Monthly Archives: April 2015

山を移す

なまけものの特徴のひとつは計画を立てるのが好きなことで、押しも押されもせぬ怠け者のチャンピオンたるわしも、だから計画を立てるのが大好きです。 子供の頃からそうであって、イメージとしてペンを片手にほおづえをつくチャーリーブラウンを思い描いてもよいが、顔を使い慣れない万年筆のインクだらけにしながら、ここでこーして、午後はこうできて、夜はこれが出来る、と精密な計画を立てて、満足してはくたびれて眠りこけるのを常態とする。 30歳をすぎると、なにしろ人間の頭がちゃんと活動するのが60歳までだとして、芸能界用語でいう「おしている」(←漢字がわからん)状態なので、やや焦慮を生じて、スターリンのごとく計画を立てようと志す。 毛沢東のごとく、でもいいが、毛沢東が立てた計画は、たいていテーマだおれで、大失敗だったので、同じ粛清で殺しまくる荒っぽい計画でもナチを退ける実質を伴ったスターリンのほうが望ましい。 人間の脳というものは気むずかしいもので、活動の性質によって最適な年齢がだいたい決まっている。 数学などは着想の最高が20代で30代までに考えがまとまらない場合は学問ごとあきらめなさい、とむかしは言われたもののよーである。 詩も読むのにも十代のときの訓練が大事だという。 書く方のピークは20代にくるというが、たとえばT.S.エリオットにおいてわかりやすいように、構成力が生じるのは30代なので、言語表現の力は20代のほうがあっても、その20代で獲得した表現の上に構成力がのっかった30代40代の詩が最高峰をなすほうが英語の世界ではふつうで、抒情詩が主体の言語とはややピークをなす年齢がずれている。 特異なのは絵画で、生きているあいだずううううっっと成長するので、なんだかタコやイカの類いのような才能であると思う。 才能としてぬるぬるしているところまで似ている。 朝起きて、以前にも述べたように、オカネという問題は自分の一生から姿を消しているので、会社へ行くという部分をスキップして、いきなり帰宅段階から一日が始まる。 出かけていないのに帰宅はヘンだが、書斎の机から考えればベッドに出勤していたようなものなので、本人には異和感はありません。 27インチのiMacがふたつ、DELLの30インチディスプレイがひとつ載っている机のまえに座って、ポオーンポオーンムオオオーンとみっつのコンピュータが起動される。 ポオオーンはAppleのお馴染みの起動音だが、最後のムオオオーンというのはWindows 8が載っているHPのデスクトップを買ったら、Win 8は7と互換性がチョー乏しいのに加えて起動音が無音で、だからムオオオーンという意味です。 どうせヒマなブログなので関係のないことを書くと、この構成はなかなか便利でiMacのサンダーボルトと30インチのDVIをつなげて二画面にすることができるし、MBPを机の上においてサンダーボルトでつなげて30インチを副画面に使うことも出来る。 ほんとうはAPPLEのTDMを使って、もっといろいろ出来るはずだが、いまのところ、コマンドを使ってもTDMモードに入れないので、いつものことで、そのうちなんとかなるだろう、と考えて、ほっぽってある。 互換性が乏しいと、たとえば新しい革命的な戦術を思い立ってBlitzkrieg Burning Horizonを遊ぶのに困るので左端のiMacにはBootcampがはいっている。 前にTimbukutuが入っていたパーティションにWinsdows7がいれてある。 ここに古いゲームがごちゃまんと入っている。 7でも動かないゲームはここから歩いて二分くらいのゲーム部屋にコンソールと一緒に並んでいるXPでだいたい動くので、そこまで単身赴任して遊ぶ。 左のiMacはHDDで真ん中のはSSDなので同時にスイッチを入れると、まんなかが数秒で起動するのに較べて左ジジiMacは、ええっこらせのどっこいしょ、ああ、しんど、という声が聞こえてきそうな、のおおんびりした起動の仕方をする。 