兵器と戦争_1

IMG_2496

ドイツで国産自動小銃のG36が問題になっている http://www.thelocal.de/20150422/de-maizire-knew-about-weapon-problems が、安倍首相が熱心に海外に売り込みをかけている日本の兵器にも悪評が付きまとって離れない。
こういうことを書くと、またまたまた、「きみは日本の兵器の優秀さを知らないから、そういうことを言う。
ついてはアマチュアと言えど兵器の研究一筋30年のぼくがものを教えてあげよう」 あるいは「けっけっけ、つっこみどころ満載」と述べにくるヘンな人がいっぱいいるので書く前から鬱陶しいが、鬱陶しいから書かないというようなことを言っていると自分が鬱陶しい人になってしまうので気にしないことにする。

ツイッタでもひとしきりお友達たちと話して、ぬははは、と喜んだが、たとえば日本には62式7.62mm機関銃、という有名な兵器があります。 G36は自動小銃なので連射して照準が狂うのは、よく考えてみると、やむを得ないと言えばやむを得ないが、62式は、小銃と異なって連射を前提とした機関銃であるのに、例を挙げると、連射をつづけると引き金を引いていないのに連射が続行される、つまり平たく述べると暴発して、その辺の味方の兵士も、お散歩していた犬さんも猫さんも薙ぎ倒すという不思議な機関銃で、日本の兵器マニアの「軽い」「部品精度が高い」「やっぱり日本製はすごい」という評に反して、現場で使わなければならない自衛隊あらため他衛隊の兵士たちが62式機関銃に付けたあだ名は 「無いほうがマシンガン」 「62式言うこと聞かん銃」 で、正直というか、兵器ヲタクのようなヒョーロンカと違って、実際に戦場で使用しなければならない兵士たちの 「こんなもん使わされたら死んでしまう」という気持ちがよく出ている。

日本の軍隊は、不思議な習慣をもっていて、直截取引をせずに、なんだかびっくりだが、あいだに民間商社が介在する。
あいだに民間商社が介在するということは途中のピンハネを別にしても、といって、別に出来るような生半可な利益率ではなくて、オスプレーの値段を見てもわかるというか、なんでそんな価格で、という価格の原因になるほどのすごいピンハネだが、別にしても、売る側のアメリカや欧州諸国からみると、あいだに民間が挟まっては情報漏洩が怖くて最新鋭兵器を売るわけにはいかなくなってしまう。

実際、日本に売るのは、とっくのむかしに中国が分析済みの兵器ばかり、というのは、こればかりは兵器ヲタク世界ですら常識であるようです。 まして外国の軍事ウォッチャーにおいておや。
つまり日本の軍備は構造的に時代遅れで役に立たない兵器が揃うように出来ている。

後々の「突撃日本軍」のイメージと異なって日本はもともと防衛戦争に強いので定評があった国で、この定評は日露戦争で出来上がった。
若いロシア人たちと話してみると、日本がロシアに勝ったと考えている人は誰もいなくて、「あんまり降参しないで頑張るので、日本人への頭からの軽蔑を公言していた皇帝が体面が悪くなって「なかった」ことにした」という見解が大半ですw

文章におもわず草を生やしてしまって書いている人の品の悪さが露呈してしまっているが、当時のロシアの補給戦略は奇想天外で、地図をみれば判るが、戦争の版元の欧州ロシアから日本までは補給線の限界どころか、当時物理的に可能とされていた補給限界の5倍というような距離に戦場がある。

ロシアは、どうやってグリンゴン星人の本拠地に攻め込むような不可能な戦争を遂行したかというとシベリア鉄道の列車を欧州から極東アジアへ一方通行で送り込んで使い捨てにした。

補給品や兵員を乗せた列車がはるばる欧州ロシアからやってくると、兵団や武器や弾薬や食料が、どおおおと下ろされて、そのまま貨車は終点へもっていって捨ててしまう。 こんな無茶苦茶は後にも先にも帝政ロシアしか例がないが、考えてみると、それが出来ない国では、到底、戦端すら開けない主戦場への距離です。

