Lost in the light

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The Momentという、すごおおくヘンな名前の中華料理屋に行ったことがある。
New Market(←オークランドで3番目くらいに大きい盛り場の名前)では小籠包がいちばんおいしいと上海人の友達が述べていたからです。
10ドルで8個、竹の蒸し器に並んだ小籠包がおいしかったので、
帰りがけに「ここは小籠包おいしいのい」と述べたら、大まじめな顔で、
「もちろんだ。オークランドのナンバー1だぜ」という。

日本の人ならば、「いやあ」あるいは、せいぜい、
「そう言われると嬉しいですね」くらいだが、中国の人の一般的な反応で、
にんまりして、中国文明はカッコイイな、と文明を愛でる気分になってしまう。
日本の人の「照れ」もなれればカッコイイが、中国人の、
「なに言ってるんだ、あんた。おれが世界でいちばんなのは当たり前だぜ。
一生懸命やってんだもん」という態度のかっこよさは完熟や慣れがいらない判りやすさに満ちている。

連合王国人ならば、相手があんまり褒めると、「自分の店だぜ、そんなに褒められたら、どんなふうに答えればいいって言うんだい?」と幸福をかみ殺したような、いかにも人工的な、憮然とした顔をするだろう。

平均的なニュージーランド人ならば、少し怒ったような、無表情な顔をつくって、
「OK」とだけ述べそうです。

合衆国人の店主ならば、この日のために鏡の前で練習して鍛えに鍛えた特製の笑顔で、
「サンキュー」と言う。

バルセロナの浜辺に近い、わしが贔屓のタパス屋のおっちゃん

https://gamayauber1001.wordpress.com/1970/01/01/el_perro/

なら、客が不用意に賛辞をもらしたりすると、いかにもカタロニア人ぽく、「けっ」という顔でそっぽを向いて奥に入ったまま、二度と出てこないのではないかしら。

“In spite of all the terrible things that have been said about me by the maestros of the keyboard up there ”

当の新聞記者たちも含めた、MLB史上で最も偉大な打者のひとりである背の高い男が引退する瞬間を観に集まってきた人々を前に、テッド・ウイリアムスは、アンプリファイアがよく調整されて綺麗に声が響き渡る球場で、そう明然と述べて満場の大観衆を凍りつかせたうえに、

“I’d like to forget them, but I can’t.”

とまで言ったが、子供のときに、このジョン・アップダイクの記事を読んだわしは、
それまでおとなたちが冷笑するのを聴いて漠然と「文明を持たない人達」という印象をもっていた合衆国人たちが、紛れもない文明人で、どうやらアメリカ人の独自な文明に対して自分が好感さえ持っているらしいことを意識した。
そればかりかベースボールそのものまで好きになってしまって、クリケットの友人達と野球チームをつくって遊んだりした。
この野球選手として全盛期になるはずの5年間を真珠湾を騙し討ちにした日本人たちに怒って、F4Fを駆る戦闘機パイロットとして過ごした、低い弾道のミサイルのような打球を打つ名手に関する文章を探し出しては貪るように読んで、記録された動画は両親に頼んですべて買いそろえてもらった。

乾いた打球音を残して夜空に消える大ホームランに、わしは、アメリカというイギリスとは根本的に異なる異質な文明を見ていたのだと思います。

どこかの駅のダムが決壊して人間の洪水が町に溢れてきてしまったとでもいうような凄まじい人波を眺めながら、東京の夏の歩道で、
「この国はいったいどんな形をしているのだろう?」とよく考えた。
ドイツ文明はヨーロッパの辺境が生んだ、孤立した、冷たい太陽の輝きに似た文明だが、
アジアの辺境に生まれた文明である日本は、辺境であることからくる、強い偏執や現実でないことを科学的に証明して、あまつさえ理論化までしてみせる奇妙な虚言癖はゲルマン人たちと共通していても、現実の体臭がまるで反対な、
誰にも、多分自分自身たちにすら、理解されない文明をつくってしまった。
日本文明の最大の特徴は、その文明の内にも、外にも、批評家が、批評精神が、批評の眼が存在しないことなのだとおもう。
鏡を奪われた囚人が独房で演じるハムレット王子に、とても似ている。

