Monthly Archives: April 2015

「日本」へ近づく_1

考えてみると、もう五年間日本に行ってないんだなーとおもう。 2010年、5年間に11回の遠征を計画した「十全外人文功碑」に記された最期の第十一回遠征は、しかし、ホームシックというおもわぬ伏兵で苦労することになった。 すべりひゆ(←イタリアに20年くらい住んでいる、わしのともだち。@portulaca01)がプンプンプンに見えたらしいわしを観察して「ひょっとして、このごろホームシックなんじゃない?」と述べたときには、そおおんなことがあるわけがない、わしは、つおいのだ、と考えたが、いま振り返ると、典型的なホームシックで、現実をそのまま認められない人間は常に問題をこじらせるのがよくわかります。 真実は2009年に日本からニュージーランドにもどるときには、飛行機の機内が近づいてきてニュージーランドアクセントの声が聞こえてくると、もう泣きそうになっていたりした。 日本は訪問するにはたいへん楽しい国で、おいしい食べ物や、小津映画に出てくる喫茶店そのままに白いカバーがかかっている背もたれのある椅子の「ウエスト」のような洋菓子店や、在庫で高級品をたくさん持っている銀座の伊東屋やミキモト、コンピュータ関連の新製品もたくさんあって、有楽町ビックカメラだけでもパラダイスだったので、一年に一回くらい、二週間くらいの日程で行ってもいいな、と考えているうちに福島第一事故が起きてしまった。 核発電所の事故が起きても、日本は、なあんとなくオランダみたいなちっこさの印象で考えている人が多いが、現実には南北に長い国なので、事故が福島で起きたのなら東京くらいから南は大丈夫だろうと考えたが、当時の民主党政府がどこがどのくらい汚染されているかわざと判らなくして、瓦礫の焼却や食品流通を通じて、国民全体を平等に被曝させるという奇想天外な奇手にでたので、おっかなくて行かれなくなってしまった。 あとで、しかるべきおっちゃんに聞いたら「日本の国民はガメが信じているほど賢くないので国民の側に判断をゆだねるなんてことをしたらたいへんなことになる」ということだそうで、そういう考えもあるのか、とびっくりしたが、それなら全国にもれなく薄く広くばらまいたことにして、実際はほっぽらかしで、わしにだけどこに汚染が拡大したかこっそり教えてくれればいいのにとおもったが、平等主義で、福島の人も九州の人もおなじように被曝してもらって、みなで寄り添い合って難局をのりきる、ということのようでした。 そのあと日本の自称科学者である大学教師たちが、自分の専門外の放射能知識と、日本の医学研究者は物理学者たちによほどバカが揃っているとおもわれているのでしょう、放射線医学的な知見を医学研究者たちに代わって人体への影響を議論して述べて、福島事故で大気中と海中に放出されたていどの放射性物質では人間の健康を脅かすことはなくて、まったく安全だという結論をだしたが、 チョー非科学的なわしとしては、「江戸前」の海の底で、放射性物質を蓄積していそうな穴子や、ゴジラ(←放射性物質が食物)がつられてやってきそうなくらい放射性物質がばらまかれた汚染水の海で獲れて、水揚げだけは南のほうの魚市場で行って、その結果、東北汚染海域出身だが、産地ロンダリングで、静岡の魚みたいな顔をして流通しているシンコが寿司台の上にならぶのは危なくても危なくなくてもぞっとしないので、行かないことにしてしまった。 広尾山と軽井沢の家を売り飛ばして、鎌倉の家もさっさと買い手がついて売れたが、ほんとうは軽井沢の家くらいは残しておいて、一年に一回くらいでかけたかった。 軽井沢自体は東京の飛び地のような小さな町で、朝、日が昇ったばかりのときに、文藝春秋社の看板があるサマーハウスの前から鹿島の森ホテルくらいまで、信じられないくらい美しい木洩れ陽の道が続いて楽しいことをのぞけば、退屈な町だが、ここから西に国道18号線と並行した「1000メートル道路」を行くと、いまビル・ゲイツの「小学校の校舎より大きい」別荘がたっているはずの千ヶ滝を通って、借宿、大日向、追分と通って御代田の実験牧場から、小諸に抜けてしまえば、もうカモシカが急斜面に立って道路を見下ろしていたり、いちどなどは(そのあたりにはいるはずのない)雷鳥の家族が道路を横断していて、そのまま菅平から上田とぬけて、日本の最も美しい森林といいたくなるような場所を通って山の奥へ遊びにいける。 コツは簡単で、「名前がない場所」に行けば良い。 白糸の滝というような名前がついてしまうと、GPSに載って、たくさんの人が来る。 それが望月や丸子の、佐久市や上田市に併合された小さな町の周辺には「名前がついていない森」や小さなお狐さんたちが縄跳びをして遊んでいそうな社(やしろ)がいくらもあって、あるいは水田が広がっていて、案山子とお百姓以外は誰もいない、気が遠くなるような美しい風景が広がっている。 土木会社に大金をばらまいて、要りもしない道路や橋を盛大につくった効用で、道路はにわかには信じがたいくらいよい舗装で、しかも一時間くらい走っても対向車の一台もあらわれない。 具体的な場所は、まだまだもしかしたら日本へ行くことがあるかも知れないので用心して教えてあげないが。山梨県へ抜けている間道のひとつなどは立派な舗装道路なのにクルマがまったく通らなくて、冗談のようだが道のまんなかに毛布をひろげて、モニとふたりでよくピクニックをしたものだった。 何回もでかけてはシャンパンとサンドイッチで遊んだが、鹿がとびだしてきてぶっくらこいたことはあっても、クルマは結局いちども見なかった。 五年間のあいだにいちども日本訪問を考えなかったということではなくて、美術の市場はおもしろいもので、たとえばアンリ・マティスならマティスの著名な蒐集家が死ぬと、奥さんや子供たちが無思慮に大量の作品を売り出してしまうことがある。 