五回目の3月11日への覚え書

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アテーンシオン、アテンシオン、ムーチョ アテンシオンで始まる、初期の掛け合いフラメンコは、狂言に、とてもよく似ている。
悪者が相手をだましたつもりで、実は自分が騙されている、というような筋立てもそうだが、間の取り方、身の反らせかたに到るまで似ていて、びっくりさせられる。
言葉が全然わからなくて、これもそうじゃないかなあー、と思ったていどなのでわからないが、インドネシアの伝統芸能にも同じ体のものがあったので、案外、狂言の型は世界中に敷衍していて、人間の根源的なリズムに合っているのかもしれません。

日本文化の異様さは、そのあと同じ芸能が悲劇にすすみ、しかもその悲劇が、尋常一様でない、亡霊と生者の対話に傾いてゆくことで、この不思議な偏向は、言うまでもなく、世阿弥という天才のせいでしょう。
亡霊は自分が死んでいることを知らず、自分が異界の精霊と化していることに気づかないまま、なぜ自分は、突然、馴染み深くなつかしい世界との交渉がもてなくなったのか、と旅の僧に問いかける。
自分に、いったい、なにが起きたのか教えてくれ、と懇願する。

夏目漱石の「夢十夜」は破格の小説で、夢であるという場を借りて、漱石の超現実的な美を追求した。
夢というものは元来退屈を極めるものなので漱石が夢とことわって描いたものは、明治社会、あるいは広く現実という制約のない世界のことであったでしょう。
内田百閒が継いだ、この短命に終わった文学上の美は、しかし、ずっとあとになって映画のスクリーンに甦っている。

黒澤明の「夢」には、復員した青年将校が、トンネルの奥からあらわれたかつての部下に、中尉殿と一緒に自分も老いた両親のもとに戻りたいので、一緒につれていってくれ、と懇願される。
おまえはもう死んでいるのだ、と懸命に説き聞かせる青年将校に、しかし、亡霊は、そんなはずはない、と抵抗する。
その切なさ、恐ろしさは、漱石のものであるよりは「冥途」を書きえた内田百閒のもので、淵源は、世阿弥に遡る。

3月11日は、日本人、あるいは日本に関わりがある人間にとっては、すっかり特別な日になってしまった。
あの日、よく晴れた午後に、オークランドの家でモニとふたりでラウンジのカウチに座って、お茶を飲んでいたら、電話がかかってきて、テレビをつけてご覧なさい、日本の人たちに大変な厄災が降りかかっている、というのでテレビのスイッチをいれたら、なんだか縮尺を間違えたような黒い水が、画面の向こうであるというよりは、まるでスクリーンそのものの表面を伝うように、するすると伸びて、軽々と家をさらって、町をのみつくしていくところだった。
モニとぼくとは、その現実感のない光景を黙ってみつめていた。
この「現実でない感じ」はなにかに似ている、と考えたら、2001年9月11日、ベッドに寝転んだままテレビをつけたら、新しい映画のトレーラーを映していて、貿易センターにジェット機が突っ込む売り物らしいシーンを、何度も何度も繰り返して映し出していて、うるさいので、消そうと考えて、何かがヘンで、ふとみると下にテロップが出ていて、あれ?と思ってミュートを切って音量をあげたら、あんなに非現実的な画像であるのに現実のもので、青ざめた、あのときと似ている。

ラウンジのアールヌーボー照明灯の女神の立ち像の足下にいつも置いてあるラップトップでeメールを見たら、今度はアメリカの友人からeメールが来ていて、「あの津波が起きたところには、たしかオンボロの原子力発電所がふたつあるはずだ。しかも、ひとつは手抜き工事でデザインを変えて、バックアップ電源のディーゼルが海側だか低地にあるかだったと思う。これは、大変なことになる」と書いてあった。

こんな例を出すと怒られるに決まっているが、ディアブロのようなアクションRPGで生き延びるコツは、暗闇の奥から、みたことのないモンスターたちが、すさまじい数で、わっと現れたりしたときに、つまり想定外の訳のわからない災厄が訪れたときに、まずは何も考えずに一心不乱に逃げることで、災厄が及ばない場所まで、まずは脱兎のごとく逃げてから、そこで何が起きたのかを考え、状況を判断して、そおおおっと元の場所に戻る。
あるいは元に戻るのが得策でなければ、ひとまずは安全が保障されている村に戻って、装備を調える。