ロジェストウインスキーがぼろ負けに負けて、正真正銘、日本が海の戦いに強いことを証明して、海軍大好きの連合王国国民に目を見張らせた対馬海戦は、しかし、当時の航海技術では、たどりつくことが難しいほどの大航海のはての決戦で、東郷平八郎の神秘的な判断でロシア艦隊が対馬にくる、と判断した奇跡と感動が強調されるが、ほんとうはブルーウォーターに出て船に乗る習慣がある人には、判りやすいというか、遠くまででかけて、目的地が近くなると、船乗りの気持ちとしては、どうやっても、ちっこいやつなら台風くらい通り抜けてでも最短距離を行きたくなるのは自然な気持ちで、ほんとうはそんなことをしてはダメダメなのに悪天候をおして母港マリーナに帰ろうとしてヨットごと遭難しかけたことのあるわしとしてはチョーわかりやすい判断なような気がしなくもない。

対馬を通らないで津軽海峡にまわる船乗りなど、少なくともわし頭では水兵から提督まで、想像の外にある。

この防衛戦争に勝った日本の兵器を見ると、旅順の重砲、騎兵の機関銃装備、最新鋭艦を揃えていた海軍、どれをとっても一流装備で、精神なんていりません、戦争は兵器と訓練と戦略だんべ、というわしとしては、日本が勝って当然とおもうが、日本の軍隊はなぜか、このあと精神性偏重へと傾いて、有名な「百発一中の砲百門より百発百中の砲一門」という、論理的にすでに矛盾した方向へ走り出してしまう。

もともと防衛戦争に「負けない」ために設計された日本帝国の軍隊が狂いだすのは、中国本土の侵略をはじめたからです。
日本の短距離補給しか能力がない軍隊の特性を熟知していた蒋介石は、主敵の共産軍に対して背後から攻めかかってきた日本軍に対して、どうか共産主義者と戦うのに専念させてくれ、とあの手この手のルートで懇願しながら、戦闘を避けて、どんどん後退してゆく。
第二次国共合作後も、いちど採った大戦略はにわかに変えられるものではなくて重慶へまで退く。

蜀犬、陽に吠ゆ (蜀地方の犬は、あまりに天気が悪いので、ふだん見ない太陽が空に出ると驚いて空に向かって吠える)というくらいで、天気の悪い重慶に引っ越しさせられた幹部たちはじめ国民党勢はうんざりだったと思うが、工場そのものをアジアン・ロシアに疎開させてT34をばりばり生産して、凝りまくってええかっこしの、やたら部品点数が多い、すかした兵器ばかり作っていたドイツ軍を圧倒したスターリンの例を挙げるまでもなく、大陸の戦争戦略としては、ごくふつーな考えで、どちらかと言えば奥地へ奥地へと退いてゆく中国軍を見て「勝った勝った。また勝った。勝たんでもええのに、また勝った」(©阪神タイガース応援団)と合唱していた日本軍のほうが、歴史的に言えば、風変わりで頓狂な存在だった。

この引き潮のように去ってゆく中国軍を見て追撃を諦めざるをえなかった日本軍が始めたのが重慶爆撃で、ピカソの絵画で有名なゲルニカをスキップして、世界最初の無差別戦略爆撃だということになっている。

日本人を皆殺しにして、すべての日本の町を石器時代に戻してやる、と豪語して、実際に日本民間人を殺しに殺しまくったカーティス・ルメイが自己の狂人じみたサディスティックな異常性格に基づいた戦略の正当化に用いたのが、この「日本が最初に重慶でやったことではないか」で、特に後半の絨毯爆撃の事実をもって、理屈を武装して、安心して日本人を殺戮しまくったもののよーでした。

日本の軍用機の特徴は、翼内タンクが大好きだったことで、こちらのほうは実は1940年代になるまでは各国当たり前のことだった防御装甲や自動消火装置の欠落と相俟って、焼夷弾頭や曳光弾が一発でも当たろうものなら火だるまになって乗員は玉砕した。
ソビエトロシア製I-15,I-16の旧式機を中心にした中国空軍でも、7.62mm機銃で撃墜できる重爆撃機体の損耗は増えて、日本軍は航続距離が長い、まだその頃は十二試艦戦と呼んだ零戦の投入を決めます。

兵器好きの中国人たちと話していて、零戦の話が出ると「鼻で嗤う」という表現がぴったりの反応をする。
あんな防御装甲もなにもない飛行機を戦闘機にしていいのだったら、どんな国でも「名機」が作れるわ、という。
スペックばかり追いかけて、人間を大事にしない戦闘機をつくるなんて、日本人の見栄っ張りぶりがよく出ている。

しかし、日本の人はよくわかっているとおもうが、これは誤解で、まず第一に零戦は1940年に進空した1000馬力以下級の戦闘機で、この世代の軽戦闘機で防御装備を持っている戦闘機は数が少なく、しかもエンジンの馬力を考えれば当たり前だが、ほとんどは駄作機に終わっている。

