だった。 途中で、通りが、どんどん壊れた英語の会話で満たされてゆくのを見て「かっこいい」と思った若い人間たちによって「Broken English」はロンドンの魅力を述べる表現になってゆきます。 1983年にロンドンに生まれて、郊外の家とロンドンの家を行き来して子供時代を過ごしたぼくとしては、自分のなかにふたつの異なる感情があって、 大都市とは到底思えない、親しみに満ちて仲間意識の強い、1990年代半ばまでのロンドンへの拭いがたい強い愛情と、21世紀に変わった頃から加速がついた「Broken English」の街としてのロンドンの楽しさと、両方が好きでもあれば嫌いでもある。 フォルテがなくなって、本店の一階で好きだった紅茶を飲むことができなくなった。 シティから始まった仕事の同僚とコーヒーを飲む新しい習慣は、コーヒーバーの頃と異なって紅茶を飲む習慣を駆逐してしまった。 北へ向かってクルマで旅行するときに、たとえばヨークのスワンホテルに泊まって、強い濃いオレンジ色の夕日に染まってゆく競馬場の芝生を眺めるのは、子供の頃のぼくの大きな楽しみのひとつだった。 あるいはペンザンスの、なんとなくイギリス風に冴えない町並みを歩いて、見知らぬおっちゃんたちが、丁寧な言葉で話しかけてくれるのを楽しんだ。 連合王国人としての「一体感」は、しかし、人種差別どころかさすがに口に出すほどにはバカではないにしても、特にビンボ人の中年人たちにとっては自分たちの仕事を奪い医療制度や教育に払った税金を盗む存在にしか過ぎない外国人たちは集団で海外から自分たちの国から自分たちが積み上げてきた富を盗む存在でしかない移民たちへの敵意、もう少し常識がある層にとっても、なんとなく馴染めない「よく判らないひとたち」という閉ざされた感情の表と裏にしか過ぎない。 やがて街に中東人や東ヨーロッパ人たちが溢れだすと、飲み物がポットにコージーをかぶせた紅茶からスターバックスのコーヒーに変わり、インド料理がスコットランド、イングランド、ウエールズ、北アイルランドを結びつけるゆいいつの国民的象徴になって、ロンドンは否応なく「壊れた英語」の街になっていった。 役立たずで簡単無慈悲に述べれば社会のお荷物である老若男女ほど「移民は富を盗みにくる」「移民は特権を利用して我々からオカネをたかるだけだ」と言いたがるのは、どこの国のどんな社会も同じで、北はスウェーデンから南のニュージーランドまで変わらない。 現実は赤首族が述べるのとは正反対で移民は常に社会を活性化する。 前にも書いたが、ニュージーランドのモール(←ショッピングセンターのことです)で、配達は無料翌日と決まっているのに、おおきなおおきな50インチのサムソンのテレビを父親と母親が箱の両端を持って、絵に描いたよう、というか、ふたりのチビ子供がテレビを「えっちらおっちら」という面白い日本語の表現そのままに汗をかきながら運ぶ両親のまわりをくるくる走りまわって歓声をあげている。 虫のいどころが柔弱だったかなんだかで、ぼくは見ていて涙ぐんでしまった。 明日まで待てなくて、自分たちが大金を払って家族のために手にいれた大型液晶テレビの感動を味わうためには配達ではだめで、どうしてもクルマで家に運び込みたいインド人家族の昂揚した気持ちが見ているだけで伝わってきた。 移民の強さは「今日よりも明日、今月よりも来月、今年よりも来年は必ずよくなる」という自分たち生活全般への基礎的なイメージに拠っている。 「懸命に働けば生活がよくなる」という単純な考えほど人間の生活の質を高くするものはない。 60年代の日本映画を見ていると、夕方、丸の内の会社を出て横須賀線に揺られ、湘南の町に帰って来たサラリーマンの「おとうさん」が、畳のうえに立ってネクタイをほどき、着物に着替えて卓袱台の前に座って、小瓶一本だけのビールを、一口のんで、「ああ、ビールはうまいなあー。仕事が終わって家に帰ってきて、きみや、子供たちの顔を見ながら飲むビールほど旨いものは、この世にはないよ」と言うところがよく出てくるが、あの映画の「おとうさん」たちも「移民」で、鳥取の小さな田舎の町から東京にやってきて、マジメに働いて、東京人の白眼視に耐えながら、ぐうたらな東京人たちを横目に、自分たちの幸福をつくりあげていった。 いまの日本が、悪意と憎悪が渦巻く深い澱みになりはててしまったのは、つまりは移民を受け入れるのをやめてしまったからだろう。 かつては移民のオリジンだった九州も四国も東北も、皆テレビによって日の丸の赤と白で綺麗一様にに塗りつぶされた均一百円の「日本」になって、80年代にはまだ東京の大学から筑波の大学へお使いに行ったひとが、まだ新しかった筑波大学への道順を地元の人に聞いても、方言アクセントの強い日本語がほとんど一言も判らなくて、ほんとうに同じ日本語なんだろうか、と訝しみながら、まったくわからない日本語に、ニコニコしながら感謝を顔にあらわして頷くのは骨が折れた、と述べた日本の大特徴の「地方」は失われて、移民の流入のない、呪詛がぶくぶくと泡をつくって吹き出す汚水だめにような社会に変質してしまったのは他の言語のネットと日本語ネットを較べて一瞥すれば明らかである。 頑迷な連合王国人もオーストラリア人もニュージーランド人も、目の前にひたむきに働く中国系人や韓国系人を目にして、あるいはチャリングクロスに生き残った数少ない本屋で、おそるおそる切り出したセイドウ・ケイタの本のありかをびっくりするほど精確な知識で説明しながら、あまつさえ、電話をかけるべき、いまでは郊外に分散してしまった古書店と電話番号のリストをつくって手渡すロシア人の若い女の店員をまじまじと見つめながら、当然、店主の名前には知っている名前がいくつもあって、じーちゃんたちの偏屈な態度や眼鏡をずりあげるときの可笑しなやりかたまで、笑いあいながら、まるで何世代も知っている家の息子と娘同士の会話であるかのように、打ち解けて、暖かい気持ちになって話したりしているうちには、イギリス人ほどのバカタレでも「人間は、人種や所属文明によらず、要するに人間なのである」という、芋虫でも理解していそうなチョー簡単な真実を理解したのだと思う。 ロンドンやオークランドの英語は壊れてしまったが、そのことを誇りに思う。 壊れた英語は、壊れていた社会を、希望やひたむきさという新型接着剤で、修復してしまった。 移民の特権がなんちゃらでホワイトパワーというアホさまるだしの造語まで流行らせて、どんなに移民たちに対して悪態をついて、壊れた英語を嗤っても、今日と明日が同じであることをひたすら願うマヌケたちと明日が必ず今日よりもよくなると信じている移民たちとでは、結果は未来の先まで歩いていかなくても見えている。 善意と希望を保存しえた社会だけが「勝って」ゆくのは、「本音」や「裏」に通じて、見るからにケーハクで悪意に満ちて、知性が欠落した日本語表現で言えば「お花畑」に生きる国民を着々と征圧しているはずの「現実的世界」と正反対の、本当の「現実世界」の歴史で、ドアを閉ざして、ブラインドをおろして、暗い部屋のなかで空想のなかで自分を皆が憧れるヒーローとみなして、自分と少しでも異質なものは拒絶する社会は、次第に世界の進歩から置き去りにされて、滅びていった。 人間は不思議な生き物で、結局は善意によってしか生き延びえない。 食べ物だけで生きていけないという、この地上でゆいいつの愚かさをもっていることにこそ、人間の価値があることを、まるで知っているかのようです。 Discover Possible、というビルボードのサインがある壁の下に、 White Powerという、ペイントスプレーのグラフィテイがあった。 … Continue reading

