兵器と戦争_2

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ヨーロッパ人にとってのスイス人たちのイメージは歴史的には「戦争屋」です。
スイスは巨大な山塊からなる山岳地帯が国を覆うようにして存在している国で、ひどく貧しい国だった。
なにしろ乳牛を飼うのにさえ毎日急峻な斜面を上へ下へと追い立てないとならないくらいで、牧畜では最も人手が必要な羊を飼うよりも、乳牛でさえ、さらに人手が必要で、いま見ても、よくあんな土地で農場経営が成り立ったなあー、と思います。
日本で自分が訪ねていって、地元の人に話を聞いた土地で言うと、実名をだすのはなんとなく気が引けるが、十日町や軽井沢のようなところが、やや似ていると言えば似ているのかも知れません。

農家が食えなくなれば出稼ぎに出るのは万国共通で、だからスイス人たちは雇われて戦争をやりに行った。
いま日本語で「経済徴兵」というようなことを言うけれども、ヨーロッパでは、歴史的に、ビンボならば戦争へ、は名前をつける必然性を感じないくらいの常識です。
日本からみえやすい英語圏の国の考えかたではないので、日本語を使って暮らすひとびとからは見えにくいだけであるのに過ぎない。

傭兵としてのスイス人の強さは伝説的で、もともとrigidな国民性である上に、新潟の山地に生まれて毎日朝の3時に起きて片道4時間かけて小学校に通った日本の撃墜王杉田庄一は、皆がグラウンドで嘔吐する厳しい日本のパイロット養成の訓練でも、「おれの通学のほうがよっぽどしんどかったけど」と言って、都会出身のパイロットのひ弱さを笑っていたというが、なんだか呆然とするような体力で、スイス傭兵の集団が迫ってくるのとアイガーの岸壁が動いて迫ってくるのと変わらない圧迫なので、ヨーロッパ人はスイス傭兵たちと戦闘することを死ぬほど嫌がった。

この頃は、やらなくなったが、以前は旧ソビエト連邦の将校たちをスタジオに集めて、アメリカ合衆国の現役将校たちや市民と話をさせる、という企画がよくあった。

ちょうどブッシュ政権がNATOに集団自衛権を発動させて、「わしの生活と何の関係があるねん」とぼやきながらヨーロッパ人の若者が無理矢理戦場に連れていかれて、理由のない戦場で訳のわからない戦死をし始めた頃で、ロシア人の将軍たちがアメリカ人たちに、「アフガニスタンは見た目よりも遙かに手強い。侵攻すると国家の基礎があやうくなる」と述べると、アメリカ人たちのほうは、露骨に失礼にならないように気をつけた言い方で「あなた方の軍隊とはテクノロジーのレベルが違う。まず6ヶ月もあれば制圧できるとおもう」
と見解を述べたりしていた。

当時世界最強の機甲師団を中心としたソビエト連邦軍を、夜明けとともに岩のかげから突然あらわれてキャンプを包囲殲滅する、崖っぷちの細い道を延々と長い隊列をなしてすすむ補給部隊の先頭と掉尾を先ずATMで破壊して、動けなくなったところをいっせいに襲撃する、というようなやりかたで徹底的に苦しめてソビエト連邦軍を敗退に追い込んだムジャヒディンは、ちょうど沖縄基地における兵卒たちの振る舞いとおなじで、ムスリムの男たちの前で平気でビールを呷って、ブラとニッカーズだけになって着替えるという米兵達の態度に怒り心頭に発したアラブの血の気の多い男達として当然と言えなくもない、今度はアメリカ人を敵とみなして、アルカイーダ、豊富に資金をもったカネモチのどら息子ウサマ・ビンラディンのまわりに集まりだしたのも、この頃で、勝った勝ったとアメリカ人たちが喜んだのも束の間、いつのまにかカブール以外はほとんどタリバンの支配地域にもどってしまって、アメリカ人のほうはアフガニスタン問題の泥沼化、というよりもかなり明瞭な敗戦を「なかった」ことにしている、という現状は、日本でもよく知られているとおりです。

山岳というものは、ロシアの実録映画を観ればわかるとおり、地元の勝手を知らなければ、どうにもならない戦場で、その上にスイス人は戦争屋の権化で、技倆もあり、戦場においては無慈悲で戦闘的な国民性なので、アフガニスタンどころではなくて、手をだせば国が滅びる、というのは欧州の常識になっていった。
「永世中立国」はスイスの他国人から見たイメージと自国の地理条件や文化を組み合わせた結果うまれた効果的な保障政策であるのは歴史が証明している。

