山を移す

なまけものの特徴のひとつは計画を立てるのが好きなことで、押しも押されもせぬ怠け者のチャンピオンたるわしも、だから計画を立てるのが大好きです。
子供の頃からそうであって、イメージとしてペンを片手にほおづえをつくチャーリーブラウンを思い描いてもよいが、顔を使い慣れない万年筆のインクだらけにしながら、ここでこーして、午後はこうできて、夜はこれが出来る、と精密な計画を立てて、満足してはくたびれて眠りこけるのを常態とする。

30歳をすぎると、なにしろ人間の頭がちゃんと活動するのが60歳までだとして、芸能界用語でいう「おしている」(←漢字がわからん)状態なので、やや焦慮を生じて、スターリンのごとく計画を立てようと志す。
毛沢東のごとく、でもいいが、毛沢東が立てた計画は、たいていテーマだおれで、大失敗だったので、同じ粛清で殺しまくる荒っぽい計画でもナチを退ける実質を伴ったスターリンのほうが望ましい。

人間の脳というものは気むずかしいもので、活動の性質によって最適な年齢がだいたい決まっている。
数学などは着想の最高が20代で30代までに考えがまとまらない場合は学問ごとあきらめなさい、とむかしは言われたもののよーである。
詩も読むのにも十代のときの訓練が大事だという。
書く方のピークは20代にくるというが、たとえばT.S.エリオットにおいてわかりやすいように、構成力が生じるのは30代なので、言語表現の力は20代のほうがあっても、その20代で獲得した表現の上に構成力がのっかった30代40代の詩が最高峰をなすほうが英語の世界ではふつうで、抒情詩が主体の言語とはややピークをなす年齢がずれている。

特異なのは絵画で、生きているあいだずううううっっと成長するので、なんだかタコやイカの類いのような才能であると思う。
才能としてぬるぬるしているところまで似ている。

朝起きて、以前にも述べたように、オカネという問題は自分の一生から姿を消しているので、会社へ行くという部分をスキップして、いきなり帰宅段階から一日が始まる。

出かけていないのに帰宅はヘンだが、書斎の机から考えればベッドに出勤していたようなものなので、本人には異和感はありません。

27インチのiMacがふたつ、DELLの30インチディスプレイがひとつ載っている机のまえに座って、ポオーンポオーンムオオオーンとみっつのコンピュータが起動される。
ポオオーンはAppleのお馴染みの起動音だが、最後のムオオオーンというのはWindows 8が載っているHPのデスクトップを買ったら、Win 8は7と互換性がチョー乏しいのに加えて起動音が無音で、だからムオオオーンという意味です。
どうせヒマなブログなので関係のないことを書くと、この構成はなかなか便利でiMacのサンダーボルトと30インチのDVIをつなげて二画面にすることができるし、MBPを机の上においてサンダーボルトでつなげて30インチを副画面に使うことも出来る。
ほんとうはAPPLEのTDMを使って、もっといろいろ出来るはずだが、いまのところ、コマンドを使ってもTDMモードに入れないので、いつものことで、そのうちなんとかなるだろう、と考えて、ほっぽってある。

互換性が乏しいと、たとえば新しい革命的な戦術を思い立ってBlitzkrieg Burning Horizonを遊ぶのに困るので左端のiMacにはBootcampがはいっている。
前にTimbukutuが入っていたパーティションにWinsdows7がいれてある。
ここに古いゲームがごちゃまんと入っている。
7でも動かないゲームはここから歩いて二分くらいのゲーム部屋にコンソールと一緒に並んでいるXPでだいたい動くので、そこまで単身赴任して遊ぶ。

左のiMacはHDDで真ん中のはSSDなので同時にスイッチを入れると、まんなかが数秒で起動するのに較べて左ジジiMacは、ええっこらせのどっこいしょ、ああ、しんど、という声が聞こえてきそうな、のおおんびりした起動の仕方をする。
そのたびに、年をとるとこうなるよなー、と毎日の律儀な感慨にひたる。

仕事上おもろいことに気がついたときは別で、あーでもないこーでもないとコンピュータのスクリーンをにらんで計算しくるうことになるが、そんなことは滅多に起こらないので、仕事の用事は、一日に一回か二回、それ違う、
その問題はMに言えばいいの、えええー、あんなやつ会いたくない、ガメは去年死んで墓は本人の遺志で南極のロス海の岸辺にありますとかなんとか言っといて、とテキトーなことを述べるだけです。

10分のこともあるし3時間後のこともあるが、机を離れると、小さい人びとの相手をするか、モニさんと家のなかでデートして遊ぶか、庭でうろうろしているかで、もうこの頃はマリーナでボートとヨットのメンテナンスをする以外には外にでるのはめんどくさくなった。

