ギリシャ経済危機を見て考えたこと

DSCF1909

“When the P.O.U.M. joined in the disastrous fighting in Barcelona in May, it was mainly from an instinct to stand by the C.N.T., and later, when the P.O.U.M. was suppressed, the Anarchists were the only people who dared to raise a voice in its defence.”

とジョージ・オーウェルが述べている。

1937年、ジャーナリストとしてバルセロナにやってきたはずのオーウェルは、カタロニア人たちの自由を求める魂と勇気に感動して、ペンを捨てて銃を取ります。
この、生涯をつうじて正義の感覚や社会の公正、言論の自由に敏感だったイギリス人にとっては自分がペンで書く一片の自由についての記事よりも、市井のバルセロナ人と肩を並べて、一兵卒として戦う方が、より人類を自由に近づける力になると感じられたのでした。

すべての真剣に自由を希求して戦った人々の物語と同じく、もちろん、オーウェルの物語もハッピーエンドではなく、民衆をmanipulateすることに巧みで、民衆の味方を装いながら結局は党のために利用することしか考えない共産党諸派をはじめ、アナキスト、さまざまな諸派に翻弄されて疲れ果てて、逃げるようにパリに逃れることになる。

バルセロナで最も賑やかな通り、パブロ・ネルーダの詩で有名なLa Ramblaを海に向かっておりてゆくと、スペインらしいというか、まるで見当ちがいの方角を指さしているコロンブスの銅像があるが、そこにたどり着くまえ、英語人には発音が難しいCarrer dels Escudellersに折れてしばらく歩いてゆくと、なんの変哲もない、と呼びたくなる広場があって、
その三角形の広場のプレートには
「Plaça de George Orwell」と書いてある。

バルセロナの防衛戦に敗れ、1975年に至るまで、30年以上もカトリック教会と結託したフランコの圧政に苦しんだカタロニア人たちが、非力で病弱な、兵士としても役に立たなかった、だけれども尤もらしい自由への言説をただ言葉で述べることを恥じて、自分たちと同じ塹壕で、まるで当たらないライフルを一緒ににぎってくれたひとりのイギリス人を記念して、この小さな広場に、そのやせっぽちイギリス人の名前を冠したのでした。

ジョージ・オーウェルがフランコ軍が席巻するバルセロナを逃れて敗残兵のようにパリに逃げ帰った1938年は、至る所で「自由」が失われた年で、年表的に起きたことを述べれば、ナチがオーストリアを併合して、当時、欧州のまんなかでつま先立ちの大国主義に酔っていたポーランドはリトアニアを恫喝する。

10月には有名なナチ・ドイツによるチェコスロバキアのズデーテン簒奪が起こり、チェコが窮地に陥ったのをみたポーランドも、すかさずテッシェンを武力占領する。

イギリス首相のネヴィル・チェンバレンの弱腰を見たナチとSSは、この年の11月、通りを泣き叫ぶユダヤ人の妻や母親の叫びで埋めて、表面は一般人のヘイト運動をよそおった、その実はナチによって組織化された、おおぴらなユダヤ人迫害に乗り出して、組織的な放火やユダヤ人の財産の略奪にのりだす。

日本ではどんな年だったか、思い出しにくい人のために述べれば、あとで、いまの安倍首相の祖父である岸信介がそのチャンピオンとして頭角をあらわしてくる国家社会主義経済の法的根拠となる「国家総動員法」が、不景気から脱出して、一円でも多い収入を得たい一心の国民の強い支持を受けて成立した年だった。
言わば原理主義的なアベノミクスで、政治的な恣意によって経済を繁栄させようとしたこの試みは、当然のことながら、いったんは実際に戦争という形で市場を活性化したあと、1945年のすさまじい破滅へ、日本をひきこんでゆく。

想像に難くない、という表現のとおり、当時の日本人はカタロニア人の「わがまま」としか見えない自由、国をふたつに割って、国力をわざわざ削いでみすみすソビエトロシアとナチドイツの戦場にまでなったスペイン人の国家としての箍がゆるんだだらしなさを笑います。
欧州はたしかに自由と西洋文明の故郷かも知れないが、自由も社会全体を考えられなければ、ただの無知蒙昧だと笑う文章が、巷間に氾濫する。

ああ、そうそう。
突然だけど、忘れていたことをここに唐突に書き留めておくと、この1938年にはヒットラーユーゲントが日本にやってきて、そのneatで健全で、エネルギーに満ちた金髪の若いドイツ人たちの姿は、日本にちょっとした「ヒトラーブーム」を巻き起こす。
http://ona.blog.so-net.ne.jp/2012-07-31

ぼくが蒐集した戦前の広告マッチのコレクションには、もともとの基礎になった東京のコレクターの収蔵品の段階から、ヒトラーの絵がついた
「喫茶 ヒトラー」というような愉快な名前のマッチがあるが、
ほかにも、散歩の途中に軽井沢の土屋写真館で買った、当時の愛国青年会だかなんだかとヒットラーユーゲントが合同で行った歓迎式典やSS将校たちと日本の要人たちのパーティの写真が、「小さなコンピュータルーム」というヘンな名前がついている家の部屋の壁に貼ってある。
ドイツ人たちが自転車に乗って、ナチ歓迎の提灯がならぶ軽井沢の町を満面笑顔で疾走している、全体に不思議な雰囲気の写真もある。
表情から考えて、よほど歓迎されたもののようです。

