ビンボ講座_その2読書篇

読書はビンボの友である。
90年代初頭くらいまでの日本を支えていた「読書文化」は1926年の終わりに改造社が始めた「現代日本文学全集」を皮切りに出版界のブームになった1円均一、「円本」が起源です。

本の薄利多売という、 山本実彦という人の脳髄の暗がりに生じた世界でも前代未聞のビジネスモデルが、その後、極東の島国でつづいた「読書文化」をつくった。

それ以前にもたとえば福沢諭吉の「学問のすすめ」は識字人口よりも多くの部数が売れるという、これも世界史上の椿事を引き起こすが、こっちのほうは「ガクモンとかいうものさえやればもうかる」という現代の大学生なみの下品な発想に立って売れただけなので、多分、もうかりそうなところの拾い読みだったでしょう。

円本の面白いところは例えばベストセラーのなかに「マルクス・エンゲルス全集」が含まれているところで、川端康成などは死ぬまで円本が日本文化をダメにしたと述べていたが、それは孤独な性格のひとの気むずかしさで、日本人の読書は円本ブームによって、急速に「きゅうりの娯楽」や「求利」から「究理」へ変化してゆく。

この円本ブームは、やがて1927年の岩波文庫創刊を嚆矢とする文庫ブームにつながって、一高生から長屋のおばちゃんまで、なんだか国民を挙げて本を読んでいる、という前代未聞の愉快な国を生み出してゆく。

本を読むにはコツがあって、できる限りゆっくり読む。
どんなにゆっくり読もうと思っても母語では、何年も読みつけているうちには読む速度がはやくなって、一日に4、5冊は読まないと間がもたなくなってしまうのは、酒飲みの酒量が増えて、初めはお銚子一本で顔が赤らんでいたのが、一升飲んでも平然としているようになるのと同じことでしょう。

初めて義理叔父のアパートを訪ねていったかーちゃんシスターは、四谷の小さな小さなアパートに、床に数層に積まれた本がカーペットのように敷き詰められていて、ベッドの下にもぎっしり本が詰め込まれ、あまつさえ冷蔵庫のなかも半分以上は行き所を失った本で、バスタブを開けたら、それも本でぎっしりだったというので、いまでも思い出すとそのときの血も凍る恐怖心が蘇るという。

引っ越すときには通常なら2トントラック1台で楽に引っ越せるはずのおおきさのアパートから2トントラック3台分の本がでてきたそうで、どうやったらこんなに本があの小さなスペースにはいるのか、かなうことなら引っ越し代を3倍もらいたいと運送会社の、丸太のような腕に刺青をした、気のいいにーちゃんに笑われたという。

わしに言わせれば、こういう読書家はナマケモノで、ほんとうのビンボの正統は「観念のレベルを高くしてゆく」ところにある。
観念のレベルを高くする、という言い方がわかりにくければ、「より楽しむために訓練を必要とする読書に移行してゆく」ということで、例を挙げれば数学の本が最も金銭の節約になる。
雑誌ひとつでも読むのにチョー時間がかかって、いつか東京堂というやけに評判がいい書店はどんな本屋なのだろうと思ってスヰートポーヅ
http://tabelog.com/tokyo/A1310/A131003/13000637/
を食べに行ったついでに寄ったときに、有名な「ヒルベルトの23+1問題」
http://en.wikipedia.org/wiki/Hilbert%27s_problems
についてのおもしろげな本があったが、高校生があんな本を買った日には、一冊で一年すごせて、お小遣いがたくさん貯金できるのではないかと考えた。

文学のほうでは、最も訓練を要するのは明らかに現代詩で、現代詩が読めない人間は、その言語を理解することは出来ないが、自由文と見える文に埋め込まれた不可視の「定型」が見えるようになれば、ダメな詩とすぐれた詩は簡単に区別がつくようになって、しかも「詩は読む人によって感じ方や伝わることが異なる」というようなアホらしい意見がなぜ戯言なのか説明されなくてもわかるようになる。