そのたびに、年をとるとこうなるよなー、と毎日の律儀な感慨にひたる。 仕事上おもろいことに気がついたときは別で、あーでもないこーでもないとコンピュータのスクリーンをにらんで計算しくるうことになるが、そんなことは滅多に起こらないので、仕事の用事は、一日に一回か二回、それ違う、 その問題はMに言えばいいの、えええー、あんなやつ会いたくない、ガメは去年死んで墓は本人の遺志で南極のロス海の岸辺にありますとかなんとか言っといて、とテキトーなことを述べるだけです。 10分のこともあるし3時間後のこともあるが、机を離れると、小さい人びとの相手をするか、モニさんと家のなかでデートして遊ぶか、庭でうろうろしているかで、もうこの頃はマリーナでボートとヨットのメンテナンスをする以外には外にでるのはめんどくさくなった。 日本語の本でいうと山田風太郎の「あと千回の晩飯」という面白いエッセイ集があって、糖尿病を患い、パーキンソン病に罹患していることを発見した元医学生の作家が、70歳をすぎて、自分がなかなか死なないのを、いぶかりながら暮らす様子を記録している。 無神論者で、神も来世も信じなかった人の、魂の健全の記録として出色であると思う。 糖尿病の山田風太郎と脳溢血で半身不随の作家友達のふたりで、医者の顔が大魔神になりそうな酒池肉林の夜をすごすところなどは、まるで未来のわし自身の姿を見ているようで、感動する。 人間は何のために生きているのかという問いには、どのように死ぬかを考えることによって、ある程度答えになりうることを古代ギリシャ人は知っていた。 そのことに早くから気がついたのでギリシャ人たちは、毎日、一生懸命自分が死ぬ準備をして、その準備に「哲学」と名前をつけたが、おもえばご苦労なことである。 「何のために生きているのか?」という問いの立て方がそもそも間違っているので、人間は生まれてきてしまって、気がついてみると死ぬことになっていて困った、というだけのことで、それ以上の意味は人間の一生にはありはしない。 むかし、そう述べたら、かつては友達だと考えたことがあった物理研究者が「虚無的だ」と感想を述べたが、虚無的なのではなくて、単に、写実主義です。 主義、はヘンだが、人種差別まで人種差別「主義」で、主義になってしまう言語で書いているので勘弁してもらわなくては困る。 この物理研究者のおっちゃんは、「なにごとかなさなくては」という強い自負心をもっていたが、なにごとかなさなくては、という理由で自分のどこかを発見されてしまっては物理学のほうで、くすぐったくて嫌だろう。 競泳の夢中のなかで発見が訪れるから科学なのであって、ちょっと言い方がひどいが、自動車のセールスマンが営業目的を達成する意気込みで迫られると科学のほうで怖がって逃げてしまいそうで、余計な心配になる。 他人への憎悪が自分の栄達をめざすエネルギーになっているのだ、と述べた通訳を仕事としている人もいたし、いろいろな人がいるが、悪いということはなくても、自分には縁がない考え方だなあーと思う。 なんというのがいいのか、「生まれてきて困惑している」感じを伴わない生き方は、どれも自分の気持ちからは遠い気持ちがする。 … Continue reading

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日本人の肖像(5)小津安二郎

だいたい1960年代の終わり頃まで、日本の映画は世界のなかで突出した質を持っていた。 小津安二郎、黒澤明、溝口健二、というような名前は、もしかすると日本でよりも日本の外でのほうが、ずっと有名だったかもしれなくて、たとえば小津安二郎について言えば、まるで小津の死霊と自分とのためだけにつくって、他の誰にも判らなくてもいいのさ、と言いたげな「東京画」を撮ったヴィム・ベンダースを初めとして、海外の監督や映画批評家たちが70年代80年代に盛んに取り上げだして、蓮実重彦が「再発見」するに至って、それまで忘れられていたのが復活して、また人々の記憶に戻ってきたようでした。 