このあとの歴史の展開は、よく知られているとおりで、当時は常識としてドイツ人よりもよほど人種差別意識が強い国民として知られていたイギリス人が自分達と優良人種同士の誼で同盟することを期待して、挨拶がわりにちょっと実力をみせる、くらいのつもりだったヒトラーの「空からの恐怖」戦略は、ヒトラーが予測しなかったイギリス人上流階級の反応、なんだかマンガじみているが、歴史の本では絶対に口にされない、「そんな素性の知れないやつらに膝を屈して弟分として従うのはまっぴらごめんだ。あんなイナカモノに兄貴づらされるのはたまらん」という、イギリス人の狭量な階級意識によって、跳ね返されてしまう。
皮肉な言い方をすれば、当時のイギリスでは右翼で戦争好きのキチガイおやじとして知られていたウインストン・チャーチルはヒットラーの想像を遙かに越えて差別意識が強い人間で、菜食主義者で精進第一、婦女子にやさしく、弱い者をいたわることを忘れなかった修道士タイプのキチガイのヒットラーには想像もつかない抵抗をみせて、有名な「バトルオブブリテン」で、「負けなければ勝ち」というイギリスの伝統を発揮してみせた。

チョーが5つつくくらいマジメで、アルコールもいっさい口にしなかったヒットラーには、バスタブに浸かってシャンパンと葉巻で、スタイル化された享楽と自由の感覚とが分かちがたく結びついたイギリス式の自由の感覚と、それへの執着の深さが、到底、理解できなかったのでしょう。

やがて「バスに乗り遅れるな」の標語に走りだして、ドイツとの対峙に手いっぱいのフランス領インドシナやイギリス植民地群の要衝シンガポール、オランダ領インドネシアと、「力の空白」を次々に奪取していった日本は、しかし、ちょうどいまのISISが国家として大規模に組織化されたような「狂える軍事国家」日本に対して徹底的に圧力をかけつづけた末、ついに真珠湾へ追い込んだアメリカ合衆国によって「one too many列強」として徹底的に粉砕される。

そのうちに記事に書くとおもうが、ここで面白いのは、「枢軸国側」といっても、現実に同盟しているのはイタリアとドイツだけで、日本は常につんぼさじきで、軍事常識から言ってあっけにとられるようなことには、たとえ規模が小さくてもそれが起こっていればモスクワ前面50キロでの立ち往生が起こらなかったに違いない、日本の東方での牽制攻撃をヒトラーは考慮すらしなかった。
ドイツ国防軍の将軍たちが、日本をさして、あれではただの火事場泥棒ではないかとまで述べて激怒したときでも、ヒトラーはまるで取り合わなかった。

イギリスの戦争史の本には、いかにドイツが日本の軍事力に期待していなかったかについて、軍事機密でもなんでもなくて、簡便な構造で工作も簡単でアメリカの戦車に苦しむ日本軍には最も必要な兵器だったパンツアーファウスト
https://en.wikipedia.org/wiki/Panzerfaust

を終戦まで日本軍は存在を知らなかったことをあげるが、初速の遅い対戦車砲しか持たないせいでシャーマンどころか軽戦車のスチュアートに対してさえ地雷や「座布団爆弾」をだいて必死で車体の下にもぐりこむしか撃退する方法をもたなかった日本軍の気の毒な兵士たちは、対戦車兵器でありながら、戦車をもたない日本軍相手の戦場ではトーチカの破壊に使っていたりしたアメリカ軍のバズーカを見て、あれはなんだと訝りながら、自分たちの「盟邦」がそれよりも遙かに簡便で効果的な歩兵用対戦車兵器を使って戦っていることを知らないまま、次々に戦車のキャタピラに踏みつぶされていった。

ぼくが、あのときジョージオーウェル広場にあるBar Ovisoで、カバ(Cava)を飲み過ぎてぼんやりした頭で考えたのは、さまざまな本によって語り尽くされる政治的な自由や、国家の絶対暴力性や、党利にのまれてゆく個人の自由への願いというようなことよりも、遙かにとりとめがない、ちょうど、つりあげた大鯛の下半身がサメに食べられてなくなっているのを見たときに考えた水面下の「海の生態系のイメージ」でもあるような、人間の愚かさや、叡知、勇気と頑迷がいりまじった、この世界の不思議さのほうだった。

人間の自由に価値があるのは、その「自由」が共同体の価値を脅かすときに限られる。
社会の生存が脅威にさらされないような自由は実はただの思想的な自由にしかすぎなくて、個人の「わがまま」と共同体の利益が相反するときにのみ「自由」は真の価値、本来の性質、言葉の真実を個々の人間に向かって問いかけはじめる。

その問いかけに対するオーウェルの解答は、ペンを捨てて、銃をとることだった。
カタロニア人たちはガリシアの田舎将軍、ファシストのフランコに無残に敗れ、自分たちの言語を禁じられ、伝統的なダンスさえ禁じられてしまう。
フランコが採った、カトリック教会を、いわば岡っ引きの隅々まで目が届く独裁の手先として使う名案は奏功して、カタロニア人たちは1970年代中盤に至るまで長すぎる暗黒を生きることになる。

しかし、その敗北こそが、自由の本質だとおもうのです。
全体主義と自由主義をわかつものは、個人の側に極在する視点にしかないようだ。

また、バルセロナにでかけなければ。

This entry was posted in Uncategorized. Bookmark the permalink.

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s