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向こう見ずな十代のためのブートキャンプ_1

31歳で自分を「若者」と考えるのは、ぼくの感覚では難しい。 青年ならなんとかなりそうな気がしなくもないが、「青年」は死語なのではなかろうか。 年寄りになったら嫌がられながら若い人間に説教をかますのがぼくが子供のときから抱いていた黒雲の志(←青雲の志のダジャレ)だったが、考えてみれば、きみとぼくとはもう13歳の年齢の開きがあるのだから、「あんまりマジメにやらなかった儒教圏」の日本語の世界でも、偉そーにしても、十分資格が備わってしまった。 ある朝、ふと目が覚めてみると、30歳をすぎた初期中年男になっていて、説教をしてチョー嫌がられる楽しみを、ぼくは手にしていたことになる。 勉強はしないよりはしたほうがいい。 きみが通っている日本の学校では数学と物理と化学と生物は世界の社会のなかでも高い水準で、それよりもなによりもおおきな書店にいけば、ヨーロッパ人なら唖然とする数のきみ個人の学習を助ける書籍や雑誌が棚を埋めて並んでいて、開いてパラパラと読んでみると、内容はちょっと古めかしいが、 悪くはない。 むかし義理叔父(日本人・50代)がとっていて、勉強は他にはあんまりやらなかったというので、東京出版という出版社の「大学への数学」という雑誌を、世界中の雑誌を蒐集しているぼくは当然のように義理叔父が後生大事にとっていたバックナンバーを譲り受けて、足りない分を探して、1957年に始まって、かなり古いものから揃えていったが、「インターフェース」という興奮するくらいすごい内容の、大学へ行けなかったエンジニアたちのための雑誌と並んで、日本の、英語人からは見えない実力を学習した。 日本の文化のよいところは社会と折り合いが悪い、孤独な若者が世界を渉っていける仕組みが発達していることで、売人がうろうろする場末の通りの、そのまた路地で社会を憎悪しながら若者が死なないですむための仕組みがたくさんある。 西洋社会では、若者を助ける仕組みは社会的な仕組みだが日本では非公式地下互助組合というべきか、おっさんたちが仕切る社会とは関係のないところで、先行した疎外された若者が後からくる若者のザイルをしっかりと引き上げることによって成り立っている。 何度も観察して、英語授業の補助みたいなこともやらせてもらった、ぼくの観察では、日本の高校は軍隊なみで、ぼくなら通うのは無理だろう。 高校などは、なるべく自分の生活に干渉しない、あたりさわりのない学校を選んで、悪意に満ちて頭がわるい、そのくせ他人への関心だけは満々にある人間がたくさん夜行する社会に出る準備に、さまざまなトレーニングを自分で自分に課す時間がつくることができる学校を選ぶと思う。 残念ながら、イギリスで生まれ育って母親が日本人で、しかも知性も情熱もある教師、というような誤差として無視したほうがよい確率では出会えるかもしれない教師にめぐりあうのでなければ、学校の英語は無視したほうがよい。 きみがこれから日本の外に出て初めに気がつくことは、日本人は他国人が失笑するほど英語が判らなくて、判らないだけなら判るようになればいいだけだが、しつこい染みのように染みついた奇妙な癖がついていて、その癖を具体的に書けば、アクセントにおいてはカタカナの強い影響がある平板で母音が壊れた英語の発音で、読むことにおいては英語を「構文」の名前で分解して、その上日本語に無意識のうちに翻訳してしまう外国語を身につけるためには致命的な癖で、本来は言語は読めれば同じレベルで書くことも出来て、聴くことができれば同じ歩調で話す能力も進捗していかねばならないが、たとえば「学力調査」のようなことがあると、新聞には「日本の高校生は読む力はあるが、他の能力に劣ることがわかった」と書いている記者自身が英語などまったく出来ないことが見え見えの噴飯もののことが書いてあるが、読む能力だけ突出しているというのは、要するに忙しく頭のなかで日本語に変換する曲芸のような、当たり前だが外国語の習得に最も有害な「芸」に長けてしまっているだけで、なんのことはない英語が判らなくなるために6年間一心不乱に自分で自分を訓練しているだけである。 だから、英語教育能力を学校に期待しても仕方がない。 Netflixで大量に英語のテレビドラマや映画を観たり、自分が好きな英語の歌を歌詞をおぼえて歌えるようにしたり、いまならDuolingo のような無料のオンラインサービスを使ったり、そこから進んでiTunesで公開されている、たとえばスタンフォードの講義を聴いたり、アメリカはもっとたくさんあるはずだが、少なくとも連合王国にもたいへんな数で存在するたとえばオンラインのアートスクールで、インストラクターとスカイプで話しながら美術の技法を学ぶ、というような方法を使って英語を学んでいくとよいと思う。 冷たいことをいうと、どんなに英語が出来るということになっていても英語人以外に英語を学ぶのはバカげている。 日本に長く住む英語人は、だんだん英語を教えるのは日本人にまかせたほうがよい、と考えるようになっていくが、それは誰もひとことも口を利かないで押し黙っている日本の教室の異様な雰囲気を憶えているからで、日本特有の、あの家畜の屠殺場をおもわせる空気を頭に思い描いて、英語だけで授業をすすめる絶対不可能性を考えるからである。 でも、ひとりなら、きみも、コンピュータに向かって、勇気をふりしぼって話しかけることが出来るのではないだろうか? 数学は、出来なければならない。 人間の思考は言語に依存しているが、すべての言語のなかで最も思考の道筋が見えやすく、自分の思考が歩いて行く道筋を明瞭に確認することが出来て、そのうえ、更に重要なことは、必要を感じれば自分で自分がこれまで考えてきたことが正しいかどうかセルフチェックが出来るのは数学という言語だけの特徴で、他の自然言語には見られない利点であると思う。 数学はもともと、新しい時代のラテン語で、基本的な記号の定義さえ了解できれば、まだ自然言語は通じない相手でも数学語だけは他国人どころか見知らぬ銀河からやってきた知的生命が相手であっても会話が成立するはずである。 数学においては、向こうから一組のハンサムな青年と美しい娘があるいて来ても、それはただの「ふたり」の人間で、(ふたり)xX、というような数式がないので、だいたいの事情は察せられるとおり、その「ふたり」は「不完全な2」で、まだまだ無数にあるはずの存在しうる言語の視点のなかで、数的論理性に特化した言語になっている。 