1995年にはまだ、VHSテープも出ていなくて、発売になったと聞いた義理叔父とふたり、フルーツケーキをおごってやるからと言われて付き合わされて、クルマで東京を探し回って、大船の松竹撮影所の前にある松竹ゆかりのCD屋で、やっと小津映画が全巻そろっているのを発見して、狂喜した叔父が全部買い占めていたのをおぼえている。 実は(記憶が混線して誤っている可能性はあるが)日にちまでおぼえていて、1月17日だったのは、そのちょうど同じ日が神戸で地震があった日だからで、その頃はまだ数が少なかった携帯電話の「車載キット」を通してアメリカのビジネスパートナーから心配して電話がかかってきて、地震を知らなかった叔父がびっくりしていた。 小津安二郎は、1963年に60歳で自分の誕生日というゴールに倒れ込むようにして死んだときには、すでに「過去の人」と見なされていて、何を撮っても同じ映画、観客に阿(おもね)っている、 体制べったりのくだらない作家、と後半の、いまでは傑作とされている「小早川家の秋」も「秋刀魚の味」も、さんざんな言われようだった。批評家たちの映画評に影響されて観客も劇場の半分くらいの入りだったようです。 大島渚や吉田喜重たちは小津くたばれの急先鋒で、当時から死ぬまで小津安二郎が無数に口走った「おれは豆腐屋なんだ。豆腐屋に豆腐以外のものをつくれったって無理だ」というような愚痴があちこちの記録に残っている。 国際映画祭に出せばどうか、という海外からの声があっても、松竹の役員たちの「小津くんの映画は日本の古い感覚の聴衆には受けるかもしれないが世界の人に認めてもらえるわけがない」という意見で、握りつぶされてばかりだった。 あくまで通俗的で芸術とは縁がない、という評価が、小津ファンも含めて、日本人の小津に対する評価だったようにみえます。 黒澤明やMira Nairは「美しい画像」へ強い憧れと美の実現への意志をもって、上り詰めていった。 Mira Nairは「カーマ・スートラ」で画面の美しさの極限に到達するが、映像美を追求することの映画自体への犠牲のおおきさを思って、Monsoon Wedding、The Namesakeとドラマ性とリアリティの世界へ回帰してゆく。 黒澤明は、どんどんどんどん映像美の階段を上り詰めて、物語性を顧みないほどになって、「天国と地獄」の軽快な通俗性を捨ててしまう。 では小津安二郎は、どんな映画の撮り方をしていたのかというと、ただ観たままを撮っていて、どこにも、思想的にも芸術的にも、焦眉することのない、ただぼんやりと眺めているように見えて、細部に至るまで批評がやむことのない小津安二郎の眼に映ったものを、そのまま写実的に映画で表現していった。 わざわざ眉根にしわを寄せて見出そうとしなくても、おれの目には意匠が剥がれた現実がちゃんと見えているさ、というひとに言わない自信が小津にはあったのでもあるでしょう。 ちょうど日本の風景を思い出す人が頭のなかで綾取りの糸のように空を区画する電線を消し薄汚い看板を消して、里山と呼ぶ、美しい田園を思い浮かべるように、小津は50年代60年代の日本の生活から、極く自然に醜悪な部分を消し去り、本質を細部とともに取り出して、「ほんとうには、どこにも存在しないのに、現実よりも日本的な日本」をスクリーンに展開してみせる。 日中戦争ちゅう、機関銃手として中国華北を転戦した小津安二郎は、太平洋戦争中は宣撫班として毎日毎日シンガポールでイギリス軍が残していった大量のハリウッド映画を観て過ごしているうちに戦争が終わってしまう。 「宣伝・戦意昂揚映画の傑作をつくる」という触れ込みだったが、ほんとうは、そんなくだらないものを監督する気はまるでなかったようです。 小津映画を観る外国人はすぐ気がつくように、小津は映画の物語の骨法を 日本でも人気があった「お熱いのがお好き」「アパートの鍵貸します」のBilly Wilderから引き継いでいる。 