モニと一緒にいるということ_2

iloveu1

5th Ave の古着屋で買ったステットスンの帽子にあなたがヒアシンスの花を挿してくれたあの夕昏から、あなたとぼくはいつも一緒だった。
マンハッタンのユニオンスクエアを横切ることからはじまったあなたとぼくの旅は、いつのまにか、フィレンツェの職人たちのスタジオが並ぶ通りを通り抜けて、バルセロナの裏町や、蛎殻町の小路を歩いて、南半球の、小さな国の、海が見える坂道にまでやってきた。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/07/monique/

パーティ、シャンパンコルクが飛ぶ音、アルコールの、少し弛んで、乾いた響きが木霊する笑い声…毎日がすぎていって、遊び疲れて、浴槽のなかで、あるいはベッドの上で、太陽が高くのぼるまで眠って、世界が自転するのとは違う速度で、ふたりで生きてきた。
(いまは光をそのまま小さな人間の形に凝集したような「小さな人たち」がふたりいて、全部で4人だけど)

最も切実な感情は、言葉にすると誰が聞いても笑うような滑稽な響きしか持てないのは、なぜだろう?
朝、目をさましたとき、ぼくが真っ先に考えるのは、ある日きみが死んでしまったら、どうしよう、いったいどうやって生きていけばいいだろう?という、子供が聞いても皮肉な笑いをもらしそうな、でも本人にとっては胸をしめつけられる考えで、
あるいは、ぼくが予想外に早く死んでしまったら、あなたがどんなにか悲しむだろうと考える。
悪意に満ちて、弱い者の乏しい衣を容赦なくはぎとるような、冷たい嵐が吹きすさぶこの「新しい世界」に、魂の隅々まで無防備な善意だけで出来ているような、あなたは生きていけるだろうか?

それからぼくは理性をせいいっぱい動員して、いや、こんな考えは、自分の奢りの裏返しの危惧にしかすぎないし、笑わない人がいないほど滑稽だし、第一、骨董品もののセクシズムで、あなたがぼくなどより、ずっと高い知性を持っていることを頭から無視した自己陶酔の反映にしかすぎない、と思い直してみる。

でも、胸が苦しくなる。
どうしても自分の愚かさに勝てない。

どれほど思いなおしてみても、あなたを失ったら、いったいどうすればいいのだろう、といつのまにか考えている。
あなたを置いて、遠い世界へ旅立っていかねばならないとしたら、旅立ちの間際に、どれほど苦しい思いをすることだろう。

いつかラウンジで、窓から射してくる木洩れ陽を浴びながら、まどろんで、目をさまして、人がいる気配がするので、まだ瞳孔がなれていかない光の氾濫のなかで目を凝らしてみると、あなたが反対側の椅子に座っていた。
あの「まるでエジプトの王女のようだ」とぼくが冗談を述べる、美しい麻のドレスを着て、いつもどんなときでも、びっくりするほど姿勢のよい背をのばした姿で、あなたが座っている。

目を覚ましたのに気がつくと、にっこり微笑って、
「お茶を飲む?それともコーヒーがいい?」と訊く。
いつもの日常なのに、ふと、まるで夢のなかへ目がさめて起きてきたひとのような、不思議な錯覚にとらえられてしまう。
こんな生活が、現実であるわけはない、という奇妙な確信にまでたどりつく。
ぼくが夢だと感じているものが、実はぼくの現実で、この現実の生活は、長くつづいて、整合性をすらもった、誰かの夢のなかの世界なのではないだろうか?