そうするとその作家の作品の価格が暴落してその作家の作品群を抱える美術商は巨大な損失をだしてしまうので、買い支えなければならなくなる。 話が伝わったところで美術商たちが談合して市場に出る前に買い取る算段をします。 当然のことながら具体的な作家の名前を書くのはパスだが、ガメ、買い付けのオカネが足りないから一緒に買ってね、ということになって、それならついでに日本に行って他の作家のものもあわせて買うのがいいかなーということになって、ガイジン会員制の割引がおおきいので定宿のT国ホテルに電話した。 食べ物の安全をどんなふうに対策しているか聞きたかったからだが、東京のホテルなのに、なぜかいきなりニューヨークの事務所に電話をとばされたところから嫌な予感で、外国人客担当というその女の人は、「日本政府のガイドラインにしたがってるから安全です。ご心配なさらなくて大丈夫ですよ」と言う。 その日本政府が信用できないから聞いとるんじゃボケと述べるのも大人げないので、そーですか、どうもありがとう、と述べて電話を切ったが、 その瞬間、有楽町のガード下で焼き鳥とビールでモニと遊ぶ楽しい夕暮れも、あの懐かしいサトちゃんの温度計が窓外にみえる外国人特派員協会のバーで、東京でいちばんうまい冷やし中華をかきこんだり、むかしむかし逗子に住んでいたイギリス人ばーちゃんのレシピのヴィシソワーズを飲みながら、あのド酸っぱいニシンを食べるのは良い考えかどうか検討する楽しみも、あるいは三越や松屋の「デパ地下」で「山海の珍味」という死語そのままの、見ているだけで楽しくなる食べ物を試食する楽しみも潰えてしまった。 英語世界から東京便に向かうのに使われる飛行機はどんどんダウングレードされて、あまつさえ、サービスの点では評価が高いヴァージン航空は成田・ロンドン間の定期便をやめてしまった。 そうなるとたとえばイギリスの航空会社だと、前身はソ連時代のアエロフロートなんちゃう?と信ぜられている、むかしやむをえず乗ったら、乗務員のおばちゃんがわしの顔のすぐ前にでっかいお尻を突きだして、しこうして屁をこいた記憶が鮮明なブリティッシュエアで、もっと具体的な不便を述べると、連合王国から成田経由でニュージーランドにやってくるには、ビジネスクラスは、ヴァージンが設計したとてもよく出来たオートマティックの合体ロボメカっぽいフルフラットシートで、メートル法でいえば2メートルを越える身長のわしでも、のんびり寝てるあいだに着いてしまう。 エアニュージーランドも、初め導入したときはヴァージンのものをそのまま買いとって、そのあとは色がベージュから黒に変わって、細部が変更されただけの「エアニュージーランドデザイン」のフルフラットシートだったのが、飛行機が最新型の777-400から古い767に格下げになってしまったので、エコノミークラスのシートがただおおきくなっただけの、いまどきこんなものでエコノミークラスの3倍もとっていいとおもっとるのか、といいたくなるショボいシートになってしまった。 まだクライストチャーチへファーストクラスさえ飛んでいたわしチビガキの頃とはえらい違いで、しみじみ日本へは出かけにくくなってしまった。 日本政府はシカトしてトヨタ本社にだけ寄って中国に向かったオーストラリアのラッド首相の頃から、日本はプレゼンスが落ちて、さまざまなツアーや政治家、太陽パネルのエネルギーで世界一周をするエコ飛行機まで中国を出ると、日本はパスで、そのまま一路ハワイに向かう。 どんな場合でも聞かれれば、まさか「日本なんか行っても仕方がないから」のような失礼なことは言わないが、舞台裏は、「日本はまったく落ちぶれているのに、自己認識がない。自分がまだ大金持ちであるような態度で注文ばかりうるさくて相手をしても仕方がない」という理屈なので、これには無論誤解もあって、 日本の人は規則をいっぱいつくるのが好きなので、規則からくる制約がありすぎて、日本のためにだけ要求されるような労力や出費をかけるわけにはいかない、という事情が「日本外し」の背景にはある。 日本の人がよくそう感じて反発するような「日本をバカにしている」というようなことではないのは、人口がたった400万人しかない、ほかに立ち寄る陸地も存在しない南半球の絶海の孤島であるニュージーランドに、レディガガ、エミネム、ビッグビジネスそのもののパフォーマーが毎年やってくるのでもわかります。 めんどくさいことばかり言われなければ誰だってまだまだ豊かな人間ばかりの1億人の大市場を無視するわけがない。 安倍政権は「あなたはどう考えるかしらないが、わたしたちに賛成でも反対でも、われわれ日本についてくる以外に道はないのではないですか?」というロジックが目立つので国として付き合うのが難しいのだとよく言うが、いまの、世界と国の単位でも他者に関心がうすい世界では日本の人が心配するような世界の嫌われ者ということにはなるわけがなくても、「めんどくさいから日本は外す」ということは日常的に行われている。 繰り返すと、嫌いだから、というような感情的な理由ではなくて、たとえばNetflixはまだ日本にはないらしいが、考えてみると日本社会の著作権に対する考え方と英語世界のそれでは日本では「シェアしないため」英語では「シェアするため」のルールという点で思想的にすでに異なるうえに、字幕はどうするのか、いちいち翻訳しなくても英語字幕をつければいいんじゃないの? いや、日本では日本語字幕がないとダメなんですよ。 ダメっていうけど、あなた、字幕の翻訳料なんて払ってたら1ヶ月10ドルの会費で見放題なんて出来ませんよ。 本は本で、 えっ?こんなの全然無理ですよ。 電子書籍ったって、日本では著作権許諾は紙に印刷されたものと限定して契約書のサインをもらっているので電子書籍となると、それとは別に契約をつくらないとならないのを知らないんですか? … Continue reading

