ホワイトハウスの影の下で

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誰にも理解されないきみが、と書きかけて、考えてみると、人間が誰か他の人間に理解されるなどということは滅多に起こらないことなのに気がついて、頭がぼんやりしてしまう。
人間は、自分という最も近しい友人を理解するために、だから自分を見つめる方法や、立つ場所を見つけられるようにしなければならないのだなあーとあらためて思う。

逗留していた友達夫婦が、polar stormが吹き荒れる南島めざして去っていって、モニとふたりでドライブウエイに立って見送ってから、やれやれ友達が家にいると楽しいけどやっぱりくたびれるね、と顔を見合わせて笑ったり、
モニさんとぼくと小さい人ふたりと、神をも畏れぬ大音響のステレオで、4人で踊り狂ったりして、くたびれはてて午寝したりしているうちに今日も一日が暮れてしまった。

嵐がくる予感がするんだよ。
経済上の嵐なのか、政治なのか、災害か、ちっとも判らないけど、なにかがやってくるときの胸騒ぎがする。

普通に考えれば世界の基軸通貨を生み出すことをあきらめざるをえなくなったのに、まだユーロが世界通貨になる前提の経済体制のままのヨーロッパに市場危機がくる予兆が胸のなかに忍び込んでいるのだということだろうけど、
なんだか、もっと違うものが北半球にやってきそうな気がして、それがぼくの気持ちに影を落としている。

1963年の11月22日、JFK(ジョンFケネディ大統領)が暗殺された午後、フランス人ジャーナリストのJean Danielはフィデル・カストロとテーブルをはさんで話し込んでいた。
カストロはいつにもまして快活で興奮していて、身体がおおきく動いて興奮を隠せない様子のフィデルと、ちょと待て余し気味で椅子に浅く腰掛けて上体を反らして愛想笑いを浮かべているJean Danielの連続写真が残っている。

カストロが興奮していたのは当たり前で、機密文書が公開されたいまでは、Jean Danielは実はジョンFケネディの重要で決定的な和解の申し出を託されてキューバに来ていたのがわかっている。

1993年に公開された文書によればケネディは国家安全保障アドバイザーのMcGeorge Bundyに

“I don’t think we should box Fidel Castro into a corner.”

と述べている。
ソビエトと手を切れ、共産軍を引き揚げろ、コミュニズムをやめろというような条件をつけるのはやめるべきだ、とまで命じている。

驚くべきことに、ケネディはまわりの「側近」にはまったく相談することなしに、キューバへの取材旅行の途中で表敬訪問に立ち寄ったフランス人のジャーナリストに密命を託していた。
「われわれの対キューバ政策は誤りだった。そして、その誤りはわたしのものではなくて、わたしが引き継いだホワイトハウスのスタッフによって引き起こされたものだ」

ケネディは突然の依頼に、ホワイトハウスの執務室のデスクの前で驚愕のあまり立ちすくんでいるフランス人に、「フィデルが共産主義を信奉することに、わたしは何の問題も感じない。チトーはコミュニストだが、われわれは協力できたではないか」と言いきってみせた。

公開されることによって有名になった「National Security Action Memorandum 263」にはケネディが当時1万7000人超の規模でベトナムに駐留していたアメリカ軍人のすべてを撤収する決断をくだしていたことが記されている。
しかも、初めの1000人は早くも1963年のクリスマスの前に行われるように命令が出されていた。
JFKは、ベトナムから完全に手をひく覚悟を固めていた。

(まるで三流スパイ映画のようだが)フィデル・カストロが半信半疑だった愁眉をひらいて、ほんとうにケネディが共存と平和を願って和解を申し出たのだと知って躍り上がって、フランス人の手をとって喜んだ、その瞬間、部屋のドアをノックして入ってきた秘書が、JFKがダラスで暗殺されたことを伝えた。
カストロは、フランス人の目を見つめて「きみの和平使節の役割は終わってしまったね」と述べた。
それが、そのまま、やっと2015年になって終止符が打たれることになったキューバとアメリカとの準戦争状態の始まりになってしまった。

ホワイトハウススタッフの多くが、アメリカ大統領にとって戦争をやめて平和を求めることは難しいだけではなくて、最近では生命の危険を伴う、と公の場で証言している。
個人として話が聞ける私的な場では、もっと明確に、現代のアメリカ合衆国大統領は戦争を停止すればかなりの確率で殺されることになる、というので、そんな話はなんだか安物の陰謀説みたいだと考えていたぼくは、すっかり驚いてしまったことがある。

奥さんがきみの父親の会社の役員だった、ほら、ひげがモジャモジャの政治学教授のPはホワイトハウスの顧問スタッフで働いていたでしょう?
あのおもろいおっさんが、声をひそめて、怖そうな身振りさえみせて、大統領にとって完全な平和をめざすことが、どれほどの生命の危険を伴うか話しだしたときの、知らないで観察していれば滑稽にしかみえない様子をぼくはまだおぼえている。