日本の人は逃げなかった。
パニックを起こした、と思われるのがよほど嫌なようで
ぼくも、ぼくの友達も声を枯らすようにして、逃げろ、いまはとにかく逃げてください、戻るなら、それから戻ればいいじゃないか、と書いたが、ほとんどのひとは自分の住み慣れた日常にとどまって、ただ放射性物質が降塵するにまかせていた。
アメリカ大使館の在日アメリカ人に向けた緊急eメールも紹介したが、それでも、皆がいつも帰ってくる家に帰って、ジッと座り込んでいるようだった。

たとえば、原発事故の第一報を聞くなり、自転車に乗って、なにも考えずに一目散に南へ向かって逃げ出し、途中ではなぜか無人無錠だったという美術館に入り込んで一夜を明かして、そのまま成田へ向かって事故の二日後にはシドニーまで逃げていた、というオーストラリア人と日本の人たちとは良い対照で、腰が抜ける、というが、日本の人はびっくりしてしまって、パニックを起こして判断が停止してしまったのだろう、というのが最も多い解釈だった。
文化の違いというか、結局、ぼくの友達のうち外国人はイギリス人は大使館が手配したバスに拾われ、フランス人は政府が手配した飛行機に乗り、というふうで、皆が日本を脱出していった。

おおきな変化が起きて、日本語インターネットに、それまでよりも明らかに高い知能をもつ、専門性の深みをもった人達が加わり始めた。

振り返ってみて「箸にも棒にもかからない」という表現がぴったりの人間が多かった311以前のインターネットに較べて福島第一事故を境に日本語インターネットの質はずいぶん上がったと思う。
それまでの日本語インターネットは酷いというよりもお笑いに近いもので、「この人は4カ国語が出来て」というと、そんなスーパーマンみたいな人間がいるわけはない、ウソも好い加減にしろ、と何人も言ってくる、という程度で、ヒルビリーそのまま、あとはなんだか、自分が学究であると妄想するムードを楽しみたいおじちゃんたちとか、なんだか、そんなふうで、客が全部、自分を学究ぽく見せることに専念している「アカデミック・バー」というようなものを想像すると薄気味が悪くてサブイボが出るが、実態は、そんなふうで、うすっぺらい衒学に衒学を重ねて、しかもほんとうは勉強なんてマジメにしたことがなくて読書とベンキョーの区別もつかないような人達ばかりだったので、いっそ気楽なような世界だった。

311が起きてからは、「真剣な疑問」を持つ人が増えたのだと思う。
自分の職業的生活があり、専門的知識の方法の潜望鏡から世界を観る方法を知っていて、しかも、他者と対話を求める、嫌な言い方だが「本物の知性」の持ち主が眼に見えて増えた。
そうして、そういう少なくない数の人々が答えにたどり着きたいというつよい目的意識をもってインターネットの雑踏のなかを適切な議論相手を探して歩き回りはじめていた。

しかし、一年くらいすると、奇妙なことが起こりはじめた。
日本語全体から言語の真実性とでも言うべきものが眼に見えて剥がれ落ち始めた。
「慰安婦はただの自発的ビジネスだった」
「南京虐殺はなかった」
くらいから始まって、
「世界の人が日本に憧れている」
「韓国は犯罪国家である」
というような洪水のような幻想が日本語世界に溢れ始めて、しかも、その各々には「検証された動かぬ証拠」が付いているというバカバカしさだった。

何が起きたのか?

もう日本人は、すっかり自分で自分を言いくるめてしまって放射能は安全だということにしてしまったが、やはり心のどこかでは、福島第一事故が「絶対に起きてはならないことが起きてしまった」のを知っているのだと思う。
人間が絶対に信じない現実の代表的な例として「自分の死」があるのはよく知られている。
日本にいるときに、よくテニスやチェスをやって遊んだ大学医者が、奈良の高僧の話をしている。
まだ癌の告知がタブーであった頃の話です。
いくら胃潰瘍だと述べても信じない奈良の大寺の管長が
「先生、私は先生もご存じのように修行もつみ、正見もえて、悟りに達して、自分の死くらいでたじろぎはしません。準備をしなければならないこともあるので、末期の癌ならば、どうかそう仰有ってください」と繰り返し述べるので、根負けをして、事実を告げると、それまでの自若とした態度がウソのように悄然として、気落ちして、ひどく取り乱したまま、予期されたよりも遙かに早く、あっと言うまに死んでしまった、という。