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ビンボ講座_その2読書篇

読書はビンボの友である。 90年代初頭くらいまでの日本を支えていた「読書文化」は1926年の終わりに改造社が始めた「現代日本文学全集」を皮切りに出版界のブームになった1円均一、「円本」が起源です。 本の薄利多売という、 山本実彦という人の脳髄の暗がりに生じた世界でも前代未聞のビジネスモデルが、その後、極東の島国でつづいた「読書文化」をつくった。 それ以前にもたとえば福沢諭吉の「学問のすすめ」は識字人口よりも多くの部数が売れるという、これも世界史上の椿事を引き起こすが、こっちのほうは「ガクモンとかいうものさえやればもうかる」という現代の大学生なみの下品な発想に立って売れただけなので、多分、もうかりそうなところの拾い読みだったでしょう。 円本の面白いところは例えばベストセラーのなかに「マルクス・エンゲルス全集」が含まれているところで、川端康成などは死ぬまで円本が日本文化をダメにしたと述べていたが、それは孤独な性格のひとの気むずかしさで、日本人の読書は円本ブームによって、急速に「きゅうりの娯楽」や「求利」から「究理」へ変化してゆく。 この円本ブームは、やがて1927年の岩波文庫創刊を嚆矢とする文庫ブームにつながって、一高生から長屋のおばちゃんまで、なんだか国民を挙げて本を読んでいる、という前代未聞の愉快な国を生み出してゆく。 本を読むにはコツがあって、できる限りゆっくり読む。 どんなにゆっくり読もうと思っても母語では、何年も読みつけているうちには読む速度がはやくなって、一日に4、5冊は読まないと間がもたなくなってしまうのは、酒飲みの酒量が増えて、初めはお銚子一本で顔が赤らんでいたのが、一升飲んでも平然としているようになるのと同じことでしょう。 初めて義理叔父のアパートを訪ねていったかーちゃんシスターは、四谷の小さな小さなアパートに、床に数層に積まれた本がカーペットのように敷き詰められていて、ベッドの下にもぎっしり本が詰め込まれ、あまつさえ冷蔵庫のなかも半分以上は行き所を失った本で、バスタブを開けたら、それも本でぎっしりだったというので、いまでも思い出すとそのときの血も凍る恐怖心が蘇るという。 引っ越すときには通常なら2トントラック1台で楽に引っ越せるはずのおおきさのアパートから2トントラック3台分の本がでてきたそうで、どうやったらこんなに本があの小さなスペースにはいるのか、かなうことなら引っ越し代を3倍もらいたいと運送会社の、丸太のような腕に刺青をした、気のいいにーちゃんに笑われたという。 わしに言わせれば、こういう読書家はナマケモノで、ほんとうのビンボの正統は「観念のレベルを高くしてゆく」ところにある。 観念のレベルを高くする、という言い方がわかりにくければ、「より楽しむために訓練を必要とする読書に移行してゆく」ということで、例を挙げれば数学の本が最も金銭の節約になる。 雑誌ひとつでも読むのにチョー時間がかかって、いつか東京堂というやけに評判がいい書店はどんな本屋なのだろうと思ってスヰートポーヅ http://tabelog.com/tokyo/A1310/A131003/13000637/ を食べに行ったついでに寄ったときに、有名な「ヒルベルトの23+1問題」 http://en.wikipedia.org/wiki/Hilbert%27s_problems についてのおもしろげな本があったが、高校生があんな本を買った日には、一冊で一年すごせて、お小遣いがたくさん貯金できるのではないかと考えた。 文学のほうでは、最も訓練を要するのは明らかに現代詩で、現代詩が読めない人間は、その言語を理解することは出来ないが、自由文と見える文に埋め込まれた不可視の「定型」が見えるようになれば、ダメな詩とすぐれた詩は簡単に区別がつくようになって、しかも「詩は読む人によって感じ方や伝わることが異なる」というようなアホらしい意見がなぜ戯言なのか説明されなくてもわかるようになる。 まさに詩が天空から飛来する精神的な定型によるという理由によって、書く側が意図したことを説明する、たとえばエアコンのマニュアルを現代詩で書くことは不可能で、そういうことが出来たのは、知っているかぎりでは現代詩の悪魔的な天才、ディラン・トマス以外には存在しない。 訓練を経て、詩が読めるようになって、自分の好みの現代詩を暗誦できるようになるまで、どんなに言語的にすぐれた才能をもった人間でも数年を要するから、いまたまたま机上にある日本語の本でいうと筑摩書房の「西脇順三郎全詩集」の箱をみると18000円だが、 (前略) これもクサメをしている女の人に きいたのだがよくききとれなかった いずれその辺のお百姓さんのドリック らしくマキノさんの図鑑には 出ていないところをみると サンシュユと言ったのか その日はヒバリも上がらない 黒ずんだ蒼穹がのさばって 少し寒かった なにしろ春の雪をおもうとき 昔のサンチマーンタリストなら 涙がさきにたち記憶の秋も色あせて ものもいわれないというだろう でも億万の光年の遠いところ から送られてくる悲しみと 絶望の放射線が生物の脳髄を つきさす天体的悲しみの 宿命はさけられない … Continue reading