まさに詩が天空から飛来する精神的な定型によるという理由によって、書く側が意図したことを説明する、たとえばエアコンのマニュアルを現代詩で書くことは不可能で、そういうことが出来たのは、知っているかぎりでは現代詩の悪魔的な天才、ディラン・トマス以外には存在しない。

訓練を経て、詩が読めるようになって、自分の好みの現代詩を暗誦できるようになるまで、どんなに言語的にすぐれた才能をもった人間でも数年を要するから、いまたまたま机上にある日本語の本でいうと筑摩書房の「西脇順三郎全詩集」の箱をみると18000円だが、

(前略)
これもクサメをしている女の人に
きいたのだがよくききとれなかった
いずれその辺のお百姓さんのドリック
らしくマキノさんの図鑑には
出ていないところをみると
サンシュユと言ったのか
その日はヒバリも上がらない
黒ずんだ蒼穹がのさばって
少し寒かった
なにしろ春の雪をおもうとき
昔のサンチマーンタリストなら
涙がさきにたち記憶の秋も色あせて
ものもいわれないというだろう
でも億万の光年の遠いところ
から送られてくる悲しみと
絶望の放射線が生物の脳髄を
つきさす天体的悲しみの
宿命はさけられない

(後略)

遠くかけ離れた言語の銀河から銀河へのぶらぶら歩きの詩である「壌歌」のような生命のリズムそのものであるような歩行のリズムに沈潜してしまえる喜びが何十年も脳髄で繁栄することをおもえば、50年も生きてしまえば、一時間あたり五銭にも満たない脳内クラウドサービスで、安いものである。

本には、その本を書いた人間の「時間」が流れていて、その「時間」の正体は書いた人間の意識の流れだが、イリアッドやオデュッセイア、もっと典型的にはプルタークの対比列伝には、昔の人の、ゆっくりと加速のない、おだやかな時間が流れている。
日本語も無料でテキストが配布されているのかどうかわからないが、少なくとも英語では無料のテキストで、退屈だから英語でも読まない人のほうが多いが、実は、クルマのrevをさげて、トルクがやっとあるくらいで運転する要領で、自分の時間をプルタルコスにあわせてやればよいだけで、退屈だと考えたのは、自分の意識の流れが忙(せわ)しすぎたのだ、とすぐに気がつく。

日本語ならば日記文学がそうで、たゆたい、あとじさりし、目が観ている先が変わって、変幻が絶えない文章は、むかしの人間の呼吸に自分の呼吸をあわせなければ、おもしろさがわからない。
同じ理由によって、日本の古典文学をコーフンとともに読みたい場合には平家物語や徒然草のような気持ちが忙しい人/人たちが書いたものがよい。
むろん古典と称揚されるものにも駄作は混じっていて、事情はラテン語と同じで、たとえば外国人に言われると頭にくる、という気むずかしい人がまた出てくるだろうが「今昔物語」がいかに弛緩した文体で読むにあたいしないかは、同じ逸話を扱った「俊頼髄脳」の部分と読み比べれば一目瞭然で、人間の才能は、数世紀をへだてても偽れず歴然たるものであることに吃驚しないわけにいかない。

そうは言っても観念の高みが必要な本は疲れるからなー、という声が聞こえそうだが、その場合には世阿弥にならって、ハレと地をつくって、地のところでは、推理小説のようなものを読むのが一般的であるとおもう。
ぼくは日本語では戸板康二の推理小説が好きで創元推理文庫の中村雅楽探偵全集を何回も読むが、ほとんどの場合は英語やフランス語の推理小説のほうが面白いと感じるので、残念なことに日本の推理小説でおもしろいものに詳しくない。
多分、これを読んでいるきみのほうが詳しく知っているのではないかと思います。

義理叔父もたまたま子供のときに子供用学習百科事典を愛読していたというが、ぼくも11、12歳のころは、冗談ではなくて小さな町の図書館よりも遙かにたくさん本があって、ふきぬけの二階の高い天井まである本棚にぎっしりと並んでいる本たちの、低いところにひっそりとしていた百科事典を一冊づつ抜き出して、寝る前に読むのを悪習とした。
順番どおり読んだわけではないから確かにとは言えないが、ひまつぶしに、結局ぜんぶ読んでしまったのではないかとおもう。