人間は、死がこわいんだよ、単純なことさ、とチェックメイトのチェス盤をみつめながら、眼鏡を悔しそうに光らせて、大学医者はつくづくと述べていた。
だから、ちくしょう、チェックメイトも死も本当だとは認められやしない。

メルトダウンした核燃料の行き先は杳として判らず、汚染水は垂れ流しどころの規模ではなく、ほとんど処理の手をつけられないまま放置されている福島第一を見て、元は物理学者で原発推進派のメルケルは、内々に、絶対に核発電はダメだとあらためて思い知って、それにしても、あそこまで酷いとは思わなかった、と述べたそうだが、
日本の科学者たちがどんなに強弁しても、原発事故は「絶対に起きてはならないこと」で、とりわけ日本という国のサイズを考えれば、病むことなしに住める国土であるとは考えにくい。

それが内心で判っているからこそ、日本のひとびとは日本語の伽藍のなかに「ほんとうは大丈夫だった日本」を架構しているのだろう。
よく知られているように太平洋戦争中、日本政府は戦闘の敗北による撤退、更には敵の強襲による潰乱をさえ「転進」と呼ぶことによって、すべてがコントロールされているかのように装った。
ミッドウエイで機動艦隊主力を失うと、パイロットを本土へ帰さず、激戦地から激戦地にひきまわし、一週間7日の出撃を強いて、実質的に皆殺しにすることによって箝口した。
天皇に満腔の自信をこめて「いえ、サイパンは難攻不落の要塞でございます。
もしサイパンが落ちたら太平洋は敵のものとお考えになって結構ですが、そのようなことは絶対に起こりません」と確約しながら、実際には、あっけないというのもバカバカしいほど簡単に陥落すると、「たいして重要性のある島ではなかった」ということにしてしまう。
ここで面白いのは、言われているように「国民をだますため」というよりも、贋の戦果も言い換えによる空想上の勝利がつづく戦略地図も、自分達が半ばは信じこんでいたことで、台湾沖航空戦の戦果を信じて展開したのが良い例だが、現実を失った言葉と現実の区別が、もうつかなくなっていた。

教室科学から出発したのでは思いつきもしないことなのかも知れないが実際には魔術に起源を持つ科学は、よほど扱いに注意しないと、ふつうに考えるよりも、遙かに現実から乖離しやすいことは科学自身の歴史が教えている。
科学的方法の手続きに従えば自分は手もなく真理に安住できるというのは、昔からいままで、変わらぬ、三流科学者の犯しやすい謬りである。
311以来詭弁化した科学論議(のようなもの)は、日本語を枉めてしまった。
3+5が11にも22にもなるような恣意的な「科学的真実」が往来を闊歩することになった。

言語の真実性を軽視したまま4年が経ってみると、その破壊的な影響はおそろしいほどのもので、コピーライター語といえばいいのか、思いつきで世界の現実はどうにでも変わる、変えられる、と言いたげなひとびとが跋扈することになった。
安倍政権はもともと「美しい国」でわかるとおり、浮かれやすいひとびとが乗せられやすそうな空疎なキャッチコピーが好きだが、政権も二度目の今回は、洗練されて、「アベノミクス」という、本職裸足のキャッチコピーで、日本社会の特色をなす学者芸人や、頭の軽いコラムニストや、知ったかぶりブロガーに至るまで、欣喜雀躍、これしかないよね、と踊り出すことになった。
実態は貨幣の減価政策にしかすぎないアベノミクスに過剰な期待をもったことで、もっか、日本の、いわば地道な産業は壊滅的な打撃を受けて、それまで何度でも経済政策に失敗することを許容する地力になっていた個人の預貯蓄は、本来はそうあるべきだった「国際化」ではなくて「国債化」されるというダジャレにもならない無惨な事態になってしまった。
こちらはこちらで経済上の「絶対にやってはならないこと」をやってしまったことになるが、それはもう、何年も前から繰り返し繰り返し繰り返し書いたので、ここでは書かない。