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ビンボ講座_その1

経済的に平等な社会ではビンボは存在しない。 全員がビンボな社会では空腹は存在しても貧困は存在しないのは1945年に連合国に全面無条件降伏をした日本人がいちばんよく知っている。 内田百閒は当時麹町に住んでいたが、「家」は二畳の部屋がひとつで、それがすべてだった。 この贅沢好きで檀一雄や坂口安吾よりも真の意味では遙かに破滅型だった作家は、海軍機関学校と法政大学の教授を掛け持ちして、いまの金額に直せば3000万円を越える年間収入がありながら、蕩尽して、見事に破産して、高利貸しに追っかけ回されたりしていた。 その盛大な贅沢ばかりしていたのと同じ人が二畳一間の家に住んで貧しさをかこつこともなかったのは、家から出てみわたせば東京中が遙か彼方まで焼け野原の瓦礫の山で、かろうじて立っている住居らしいものと言えば、百鬼園先生とおなじ、二畳に満たない掘っ立て小屋ばかりだったからです。 日本のむかしの雑誌を見て気がつくのは日本人がカネモチ、ビンボと述べだすのはコピーライター語の天才にして先駆者渡辺和博の「金魂巻」が出た1985年くらいからで、それ以前は、70年代などはもっと貧乏であったにも関わらず、オカネがないことをたいして気にもしていなかった。 たとえば当時はまだ日本の会社だった日産自動車は、就職先として誇るに足る「有名会社」だったが、この日立と満州財閥に由来する由緒ある企業に働く社員の夢は、いまのシリコンバレー族のパチモンじみた和製Entrepreneurたちとは異なって、なんと本社の駐車場の一角に自分用の駐車スペースをもらうことだった。 そこに会社から支給されたクルマで乗りつけて駐車する権利をもつことが日産自動車という巨大企業の頂点にのぼりつめた証で、給料のほうは、工員の5倍、というような西洋の基準から言うと、象徴的といいたくなるくらいの金額でしかなかった。 前にも書いたことがあるのをおぼえているが、90年代にアメリカのCEOたちのベラボーな年収が次々に明らかにされて伝えられていた頃、三菱グループの総帥が三菱自動車製の軽自動車に乗って通勤して、年収が熟練工員の数倍でしかないことを伝えたBBCのノンフィクションはおおきな反響を呼んで、日本に倣うべきだ、という市民権運動家のインタビューがあらわれたりした。 あるいは例えば中曽根康弘という人はずっとあとまで長嶋茂雄が所有する家を借りて住んでいたが、東京人にはもともと「家を買うのは貧乏人のすることだ」という考えすらあって、大企業に住むサラリーマンのなかには、退職して隠居生活用の家を大磯あたりに買うまでは借家で十分だ、商家じゃあるまいし持ち家誇りなんて品の悪い、という人も多かったようです。 かつては社会的な名誉と持っている資産のおおきさへの評価が分離していた日本社会は、しかし、80年代の「金魂巻」が言う「マルキン」「マルビ」が流行したあたりから下品に変貌して銀行の残高が高い人間が成功者ということになってしまった。 よりオカネがあるほうが、より成功しているのだ、という考えは堀江貴文以来、公然の価値になって、世間の価値がオカネで買えないものはないことに落着して、「女だってオカネで買えるじゃないですか?それを認めないのは滑稽ですよ」ということになった。 学校で自分の学びたいことを学んでしまったと感じた途端、就職もなにもしないで学生の面倒見がよいらしい大学の「先生」をひどく心配させて、段ボール箱にふたつたまった、あっちやこっちの大企業が送りつけてきた就職の案内をぶち捨てて、他の大学生とは別室で列をなして並ばなくてもよい面接も全部不参加で、いいとしこいて不良になってしまった義理叔父 https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/05/02/girioji/ は、どうやら入学のときの胴上げに始まる「勝ったものの羞じらい」がない社会が嫌だったという、あるいは、前に書いた大学内の就職のオファーも蹴って、霞ヶ関へも民間へも行かず、他人に聞かれても「飢え死にするからいい」とだけ答えた、あの人 https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/04/28/itsuka/ も、80年代の「マルビ」「マルキン」「ネクラ」「ネアカ」の根底が田舎じみたバカバカしさに、こんな社会なんか俺のほうから愛想をつかしてやると思い決めていたのでしょう。 「日本は、こんな国ではないはずだ」というのが、日本でさまざまな社会の出来事について淵源や理由を尋ねることにしていたおじさんたちに言いぐさで、ガメたち西洋人の悪影響なのではないか、と失礼なことを大まじめに述べるTさんのような人まで存在する。 すっかり「西洋化」して、横光利一が「日本は人民戦線的な国だ」と感嘆符を打つように述べた社会が跡形なく崩壊して、小泉首相の頃からは誰もが経済的に平等であるべきだという信念をも失って途方にくれる日本の社会にも、よく目を凝らせば、皆がビンボな頃の文明の残影はまだ生きていて、ところがそれを利用して生活を楽しんでいたのは、わしガキの頃までの外国人たちで、粗大ゴミのカウチを拾って破れ目をなおし、家電を拾って帰っては、まだこの白黒テレビ映るじゃない、ラッキー、と述べていたのは上板橋や常盤台のビンボガイジンたちで、日本人ではなかった。 ビンボをおおげさに言えばエピキュリアン的境地にまでもっていくためには、当然ながら「他人の目」など気にしていては全然ダメで、「ガメ、おまえらガイジンはいいなあー、昼間からぶらぶらしててもなにも言われないんだから。おれなんか、近所のおばちゃんの目が怖くて朝、出勤するふりして、夕方帰るんだぜ」と述べた某一部上場企業執行役員で1ヶ月停職になったおっちゃんが言っていて、おもろかったことがあったが、そういう考えだから思いつきでアメリカの会社をまねただけのIT事業で会社に大損害を与えて、同僚と社員の怒りを買うのである。 日本でビンボに暮らすには内面に集中することが、だから絶対条件だが、 その上で、 1 良い服は着ない 2 300円の昼定食でも外食はしない 3 本は図書館で借りる 4 映画やソフトウエアの(違法な)コピーはしない 5 五時間くらいは、あっというまに時間が立つ「専門」を頭のなかにもつ 6 なるべくはやく一緒に暮らす大好きなひとを探す 7 定職にはつかない 8 安いものは食べない 9 世界を俯瞰する自分なりの地点を確保する 10 なるべく広い部屋に住む 11,12,13、…N N+1 …具体的に心がけて、生活費をどんどん安くしてゆく具体的な知恵がなければならない。 4とか8とか10とか、間違ってんじゃねーの?と思ったきみ、きみはそーゆー浅慮だから内なるビンボ文明を確立できないのよ。 違法な行為は必ず身を滅ぼすもとになるのは、逮捕されるからでなくて正当な価値がわからなくなるからで、わし香港人友達は映画のコピーDVDをせっせとためて、1000作品もコピーしたが、そのうちちゃんと観たのは3つもなかった。 シンガポールは、わしガキの頃はまだ違法コピー天国で、有名な「垂直アキハバラ」シムリムセンターの5階に行くと5軒の海賊コピーソフトウエア屋が軒を並べていて、すいているほうの棚を観に行こうとすると、「おい、そこの白い子供! そっちは悪徳海賊コピー店だから、こっちの善良な海賊コピー店のほうにしたまえ、ぼくがきみのために空間をつくってあげるからさ!」などと親切な大学生たちが述べたりしていた。 そのときのチョー親切な大学生たちも、あれってさ、コピーソフトウエアはなぜか使わなくて、結局カネの無駄なんだよね、と言って笑っていたのをおぼえている。 ぼくが日本のビンボ人なら、工夫して、VPNを使ったIPでNetflixを観るだろう。 … Continue reading