応用として、いま書きながら考えたのは、国語辞典なども読めばおもしろいのかも知れなくて、日本でも赤瀬川原平が本を出しているとかで有名らしい「新明解国語辞典」のようなものはひまつぶしに読むのによさそうな気がする。

現今は、古典テキストがオンラインで無料なので、ビンボ人には強力な大財産が突如しょうじたようなもので、こんなによいことはない。
日本は翻訳がすぐれていて翻訳文化が素晴らしいと日本の人はみながいうが、ほんとうは、そーかなあああー、と疑問におもうことがあって、いちどやる気をだしてルネ・デカルトとイマヌエル・カントを日本語で読んでみたことがあるが、日本語がひどくて意味をなさない上に、あきらかな誤訳もたくさんあって、ぶっくらこいたことがあった。
一般に日本の人が哲学について述べたものを読んでいると、これは日本語の本を読んで書いてるよねー、とわかってしまうことが多い。
訳者が誤解したように誤解しているからで、いじわるなぼくは、日本にいる頃はオンラインのテキストで、ヘンなロジックや表現を見つけると、多分そうだな、と考えて神保町まででかけて、ぬふふ、やっぱし、をすることが多かった。
フランス文学がどうちゃらとえらい鼻息で述べている作家がフランス語で読んだとわざわざ前置きしてあるのに、なぜか日本語訳の間違いをそのまま述べていることもあったりして、ひひひ、と密かな笑いを洩らしていた日々がなつかしい。
あるいは言語学が専攻だったという人で英語はちゃんと読める人なんだろうとおもっていた人が、とんでもないニュアンスで日本語に訳しているのを目撃して、なんだか暗然とした気持ちになったこともあった。

結論は、外国人の書いたものを日本語への翻訳で読むのはよいことはなにもない。
いっそ読むものは日本人が日本語で書いたものに限ったほうがよさそうです。
それから別途英語なら英語を勉強して、英語人が書いたものは英語で読んだほうがよい。
書かれたものはもとの言語で読まなければダメだ、と述べているつもりはなくて、翻訳でよいが、日本語への翻訳は質がわるいものがチェックされずに流通しているケースが多いとおもう。
ケベック州で流れるフランス語字幕や英語字幕はコンピュータによる自動翻訳であることはコンピュータ業界ではよく知られているが、コンピュータみたいに枚挙的なだけでとろい奴でも翻訳可能なほど英語とフランス語は相互翻訳の相性がいい。
北海の神々が不動産取引をするために発明した言語であるという根強い噂がある英語から極東のなりなりてあまれる膠着語まではジャンプの距離がおおきすぎて、うまくいかない、というような理由もあるのかもしれません。

読書の話は、あきてきたのでもうやめるが、次は、多分、無料オンラインサービスについてかなにかになるのではなかろーか。
書いていて感じるのはオカネをつくる方法について書くよりもビンボを質的に向上させる話を書く方がずっと楽しくて、といっても楽しくてたまらないほど楽しいわけではない、オカネをつくるほうは実際にオカネを増やすほうが楽しいが、ビンボはオカネをなくすより無い状態について書くほうが楽しいもののよーです。

結果的にはビンボな状態は、いざとなれば見栄をはるのをやめて親に電話すればどうにでも助けてもらえるという意味でインチキな状態であったばかりでなくて、大学時代にギャンブルで文無しになった数ヶ月にしかすぎなかったが、特にビンボがこわいと考えたことはなかった。
ビンボに憧れるということもなくて、どーでもよかったのだとおもうが、理由は簡明で、そのときどきで夢中になっていることがあるので、オカネのことまで気がまわらない、ということなのだろうとおもう。
ややこしいことをいうと、ふつうの人間が考えるより、ゼロが6つくらい多いオカネを稼ぐのが最終アチーブメントである凍死のアイデアを追求している最中(←モナカではありません)でもオカネのことは念頭にないので、ま、オカネなんてそんなものよねー、とおもわなくはない。

でわ、また。

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