自分たちの国を守ろうとおもえば、現実にあわせて防備と自衛力をつくるしかない。
同じ作業を観念や理屈でやると大変な結果を招いてしまう。
アメリカが真珠湾攻撃を予測できなかった理由は、前にも書いたとおり、「生身の人間を神と崇めるような文明の段階が低い国家に近代軍を組織的に動かす能力があるわけがない」というウエストポイントの教科書を頭から無視した思い込みもなかったとは言えないが、最大の理由はむしろ、日本の軍隊を長年の「危ない隣人」として研究して、熟知していたことのほうで、
特に海軍の重武装・短航続距離の際だった特徴は、プロならばどこからどうみても防衛用で、ツシマ決戦型と言えばいいのか、そもそもすさまじいまでのトップヘビーで、日本から1000海里程度の海域、せいぜいマリアナ沖での決戦を想定してデザインされているようにしかみえなかった。
3500海里の、しかも荒天で有名な北太平洋をわたってハワイまで攻撃にくるというのは、もともと商船団の護衛を前提につくられていて、船形の段階からすでに、地球上の海のどこへでもでかけていけるようにデザインされているイギリス海軍のような艦隊群とは違って、あくまで「防衛艦隊」にしか過ぎなかった。

ロジェストウインスキーの代わりにキンメルが太平洋艦隊の総力をあげて攻めてくるのを、 当時は航空艦隊などより、よっぽど期待を集めていたイ号潜水艦隊によってボロボロに弱らせておいて、天気晴朗、波も静か、例えば小笠原沖で一挙に殲滅する、というのが日本の防衛戦略であったように見えます。

歴史を振り返る者にとっては、1941年における日本の選択肢は「戦争をしない」ことしかなかったのが判っている。
中国というアジアでは最も自由主義に近いところにいた国家を蚕食するチョー危ない全体主義軍事国家だった旧大日本帝国に対して、個人として嫌悪感をもっていたルーズベルト大統領の思惑も作用して、経済制裁のプレッシャーをかけ続けたアメリカに対して、どんなにくやしくてもプライドを傷付けられても、地団駄を踏むにとどめて、子細に見てみると、いまの眼で見ても赤字以外に得るものがなかったはずの奇妙な植民地計画をあきらめて、当時ならば石橋湛山が「東洋経済新報」上で主張した「貿易立国」をめざすべきだった。

戦後しばらく経った日本では当然とされるに至った「貿易立国」「技術立国」は、当時では妄想狂か国賊扱いの主張で、満州10万の英霊に申し訳ないとおもわないのかとひとびとが口々に述べはじめ、それまでは軍隊が軽蔑される風潮で、神田の交差点で軍人が市民に唾をはきかけられた記録が残っていたりして、
バカにされきっていたところへ、風潮が「愛国的」になったのを見てとって、
万国共通の軍人の手口で、しおらしい顔で、
「判りました。じゃあ、ぼくら軍人が先ず相手の鉄砲玉にあたって死んでごらんにいれますから、そしたら愛する祖国を守るための防衛戦争にたちあがらせてください」と言うと、いかにも日本的な情緒にひたったケーハクを極めるひとびとが、メロドラマふうに感動して、若者よ、戦場で死ね、と言い出した。

その次に起きたことは、「現実」というものの悲惨さを表現して余りない。
ハーバード大学に留学して、アメリカの国情を熟知した軍人であって、宥和派、隠忍自重派の代表とみなされていた山本五十六が職業軍人として考えた手は、これまでの防衛戦略をまるごと捨てて、乾坤一擲、北太平洋を空母6隻をひきつれて「先制的に自衛する」ことだった。
この先制的防衛は、どこの国のどんな軍人が考えても論理の必然として到達する「専守防衛」の究極の戦略で、防衛するためには先に相手の攻撃根拠地を叩くのがいちばんなのは、自分の頭で考えてみると判るが、かなり当たり前の理屈で、歴史上、自分の軍隊が壊滅する危険がある相手の先制攻撃を許してから防衛戦争をしようと考えた軍人というのは、存在しない。
例えばローマ帝国が周辺の弱小な部族を相手に対して行ったように、逆に、侵略意図があるときの口実作りに使う例があるくらいで、軍人が真剣に自国の防衛を考えれば、国民が反対しようが、なんであろうが、敵地に乗り込んでいって強襲する。
人民解放軍がオスプレイをあれほど嫌がるのは、米軍の制空権下で一気に根拠地へ強襲攻撃をかける可能性があるVTOLはヘリコプターとは本質的に異なる攻撃兵器であることをよく知っているからです。