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ビンボ講座_オリエンテーション篇

ふつうの人間が「オカネが欲しい」という場合、それはつまり「オカネを見たくない」という意味だとおもわれる。 オカネのことを考えたくない。 スーパーマーケットで今晩の夕食の食材を買うとき値段を見ないで買えれば、どんなにいいか。 自分の住む部屋の家賃を払いたくない。 電気代を気にしないで暖房を使いたい。 嫌いな上司に頭をさげて面従腹背の側の悲哀を感じたくない。 ぼくは、ひとりで、机の前に座って、オカネのことはいっさい忘れて、自分の脳髄の暗闇のなかに明滅する、人間が生きて死ぬことや、いつか地下鉄のなかで聴いた老女のつぶやきの意味や、思いもしないときに、大好きだったあのひとが流したひとすじの涙の意味を考えていたいんだよ。 そーゆーことではなかろーか。 現実のオカネモチを、自分の周囲で、くびをまわして眺めてみると、最も多いのはゲーマー族で、1億円できれば10億円、10億円できれば100億円と銀行のゲーム画面の数字がおおきくなっていくのが楽しくて仕方がない。 いくつかおぼえた定石を組み合わせて、ビジネスのオカネが流れてくる上流に近づいたり、どこに立っていればオカネがたくさん懐に入ったりするかで興奮するのが好きなひとびとだが、このひとたちはオカネと時間を使うほうはからしき下手で、傍で見ていると、オカネあってもなくてもおんなじじゃん、とからかいたくなる。 いや、実際、からかって遊ぶと、ちょっとはにかんだような顔で、うん、使うほうはよく判らないんだよ、などと言う。 だいたい綺麗な女のひとびとを呼んで、高いシャンパンを抜いて、ローンチでパーティをやって遊ぶ、というような退屈な週末をすごすもののようである。 ナリキンでないひとびとは、けちな、と言って言葉がわるければ、節倹なひとびとが多くて、数十億ユーロというような資産をもっていながら、レンジローバーの新車を買うのが夢である。 クルマを買い換えにいって、今度こそは新車を買おうとおもうが、むかしからつきあいのあるレンジローバーの胴元が必ず待っていて、これ展示車で500キロしか走ってないけど、1万ユーロ値引きしまっせ、というようなことを言う。 「どうしても値引きされた新古車を買ってしまうんだよねー」と溜息をついています。 これが彼にとってどれほど深刻な問題かは、隣で奥さんが、夫とはやや異なる意味の、深い深いタメイキをついていることを観察してもよくわかる。 ビンボ生活を楽しむにはビンボ型の社会が必要である。 アメリカの都会などはビンボだと生命の危険に直結するので、ビンボの風流を味わうのが命がけで、命がけで味わう風流は台風流といってむかしから邪道なので、あんまり楽しくない。 夜中に通りから銃声が聞こえてくるのでは、せっかく買ってきたばかりのSimsの世界が天国に見えてしまう。 西洋は万事競争が激しくなったので、どこもダメかというとそうでもなくてイタリアは、まだまだまだビンボでも楽しくのんびり暮らせる。 特に日本のひとにとっては、豚肉がポークソテーやとんかつに向いているタイプでおいしいとか、食べ物の味が「うまみ」に重きを置いているというようなことがあって、しかも「田舎の町」という、その「田舎」は日本の田舎とは異なって濃密に文明が存在するので、たとえばトスカナのウンブリアとの国境のあたりや、(もう少し洗練された文明が好みなら)エミリオロマーニャの小さな町などは日本人の好尚に最もあっていると思うことがあるが、残念なことに、そこでリラックスしてイタリアンなビンボ生活を楽しめるのは、その町および半径50マイルの出身のイタリア人か、どんなにヨソモノでも、夫がその町の出身であるかでないと、イタリアの、「ほんとにイタリアって国、あるの?コムーネがいちばんでかい社会の上限ちゃうの?」な文明性格から述べて、ビンボを楽しめるわけがない。 ほんとうは日本はイタリアをめざせばよかった。 趣味の悪い冗談を述べれば、薩長のような野蛮性の強い藩がクーデターを起こす形の明治維新でなくて、たとえば江戸幕府の若い官僚が夢見た徳川家を議長とする諸侯連合のような近代国家をめざして、当時の欧州の鼻つまみもののプロシアなどに範をとらず、もちろんありえないことだがサルディニアかロンバルディアか、どっかの弱小なイタリア王国に範をとっていれば、案外とヘロヘロしながら、二度の大戦にすら加わらずに、モダンなテクノロジーを持ったマヤ文明のような、まねできるもんならやってみい、の独自なへろい文明を作れていたかもしれなかった。 その空想の日本には、頭のなかでフォトショップを起動して電線やコンクリを消さなくても、コンクリートで固められていない川堤があり、その両側の遊水域には美しい緑が広がって、子供たちがサッカーに興じる姿があって、道ばたに「氷」ののれんが風に揺れる小さな店には、カツ丼やカレーライスがあって、奥のバーでは仕事帰りのおっちゃんやおばちゃんたちが梅酒をひっかけながら近所の噂話に笑いあう居心地のよい「ビンボ村」がある。 現実は、やるにことかいてとうとう最後は世に知られた「成功はあっても幸せにはなれない社会」アメリカのまねっこをしてしまったので、なんだか品の悪い競争社会で、しかもダイハードな朱熹の呪い、競争の内容は空疎化観念化して、空疎に偏差値をつけるむなしい社会になってしまった。 しかも、いかなる巡り合わせにやありけん、日本には国始まって以来の、個人の貯蓄を吸い上げる経済政策をひっさげた首相があらわれて、しかも首相の「きみがおもいきって通貨の流量を増やして高脂血症デフレ経済の血流をよくしてくれた暁には、必ず、(国民は気がついてないけども)この国最大最悪の問題である財政問題を解決するために消費税をバッコンバッコンあげてあげるからね、という約束を信じた中央銀行総裁が、勇者となって、ほんとに通貨価値を実行価値でブレトンウッズ以前の中進国と先進国の境界線までさげてしまった。 きみが生まれたのはそういう社会で、日本という国を長いあいだ支えてきた「気が遠くなるような金額の個人貯蓄」が字面のみの存在でしかないという、日本には、これまでにはなかった条件の経済社会に生まれついてしまった。 いわば船底近くにあった重心が徐々にせりあがってきて、到頭海面上からブリッジの上にまで這い上がってしまった、旧帝国海軍軍艦なみというか、超トップヘビーの経済に様変わりしてしまって、嵐がくればいっぱつで転覆してしまう。 しかししかししかし。しかあああーしx2 個人は幸福にならなければならないので、降伏の道は幸福に通ず、というようなダジャレを言っている場合ではなくて、オカネモウケの才能もなければ、そんな下品なことやりたくもないきみのために、ゲーム王のわしが、WOW(ワールドオブワークラフトというMMOの名前だす)の争闘に明け暮れる平原を見渡せる山の頂上から眺める夕陽の現実離れのした(って、現実じゃないんだけど)美しさや、森のなかに歩みいって眠る午寝の楽しさや、偶然出会った趣味の良い狩猟服を着た若い女のひと(といっても現実には50代のおっちゃんかもしれないわけだが)と、その場かぎりだが一生忘れられるわけのないひとときを過ごす方法を教えてしんぜる。 あのね。 当然だとおもうが、オカネモチのひと(←わしのことね。けけけ)は、ビンボの楽しみ方にも通暁しているのよ。相対化して距離があるところから見てるからですね。 どっちがいいか、と言う問題でなくて、どちらを選択するか、という問題で、ビンボよりカネモチを選んだというだけのことです。 もうチョー長くなってしまったので、今日はここでやめる。 ビンボのひとびとよ、アリアナグランデの「Love Me Harder」のyoutubeビデオを見飽きた若い人も、ポッドキャストの吉本隆明48本全講演集の一回目の途中で寝ちゃったジジも、みな集まって、このサーバーの鹿苑に静まるように。 次の回は、酒池肉林の年収200万円をめざすことにいたしましょう。 でわ