荒っぽくてぞんざいな、日本人独特の口の利き方や、洗練されない物腰、通りの真ん中に立って、ぐるりとひとまわり首を巡らせても、視界のなかに5歳から95歳まで、男も女も、どのひとりも、眼に映る限り「おとな」が存在しない不思議な文明を言葉で考えるのは、途方もなく骨が折れるが楽しい作業だとおもう。
前に、このブログでメルボルンやオークランドのような町にいると、文明というものの本質について考えやすいのだ、と書いたことがあるのをおぼえている。

うまく言えないが、世界中からやってきた「お互いに異なるひとびと」が英語圏ならば多文化社会をめざして協同作業を行っているのはどこも、たとえばニューヨークやロンドンも同じでも、メルボルンやオークランド、シドニーのような町は人間と人間の魂の距離がもともと近いだけ、初めの化学反応も激しかったが、そのあと、魂と魂が熔けあってモザイクの一片としての距離がとれないまま、すっかり混ざり合ってしまったぶんだけ、「文明」という普段は不可視のものが可視化されて、壁として、あるいは守護神のようにして、目の前に見えるように立ち現れてくる。

21世紀の人間が建設しようとしている新しい「文明」は、それまでのアジアや欧州やアフリカの文明の、いわば「地方性」を次元がひとつ高くなったところにある「美意識」によって統一する努力の総称だと言ってもよい。
アフリカ人が「美」と感じるものやアジア人にとっての美しさ、欧州人の美意識はそれぞれ異なって相容れないが、しかし、公約数的(例:ポップス。人気ドラマ。ハリウッド映画)な共通点ではなく、観念の高みに立つことで誰でもが美しいと感じる「美」が存在する。

皮肉な人間は倫理が普遍性をもてなくなったので、善をゴミ箱に放り込んで美に頼ろうとしているのさ、と言うだろうが、必ずしも事情はそうではなくて、人間はここまで5万年をかけて、やっと、あの洞窟に酸化鉄を塗った手のひらで残した「disk」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/07/21/cueva-de-el-castillo/

の夢に還ったのであるとおもう。
テクノロジーのブレークスルーを重ねて、食べることや現代人にとっての身も蓋もない記号を使った言い方をすれば「オカネ」から自由になった人間が、やっと美によって普遍性を獲得する段階に至ったのだと素直に考えたほうが現実にあっているのだろう。

コンピュータの機種の選択から、音楽、町、住宅、商業ビルに至るまで、いつのまにか「美しいもの」に対してのみ人間が瀬踏みをせずにオカネを払うようになった現代の経済世界で中国産業に未来はあるのか?という疑問を最も頻繁に口にするのは中国経済エリートたち自身で、中国の人々が、どことなく天敵でもあるかのように、自分のほうが社会的には強勢である場合ですらインド人たちに対して劣等感と呼べそうな感情を持っているのは、冗談じみていても、やはりインド人たちの後ろには美神が立っているのを彼らの高い知性が視ているのだと思います。

美という照明がなければ実質などは存在しようもないのは常識に類する。
そこから一歩進んで、自分たちが持ち寄った文明の地方性から垢を洗い流して、洗練させて、人類がまだ見たことがない止揚された統一的な文明に駆け上ろうとしている時代に生まれ合わせたことを幸福におもわないわけにはいかない。
信じがたいことに、人間は、とうとうこんなに遠くまでやってきてしまった。

たくさんの色彩の光が、虹に似た、強い個性のある光の橋を架けている空の、向こうがわに、強烈な、でも暖かい白色に輝く、ひときわ明るい光が存在するのがもう視界に見えている。

あそこまで行かなくては。
光のなかへ。
美と知が化合した世界へ。

まだ命名すらされていない、人間が初めて目撃する
美へ。

光へ

(画像は系統樹の上に追い詰められた人類を救うために突進するGwaihirとGandalf、なんちて)

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