話が長くなってきたので慌てて書くと、数学の中で最も美しいのは幾何だと、ぼくは感じるが、地面を這う21世紀の現実生活に必要なのは微分で、微分のことは微分でせよ、というが、微分でないことも微分でやったほうがうまく事情が把握できるのが現代世界の知見で、微分方程式が運用できないとなると、たとえば経済の様相を把握するのは難しくなっていくだろう。 いまでも経済学を自称経済学者や経済通の芸人や文学者の枠から出て実践するには一個の数学者であることが必要だが、これからはますます、その傾向は強まってゆく。 その次に必要なものは歴史で、世界史よりは日本史のほうがいいが、日本における日本史は文献主義で、まるで日本史の専門家の徒弟を育てる趣なので、やっても仕方がないし、退屈を極めていて、ぼくは教科書を見てぞっとした。 最もよい方法は20巻〜30巻程度の通史を買ってきて読みふけることではなかろうか。 英語では読みやすい通史がなくて苦労するが、日本語には多い。 数学、歴史、英語、が身に付いたら、あとは文明人のさまざまな活動のなかから、自分が好きな領域をみいだしていけばいいわけで、もちろん個人によって得意なことは異なるから、ぼくにあれがいいこれが面白いと述べるのは無理である。 ただ、ひとつだけ教えてあげられることがあって、自分が得意な領域には「努力」というものが存在しない。 ちょうどDiabloがリリースされたときに、あの怪物たちが蠢いている暗い世界の虜になって起きるなりコンピュータをつけてDiabloを倒すのをめざした世界中のゲーマーたちと同じで、寝てもさめても、と言う通り、中毒するように、のめり込んでいく。 ぼくは数学が、その初めのものだった。 起きて、ぼんやりした頭が、だんだん意識を整頓して、世界が明示されはじめて初めに考えることが昨夜の問題の続きで、食事も歩行も、うわの空で、 まるで数学の女神に取り憑かれた人のようだった。 それが幸福なことなのかどうか、あるいはもっと言えば良いことなのかどうかは、ぼくには判らない。 数学に狂っていれば、たとえば本を読みふけったり、クリケットに熱中する時間がその分は失われているわけで、ほんとうは、もっとバランスのよい時間を過ごすべきだったかもしれない。 ぼくはいくつかのスポーツの選手だったが、乗馬のほかは、なんとなく義務だと考えてやっていたような気がする。 もともとの家系が暴力的な人間がそろっているのでラグビーなどは、級友を体当たりで跳ね飛ばす楽しみがあったが、そういう楽しみも数学の魔術的な時間には較べるべくもなかった。 きみはもうすぐ大学に行くのではないか、と自分のことを考えていると思うが、もうそろそろ、日本人であっても、イギリス人なみに、大学に行ってもなにをしたいかわかっていないから、その前にちょっと世界を一周してくるかな、という考えがあっていい。 … Continue reading

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FELA!

あたりまえだがアフリカンアメリカンとアフリカ人の内面はおおきく異なる。 あたりまえのことを、「あたりまえだが」と断って、わざわざ書くのは、日本語の世界ではアフリカ人もアフリカンアメリカンも、混同して、たいして変わらないのではないか、と漠然と思っている人がたくさんいるのを日本にいたときの経験から知っているからです。 アフリカンアメリカンは、またまた当たり前のことを言うとアメリカ人で、しかも、最近では「もっとも伝統的なアメリカ人」で、いろいろなエスニックグループのなかで最もよくアメリカ的な価値を体現しているのはアフリカ系アメリカ人であると言ってよい。 アフリカ人は、と言って、またまたまた当たり前のことを述べると、 アフリカ人は、というのはアジア人は、というくらいいい加減ないいかたで、地図をみればアフリカは広大な大陸で、しかももともと風土的な多様性に富んだ大陸なので、ほんとうは「アフリカ人」などというかたは、「アフリカ大陸に住んでいる人」という以外は意味をなさない。 それでもアフリカ大陸から遠く意識が離れている日本語で書くには「アフリカ人」という一般化も意味がなくはないのでアフリカ人は、とおおざっぱすぎるひとからげで敢えて述べると、この地球上の文明の繁栄のアンカーを担うひとびとだが、こういうとアフリカを知っている人ほど、「そんなことが起きるわけはない」と目を剥く。 日本ではたいそう有名らしいブロガーのちきりんという人がアフリカについて書いているから読んでみろと言われて読んでみたら、アフリカはもういっかい欧州人に統治させるしかないと書いてあって、大失礼にも大笑いしてしまった。 なぜ笑ったかは、めんどくさいから説明しないが、西洋人のモノマネをしてバックパッカーとして世界を歩きまわったらしいこの人は、アフリカに行ってアフリカ人たちの社会のデタラメぶりに余程ショックを受けたようでした。 アフリカ人の友達に聞いても「だいたい、どこの国に行っても、ほんとに滅茶苦茶だぜ」と言うくらいで、最も身近な南アフリカ人の友達も里帰りしてまず初めにやることは空港で拳銃を受け取ることで、 「そうしないと殺されちゃいますから」と淡々と述べるところを見ても、日本の人がよく日本がいかに安全か述べようとして口にするロサンジェルスは危ない、サンパウロは危ない、というような、地元人に聞くと、「そんなことねーよ。危ないところに行かなきゃ、危なくありませんよ。日本人ってバカなんじゃね?」 というようなこととは違ってマジメに危ないもののよーです。 ボランティアでレソトの教育事業に参加したひとびとなどは、学校の備品を狙って毎週末に襲ってくる山賊と教師たちとの銃撃戦、 勉強をしたくない生徒たちが雲霞のように押し寄せて学校の建物を破壊した最後の日の様子など、聴いているこちらは口をぽかんと開けて、そんなことがこの世の中にほんとうにあるんですか、としか言いようがない物語を聴かせてくれたが、アフリカは厳しいというか、人道主義、というような西洋人の(アフリカ人にしてみれば)おちゃらけた理屈は通用しないので有名な大陸ではある。 アフリカ人は、いろいろな点で、ヨーロッパ人の凡庸な想像力を越えているといつも思う。 (閑話休題) FELA! をモニとふたりで観に行った。 ナイジェリア人たちのアフリカンジャズミュージカルで、もともとはたしか、ニューヨークのオフブロードウエイで1ヶ月くらいやっていた。 粗削りなミュージカルで、公演当初「魅力はあるが完成度は…」という劇評が多かったと思う。 舞台を観て最もぶっくらこいちまうのはダンスで、ナイジェリア人は、アフリカ人たちのなかでも、名うてのダンスの名手だが、腕と足の動きがものすごく激しくおおきいダンスは、「ダンス」という概念を超越していて、人間の肉体にはこんなにエネルギーが潜在しているのかとカンドーするくらいすごい。 歌詞の内容はコンゴや南アフリカの音楽と共通していて社会の矛盾や政治家の無能、警察や軍隊の腐敗を憤る歌詞の曲がほとんどです。 