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骸骨のようなPOWの写真を見て考えたこと

Laurence Reesが制作した有名な2001年のドキュメンタリー「Horror in the East」 http://en.wikipedia.org/wiki/Horror_in_the_East は、骸骨そのものに痩せ衰えるまで栄養が失調した英軍捕虜の衝撃的な映像から始まる。 「日本兵は文明とは金輪際関係のない人間たちだった。どうしようもないサディストで残酷な日本兵たちを私はいまでも心の底から憎んでいる」 という日本の捕虜収容所を生き延びた老人の証言に続くのは、しかし、東京のドイツレストランに響く明るい歌声です。 第一次世界大戦に領土の分け前欲しさに、同盟国の反対にも関わらず強引に割り込み参戦した日本は、チンタオその他の地で小規模な戦闘に加わりドイツ人捕虜を内地に護送する。 そこでの待遇がいかによかったかは当時のドイツ国内での語りぐさで、厳しい階級社会の当時のドイツに戻るくらいなら、明るく、親切な日本人たちの社会で暮らしたいと願って、日本に定住した数多くのドイツ人たちが日本各地で開いた料理屋が、世界のなかでも桁外れに数が多い「日本のドイツレストランの謎」の解答であることは前にも書いた。 なんだか冗談みたいに聞こえるかもしれないが、ナチ・ドイツが人種的には日本人を「猿以下」と軽蔑しながら、しかしどう見てもどことなく敬意を感じていたらしいのは、というのはつまり観念的な人種差別に基づく軽蔑とは別に人間のもっと本質的な認識の部分で日本人に暖かい気持ちを持っていたのは、どうやら、このドイツで繰り返し報道されたらしい「日本人の文明的な態度」のせいであるように見えます。 日清戦争での中国側の捕虜日本兵への残虐を極める仕打ちに閉口した日本人は、1882年の勅令で、敵国の捕虜を残酷なやりかたで扱うことを禁じた。 その結果、日露戦争時の松山収容所のロシア兵捕虜や第一次大戦時のドイツ兵捕虜は、故国にいるときよりも良い生活であると述べる者がいるほどだった。 日本が、ほんとうはどこにも存在しない「日本人の考えた世界のひとびと」のイメージを頭のなかでつくりあげ、「こんなところを世界のひとびとが見たら、なんというだろうか」 「世界に対して日本人として恥ずかしい」と最近まで頻繁に述べていたのは過去の雑誌をひっくりかえせば明らかで、日本人は、戦争前も戦争後も、まるで「世界のひとびと」が観客として座っている劇場で、舞台の上で演技するひとのようにして暮らしてきた。 44カ国中42カ国が反対決議に加わるという国際連盟の日本の満州進駐に対する「世界の」怒りを見て、日本が考えたことは、「西洋クラブ」から自分はつまはじきにされている、ということだった。 当時、売り上げが低迷していた全国新聞社が、自分達を世界ののけものと感じる、プライドを深く傷つけられた国民感情にとびつかないはずはない。 朝日新聞を初めとする新聞社は、口を極めて、連合王国やアメリカ合衆国を罵り、日本人を憎悪に駆り立てようと囃し始める。 実際、戦争を煽り立てれば煽り立てるだけ新聞は売れまくって部数は伸びた。 その様相は、振り返ってみて、いま日本のマスメディアや出版社が日本語そのものが信頼性を失って言語として消滅する危険を冒して、韓国や中国に対する憎悪を煽り立てて、まんまと世界のなかでも騙されやすいので知られた日本人の国民性に乗じて、「ちょろいビジネス」でオカネをかすめとっている状況とよく似ている。 役者が観客の反応に怒って舞台から退場してしまう、というのは、椿事だが、日本は現実に退場してしまう。 屈辱と怒りに燃えて、頭に血がのぼって、かあああーとなってしまう状態が日本の人は大好きだが、国民をあげてそうなってしまえば、残っているのは戦争への道を歩きだすことだけで、いまちょうど日本人が岐れ道を戦争に向かって歩き出したように、日本は、戦争へ一直線に歩き始める。 日露戦争のときに、捕虜日本兵が、尋問するロシア将校の自分に対する心証をよくしようとして、とりいって、ぺらぺらと陣地の形や兵器の配置、人員の数まで喋ってしまった結果、何度も壊滅の危機に陥った日本軍は、自軍の兵士が投降したときの「捕虜対策」を必要としていた。 ベトナム戦争のときに北ベトナムの将軍たちがアメリカ軍の状況を知るためにアメリカのメジャーネットワークの国内報道TVをみて、背景の森に生えている木や地形から精確にアメリカ軍の布陣を把握して迫撃して突進・粉砕したのと同じことで、日本軍が相手の場合は捕虜をつかまえてさえくれば、相手の状況がわかるのは太平洋戦争ちゅうも同じだったのは、ドナルド・キーンたちの証言を見てもわかる。 業を煮やした日本軍支配層は、兵士教育がめんどくさかったのでしょう、兵士たちに向かって「捕虜になるな」と言い始める。 捕虜になるくらいなら死ね、と命令する。 おしゃべりな兵士たちのせいで、作戦が正常に行えなくなる現状はたまらん、と考えたので、軍人は戦争のことしか考えないので当たり前といえば当たり前の反応です。しかし「捕虜になるな」という命令を正当化するために「捕虜になるのは卑怯者だ」という理屈をでっちあげた結果、自国の兵士が敵国の投降兵士を虐待する行為を防げなくなってしまった。 この連合軍捕虜への桁外れの非人間的な残酷行為が、つまりはいまの日本人への深刻な疑惑の基礎をなしている。 戦後70年をかけて、半ばくらいも達成した信頼が、安倍政権といまのおじさん世代ひとつで、ガラガラと崩れてしまいつつある、その根強い日本への不信の根元にあるのは、垢だらけで、骨だけの骸骨の姿になりながらカメラに向かってほほえんでいる 捕虜たちの自分がまだ人間であることを恥じてでもいるような見ていていたたまれない気持になる兵士たちの表情であると思う。 戦争が終わっても、日本では捕虜になることを恐れて自殺的な勇敢さで戦う日本兵の勇気を連合軍が賞賛したことになっているが、そんなのはまるで嘘というか、正反対で、一応、日本人のインタビュアーが相手なら、気の毒なので「いや、すごいとおもった」と言いはするが、本心は、文明人の戦争から懸け離れた、殺しても殺しても降伏せずに「殺されにやってくる」日本兵たちを心底から軽蔑して憎悪したのは、前にも書いた。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/06/05/pacificwar/ 地上の歩兵戦においては人間を非人間化しないことには戦力にならないのは、戦争をやったことがある国ならどこの国でもよく知られた事実で、民主主義という手続きが国是で、一個の人間の生命の値段が世界一高いので知られたアメリカ合衆国では人道的な兵士教育が行われているかというと、そんなことはあるわけがない。 島嶼への強襲上陸作戦を軍隊の性格とする海兵隊はもちろん、太平洋戦争中で言えば一年間に平均10日間しか戦闘が起こらず、基本的には打撃力のある部隊(例:戦車隊)が突破したあとを自軍が確保するための防備的戦力である陸軍歩兵にしても、新兵教育では徹底的に侮辱して、人間であるプライドを捨てさせ、非人間化して、人間でありながら一個の兵器であるように振る舞えるようにつくりかえることが軍隊における「教育」の意味です。 旧日本帝国の場合は、興味ぶかい、というべきか、国民を兵士として効率的に生産しようとするあまり、子供のときから人間性を削ぎ落とそうとした。 司馬遼太郎が何度も指摘しているとおり、日本には薩摩藩という、国をあげて、社会まるごと、軍隊であった先例があったからかもしれません。 現代日本でも教室内の統治者である教師は集団サディズムを巧妙に利用して「生意気な」生徒を疎外して痛めつけることによって服従させ、なにごとにも「我慢」が掲げられ、日本風に翻訳されたパブリックの概念があたかも西洋社会の規範であるかのように言われて、「全体のための個人の役割」という、イギリスならモントゴメリー将軍が得意になって演説しそうなことを、おおまじめに自称知識人が「西洋人もそうです」と言いながら述べたりする。 実際には軍隊内での兵士の非人間化がうまく行き過ぎて、返って軍紀の弛緩につながり、コントロールを失って日露戦争の頃に較べれば見違えるほど弱い軍隊になっていたのは、南京陥落・虐殺のときの指揮官である松井石根大将が攻略後の訓示で軍紀粛正を述べたら若い将校や兵士たちから、軽蔑と失笑の声が返ってきたと嘆いているのを見てもわかる。人間性の喪失が行き過ぎて、兵士としてのモラルも失われつつあったように見えます。 文明に背を向け、人間性を憎む日本兵たちの世界観は、捕虜収容所の西洋人たちへの態度に端的に表現されてゆく。 … Continue reading