昨日、渋谷でデモがあった。
ぼくが定点観測のつもりで巡って歩く日本の人のツイッタカウントやページやブログのなかに、三浪亭(@zhengmu21)という尊敬する日本語ツイッタ友達のアカウントが含まれていて、三浪亭は20歳だかなんだかで、大学生で、クライマーで、三年浪人して大学に入ったのかと思ったら違うそうでびっくりしたが、この人が「デモをやる!みんな渋谷に来て、助けに来てくれ!」と述べていたので、三浪亭のホームTLのウインドーを開いたままにして観ていたら、三浪亭と似たりよったりの年齢のひとびとが、「憲法を守れ」という年長の市民たちが憲法を守る意志のある社会では聞かれえない主張を行っていた。

デモが終わって、三浪亭が、まるで神様が日本人の若者達をねぎらって微笑みかけているような美しい夕空を見上げている頃、ぼくが考えていたのは、「日本のひとたち、とにかく何も考えなくてもいいから、あなたのその賢い思索を全部しまいこんで、若い世代に決定をゆだねませんか?」ということだった。
百戦錬磨の野党政治家たちの演説が終わって、ど素人で「ゆとり」な若い大学生達が口を開いて意見を述べ始めると、政治家たちの現実が剥離してポロポロこぼれてくるような観念上の言葉遊びに近い言葉とはまるで異なる、日本の歴史では初めて、と言いたくなるような紛いようのない「市民」の声だった。

それから他の定点である、名の知られたひとたちのサイトや意見を巡ると、
「ほんとうは集団自衛権なしでは自衛隊員に死ねと言っていることになる」というようなことが並んでいて、自衛隊員の
「そしたら私たちはアメリカの艦船に自艦を並べて撃たれにいく」という戦前の軍人の「悲壮な決意」そっくりのことが書いてあったりもして、天然全体主義者らしく手もなく騙されて、
もともと人間が冷淡な外国人(←わしのことね)を苦笑させる。

三浪亭たちの歯をくいしばっての懸命な跳躍が力を持つかどうかは、知らない。
「考える習慣」と「読んだことがある本の内容を思い出す習慣」との区別もつかないようなオトナたちのほうに、日本社会の実権はあるからです。
しかも、年長世代はアベノミクス支持といいネオ自民党の許容といい、要するに自分たちの目先の利益のために若い世代を地獄にたたきこむことをなんとも思っていない無責任さを自覚すらしていない。

それでも、と日本から眼をそらせないでいる外国人は考える。
三浪亭、ぼくがずっと信じてきたとおり、日本が一個の文明社会であって、そこには自由の意味を知っていて、そのために戦う用意がある人間がたくさんいるのを現実の姿として見せてくれてありがとう。
ぼくは職業的な投資家として、経済人が述べる「グローバリズム」なんてどうでもいい。
なんの興味もない。
「世界で戦う日本人」のイメージにいたっては噴飯もので、昭和マンガの読み過ぎなのではないかとおもう。
でもね、三浪亭たちのように、特に日本人のレッテルをつける必要がない、世界中の若者と共生し、同じ自由社会のメンバーとして生きているひとたちがやっと日本の通りにもあらわれて、チョー嬉しいです。
不吉なことを言うようだけど、どーしてもダメだったら、こっち側においでよ。
ここで、一緒に肩を並べて、お互いの盾で庇いあって、テルモピレーの峠を守り抜けばよい。
そうやってきみやぼくが時間を稼げば、さらに若い世代が自由を求めてあらわれて、自由とはそういう性質のもので、相手の国権主義や全体主義に内部からとどめをさしていくだろう。

88mm高射砲の水平射撃から国家の軍事保障と、その社会の文化との密接な関連につれて述べてゆくつもりが、三浪亭が美しい夕空をみあげる姿が眼の前にちらついたせいで、ここでやめると、おかしな話になってしまったが、文章の企画意図は次回に続きまする。

文章の不用意な展開の中断は、三浪亭の責任だということで、文句は現役入学の三浪亭というややこしい名前の「空中ブランコに乗った大胆な青年」に言うよーに。

でわ

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5 Responses to 兵器と戦争_2

  1. DoorsSaidHello says:

    私が子どもの頃の学校の生徒会選挙のことを思い出す。
    ある運動部のキャプテンが生徒会役員に立候補した。運動部の練習時間は生徒会の活動時間と重なっている。公開質問日に「当選したら運動部を辞めるつもりか」と尋ねると、「週の半分を生徒会に、残り半分でキャプテンをやる」と言う。「それでは生徒会も運動部も、あなたができない半分の仕事をすることになる。あなたの掛け持ちは、あなた以外の人に利益をもたらすのか?」と重ねて訊くと、そのひとは質問には答えず、「皆さん! 俺を男にして下さい! 全力で頑張ります!」と叫んで涙を流した。