誇張した言い方をすれば、小津安二郎の映画が西洋の人間にわかりやすいのは、小津の映画がハリウッド全盛期の文法に従った「洋画」だからです。 日本的なものから遠くかけ離れた西洋映画を小津は、畳に這いつくばるようなローアングルから、知らん顔で撮り続けた。 「日本人しか判らない映画」と言われ続けて、腹を立てながら、映画がわからないやつらは、どうしようもない、と内心で苦笑していたでしょう 。 たぶん、自分自身では、当時の日本の監督のなかで最もハリウッド的な映画を撮っているのは自分であることを、当人はよく知っていた。 蓼科の「雲呼(うんこ)荘」と縁額を掲げた別荘で、寝転がって、脚本家の野田高悟と文字通り駄弁りながら、世間からは「やや退屈でドラマ性がないが、なんとなく最後まで観てしまう」と思われていたこのふたりの「映画屋」は、東京物語(1953)、秋日和(1960)小早川家の秋(1961)と奇跡のように世界の映画史上に残る傑作を生み出してゆく。 小津安二郎の映画にはギュスターヴ・モローの絵やジュゼッペ・ヴェルディの音楽に似たところがあって、細部が観念の上位に立っている。 小津安二郎の頃の映画用語で言えばイベント性はないが、ないが、というよりも故意に消し去っているが、眼を凝らすと凝縮したドラマに満ちていて、容易に人を虜にしてしまう。 ついでに余計なことを言うと小津の映画に対する考えはAlfred Hitchcockに最も似ているのでもあって、一見正反対に見えるこのふたりの映画には共通したところがたくさんあるが、杉村春子や中村伸郎のような、芸達者の、性格俳優、と言われるひとたちを要所に鼎足のように配置したあとは、安心したように、おもいきり美人の女優やハンサムな男優を画面のなかで動かした。 岡田茉莉子、司葉子、岸惠子、久我美子、大映から借りられるとなれば京マチ子に若尾文子、 男のほうでは佐分利信に佐田啓二、演技の上手下手は度外視してでも自分の映画に引っ張り込み、物差しで測って動作にダメを出して、ただお茶を手にとって飲むというただそれだけの所作を何十回もやり直させて、俳優が泣き出しても、泣き止むのを待って、また何回もダメをだした。 小津先生の映画に出るとロボット扱いされるから嫌だ、というのはいろいろな俳優が述べていて、笠智衆までが同じことを述懐している。 小津安二郎は天才であると同時に、あるいは天才であるがゆえに「現実をありのままに見る」文化の掉尾を飾る作家になった。 志賀直哉という人がいて、このひとは芸術家としてのありかたが、たいそう小津に似ているが、おおかたの日本の人と意見が異なっているのは判っていても小津のほうがすぐれた才能を持っていたと思う。 長くなったので、この辺で終わりにするが、最後にもうひとつ余計なことを書く。 … Continue reading

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バラックでお茶を

マンチェスター両軍にガナーズとレッズも連勝! という記事の見出しを見て、しばらく意味が判らなくて困った。 もともとフットボールには、あんまり興味がないせいもあるが、マンチェスターは、いつのまにか独立して、陸軍と海軍をもっているのかしら、というふうにヘンなことを考えたのでよけい判らなくなった。 30秒ほど考えていて、ああ、マンチェスター・シティとマンチェスター・ユナイテッドが両方勝った、という意味なのだな、と腑に落ちた。 読売巨人軍、と言う。 蒐集したむかしのPC雑誌を見ると、無敵インテル怒濤の進撃!、と書いてある。 超弩級、はよく出てくる日本語表現だが、「弩級」はHMSドレッドノート級という斉射、高速性において革命的な性能を持ったイギリス海軍の戦艦のことです。 旧大日本帝国海軍は、それまで手持ちの軍艦が一挙に陳腐化して「頭を金槌で擲られたような」深刻な衝撃を受けるが、その記憶がいまに反響して、「これが超弩級の胸がでっかいねーちゃんでさあー」という中年おっさんの居酒屋でのセクハラ自慢話の木霊になっている。 