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焼け野原の豊穣_1

日本のことを思い出そうとしても、なんだか前世の記憶のようで、ぼんやりしている。 考えてみれば最後に日本を見てから、もう5年になる。 福島第一事故が起きる前は、よく出かけた。 子供のときに住んでいて、ちやほやされたのに味をしめてイギリスとニュージーランドの行き帰りの途中に寄ることが多かった。 1995年のちょうどサリン事件が起きたくらいから2000年の春まではシンガポールのほうが面白くなってしまって、このまるまる5年間はまったく行かなかったが、その他の年は、三日しかいなかった、という年はあるにしても、だいたい日本という国の顔を見にでかけていたのだと思う。 成田になじみのある外国人なら皆おなじ印象を口にするが、飛行機が九十九里浜の長い砂浜を交叉すると、晴れていれば左側に富士が見えて、やがて日本の特徴的な暗い色の緑が見えてくる。 清潔だが不便な空港をパスポートコントロールまで歩くと、長い行列があるが、長期滞在ビザをもった外国人の列は最も短くて、日本人たちよりもずっと早く階下のバゲージクレームに降りてゆける。 英語人たちの旅行フォーラムやexpatフォーラムを見ると、成田の入国管理はずいぶん評判が悪いが、ぼくは子供のときから、いちども嫌な思いをしたことがなくて、どういう状況で日本の入国管理官たちがフォーラムに書き込まれているような「非人間的な態度」をとるのか、いまひとつピンと来ない。 いちどなどは、十全外人計画に則って、5年11回の遠征期間ちゅう、その前年に七ヶ月という長期遠征をしたのに気づいた管理官が、パスポートを返しながら、にっこり笑って「お帰りなさい」と述べてくれたことがあって、とても嬉しかった。 日本はもともと規則が細かく、やかましくて、うんざりな国であるわりに、現場で運用する人たちは、やわらかくて、裁量を利かせて、規則が少ないが頭のわるい係官が多いアメリカやイギリスよりも気持ちよく暮らせる国だった。 日本が規則の表面そのままに息苦しい国になったのは、冗談ではなくて、インターネットで見るからに頭がわるそうな人々が、「それは規則違反だ」 「通報しました」と言い出してからで、いままでの変化を眺めていると、普通の国とはちょうど逆で、インターネットに住む人々が日本社会を住みにくくしてきた実感がある。 こんなところまで普通の社会と逆なのがいかにも日本で、福島事故以後、急速に質があがってはきたが、日本のインターネットはなにも新しいものを生み出さないどころか、程度の悪いコミュニティを形成して、ひたすら日本社会を悪くする方向でここまで来ている。 戦争中の隣組みたいなものだろうか。 どこかのサイトが「炎上」すると駆けつける人々は、要するに自分の体に火をつけて炎上させているのとおなじだが、あの人々には、日本語ネット全体が無意味化して、英語ネット世界に呑み込まれるまで、そういう理屈は永遠に判らないに違いない。 おれは、あの鉛のにおいがする空気を呼吸していないと生きている実感が湧かないのだ、と述べて、ずっと関西に住んでいたブッカー賞をもらったイギリス人の作家の随筆にも同じことが書いてあったが、日本を初めて訪問した外国人は成田から東京への車窓からみえる景色の緑の濃さに驚く。 袖の下欲しさに無理矢理成田を東京と言いくるめて空港をつくった怪我の功名で、日本の人が考えるのと異なって成田に空港をつくったことには良い影響がある。 その驚嘆するような美しい田園風景がディズニーランドが遠くに見えだしたあたりからテラスにごてごてと満艦色の洗濯物やふとん(!)までが干してあるスラムの風景に変わって、ごてごてと醜い街が続いて、世界中そういう光景は空港に近い街には多いので、安心して手に持った「東京ガイド」に目をもどす。 ひとりで日本に来るようになってからは、タクシーに待っていてもらうこともあって、料金所にくると、わらわらわらと10人くらいも人が働いていて、高速道路の料金所は無人であることになれているこちらは、このひとたちの給料がひとり平均400万円だと聞いたが、そうすると、一年でこの料金所ひとつが5000万円の人件費なのか、すげー、と余計なことを考える。 給料とは別に住居もつくそうなので、日本の高速料金所がタグにすらせず遙かに複雑なシステムを使って人件費をなかなか減らそうとしないのも当たり前である、と納得する。 某さんは、ミーティングで無駄を指摘したら、「そんなことをやって、あのひとたちの仕事を奪って、おまえがあのひとたちの給料を払えるのか!」と怒鳴られたそうだが、聞いているこちらは、おお日本ぽい、と考えてなんだかニヤニヤしてしまう。 そのうち大出力のLEDに変わってゆくだろうが、いまはどこの国もソディウムライトで、ドイツなどは「通りで客引きをする娼婦の顔が醜くみえる」というヘンな理由で普及したりした歴史をもつ、このオレンジ色のライトを日本の人は嫌う人が多い。 逆にこちらは蛍光灯の白い冷たい光が嫌で、おまけに「街が暗い」というと日本の友達はめをむいて、なんで!逆じゃん、と言う。 なんで、こんなところまで違うのだろう、と面白いとおもうが、できあがってしまっている感じ方は動かしがたくてNEXの窓から見える暗い通りを眺めながら、その暗さを東京だと感じる自分を発見する。 むかし初めて日本にやってきたとき、妹とふたりで鼻を痛くなるほど窓にくっつけて、東京のネオンの洪水に感嘆した。 あんなに明るくて、まぶしくて、ちょうど誰かが光がはいった宝石箱を間違って蹴飛ばしてひっくり返してしまったとでも言うような、すばらしい光の氾濫にみとれた。 水天宮に泊まって、かーちゃんについていった人形町や蛎殻町のシブさに痺れた。 妹が水色の鼻緒の下駄を買ってもらって、歩く練習をしていたのをおぼえている。 妹は下駄がはけるようになったのが得意で、ロンドンでも、よくジーンズに下駄で歩いていた。 空手の黒帯なので、妹の不適な表情におそれをなして痴漢を働かなかったトンドナーたちは幸運である。 もしアホな考えを起こしていたら、下駄キックを顔にくらって、二度となおらない凹みを顔につくられていただろう。 東京はパラダイスで、もともと東京人の従兄弟の案内で、渋谷や原宿にでかけた。 ビールの自動販売機でこっそり缶ビールを買って飲んだのが、ぼくが生まれて初めて飲んだビールで、だからぼくが一生で初めて飲んだドラフトはCDでもなんでもなくてキリンなのである。 10歳くらいの頃の趣味のひとつは自分で回路図を描いていろいろな電子機器を自作することで、FMステーションを聴くのも自作ラジオで、洗濯機を自動制御するのだと言って新品の洗濯機を破壊したり、ろくなガキではなかったが、当然、秋葉原は天国で、なぜ日本だけにこんなうらやましいところが出来たのだと何度も考えた。 しかも書店には、どうやらCPUまで自作できるらしい回路図が豊富に並んでいて、日本語が読めればなあーとよく考えた。 日本では最上質の知識が学校の教室の外で手にはいるのは素晴らしいことだと思う。 ずっとあとになって「インターフェース」という雑誌を創刊号から蒐集していって、その程度の高さに驚いた。 同時代のアメリカやイギリスの学部生くらいでは読めないような高い内容で、こんな雑誌をいったい誰が買うのだろうと訝った。 古本のセドリで稼いだオカネで出版社をはじめたというヘンな生い立ちの誠文堂新光社や電機大学の創立者が始めた、こちらも考えようによってはチョー変な来歴のオーム社の古本も蒐集したが、仮に高校生くらいが読者だったとしても、ちょうどいまノーベル賞を受賞しているくらいの日本人科学者が子供だったときの科学教育の環境が想像できる。 ついでに余計なことを書くと、残っている雑誌が少なくて蒐集をあきらめたが小学校の校内で販売していたらしい「子供の科学」という雑誌も誠文堂新光社で、東京出版という会社もそうだが、日本ではヘンな雑誌が商業的に生きていける不思議なマーケットがあったのだとしか考えようがない。 … Continue reading