    聴衆の半分がこれに感銘を受けた。涙ぐむ人もいた。週の半分しか仕事をしない生徒会役員は明らかに生徒のためにはならないのに、意気に感じて票を投じる人は多く、この候補は約半数の票を得た。メロドラマや涙や熱狂の前では、理性は意味をなさない。私の住む社会の少なくとも半分は、理性よりも熱狂に動かされるのだとこの時知った。苦笑ともガッカリするのとも違う奇妙な気持ちを、今でもありありと思い出す。けれど私はこの時、感銘を受けた人々を愚かだとは思わなかった。

    何年かして、私は大学生になった。
    ある人が新聞のインタビューに答えて「熱狂は、それがどのような種類の熱狂であっても、本質的に危険で罪深いものである」と述べていた。そのひとは確か、ホロコーストを生き延びた学者だった。

    若くてバカだった私は、小さなライブハウスでの熱狂や、祭りでの熱狂、そしてダンスの中で感じる自分と人の境界が溶けていくような熱狂を味わう度に「これは危険なのか、これは罪深いのか」と自問した。善いものに熱狂することは、悪いものに熱狂することと同じように危険だということが、その頃の私にもまだ分からなかった。

    さて近年、祭りで熱狂する人々を眺める機会があった。熱狂しているのはほとんどが二十代の若者たちで、揃いの衣装で素晴らしい演舞をしていた。忘我とでも言うのか、動きが一体であれば心も大きな一つの生き物の一部になりきって、誰という人格もない境地に達しているように見えた。見ている側も、まるで呑み込まれたように我を忘れて見入っていた。

    その中で私は年老いていた。この時の私はすでに、いつかの若い日の「熱狂は本質的に危険である」というあの言葉の側にいた。熱狂に溶かされ一体となれば、この若者たちは踊りながらどこへとなり雪崩れ込んでしまう気がした。それが罪のない熱狂であれ、流れていく先は溶鉱炉の中かもしれないのに、誰も行く末を気にしてはいないように見えた。祭りの熱狂の外に立って、私は寒かった。

    美しくて感動的で泣けるものには警戒しなければならない。
    それが悲壮で自己犠牲的であれば尚のこと、感動しないようにみんなから一歩離れるべきなのだ。渦の中にいて巻き込まれないでいるのは超人的な努力が必要だから。

    そして忘れないでいたい。
    半分に満たない数かも知れないけれど、メロドラマに騙されない人も確かにいる。
    たぶんそういう人は今の若い世代に一定数はいて、そしてきっとどの世代にも確かに一定数はいて、戦争という不合理な選択にNOと言っている。

    私の願いはいつもささやかだ。いつも一時の感情に動かされないでいたい。周りに動かされたり命じられたりしないでいたい。自分が何を望んでいるかを見失わないでいたい。ただひたすら自分自身でいたい。それだけだ。

    だから明日は今までよりもさらに大きな声でNOと言おう。人を動かすためでなく、ただ自分でいるために。

    …いつもよいブログ記事をありがとう。

    • hushmotor says:

      このブログを書いてくれているガメさんと、このコメントを書いてくれたあなたに、ありがとう。

      ”私の願いはいつもささやかだ。いつも一時の感情に動かされないでいたい。周りに動かされたり命じられたりしないでいたい。自分が何を望んでいるかを見失わないでいたい。ただひたすら自分自身でいたい。それだけだ。”

      を保つことが、日本の中に居るといかに難しい事か。
      だから今自分は、日本には居ない。

  2. Osamu Yamada says:

    フランス革命でも王党派と革命派双方にスイス人が、それも肉親同士がいて戦った、などといわれていますね。バチカンの衛兵はいまもスイス出身者であることは秘密でも何でもありません。フォンドヴォーがなべ底に残ったチーズを掬ってたべる料理から始まった、という困窮譚も知られています。こうした彼我の相違を眺めた上でもなお、「自衛権連合」に加わるのか?大陸欧州の外交という知恵は現代社会を十分にとらえている、とも思えるのですが。

  3. グルカ兵も屈強なことで知られていますね。山岳民族おそるべし。

  4. 読者 says:

    最近(メディアを通して流れ出てくる)国内政治があまりにもひどいんで、
    参加したくなってますよ、次またあったら(んで情報を知ってたら)参加してるかもな・・

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