前にも書いたがバートランド・ラッセルは教育に興味がある人で、1920年、改造社の招待で日本に来たときにも初等・中等教育を見学しているが、前へならえ、起立、礼、の教室の様子を見て、 「兵士養成所でしかない。これほど危険な学校をみたことがない」 と書き残している。 ラッセル卿に生涯つきまとった日本への深い軽蔑は、結局、ケンブリッジで知り合った日本学者のドナルド・キーンと、意気投合し、思考の波長がぴったりあって、毎日のように会って昼食を一緒に食べたり、パブでエールをちびちびやったりしたあとでも変わらなかったが、 そのおおもとは、この1920年の訪日のときに目撃した日本の軍隊社会ぶりに淵源を持っている。 前へならえ、ラジオ体操第一、朝礼、人間ピラミッドに至るまで、軍隊そのままの学校生活は、日本のテレビや映画、雑誌や本を読んでいると、少なくとも1970年代までは変わらなかったようだ。 給食も「日本の学校の美点」として語られることが多いが、 「皆で同じ食事を一緒に食べることによって集団の規律や協同の精神を学ばせる」とあって、なんだか恐ろしげであると思う。 読んでゆくと、45分だかの昼食の時間に、15分で昼食を終わりにして、残りの30分を校庭でのボール遊びにあてる、というようなことが不文律になっている小学校があって、ゆっくりしか食べられない大庭亀夫のような反逆児童は、教師が先頭に立った集団いじめにあったもののようである。 日本の学校の教室は当時50人(←すごい)学級だったようだが、担任教師は尉官で、一学級は一個小隊、小学校6年生の担任になった新任の若い教師は差し詰め、小隊を苦労して率いる経験の浅い少尉というところだったろう。 日本帝国陸軍は「ホシの数よりメンコの数」と言って、階級よりも経験で、士官学校を出たばかりの若い少尉では、到底学校生活を6年も生き延びた12歳の古参兵たちを御することが出来なかった。 日本で「荒れる教室」が出るのは、つまりは、軍紀が弛緩することによって、軍隊組織の性質に原因して言うことを聞かなくなった、軍の指揮系統に従わない小隊なのだと考えるとわかりやすい。 世界中どこの軍隊でも似たようなものだが、日本帝国陸軍の兵士を最も苦しませたのは戦闘よりも兵営での日常だった。 まだ戦争中の記憶が明瞭だった頃につくられた映画には生々しい映像として出てくるが、とにかく、理由などなくても毎日殴られる。 特に「地方」(日本軍では奇妙なことに民間社会のことを「地方」と呼んだ。隠語でもなんでもなくて普通の用語です)にいるときに良い暮らしをしていたり、綺麗な奥さんをもっていたり、旧制中学を出ているような高学歴の兵卒は、目の敵にされ、古参兵たちは全身の嫉妬をこめて毎晩毎晩力の限りぶん殴って、卯建があがらなかった自分の一生を渾身の暴力にこめて、娑婆では幸運だった若者たちを半殺しになるまで殴り続けた。 1943年後半、「西洋列強」の軍隊の表面だけを模倣して、いわば書き割り建築の近代戦力をつくりあげて、零戦に代表される、おもてのわかりやすくて華やかな軍事力だけを誇って軍隊の運営に必要なロジスティックスを理解できなかった日本軍は、陸軍全軍が深刻な飢餓に陥って世界中の至るところで戦死者数に数百倍する餓死者を出していくが、もうひとつの日本軍兵士の死因の特徴は自殺者の多さで、統計が残っていないが、兵士たちの証言を読めば、どうやら徴兵されて同年兵の自殺を目撃しなかった人は稀なようです。 まるで現代日本社会のようである。 「絆」という日本政府の泥田の情緒でべっとり濡れた言葉を聞いて思い出すのは、軍隊でも戦友の「絆」が強調されたことで、毎晩殴られて、自分が殴るのがめんどくさくなると、ときには同年兵同士正対させられ、お互いの顔を力いっぱい殴ることを強制された者同士、戦友の「絆」は格別で、その結果、悲惨を共有した自分の分隊のためなら自分の生死を顧みないのは日本兵士の強さで、福島のひとたちが危険な食べ物を食べるしかないなら、自分たちも同じ危険を分かち合わないわけにはいかない、という旧軍以来の日本社会の伝統が、思わぬところで顔を出したのでしょう。 