同じアフリカ人の音楽でもマリ人たちのように自分たちの民族的な情緒を昇華させ凝結させようという意識がはっきり感じられる音楽とはまったく異なっている。 ただ、またまたまたまた、当たり前だが、アフリカの部族的リズムとダンスにジャズのリズムはぴったりでビッグバンド編成に近いジャズプレーヤーたちが活き活きしていて、バカみたいな感想でも、やっぱりジャズはアフリカの音楽だなあー、とモニとふたりで帰りのクルマのなかで話し合った。 白人の、ジャズ、そこから派生したブルースとロックンロールは、どうあがいてみてもアフリカ人たちの音楽と体得したリズムのサルマネなのである。 2050年にはアフリカの時代が訪れているのでなければならない、とぼくがバカのひとつおぼえそのままに繰り返し述べてきた理由は簡単で、単純に事実の数値を計算してゆくと2050 年がアフリカの時代でなければ地球上の諸文明など、とっくの昔に滅びてしまっているからです。 日本の経済が衰退して、アベノミクスによって、国民ひとりひとりの犠牲において、株価は人為的に高く高く維持されているのに、一向に産業経済が伸びないのは、おおもとは冷戦の終結にあるとも言えるが、もっと長期の展望に立てば、もうすぐ中国人の生活が中進国なみになれば地球がまるまるもう一個必要な、限られた資源の獲得競争に日本は次第に敗退しつつある顕れであるとも言える。 ええええー、だって石油安いじゃない、ときみが言う姿が見えるようだが、その「安い」水準の裏側では、不足するのが判りきっているエネルギーやほかの資源に対策するために石油の備蓄基地をつくり、爆発した原発がばらまいた放射性物質の影響はたいしたことないと人間性が欠落した科学者を動員して原発の再稼働をめざし、鉱石を食料を確保しようとして、主に中国と競合して、オーストラリア、アフリカ諸国の至る所で敗北している日本語の報道からは視えない資源獲得の戦争がある。 アフリカ諸国は、さらに悲惨で、部族単位の共同体意識が強く、パブリックの概念が稀薄なことにつけこまれて、自分の家の庭にある資源は、ほとんどが中国とヨーロッパ、アメリカ、日本に「所有」されてしまっている。 政治は腐敗し、社会は崩壊して、インフラストラクチャーはぼろぼろになっていく一方、ボコハラムに見られるような幼稚な暴力が支配する領域はどんどん広くなってゆく。 地球上で最後に人口が市場が伸びるために理想的な構成になるのはアフリカ諸国で、老化を重ねてゆく他地域とは異なって、アフリカ人の手に資源と生産性が渡らねば世界はたちいかなくなってしまう。 日本語の世界からは見えにくいが、この問題は緊急の問題で、アフリカ人は主にヨーロッパ人と額をよせて、あーでもないこーでもないと対策を考えているが、まだ良い知恵はうまれない。 途方にくれる、と言いたいところだが、アフリカ人の音楽、アフリカ人たちが踊る姿をみていると、人間はここから来たのだということが実感される。 あの激しいリズムこそが人間のリズムで、豪雨や照りつける太陽や、動物たちが歩くリズムをマネをして歩いてみて笑いころげるひとびとの記憶を全部保持しているような、あの不思議なリズムが、人間の文明を生み出したのだとわかる。 いまの世界の、五万年前にアフリカからやってきた人間は、また最後にアフリカに帰って行く。人口構成から、そのことは、すでに動かない事実として近未来に固定されている。 その「アフリカの時代」にたどりつくためには、エネルギーや食料生産におけるいくつものブレークスルー、地球全体がそのままもう二個必要なだけの資源をいまあるたったひとつの地球の資源でまかなうための世界のあらゆる場所での無数の技術的ブレークスルーと社会的な革命が必要だが、アフリカ人たちの激しい踊りと、ステージ全体が爆発するようなすさまじいエネルギーを観ていると、結局なんとかなるんじゃないか、という根拠のない楽観が頭のなかに生じてきます。 シアワセに過ぎる感想なのかも知れないけれど

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日本語のために(1)

日本語のなかで生まれて、日本語のなかで死ぬのは、むかしなら悪いことではなかった。 英語でふざけて言えばThanks to Murasakiで、一人称単数の主語のない、まるで春の陽に温められた大地から立ち上る陽炎のような、美しい日本語の文章を、むかしは日本ではそこだけが文明の土地で、門から一歩を出れば「化外」で、官から地方に荘園をもらっても娘があれば、化外の地に出ては野蛮に染まって、一流の門地のある男と結婚ができなくなるというのでためらった、洛中にいて、小さな文机に向かった女のひとたちが、綿綿と、日記や物語を書き付けた、偉大な文学の数々があって、和歌というすぐれた詩の伝統があり、近世に至れば、芭蕉のような偉大な詩人がでて、国そのものの文明を根底から破壊するような、明治の「開化」のあとでも、透谷があらわれ、その友人の藤村が散文日本語を、詩人としての強い意識で詩から分離して、「千曲川のスケッチ」という普通なら近代国語初期にはありえないような、完成した、均整のとれた姿の文章を書いて範をなした。 枕水漱石の故事から名をとったので判るとおり、漢籍への深い理解に満ちて、専攻は英文学、出自は牛込の、江戸時代を色濃く残した下町の出身という、理想的と呼ぶのもためらわれるくらいの、言語的背景をもった夏目漱石は、必要であるのに存在しなかった語彙は、ためらわずにどんどん造語したが、その旺盛な造語の能力は、漢文、江戸言葉、英語のみっつの言語が、必要とあれば躊躇なく語彙を製造して、寿命を延ばしてきたのを、目撃して知っていたからだった。 日本語は、ずっと運がよかった。 「若き日の詩人たちの肖像」という、堀田善衛が書いた、新宿のバーナルシスに集う戦中の、若い「荒地」の詩人たち、牧野虚太郎や森川義信、戦争を生き抜いた鮎川信夫、田村隆一、北村太郎たちの若い日の姿が、陰翳を惜しむように描かれているが、そこには軍部による日本語の積極的な破壊もそこここに書かれていて、堀田の従兄弟は、野球用語のアウトやセーフ、ストライク、ボールに至るまで、カタカナは日本語であるという極く簡単なことが判らない軍部によって「敵性語」の英語であるから日本語になおせ、と命令されて、セーフは「よし」、アウトは「さがれ」、と翻訳して、弟を暗然とさせる。 共産主義者小林多喜二が特高の拷問によって殺される頃になると、日本語の組織的な虐殺とでも言うべきものが始められて日本語は社会の表面では瀕死になるが、最も意外な場所、というべきか、前線の兵士の手で、あるいは故郷への手紙、あるいは、誰も読む人はいないだろう、と戦死を覚悟した兵卒の震える手によって、正統な日本語が書き継がれていった。 その初等教育しか受けていない教養のないはずの兵士たちが、戦場を歩きまわって屍体の山から、ポケットを探り、半ばは炭化した手のひらによって固く握りしめられた日記を集めて日本語から英語に翻訳したアメリカ軍の情報将校たちをいかに感動させたかは、ドナルド・キーンがあちこちに書き残している。 