冬の粉雪がちらつくマンハッタンの22nd St.と8th Aveの交叉点で、ばったり会ったときのことを憶えているかい?
バラク・オバマがアフリカンアメリカン初めての大統領としてほんとうに当選するのではないかと言われだした頃で、きみは、そういうことをするタイプではないのに、フライヤーを通行人の前に差し出しながら、「バラク・オバマを大統領に!」と声を枯らしていた。
どこまでも人間性が悪いぼくが政治的人間への変貌をからかうと、口のなかだけで逡巡して鼻の奥にもぐりこんでしまうようなもごもごした言い方で、一時的なものだとかなんとか、言う必要のない言い訳をマジメに述べるきみの様子が可笑しかった。

バラク・オバマは国民保険制度よりも先に経済問題に手をつけなければいけなかった。
きみが指摘するように、それが一期目の問題だったと思うが、きみやぼくをひどくがっかりさせる二期目の「なにもしない大統領」ぶりには、どうやら理由があるようです。
後頭部を撃ち抜かれたJFKの頭蓋骨から弾き出た脳髄のかけらを、反射的に両手でかき集めるジャクリーン・ケネディの、絶望をそのまま恐慌にしたような映像を観ながら、ぼくはそのことを考えていた。

マンガじみているが合衆国の大統領は実際に巨大な戦争マシンに囲繞されている。
自分に対して常に向けられている機械の部分として大統領を取り込もうとする圧力と戦っている。

アメリカのコメディアンたちは、クラブのスタンダップでは、よく二期目の大統領の、荒涼として、びっくりするほど老いが深まった横顔を取り上げて冗談のタネにする。
バラク・オバマ大統領自身、自分のめっきり白くなった髪について、皮肉な冗談を述べる。

疲れはてて見える大統領がアフガニスタンでもイラクでもISISに対してすら極力「なにもしない」ことによってアメリカを動かしている戦争マシンに抵抗しているのだ、とぼくが考え出したのは最近のことです。
フルシチョフ首相の息子はブラウンで研究員をしているが、テレビに出てくるたびに、執拗な、といいたいくらいに繰り返して「父は、後半期においてはケネディを信用していた。6年あれば、必ず世界には平和が訪れる」と息子に語ってきかせていたと言うが、あの人も、やはり同じことを訴えていたのに違いない。
世界にやってくるはずだった平和はアメリカの「戦争システム」によって殺されたのだ、と。
ケネディのまわりには若い大統領に二期目を与えるのが致命的なことだと考える人々がたくさんいたのだ、と懸命に訴えていたのだとおもう。

ジョンFケネディは殺されることになる最後の年には、はっきりと口にだして、周囲の人間、とりわけCIAや院政をおもわせる「顧問政治」体制をひいていた ディーン・アチソンを中心とする グループに対する不信を述べていた。
一方で、アメリカンユニバーシティの演説

の頃から、それまではケネディを優柔不断で、経験不足、例の日本語の品性を欠いた言い方で言えば「器が小さい」と判断していたフルシチョフは、ライバルとしての観察を続けるうちにケネディを十分にタフな人間、信用がおける世界政治のパートナーとみなすようになっていたのがワシントンDCの中枢にいる誰にも感じられるようになっていた。

だから彼は死んだのだ、と考えるのは飛躍しすぎだろうか。
あれ以来、ホワイトハウスの住人で屈託なく、明るくふるまえるのは、戦争マシンの要請にしたがって戦争を許可するだけでなく、喜んで生み出しさえしたジョージ・ブッシュのような人間だけになった。
なにかに怯えたような、萎縮しているとでも表現したくなるような、戦争を避けようとする大統領たちは、「強いイメージ」が不可欠なアメリカの風土では急速に人気を失っていった。

バラク・オバマは公の席で露骨に敬意を欠いた態度で迎えられる史上初めての大統領なので有名になった。
あの共和党の面々が、どれほど言い訳をしても、到底大統領に対するものとは言えない、あそこまでの無礼な態度をとるのは、人種差別意識がおおきく働いている。
大統領という、歴史的にアメリカの権威のシンボルでありつづけた存在へのぞんざいで軽侮に満ちた態度は、やがてアメリカという国自体の権威を蝕んでいくに違いない。

その屈辱とぎりぎりの生命の危険に耐えて、孤独なバラク・オバマはそこに立っている。
まるでいつも背中に銃口をつきつけられている人のように。

ぼくは、世界には平和なんて来ないんだ、と悟ったので、冬の庭にでて、遠くに青空がみえだした空を眺めていたんだ。
なんだ、そうだったのか、と種明かしが意外に簡単でがっかりな手品を観ているような気持ちだった。

さてと、もう小さな人達に眠る前の挨拶をしにいかなくちゃ。
きみが不思議がっていたインド人たちの好物の魚はpomfretという魚でした。
カツオなんだかスズキなんだか、よく判らないけど、姿形だけ観るとカツオだよね。
食べるのにはフォークじゃなくて箸のほうがよさそうな感じだった。
サンドリンガムに行ったら、タンドリの上にたくさんつるしてあって、インドの人たちが、あっちでもこっちでもテーブルの上に広げて食べていた。

今度ダーバンであうときに一緒に食べに行こう。
そのときには、例のクラシック銃、モーゼルの手入れの仕方を教えてください。

では

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