一方で、撃墜王坂井三郎は自伝のなかでぼろくそに書いて、「初速が遅く、弾数も60発と少なく、まったく役に立たなかった」と述べているが、他国の戦闘機乗にとっては憧れと渇望の的だった20mm機関砲を両翼に持っていた。
実際、零戦に襲われたほうの感想は、撃墜王の感想とはまた別で、B17の機内に「どおおおーん」という、ものすごい爆発音がとどろいて、振り返ってみると、機体の側面には大穴が開いていて、側方射手がふっとんでいなくなっていた、というような描写はざらにあって、アメリカ軍爆撃機搭乗員たちが20mm機関砲をいかに恐れていたかわかります。

零戦の特徴は長大な航続距離で、公式には増槽タンクを付けて3350キロ、ベテランパイロットが飛ばすと、さらに長い航続距離で飛べたので開戦初頭から台南市の基地から1000キロ近く離れたマニラ郊外の飛行場の攻撃に参加するほどだった。
それどころか、結局は零戦の存在が、少なくとも帝国海軍側の開戦承諾の原因であったことをうかがわせる発言が多くある。

もともと 大艦巨砲・艦隊決戦派のほうは開戦前には過剰な期待を担っていた潜水艦隊と大和と武蔵の存在で自信満々だったところに持ってきて、「優勢な航空兵力を独立したグループ行動をする空母群に載せて運用すればアメリカ相手に圧勝できるのではないか」という思いつきに強く自信を抱き始めていた、ほんらい避戦派が多かった航空派も、どうやら内心は、「戦争はいかんが、航空戦はやってみたくてしょうがない」という「職業的戦争屋」としての好奇心に勝てなかったもののようで、よく同郷の河井継之助との類似した性格が原因とされる山本五十六の「1年や1年半は存分にあばれてみせる」発言は、どちらかというと、イ号潜水艦隊や零戦の演習結果から見た職業軍人としての計算の報告にしかすぎなかったでしょう。

普段、「臆病者」「卑怯者」と頭の足りない好戦的な陸海の若手将校から誹られたことへの反応もあったのは、それこそ、いまの日本語インターネットの口汚い罵りを眺めていれば、もともと対馬海戦以来の歴戦の勇敢で優秀な海軍将校だった山本五十六の「なにを」と思う気持ちも想像できなくはないが。

いまから考えると、マンガ的なほど「絵に描いた餅」にしかすぎない幼稚な思考だが、現実的な機動艦隊の創案者と呼んでもよいくらいで、独立した機動艦隊というものに深い洞察力を持っていた小沢治三郎提督ですら航続距離が相手よりも圧倒的に長ければ、相手が反撃できない遠くから一方的に相手を叩けるはずだ、というままごとのような戦法を考えていた。
返って古色蒼然とした水雷屋の鈴木貫太郎大将のような古株提督のほうが、「そんな頭でっかちの作戦がうまくいくもんか。戦争ってのはな、匕首をのんで、敵の奥懐に、どおーんと飛び込んでいかなきゃ勝てねえよ」と述べていたそうだが、結果からみると、成績優秀でスマートな提督連よりも、士官学校の成績がわるくて、うねりが高いと波の頂上で艦底が露出してしまってスクリューが宙で回転するような、名ばかりは駆逐「艦」と名が付いた、ちっこい水雷艇に乗って日露戦争の戦海域を転戦した、やくざの一家の親分もどきの「鬼貫」のほうが正しかったのは皮肉というか、戦争というものの一面をあらわしている。
ついでに余計なことを書くと、昭和天皇が、初めは自分と同じ高貴な「血筋」の近衛文麿を仲間内と頼んで裏切られ、次に頼みとした「秀才」将軍連に裏切られ、最後の最後になって頼みとした、最後の日本帝国の命の綱が、この鈴木貫太郎で、日本を敗戦を認める気があるのか、全然ないのか、ほんとはもう頭がボケてるのではないかと周囲をやきもきさせながら、なんだかよく判らないうちに、うやむやしながら戦争を終わらせてしまった当人です。