待ち合わせをした広場まで、青と白にペイントして塗り分けたひどい顔のまま、スケートボードで、洪水のようなクラクションの音を浴びながら車道のまんなかを疾走して急いでいた頃は、こんな「落ち着いた」生活をする自分なんて夢にみてもいなかった。
第一、自分が30歳を過ぎてもまだ生きているのは、うまく言えないけど、なんだか途方もなく「理不尽」な感じがする。

16歳の頃、ぼくは自分の存在を現実でないように感じていた。
通りがあって、信号が変わるのを待っていて、ぼくだけが赤信号のまま通りを渡りはじめているのに走りすぎて行くクルマに轢かれもしないで渡ってしまえるとでもいうような、あるいは、通りの反対側にたどり着くまえに、身体がだんだん午後の太陽の光に透けてきて、透明になって、なくなってしまうとでもいうように、ぼくはときどきは、慌てて自分の足を見たり、手のひらを広げてみたりして、自分がまだたしかにこの世界に存在するのを確かめてみなければならなかった。

そんなことばかりやっていたから、いまの、ただあなたが幸せでいるためにはどうすればいいかだけを考えていれば、それで一日がすんでしまう生活が、とても楽なものにおもえる。
あなたは、「自分では、どんなことがやりたいの?」と、いまでも時々訊いて、そのたびにぼくの答えはおなじで
「モニを幸せにしたい」と述べて、
笑われてしまう。
ガメ、わたしは、あなたがどうしたいか聞いているのに。

あなたがよく知っているように、ぼくは天才的な「ゲーマー」であるとうぬぼれていて、誰がデザインした、どんなルールのゲームでも、ルールに違反することなしに、相手がめざす場所を予測して、ショートカットを見つけて先回りして待って、あるいは、複雑な起承転結のアルゴリズムをあらかじめ見破って、闘争という闘争に勝つ能力を持っている。
「ゲーマー族」というのは、そういうものなんです。

ある人たちは、データの密林を異なったパースペクティブで眺めることによって、意味をもつ風景であることを発見する能力を持っている。
また他の人達は、形象をdistortすることによって、より本質的な姿を見いだして表現する才能にすぐれている。

あんまり他人に誇れる才能ではないけど、ぼくは、どうやら生まれついて「ゲームに勝つ」才能に恵まれているようです。
あなたもよく知っているように、そのために大金を払いたい、という組織や会社があらわれるほど、ぼくには人にすぐれてゲームに勝つ能力がある。
真剣に挑んでくる相手を(そういう言い方はいかにも品がわるいが) 手のひらの上で弄んで、やる気があれば、たたきつぶしてしまえる、あんまり感心できない能力を持っている。

ぼくがあなたを「守る」、あなたがいつもからかいのタネにする、大時代な幸福に浸るのは、時代遅れな自己満足のうえに、多分、ぼくにはそのくらいしか特筆すべき能力ないからなのかもしれません。
自分でも自分が他人にすぐれた能力の凡庸さに、うんざりしてしまうけど。

「ハウラキガルフの浜辺で、波打ち際に立って耳を澄ませると、波がすくいあげた貝の破片同士がぶつかって立てる、細い、高い、それでいて絹を連想させるように柔らかい、なんともいえない良い音が聴こえる。
午前二時や三時、ようやく静かになった材木座海岸や長者ヶ崎でも聞こえるだろうか、と思って日本にいたときにやってみたことがあったが、聞こえなかったから、たとえばハウラキには野生のホタテ貝が群生していて、自然に破片も多いので、そういう貝殻の種類のようなことが関係があるのかも知れない」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/05/20/nomad16/

といつか記事に書いたように、夜の浜辺で、波打ち際まで歩いていって耳をすませると、割れた貝殻たちがお互いの壊れた身体をこすりあわせて立てる「聴き取りにくい音楽」が聞こえるのを教えてくれたのは、あなただった。
並んで立っていて、同じ風景を見ていても、あなたが見ているものは、ずっと精細で、活き活きとした細部をもって、神が直接手をくだしてつくるものに特有な、分子のレベルに至るまで美しい明確な線で描かれた生命が、ちゃんと感じられる世界であるようでした。

ぼくがぼんやりと波が打ち寄せる音を聞いているあいだ、あなたは貝殻たちが立てるささやき声を聴き取っていて、ぼくが、なんだか、ぼけーと見上げてる星空にモニは、近くの恒星の向こう側で、揺らいでいる、遙かに遠い銀河からの凍った光を見ている。