内務班の跫音が夜の暗闇の世界は、戦争が終わっても、日本社会の根幹として残されたもののようでした。 軍隊に代わって今度は企業が受け皿になった。 英語世界でドキュメンタリを通じて有名になった日立の新人研修は1980年まで続いたというので1958年生まれの社員、いま57歳の人までは、褌ひとつに裸にさせられて、冷たい川の水に飛び込み、「わたしはバカになります。わたしはバカになります。わたしはバカになります」と絶叫させられたという。 パナソニックもトヨタも、言うまでもなく同じようなもので、日本の企業に過労死が多いのも、社員が兵卒であれば、たとえばプロジェクトリーダーは下士官で、負担がおおきく、優秀な下士官ほど戦場での戦死率が高かったように、過労死で死ぬ社員がおおきいのは、残酷な言い方をすれば当たり前だということになる。 余計なことを書くと、吉田健一だったか、1945年、海兵団に、日本の戦争が負けがこんできて、若い者はみな死んでしまったので、いいとしこいて徴兵されて、入営してみると陸軍も海軍も似たようなもので、毎日毎日ものも言えないほどぶん殴られて、こんな国、早く負けないかなあーと思って甲板に立っていたら、向こうから若い士官が歩いてきて、敬礼すると、答礼もせずに歩き去ったあとにオーデコロンの匂いが残って、えっ、と思って士官の立ち去る後ろ姿を思わずみたら、その腕には金色のブレスレットが光っていた。 あるいは撃墜王坂井三郎の書いた本に繰り返し出てくるのは、士官と坂井たち兵卒パイロットは食べる場所も献立も別で、空にあがれば技倆未熟な士官パイロットを庇ってたすけるのはベテラン兵卒パイロットであるのに、兵卒でしかないエースパイロットたちが「これが人間の食い物か」と言いたくなるような食べ物の不味さに辟易している一方で、士官たちは酒を酌み交わしながら厨房の兵士たちが釣ってきた新鮮な魚を食べている。 一般に日本の帝国陸海軍では、将校と兵卒は別の国の人間のように文化・習慣・ものの考え方までまったく異なっていて、映画を見ていて、よく知られていないらしいと感じたことを言えば、暴力が蔓延した旧軍でも、将校が兵卒を殴るということはありえなかった。 日本社会全体と酷似した軍隊生活をつぶさに見ていきながら何度も考えたのは、「日本人は軍隊以外に近代社会のモデルを持たなかったのではないか?」という疑問でした。 明治の「御一新」で江戸幕藩体制が崩壊して、それでも有効な社会を急いでつくらなければならないと焦った明治政府は、自分たちに 欧州の共同体のなかで最もわかりやすかった「軍隊」を自分たちの軍隊だけでなく社会のモデルとして取り入れてしまったように見えます。 一年の短期留学は言うにおよばず、10年やそこらの欧州生活で、欧州が拠っている社会の仕組みが判るわけはない。 ヨーロッパ文明は、ただでさえ不可視の部分が圧倒的な文明で、20年くらいも住んでから欧州人の底冷えのするような魂の根底にある冷たさを理解して呆然とする、というようなことはよく聞く。 いまの目からみるとケーハクを極める森鴎外の滞欧生活の報告を見ても、森林太郎が持っていた当時の日本人とは桁違いの知力を考えれば、軍隊以外の組織運営法を、もともとヨーロッパの文明とは縁もゆかりもない日本から留学してやってきた日本の若者たちが理解する術がなかったのは当たり前で、結局は最も可視部分がおおきい軍隊というモデルを社会にも企業にも採用せざるを得なかったのでしょう。 その結果、日本社会は国がまるごと巨大な兵営になって、「個人」が存在しない、全体が優先する、規律正しくて整頓整理が行き届いている、..という「日本社会の特徴」は軍隊の特徴そのもので、日本の社会は軍隊そのものなのだと考えれば、ようやく人間らしさを見せ始めた「ゆとり世代」への悪罵や嘲笑も理解できないことはない。 … Continue reading

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