真珠湾奇襲は、ルーズベルト大統領の陰謀だという人が特に日本側にたくさんいて、これは卑怯者と呼ばれることへの日本人としての反応で、自分の感じるembarrassmentを少しでも軽くしたい、という気持ちのせいだと感じられる。
アメリカ側では、日本ではあまり伝えられていない「ただの人間を神と崇めるような未開な国民がハワイまで近代艦隊を率いてやってくると思う人間が いるわけがないじゃないか」が、最も頻繁に聞かれるキングの幕僚を中心とする防衛側のいいわけだが、実際に戦略を立案する任にあった最優秀な若手参謀たち(←現実の戦略プランを立てていたのは米日ともにこの人達です)の頭にあったのは、もともと防衛思想に拠ってデザインされていた航続距離の短い日本の連合艦隊が、そんな遠い海域まで出てこられるわけはない、ということだったでしょう。

アメリカから見れば真珠湾の奇襲は源義経の鵯越だった。

そうして、そのすべての背後にあるのは、九七艦攻、九九 艦爆、就中、fighter sweepや護衛戦闘機として進空する零式戦闘機の航続距離の長さで、妥当な言い方とおもうが、結局は、当時の戦闘機としては異例に長大な零戦の航続距離が日本を連合王国やアメリカ合衆国に対する戦争へ引きずり込んでいったのだと言えなくもない。

ここまで延々と書いてきた、この記事の目的は、twitterで会う人たちのなかには気がついている人がいると思うが、日本政府がオスプレーを買ったことの意味の重さを説明することにあります。 おおげさに言えば、オスプレーを購入したことにはオスプレーが島嶼強襲立体作戦という純粋に攻撃的な作戦を想定して設計されていることとは別に、兵器の航続距離について、普通の人びとに較べて遙かに神経質に出来ている軍人たち、とりわけ人民解放軍の参謀たちにとっては、どれほど大きな意味と衝撃力を持っているかは、緊急の場合には往復ではなく片道で計算するオスプレーの作戦距離を地図の上で見てみると、そしてそれを強襲兵員輸送ヘリのそれと較べてみると如実にわかる。
速度を別にしてもオスプレーの航続距離は同種の強襲ヘリの優に3倍はあって、作戦立案上からはいかに革新的な、というよりはこれまでの攻撃作戦の常識を根本から覆す兵器であるかがわかる。

正直に述べて、「ああ、もうこれであかんかしれんな」と思うほどの威力がある購買決定で、なんでこういう、軍備が即座に政治的自縄自縛になるような決定を、いまの時点でするかなあああー、と思ったのは、わしだけではないようです。

戦闘機パイロットの疲労度の限界を滞空2時間、週4回出撃と見積もる習慣のヨーロッパ人が設計した単座戦闘機は、通常、戦闘行動半径が300キロを越えることはなかった。
最前線のすぐ後ろに分散飛行場をつくって戦闘機隊を運営する習慣をもっていたドイツ空軍の単座戦闘機は、その欧州の平均航続距離よりも更に短い航続距離であるのが通常だった。
そのヨーロッパの戦闘機乗りたちが、戦後、英語世界でベストセラーになった坂井三郎の自伝を読んで異口同音に口にしたのは「気の毒に」という言葉だった。
日本の若いパイロットたちに強いられた滞空時間は実に6時間超、しかも一週間に7日、一日の休日もない出撃で、日本の零戦乗りパイロットは、巷間うるさく言われる防御装甲のなさよりもなによりも、極度の疲労からくる注意力の低下によって次々に撃ち墜とされてゆく。
疲労困憊して地上を歩くのもやっとで、夜は日本のパイロットの過労ぶりに目をつけたアメリカ軍のB26高速爆撃機を使ったパイロットの不眠を狙った夜間爆撃の罠に見事にひっかかって、不眠のまま、まるで過労死で死ぬひとのように、ただ殺されに飛び立っていった。
そこまで個々の若い日本人をひきずっていって、最後は自殺攻撃専用機として爆弾を抱いて、ぶざまにヨタヨタと沖縄の空まで飛ばされて、ここでも次々に撃ち墜とされていった零戦を、設計者の堀越二郎は死ぬまで「あんまり好きな飛行機ではなかった」と身内の人にはもらしていたといいます。
時に技術上のスペックの一片がたくさんの人間の運命を変えてしまうことを知ってしまった、いちエンジニアの、なんという悲しい言葉だろう、と考えるが、零戦と同じように傑出した設計思想の結晶であるオスプレーもまた、日本全体を、来る日も来る日も若い日本人が棺にはいって帰ってくる時代へのドアを開いてしまったのかも知れません。

This entry was posted in Uncategorized. Bookmark the permalink.

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s