生きることも愛することも「真剣さの次元が違う」とでも言いたくなるような、自分とは比較できない強さをもった、あなたを見ていると、ぼくはこのひとを守って、それだけで死んでしまっても、じゅうぶんそれでいいや、と考える。

だから、もうこれでいいんです。
あのとき固くにぎりしめた手は、まだお互いの手を離さないでつかんでいる。
意地悪な神様のことだから、これから先はどうなるか判らないけれど、
ぼくはとてもとても幸福であるとおもう。

モニ。

だから、いまも「ちいさな死」を死ぬとき、
朝、またあなたに巡り会えることを期待しながら、途方もない無へのダイブのなかへ眠りこむ。
あの深淵に沈んでまた明日には水面にまで駆け上がる。

かたく手をつないで。

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6 Responses to モニと一緒にいるということ_2

  1. Kaʻolu says:

    ほう・・・

    ため息 ひとつ

  2. じゅら says:

    それが別段特別でもない、たまたま通りすがった知らない人であっても、人は本来他人の助けになりたくて、そんなチャンスがあったら無条件に嬉しいのではないか。私はそう素朴に信じているところがあります。「守る」には現状、いろんな幻想や思惑や社会的機能が絡みついていて、腐臭を放っているありさまですが、本当は単純にそれだけのことではなかったかなぁと。
    妙な幻想ばかりをふくらませて、いんちきな自尊心を捻出するよすがにされたり、支配や所有を正当化して隷属を導き出したり、美しげな名前とイメージで特定の方向に誘導する手段にされたり、「守る」も全く災難なことです。ガメさんのはそんな感じがしません。何よりモニさんへの絶大な敬意がある。絶大な…というか、普通の、ごく自然な、といった方が適当なのかもしれないです。よく分からないや。
    ともかく「相手に読めない言語によるラブレター」というものは猛烈にロマンチックでした。新しい記事が読めるのはいつでも最高ですが、今回はより最高で、そんななんだかおかしい日本語になってしまうくらいで、今日が良い日になったと思います。

    人の寝顔は安らかであるのと同時に、いつでもどこか恐いところがあります。事故以来そんな恐さにいやな切迫感がつきまとうようになりました。この気持ちを表現できる言葉が思いつきません。

    • ペレルマン says:

      すみません、じゅらさんのコメントがまた素晴らしいもので、また、これは個別にツイッターで伝えるべきではないと思うのでコメントさせていただきます。ありがとうございます。(いえーい)

  3. Martes says:

    美しすぎる文章で、泣けます。相手が知らない言語でラブレター書くっていいなあ。。

  4. DoorsSaidHello says:

    >朝、目をさましたとき、ぼくが真っ先に考えるのは、ある日きみが死んでしまったら、どうしよう、いったいどうやって生きていけばいいだろう?という、子供が聞いても皮肉な笑いをもらしそうな、でも本人にとっては胸をしめつけられる考えで、

    私はたいへん寝相の良い人なので、眠っていると身動き一つしないらしい。
    それでなのか、私と夫が出会った頃、私が眠っていると夫は「死んでいるんじゃないか」と怖くなって、夜中に呼吸を確かめていたのだそうだ。最初の二年くらい、ずっと怖かったらしい。その後は「意外と人間て丈夫なんだ」と言うことが分かって眠れるようになったそうだ。

    この人を失ったら、その先どうやって生きる理由を見つけようかと不安になるのは、誰かを愛するという場面においては普遍的で普通のことだと思う。自分が生きていたのは今日この瞬間のためだったのかと思い、この人に会うために私は長い道のりを歩いていたのだと思う、そういう瞬間を奇跡のようだと思いながら、私たちは生きている。

    恋愛だけじゃなくて、それが友だちであったりもするし、時にはもう印刷された字句の中にしか居ない、遠い時間の向こうに隔てられた人であったりもするのだけれど。

  5. Martes says:

    愛し愛される関係。なんて切なく美しいのかな。今まで沢山の恋愛小説読んできた。この文章が一番好き。宝物にします。

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