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The Grudge

もっかの日本の最大の文化財産は怪談ちゃうかしら、とおもうことがある。二次元絵がありまっせ、おフランスでも、シンガポールでも受けてますがな、という声が聞こえてきそうだが、気を落ち着けて聞いてもらいたいが、わしにとっては、あの「二次元絵」は表現の自由もなにも、すべての議論以前に絵が下手であると思う。 (あ、やっぱり怒っちゃったのね) 貧しい国の子供はどうかすると、手足がただのまっすぐな線で、ライフルもなにも棒線な、極端に記号化された兵隊や戦車やヒコーキを紙に書いて、バキューンズドーンと口ずさみながら一心不乱に戦争絵巻を書き込むが、二次元絵というものは、あれに似ている。 表現の自由、と言われると、憲法が赤面してしまうところがある。 第21条が、ぽっ、と顔を赧らめている。 戦前のラフカディオ・ハーンは、日本に対するポジティブなイメージの基礎をつくった。 日本語では新渡戸稲造イメージということになっているが、いまで言えばマオリ族の戦士文化てカッコイイよね、というくらいで、日本の人が想像するほどメジャーなインパクトがあったわけではなさそーです。 ハーンのほうは本質的に異なる。 激しい情熱に駆られてすさまじいエネルギーを使った割には、あんまり恵まれた前半生を送らなかったギリシャ=アイルランド系UK人は運命に惹かれるようにしてやってきた日本で小泉セツと結婚することによって、豊穣な晩年を過ごすことになる。 精霊が立ちこめるような明治の松江でハーンが邂逅した人間離れのした幸福については前に書いたことがあって、あらたに書くのはめんどくさいので引用ですませる (←ひどい) いま読むと、むかし友達だった年長の人が松江に出張したときに書いた手紙を記事にしたものであるらしい。 『きみは、いま松江にいるそうで、正直に「うらやましいなあ」と思う。 ぼくは京都の日本海側から松江あたりまでの日本海側にあこがれがあって、柳田国男が生まれた町や、志賀直哉の短編で描かれた町、浜坂という小さな美しい浜辺のある村や、そういう場所をうろうろしてみたことがある。 松江にも行きたかったが、そのときは神戸でひとと待ち合わせをしていたので行けなかった。 ラフカディオ・ハーンという、変わり者で片眼、小男のギリシャ系イギリス人は、たいそうラッキーな奴で、その人生の後半に小泉セツという素晴らしい女びととめぐりあう。 小泉セツが英語をおぼえようとして使った手書きの英単語帳がいまでも残っているが、「アエアンナタハングレ」(I am not hungry)というような言葉を見ると、そのまま、その場を動きたくなくなるような気持ちになってしまう。 英語を話さない小泉セツと自分で発明したような風変わりな日本語しか話さなかったラフカディオ・ハーンは、しかし、「ヘルンさん言葉」とふたりで呼んで笑ったという、ふたりのあいだだけの日本語で会話を重ねながら、幸福な結婚生活を送る。 「破られた約束」のようなラフカディオ・ハーンの傑作は、今昔物語や雨月物語からの再話ではなくて、どれも小泉セツが「ヘルンさん語」でラフカディオ・ハーンに語ってきかせた松江の物語だった。 西洋人がいまでも持っている「美しい、神秘の日本」というイメージはハーンがこしらえたもので、そのもとは松江の風景のなかで生きて死んだひとびとの物語だった。 ある日、「自分にもっと学があれば、あなたの書き物の助けになったのに」とセツが述べると、ハーンはセツの手をとって自分の著作が並ぶ本棚の前に行き、 「だれのおかげで生まれましたの本ですか?」と「ヘルンさん語」で語りかけた。 一緒についてきたふたりの息子一雄に向かって、「この本、皆あなたの良きママさんのおかげで生まれましたの本です。なんぼう良きママさん。世界でいちばん良きママさんです」と言った。 ハーンが好きなものは、「西、夕焼、夏、海、遊泳、芭蕉、杉、淋しい墓地、虫、怪談、浦島、蓬莱」であったという。 「(明治)三十七年九月十九日の午後三時頃」、セツに「あなたお悪いのですか」と尋ねられたハーンは「私、新しい病気を得ました」と答える。 「新しい病、どんなですか」 「心の病です」 心の病、とは心臓病という意味です。 死の数日前、ハーンはセツに 「昨夜大層珍しい夢を見ました」 「大層遠い、遠い旅をしました。今ここにこうして煙草をふかしています。旅をしたのが本当ですか、夢の世の中」 「西洋でもない、日本でもない、珍しい所でした」という。 ハーンはそうして、五十四歳で死んでしまうが、きっと死の時にも松江の美しい風景を思い浮かべていたに違いない。 ぼくは松江の小さな家で、セツと肩を並べて、セツが「ヘルンさん語」で語りかける「破られた約束」の物語を、「ママさんの話は、とてもこわい」と述べながら、悪い視力のせいで丈の高い机に顔をくっつけるようにして原稿を書いていったハーンを思い浮かべる。 セツとハーンのまわりを出雲に集まった帰り途の八百万の神さまたちがぐるりと囲んで、小さな外国人と、ぴんと背筋をのばして座る武家の娘が、ふたりで紡ぎ出してゆく美しい物語を、人間には聞こえない声で称賛の嘆息をもらしながら、どきどきしながら聞き入っていただろう。 松江。 うらやましいなあ。 放射脳のぼくは、もう行けなくなっちゃったよ。 … Continue reading

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