日本語の本でいうと山田風太郎の「あと千回の晩飯」という面白いエッセイ集があって、糖尿病を患い、パーキンソン病に罹患していることを発見した元医学生の作家が、70歳をすぎて、自分がなかなか死なないのを、いぶかりながら暮らす様子を記録している。
無神論者で、神も来世も信じなかった人の、魂の健全の記録として出色であると思う。

糖尿病の山田風太郎と脳溢血で半身不随の作家友達のふたりで、医者の顔が大魔神になりそうな酒池肉林の夜をすごすところなどは、まるで未来のわし自身の姿を見ているようで、感動する。

人間は何のために生きているのかという問いには、どのように死ぬかを考えることによって、ある程度答えになりうることを古代ギリシャ人は知っていた。
そのことに早くから気がついたのでギリシャ人たちは、毎日、一生懸命自分が死ぬ準備をして、その準備に「哲学」と名前をつけたが、おもえばご苦労なことである。

「何のために生きているのか?」という問いの立て方がそもそも間違っているので、人間は生まれてきてしまって、気がついてみると死ぬことになっていて困った、というだけのことで、それ以上の意味は人間の一生にはありはしない。
むかし、そう述べたら、かつては友達だと考えたことがあった物理研究者が「虚無的だ」と感想を述べたが、虚無的なのではなくて、単に、写実主義です。
主義、はヘンだが、人種差別まで人種差別「主義」で、主義になってしまう言語で書いているので勘弁してもらわなくては困る。
この物理研究者のおっちゃんは、「なにごとかなさなくては」という強い自負心をもっていたが、なにごとかなさなくては、という理由で自分のどこかを発見されてしまっては物理学のほうで、くすぐったくて嫌だろう。
競泳の夢中のなかで発見が訪れるから科学なのであって、ちょっと言い方がひどいが、自動車のセールスマンが営業目的を達成する意気込みで迫られると科学のほうで怖がって逃げてしまいそうで、余計な心配になる。
他人への憎悪が自分の栄達をめざすエネルギーになっているのだ、と述べた通訳を仕事としている人もいたし、いろいろな人がいるが、悪いということはなくても、自分には縁がない考え方だなあーと思う。
なんというのがいいのか、「生まれてきて困惑している」感じを伴わない生き方は、どれも自分の気持ちからは遠い気持ちがする。

数えてみると、もうあんまり時間がない、と思うが、翻って、振り返ってみると、用事もなく、頼まれもしないのに、一度ならず数度に渉って世界を一周してみたり、あまつさえ、一周の途中でメキシコを気に入ってごろごろしていたり、十全計画を立てて5年11回の大遠征を日本に対して行って、征服して、軽井沢に十全文功碑を建てたりして、遊んでばかりいるうちにあっというまに30歳を越えてしまった。

人間の年齢と意識の稠密度から言って、80歳まで生きたとしても、ここまでの30年より、ここからの50年のほうが遙かに短いはずで、言い方を変えれば、ここから先は、あっというまにくたばってしまうに決まっている。

黒澤明の「生きる」には、わしが崇拝する志村喬扮する末期ガンの小役人が、「何もしないためならなんでもする」日本社会の本領を発揮して、ありとあらゆる嫌がらせを仕掛けてきて、ある人間が中傷しているので抗議しにいきましょう、という若い同僚に対して、
「わたしには、もうそんなくだらないことを相手にしている時間はない」と言うところがあって、単純なわしを感動させる。

その通りだと考える。
映画のなかで、そのシーンは、階段の手すりにつかまりながら、ようやっと階上へ向かってのぼってゆくので、まるで、彼が天国へ向かう苦難を象徴しているようにみえるが、彼にとっての、貧しいスラムの住民のオアシスとしての溝を覆ってつくる小さな公園は、自分にとっては何か、と思う。
マイクロクレジットなのかもしれないし、奨学基金の拡充だろうか、事務弁護士とNPOのスペシャリストで出来たチームと時々あって相談するが、毎度の報告を聞くと世界は簡単に言えばもうぐしゃぐしゃで、日本のような「先進国」で「食料が減れば人口が減るんだから飢餓とか起きるわけねーじゃん、バカなんじゃねーの」と気楽なへりくつを述べている同じ瞬間の地球上で、アフリカではいるはずのない飢餓で死ぬ大量の人間がいて、手がつけられないほどになってしまっている。

そのアフリカで大量死する人間の群れを放置すれば、やがてそれは燎原の火のように広がって、こういうとまた昔「原発がぶっとぶと思うぞ」と述べたときのように大笑いするだろうが、やがては日本でも飢えて死ぬ人間たちが出るに違いない。

ロンドンに戻って、ふつーにやったほうが実効性があるのかしら、とか、
もうちょっと、どぴゃっと一挙に世の中をよくする方法がないのか、とか
いろいろなことを考えるが、愚公は山を移せても、わしには根気というものがないので、どうするんだか、と自分でも考えこんでしまいます。

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