ぼくはもともと福島の野山が好きで、東京から、よくクルマででかけた。このブログのずっと前のほうに行くと、福島の水田の畦道に立って、足下の空と、頭上の空とで、素晴らしい速度で移動する積雲の美しさに見とれるところが出てくるが、その記事にあるように、そのときが日本の、というよりもアジアの美しさについて考え始めた初めだったでしょう。
大雪の夜、猪苗代湖にでかけて崖からクルマごと落っこちてみたり、旅館のシステムがよくのみ込めていなくて、素っ裸のまま浴場からもどって女中さんに絶叫されたり、愉快な思い出もたくさんある。

あんまり記事に書かないが福島出身の友達もいる。
南相馬村や安達町の友達もいて、家族はたいてい山向こうの山形に移り住んでいるが、「食べて応援」や「福島人に寄り添って」というようなケーハク極まる人間が自分達を代弁しているようなことを言っているのを見ると頬桁を張りとばしてやりたくなる、と涙をためて話す。

日本のように隣近所で隣人を「世間」の意向に従う形で相互に監視する社会では、ほんとうに福島人を救済しようとすれば、「福島に残りたいと希望する住民を政府が、無理矢理、強制的に立ち退かせて安全な土地に移住させる」のでなければ危険な「故郷」を離れるわけはないが、それを十分に知っていて
自治体が減れば収入が減る算盤勘定によって、多少の病気で健康がボロボロになる住民がでても、国や自治体としては、その綺麗事に理屈を駆使して、放射生物質のなかに、どっぷりと浸かったまま暮らしてもらわねば、どうしても帳尻があわない。
ただ、それだけのことで、金銭は生命に代え難いのは日本という国の伝統なのでもある。

生命には実体があるが、死は、その生命という実体の不意の切断で、切断面の文様としての現象はあるが実体は存在しない。
振り下ろされる刃はさまざまだが、人間は自分の生の実体が切断されるということを絶対に認めない。

では国はどうか?
日本が直面している問題は、要するに、そういうことなのだと思います。

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3 Responses to 五回目の3月11日への覚え書

  1. DoorsSaidHello says:

    まだ一読しただけだけれど、
    とてもにがい文章をありがとう。

    顔を歪めるような苦さとは違って、
    ゆっくりと飲み下したあとで、
    胃の腑を降りてきたそれが、
    静かな痺れとして舌と食道と胃の存在を示していくような、
    嚥下のあとの長い沈黙のような、そういう反応を促す文章だった。

    つまり一瞬では終わらない、
    遅効性の毒のようにゆっくりと致命的に浸みていくようなこの苦さは、
    きみの身体に4年かけて染み渡った日本という毒であるのかもしれない、
    と思う。

    時間がかかるけれど、少し長い返事を書くと思います。
    ああ、4年という時間がたった、今日という日。

  2. freebody says:

    2001年、テレビの中の光景が美しく見えてしまいました。この世の物とは思えない出来事が実際に起きていました。アメリカに対する強烈な憎悪らしきものが、この世の物とは思えない出来事を実際に引き起こしている、そのおぞましい程の意志の強さにもある種の美しさを感じてしまいました。美しく感じてしまった自分に嫌気が差して死のうとさえ思ってしまいました。

    2011年もまた、テレビの中の光景が美しく見えてしまいました。見た事もない速さであらゆるものを飲み込んでゆく巨大な水塊とその表面張力。恐ろしいほどに巨大なエネルギーを湛える水塊の張力が凄まじく美しく見えてしまいました。直前に病をして死の直前まで足を突っ込んでいたので今回は死のうとは思いませんでした、が、日本にはいられないな、と思ってしまいました。

    日本には居場所がないと思うようになって4年経ちました。医療機関を往復する毎日、心は日本から離れているのに身体が日本から離れられない不条理。この「美しい国」にあとどれだけいればよいのでしょうか。それとも「美しい国」を信仰して骨を埋めましょうか。

  3. 3.11以降の日本の変貌ぶりを見事に描写していて、大変共感を憶えました。(東日本の)日本人の置かれた状況は、汚染された世界に住み続ける「風の谷のナウシカ」のようなSF的なものです。低線量被ばくの長期的影響は未知な部分が多く、今まさに我々自身が被験体となってデータを積み上げている所ですが、福1周辺が不毛の地になったことは紛れもない事実。それを株高・五輪招致などのアッパー系ドラッグで慰撫しているのが現状でしょう。薬が切れた時が大変。

コメントをここに書いてね書いてね

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