故郷をおもい、恋人が自分をまだ愛してくれているかどうかを、婉曲なやりかたで心配するのは連合軍の兵士と同じでも、この極東の、人間を神を崇めて戦場に赴いてきた兵士たちは、驚くべきことに、自分の死の意味、生の価値、歴史のなかで、ちっぽけな自分の死がはたす役割、彼らが連合軍の強さの根源と信じた「自由」の力の強烈さについて、マルクス・アウレリウスが戦場で書き残したのと哲学的次元においてさして変わらない観念の高度で書き記していた。 自分の同胞が、降伏ということを知らない非文明的な戦いにうんざりして、憎悪し、手榴弾を放り込んでまとめて殺し、火炎放射器で生きながら虫けらのように焼き殺していった5フィートそこそこの背丈の敵兵たちが残した、日記の言葉の深みをのぞき込んで、昨日まではただの憎い敵にしかすぎなかった若者たちのために、どれほどの涙を流したか、どの情報将校も、一様に証言している。 空疎な言葉で頭のなかの空虚を反響させながら国を破滅させた軍部と政府の一方で、日本語は、だから、自分達の滅亡の運命に絶望した底辺の国民のなかで生きていた。 草書のやわらかさとしなやかさは、また日本語自体のしなやかさでもあって、日本語の最大の特徴である詩の言葉としての言語の身体能力とでもいうべきものの高さを使って、戦前からすぐれた日本語表現を書き残していた西脇順三郎や瀧口修造、ナルシスの詩人たちが日本文学の中核をつくっていったのは、だいたい50年代と60年代で、70年代になると小説側の同人誌の時代を反映して、「凶区」や「ドラムカン」の詩人たちが活躍をはじめる。 外から日本語を眺める目には、戦後の日本文学の価値は詩だが、日本国内では詩はたいして見向きもされなくて、より読み手の側に言語的訓練がいらない小説ばかりが取り上げられたのは、残念なことだが、当時は「純文学」「大衆文学」という区別がやかましく言われたようで、「純文学」の登竜門である芥川賞をとって、わかりやすい小説を書いている作家の場合には分類に困って「中間小説」と呼ぶようなマンガ染みたことも、普通に習慣として行われていた。 最大のスターは長い間三島由紀夫だったろう。 この死語を巧みに使う小説家は、いま全集を端から端まで読んでみると、当時は純文学作家の極みのように言われていたが本質的に「大衆作家」で「宴のあと」「美しい星」のような物語に傑作が多いわりに、文学的な極北をめざしたものは、どれも、動脈硬化的な言語感覚の悪さが災いして、生命のない骨董品めいた作品になってしまっている。 トーマスマン的な北杜夫の「楡家の人々」、ギリシャ的な独白に満ちた「悲の器や日本では珍しい物語としての頚い骨格をもった「邪宗門」を書いた高橋和巳、長い通勤時間の電車のなか狭い家ではかなえられない「自分だけの時間を過ごせる部屋」の代用としての「喫茶店」で、文庫を広げて読みふける日本の人の国民的習慣は、人口から考えても膨大な数の書籍をうみだし、書き手を育てていった。 ぼくの世代でも、先生が、「きみたちはバカだから、アジア人というと生来目が弱くて眼鏡をかけているものだと思っているが、日本人がどいつもこいつも眼鏡をかけているのは、あれは本をたくさん読むからだ。 イギリス人は文盲と同じ生活でテレビ以上の知的活動を行わないからいつまで立っても文明の段階が低い狩猟民族なみに目がいいだけだ」と言って笑わせたのをおぼえているが、日本にいたときのことを思い出して、たたずまいのよい本屋の数や手に本を持った人の数の多さを考えて、ほんとだなあーと思ったのをおぼえている。 「近代文学」同人たち、大岡昇平、大江健三郎、日本ではすぐれた作家がびっくりするほどたくさんいた。 日本の人はさほど意識していないように見えるが、それは、世界の歴史のなかでも奇観といってよいほど風変わりな光景だったと思う。 日本の小説家の特徴は、詩人たちとの距離の近さで、小林秀雄や大岡昇平は若いときの間近な付き合いで、天才詩人中原中也の強烈な影響を受けているし、ずっとあとになっても、たとえば大江健三郎はこのひとの一生で数少ない殴り合いの乱闘の相手は二回とも田村隆一であると記されている。 北杜夫は国民的な詩の形式である短歌の巨人斎藤茂吉の次男であるし、まずなによりも第一に、明治初期にびっくりするような完成された散文を書いた島崎藤村は詩人としてしか自分を考えられない人だった。 ただ生活のために、ちょうど集団生活を好まない大学生が不承不承企業に就職するようにして、嫌がる自分の魂に義務を課して、散文の訓練をして小説家になった。 この詩と密着した傾向が剥がれ落ちてくるのは「第三の新人」世代くらいからで「第三の新人」のなかでは最も文章がうまかった吉行淳之介は父親が詩人の吉行エイスケで妹も詩人の吉行理恵だが、精神は不思議なほど精神的な高みのある定型が嫌いで、分散した、記録的な散文を愛した。 多分、興味の対象が情緒なので、かえって散文のもっとも散文的な機能である「記録」を主体にしたかったのだろう。 世評とは異なって詩的なところが微塵もない作家だが、散文家としてはもちろんこれは良いことで、ドイツ文学的な意味でマイナー作家としてすぐれた仕事をのこせたのは、詩から意識して距離をとっていたからだという感じがする。 だが一方では、この頃から「言語感覚の悪さ」という問題が日本語作家にめだってくる。 具体例はここでは遠慮するが、大江健三郎が激賞した筒井康隆などは、読むたびに、もう少し日本語がよければなああ、と考えた。 文学と政治はダサイということになって、80年代になると日本特有のコピーライター文化が花開いてゆく。 「反米帝」「世界同時革命」「立てプロレタリア」というようなキャンパスに立ち並ぶ手書きの、中進国的な反体制観念の幼稚さと「暗さ」にうんざりして、だいたい1957年生まれあたりの人びとから、もっと「軽い」「明るい」世界を指向しだしたからだった。 渡辺和博という人の「面白主義」が典型だが、この人は「月刊漫画ガロ」の出身で、このガロや東京アンデパンダン展でオノ・ヨーコの世代にあたる赤瀬川原平というようなあたりの人たちの「面白さ優先」が、ようやく豊かになりはじめた日本社会の嗜好にあって、簡単に言えば「わるふざけ文化」が始まった。 よく見ると判るが、この「面白主義」は、一方では、陰険な学歴主義を中心とした受験で人間をピラミッド型に仕分けしてきた社会への、日本語の歴史で初めての反逆という性格をもっている。 渡辺和博は広島の高校が最終学歴、南伸坊は工芸高校、糸井重里はたしか法政大学かどこかを出ているが、反体制といいながら、機動隊に向かって「落ちこぼれのくせに」「てめえが大学に落ちて入れなかったからと言って、おれたちを捕まえてうさばらしすんじゃねーよ」という罵声を浴びせるのを常習として、就職が迫れば、昨日までのヘルメットを捨てて、今日はさっさと髪を切って就職面接に臨み、ためらうことなく企業戦士となっていった先行者たちをみて、全共闘学生たちの一種いいがたい「嫌らしさ」への反発があったようにみえる。 その反発は「面白主義」で、あらわれは反知性主義となって、表現は完全に商業主義の、マーケティングの道具になり、同じ人間が発注者の意向しだいで、反戦キャッチコピーも書けば、戦争へ駆り立てるキャッチコピーも書ける、言葉を空洞化して良い音がなる空虚をつくることが日本語における言語的才能になり、文学が占めていた地位をおしのけて、商業的なコピーが日本社会の「文学」になってゆくという異様な事態がおきてゆく。 谷川俊太郎は「鉄腕アトム」の歌詞を書いている。 それだけではなくて17歳のときにはすでに「職業的詩人」だったこのひとは、無数の校歌の歌詞を引き受けて書いてもいる。 「自分は詩で生きていくのだ」と決意して一生をはじめた詩人は、どんな世界でも多くはないが、日本語では、谷川俊太郎と田村隆一と吉増剛造の3人だけだろう。 田村隆一は広告人的なセンスがあって雑誌のヌードモデルをやってみせるような雅気があった。 吉増剛造はおおげさではなくて餓死を覚悟して「詩人」である自分を仮構した。 … Continue reading

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追分(The Wind Rises )

軽井沢から西へ国道18号線を走ってゆくと、だいたい15分くらいで追分に着く。 途中、バイパスと18号線の分岐がある。 この分岐があるところは、ちょうど獣道を横切るようになっていて、狐や狸、大物は鹿がよくクルマに轢殺されている。 追分のひとつ手前の町は大日向といって、もとは山梨県にあった。 山梨県にあった町が、なぜ長野県のこんなところに引っ越してきているのかというと、そもそも国策にしたがって、政府の勧誘にのった自治体が満州へと町ごと移転を勧めたからである。 町は、貧しい山梨県下の暮らしを捨てて、熱に浮かされたように満州へ移転し、1945年8月8日、ソ連軍の満州侵攻とともに、蹂躙され、生き残ったひとびとは日本に命からがら逃げ帰ってきた。 満州への勧誘時とは打って変わって冷淡な政府に相手にされず、大日向村が落ち着いたのは浅間山の麓の、痩せた土地の、冬には零下15度になる土地だった。 ぼくが軽井沢にいるあいだに欧州人の家族が浅間山の眺めを気に入って別荘を借りたが、近所のひとびとが打ち解けてくれないので諦めて佐久に移転した。 この欧州人の家族は大日向が長く地元のひとびとの拒絶にあって苦しんできたことを知らなかった。 「ガメ、あそこにはなぜ天皇が行幸してきた、という碑が建っているの?」と聞くので、天皇も戦後は人間を僭称するようになったので、申し訳ないことをした、と思ったのでしょう、と歴史をすべて省略して述べたら、 判ったような、ぜんぜん判らないような、そもそもなにを言われたのかとまどっているような、曖昧な顔をして頷いていた。 ああいうときに、ああいう曖昧で糢糊とした表情で頷くのは、欧州人が日本に長くいすぎたときの症状で、そろそろ彼らも日本滞在が長すぎるようになったのではないかと、こちらは、余計なことを考える。 アメリカビジネススクール仕込みの商売の抜け目なさで、団塊世代からこれでもかこれでもかと利益をまきあげる星野温泉の前から、道路をはいって、1000メートル道路を行く方法もあるが、18号線からあがれば、追分宿にはいって、豆腐店を右に曲がるとよい。 ほんとうは、そこでクルマを駐めて、森のなかへはいってゆくと、夥しい数の高さが3インチくらいの墓石がびっしりと並んでいる。 モニが、いったいこれはなんだ、と聞くので、 むかしこのあたりは売春街で、売春婦が肉体の酷使に耐えかねて死ぬと、寺の塀ごしに放り投げて、寺のほうは、ここにまとめて埋めたのさ、というと、 あっというまに涙ぐんでしまうので、しまった、言い方を工夫すればよかったとおもうが、もう遅い。 文学の散歩道と麗々しい看板がある小径を、歩いて、むかし「ノンちゃん雲に乗る」を書いた児童文学作家が住んでいた家のほうへ、黙って、重くなった気持を修復しながら歩いてゆくだけである。 追分のことを思い出したのは、日本のアマゾンに注文していたブルーレイが着いて、「風立ちぬ」を観たからだった。 この、日本の外では良く言ってもあんまり評判にならなかった映画を、案外、楽しんで観た。 「文学の散歩道」というのは堀辰雄がよく歩いた道のことで、追分には到頭いちども行かないで終わってしまったが堀辰雄文学記念館という建物もある。 もっとも宮崎駿の映画は矢ヶ崎やもっと東の群馬側が舞台で、軽井沢高原ホテルとかいう名前になって出てきたのは三笠ホテルだとおもうが、万平ホテルのディテールも加えて、用水も旧矢ヶ崎の用水と追分の御影用水 とを合成した細部をつくって、うまくスコットランド人たちがつくった小さな村「軽井沢」を表現している。 映画自体は、英語やフランス語ではほとんど「何の話だか、さっぱり要領をえない」というような評ばかりだったものの、日本語では、面白い映画評がたくさん書かれていて、特に付け加えることもないが、戦争前の三菱技師たちの生活が、スタジオのディテールに至るまで忠実に描かれていて、トーマスマンの「魔の山」のサナトリウムのイメージを日本の軽井沢にもちこみ、富士見高原療養所と重ねて、宮崎駿のもともとの美意識の源泉である「和洋折衷」の不思議な甘さ、はかない感じのするバランスに立った「近代日本がたどりついた華奢で壊れやすい美」をうまく表現している。 セテムブリーニとカプローニ伯爵を重ねてトレースしたのは、人間が空を飛ぶ夢に燃えて、次から次へ低馬力エンジンに悩まされながら最高に敬愛する岡部駄作先生が述べるところの「駄っ作機」を量産していた頃の飛行機に度外れた愛情を持つ宮崎駿でなければ絶対におもいつかない良いアイデアで、ニュージーランドの第一次世界大戦の飛行機のミュージアムの正面に座っているのもカプローニの実機だが、飛行機ファンにしかわからない、胸が熱くなるような人間の機械文明が希望そのものを体現していた時代への惜別の挨拶が伝わってきて、この映画が零戦についての映画だというバカもいる、というような相変わらず訳知り顔したり顔のひとびとの論評がたくさんあったが、あにはからんや、実は、この映画は仮面をかぶせてはあるが本質的には「扇のように軽い」と呼びたくなるような印象の、軽戦闘機零戦と、それを苦しみのなかで絞り出すようにして生み出した日本人という民族全体への愛情の物語なのであると思う。 実はヨーロッパ人の目からみると、話の構成の半分をなすヴァレリーの詩に基礎をなす部分が、期待外れというか、なんでそこでポール・ヴァレリーをもってくる構成にしたかなあー、と考える。 日本にいるあいだ、フランスの話になると、どの人もこの人も「シェルブールの雨傘」で、モニがよく、どうして日本では、あのあんまり出来がよくない古い映画のファンが多いのだ、と不思議がっていたが、そういうことや、ポップスやロックの話をしていると、「ビートルズは、やっぱりすごいですよね」とコーフンの面持ちで話す若い人たちに良く会って、そりゃビートルズは良い曲が多いけど、と憮然とした気持になったりしたのと事情はとてもよく似ている。 ジブリと宮崎駿のファンとしては、どう言えばいいか、そんなところでヴァレリーをだされては、名状しがたいやるせなさに襲われるというか、困るので、なぜ困るのか判らない人には、説明のしようもない哀愁を感じるから困る。 冴えない、というか、日本の美術をほめているときに必ず北斎をもちだす人がいるのと、やや事情が似ている。 三菱の飛行機の話をしているときには、素晴らしい歴史的認識においても美意識においてもハイディフィニションで話がすすんでいるのに、魔の山的な世界、ヨーロッパが登場する世界のほうでは、突然解像度が落ちて、がっかりさせられる。 「畳が生んだ」名戦闘機、軽戦闘機の傑作である零戦を表現するのに、映画は堀越二郎が設計する戦闘機が96式艦戦でとまるのは、宮崎駿のレシプロ戦闘機への造詣の深さをストレートにあらわしているが、ポールヴァレリーの「風立ちぬ」がここで出てきてしまっては、堀越二郎と本庄技師に、零戦の特徴について延々と会話させるのに似てしまっている。 ゾルゲにヒントを得ているらしく見える欧州人スパイにハンス・カストルプという「魔の山」の主人公の青年の名前を与えることによって、宮崎駿は、フェアなやりかたで、自分がなにを伝えたいと考えたか、日本の近代の何に哀惜の挨拶を送ろうとしているかを、すべての映画の観客に伝えている。 1918年にヨーロッパから永遠に去った文明の、小さな波紋が、極東の日本という国にも、信じがたいほどの美しさの文様を描いて起きていたことを宮崎駿は伝えたかったのである。 Spirited Awayの木造の楼閣もそうだが、カプローニの巨人機、あるいは実際には使い物にならなかったユンカースの巨人爆撃機G.38を細密に描くことで、宮崎駿は、「自分達の文明が失ったものはなにか」という美学上の意識を執拗に語りかけてくる。 そうして、その喪失感を正当なものだと感じる観客たちに、厳しく資格を制限した会員限定の誤解を許さない感動を与えようとする。 岩田宏には、 「火のなかに石像がある 石像と旗  旗が裂ける 椅子が燃えはじめ 鳩が語る    ぼくらの国ではおいらんを … Continue reading

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「中立」という病

真人は仕事をすると行為から来た迷妄が生じて真理を見誤るという。 大庭亀夫が荘子を読んで思いついた仕事をさぼるための冗談だが、多少の真実が含まれていなくもない。 日本の人はなぜか「中立」が好きである。 右でも左でもない。 上でも下でもない。 不偏不党。 わたしは誰の味方もしません。 新聞は、「われわれは中立的立場で報道している」という。 政府の味方でもないし、右翼でも左翼でもない。 天秤のまんなか、目盛りをずうううっとたどっていくと、(プロでないと見つけるのが難しいが) ほら、小さな金文字で「中立」って書いてある目盛りがあるでしょう? その目盛りの刻みの上に片足で、バランスをとって立って、記事を書いて、木鐸を鳴らしている。 葬式の木魚ではありません。 縁起でもない。 一緒にするなよ。 おれらは社会のエリートなんだから。 驚くべき事に日本では不動産屋まで売り手と買い手のまんなかで「中立」です。 お売りになるかたも、お買いになるかたも、どうか安心して私どもにおまかせください。 弁護士なんて、下品なものはいりません。 公正中立。 正直商売四十年。 信用第一。利益は二の次。 誰の味方かって? そりゃあ、あなた、わたしら不動産屋は正義の味方に決まってらあ。 さっさと手数料払って帰れよ。 社会が上から下まで中立に凝りまくった結果、真人だらけ、 なにもしない人がいちばん偉い社会が出来てしまった。 誰かが反原発というと、反原発の気持ちも判るけど、原発なしではエネルギー足りるかなあー、足りない場合はどうするの? 他の国ではスマートグリッドやってますけど、と若いもんが述べると、 おまえは現実を知らんやつだなあー、いまの松永体制、発電送電一本で停電ないんだよ? ボロい送電網しかないアメちゃんのマネしてオタオタしてどうするの? いまのままでいいじゃない。 新しいことやって失敗したら、おまえのクビはもちろん、おれの椅子も危ない。 来年はおれ次長なんだから、余計なことはやらんでくれよ。 「これまでダイジョブだったことは、これからもダイジョブ」は日本のお役人のモットーで、たとえば石油は昔から鉱業課で「このまま行くと石油がなくなる」と憂慮する若い課員がいて、レポートを書いて出しても上長は、「おまえは心配しすぎる。石油はいまはなくても掘れば出てくるとむかしから決まっておる」という。 わかりました、と恭しく了解して、引き下がったが、なんとなく面白くないので、酒席で、でも課長、ほんとに石油でてくるんだったら原子力のほうと整合性ないじゃないすか、と疑問を述べてみると、課長さんはニッと笑って、「あっちはまた別のストーリーなんだよ」と不思議に答えて、 「ここはな、薩摩揚げがうまいんだよ」と、すましている。 酒杯のなかで課長と課員の赤い顔が揺れている。 社会のありとあらゆる隅っこで、中央で、下のほうや上のほうで、なにもしないための不断のたゆまぬ努力が続けられ、なにもしないためのありとあらゆる理屈が形成され、喧嘩をされるとなにかの弾みで勝敗がついてしまう、勝敗がついてしまうと何事か新しいことを始めなければならなくなるので、あらゆる喧嘩は下品だという社会常識が醸成され、ひいては議論も喧嘩みたいなものだからやめたほうが上品だということになり、なにもしないで、まるでボルドーのワインを品評するように政治を品評するひとたちが賢いということになり、理屈にはあっていないが反体制は左翼で体制支持は右翼で、どっちもどっちで、両方うさんくさいと思うのが知的態度で、すべては「絆」で雁字搦めに縛られて、動的な現代という海で身動きもならなくなって、コンクリを足で固められた、もう二度と悪態をつけなくなったやくざたちのように海底深く沈んでゆく。 誰か、勇気がある人、あるいは根本的にKYな人がやってきて、 「この世界に中立なんてありゃしませんよ。なに夢みてるんですか?」 … Continue reading

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五回目の3月11日への覚え書

アテーンシオン、アテンシオン、ムーチョ アテンシオンで始まる、初期の掛け合いフラメンコは、狂言に、とてもよく似ている。 悪者が相手をだましたつもりで、実は自分が騙されている、というような筋立てもそうだが、間の取り方、身の反らせかたに到るまで似ていて、びっくりさせられる。 言葉が全然わからなくて、これもそうじゃないかなあー、と思ったていどなのでわからないが、インドネシアの伝統芸能にも同じ体のものがあったので、案外、狂言の型は世界中に敷衍していて、人間の根源的なリズムに合っているのかもしれません。 日本文化の異様さは、そのあと同じ芸能が悲劇にすすみ、しかもその悲劇が、尋常一様でない、亡霊と生者の対話に傾いてゆくことで、この不思議な偏向は、言うまでもなく、世阿弥という天才のせいでしょう。 亡霊は自分が死んでいることを知らず、自分が異界の精霊と化していることに気づかないまま、なぜ自分は、突然、馴染み深くなつかしい世界との交渉がもてなくなったのか、と旅の僧に問いかける。 自分に、いったい、なにが起きたのか教えてくれ、と懇願する。 夏目漱石の「夢十夜」は破格の小説で、夢であるという場を借りて、漱石の超現実的な美を追求した。 夢というものは元来退屈を極めるものなので漱石が夢とことわって描いたものは、明治社会、あるいは広く現実という制約のない世界のことであったでしょう。 内田百閒が継いだ、この短命に終わった文学上の美は、しかし、ずっとあとになって映画のスクリーンに甦っている。 黒澤明の「夢」には、復員した青年将校が、トンネルの奥からあらわれたかつての部下に、中尉殿と一緒に自分も老いた両親のもとに戻りたいので、一緒につれていってくれ、と懇願される。 おまえはもう死んでいるのだ、と懸命に説き聞かせる青年将校に、しかし、亡霊は、そんなはずはない、と抵抗する。 その切なさ、恐ろしさは、漱石のものであるよりは「冥途」を書きえた内田百閒のもので、淵源は、世阿弥に遡る。 3月11日は、日本人、あるいは日本に関わりがある人間にとっては、すっかり特別な日になってしまった。 あの日、よく晴れた午後に、オークランドの家でモニとふたりでラウンジのカウチに座って、お茶を飲んでいたら、電話がかかってきて、テレビをつけてご覧なさい、日本の人たちに大変な厄災が降りかかっている、というのでテレビのスイッチをいれたら、なんだか縮尺を間違えたような黒い水が、画面の向こうであるというよりは、まるでスクリーンそのものの表面を伝うように、するすると伸びて、軽々と家をさらって、町をのみつくしていくところだった。 モニとぼくとは、その現実感のない光景を黙ってみつめていた。 この「現実でない感じ」はなにかに似ている、と考えたら、2001年9月11日、ベッドに寝転んだままテレビをつけたら、新しい映画のトレーラーを映していて、貿易センターにジェット機が突っ込む売り物らしいシーンを、何度も何度も繰り返して映し出していて、うるさいので、消そうと考えて、何かがヘンで、ふとみると下にテロップが出ていて、あれ?と思ってミュートを切って音量をあげたら、あんなに非現実的な画像であるのに現実のもので、青ざめた、あのときと似ている。 ラウンジのアールヌーボー照明灯の女神の立ち像の足下にいつも置いてあるラップトップでeメールを見たら、今度はアメリカの友人からeメールが来ていて、「あの津波が起きたところには、たしかオンボロの原子力発電所がふたつあるはずだ。しかも、ひとつは手抜き工事でデザインを変えて、バックアップ電源のディーゼルが海側だか低地にあるかだったと思う。これは、大変なことになる」と書いてあった。 こんな例を出すと怒られるに決まっているが、ディアブロのようなアクションRPGで生き延びるコツは、暗闇の奥から、みたことのないモンスターたちが、すさまじい数で、わっと現れたりしたときに、つまり想定外の訳のわからない災厄が訪れたときに、まずは何も考えずに一心不乱に逃げることで、災厄が及ばない場所まで、まずは脱兎のごとく逃げてから、そこで何が起きたのかを考え、状況を判断して、そおおおっと元の場所に戻る。 あるいは元に戻るのが得策でなければ、ひとまずは安全が保障されている村に戻って、装備を調える。 日本の人は逃げなかった。 パニックを起こした、と思われるのがよほど嫌なようで ぼくも、ぼくの友達も声を枯らすようにして、逃げろ、いまはとにかく逃げてください、戻るなら、それから戻ればいいじゃないか、と書いたが、ほとんどのひとは自分の住み慣れた日常にとどまって、ただ放射性物質が降塵するにまかせていた。 アメリカ大使館の在日アメリカ人に向けた緊急eメールも紹介したが、それでも、皆がいつも帰ってくる家に帰って、ジッと座り込んでいるようだった。 たとえば、原発事故の第一報を聞くなり、自転車に乗って、なにも考えずに一目散に南へ向かって逃げ出し、途中ではなぜか無人無錠だったという美術館に入り込んで一夜を明かして、そのまま成田へ向かって事故の二日後にはシドニーまで逃げていた、というオーストラリア人と日本の人たちとは良い対照で、腰が抜ける、というが、日本の人はびっくりしてしまって、パニックを起こして判断が停止してしまったのだろう、というのが最も多い解釈だった。 文化の違いというか、結局、ぼくの友達のうち外国人はイギリス人は大使館が手配したバスに拾われ、フランス人は政府が手配した飛行機に乗り、というふうで、皆が日本を脱出していった。 おおきな変化が起きて、日本語インターネットに、それまでよりも明らかに高い知能をもつ、専門性の深みをもった人達が加わり始めた。 振り返ってみて「箸にも棒にもかからない」という表現がぴったりの人間が多かった311以前のインターネットに較べて福島第一事故を境に日本語インターネットの質はずいぶん上がったと思う。 それまでの日本語インターネットは酷いというよりもお笑いに近いもので、「この人は4カ国語が出来て」というと、そんなスーパーマンみたいな人間がいるわけはない、ウソも好い加減にしろ、と何人も言ってくる、という程度で、ヒルビリーそのまま、あとはなんだか、自分が学究であると妄想するムードを楽しみたいおじちゃんたちとか、なんだか、そんなふうで、客が全部、自分を学究ぽく見せることに専念している「アカデミック・バー」というようなものを想像すると薄気味が悪くてサブイボが出るが、実態は、そんなふうで、うすっぺらい衒学に衒学を重ねて、しかもほんとうは勉強なんてマジメにしたことがなくて読書とベンキョーの区別もつかないような人達ばかりだったので、いっそ気楽なような世界だった。 311が起きてからは、「真剣な疑問」を持つ人が増えたのだと思う。 自分の職業的生活があり、専門的知識の方法の潜望鏡から世界を観る方法を知っていて、しかも、他者と対話を求める、嫌な言い方だが「本物の知性」の持ち主が眼に見えて増えた。 そうして、そういう少なくない数の人々が答えにたどり着きたいというつよい目的意識をもってインターネットの雑踏のなかを適切な議論相手を探して歩き回りはじめていた。 しかし、一年くらいすると、奇妙なことが起こりはじめた。 日本語全体から言語の真実性とでも言うべきものが眼に見えて剥がれ落ち始めた。 「慰安婦はただの自発的ビジネスだった」 「南京虐殺はなかった」 くらいから始まって、 「世界の人が日本に憧れている」 「韓国は犯罪国家である」 というような洪水のような幻想が日本語世界に溢れ始めて、しかも、その各々には「検証された動かぬ証拠」が付いているというバカバカしさだった。 何が起きたのか? … Continue reading

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