若いということ

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日本にもあると思う。
ニュージーランドの冷蔵庫は、ドアに冷たい水がでる小さなタップがついていてフィルターを通った水が、冷やされて、そこから出てくるようになっているタイプのものが多い。
最新型は、氷がドアを開けないで、そのタップの脇からとれるようになっているのもあるよーです。

この方式の欠点は、水が少しづつしか出てこないことで、勢いよくはでない。
コップを押しつけて、しばらく我慢しないといっぱいにならないので、自分でもときどき冷蔵庫の前で立っておしっこをしているような微妙な気持ちになることがある。

同じ冷蔵庫がある友達の家で、めんどくさいので、シンクへ立っていて水をごくごくと飲んでいたら家の主に
「ガメは、やっぱり若いな」
と笑顔で言われた、というのが、この記事の発端でなければならないのだと思います。

わしは、このブログ記事を「わし」という主語で、いま現実の日本社会で通用している日本語より少し古い日本語風の味付けで書いている。

そうしないと「書けないこと」「表現できないこと」が多いからです。
日本語学習者が日本語の文章の「新しい日本語」の「古くてダサい感じ」と一緒に困るのは、これで、だいたい1970年代くらいまでの世界は日本語でなんでも説明できるのに、80年代以降の日本語では世界の八割も説明できやしない、と感じるのは、この「新しい日本語には、なんだか小さく萎縮したひからびた世界しか映らない」という事実のせいであると思う。

「言語総本家」みたいなフランス語にも同じ問題があった。
ちょうどジャック・シラクが大統領のころ、フランス人たちは、この問題を、ぶっくらこくことには「政治問題」と捉えて、復興運動のようなことを起こした。
この運動自体は英語でジーンズはジーンズと呼びたい若い世代に嫌われたが、でもフランス語はそこで現実に復興されて、また世界をうまくフランス語だけで説明できるようになった。

日本語は無造作に、テレビというゴミ箱に放り込まれたままで、何十年も経ってしまったので、世界が説明できなくなった。
だから世界を上手に説明できない言語になってしまったが、時間を遡って、70年代くらいまで遡って、トンテンカンと修理すればまだ普遍語として使えるというのが、わしの判断です。

ところが、「はてな」の能川元一さんapesnotmonkeysという人が唱道した「大庭亀夫ニセガイジン説」の延長なのでしょう、「加齢臭がする駄文」というようなコメントが年中くるので、「若さ」ということについて考えることが多くなってしまった。

わしには過去に起こったことをなんべんもアタマのなかか心のなかかどっちなのかはよく判らないが、反芻して、ああこれはあそこがダメだったんだな、あそこは、ほんとうはこうすればよかったんだな、と考える癖があるが、それと同じTCA回路のなかでクルクルとまわして「若い」ということの意味を考えることがある。

もうすぐ32歳になるおっちゃん頭で考えて、「若かった頃」は20歳というタグが付く前です。
日本の人が嫌な感じでない冗談でよく述べる「当社比」でいうと、いまの32歳が目の前の人間と17歳の「頭が悪い太陽」の頃との比較で、最も異なる本質要因は「エッチがしたくてたまらなかったこと」だとおもう。
(笑うな)

たった一晩、one night stand で過ごした女の子を、あっという間に、たったいま結婚しなくてはとおもいつめたり、この人と一緒にすごせれば死んでもいいとしか考えられなくなったりするのは、振り返ってみると、あにはからんや、いかんせんや、この「エッチがしたい」チョー強力な欲求のせいで、この生物学的な欲求はあまりに強烈なので哲学を形成してしまいそうなほどである。

英語世界では「15歳以降の十代はやりたくてやりたくてたまらない世代」であるというのは、誰もが共有している知識であるし、だから、それにつけこんで自分の娘のような女の人とエッチを企む中年男や中年女は激しく軽蔑されて、いまでは犯罪になっている。

でも細胞群のこの若さや性欲が人間の哲学そのものをmorphするという事実は、テレビ語でいうと「すごくないですか」というのが、これから日本語で書こうとしている一群の文章のテーマで、ツイッタを通して、わし友達の協力も得たい。

言葉を「文章」というような単位で書く人間に共通の、自分でも意識されない野望は「究極の本」を書きたい希望で、その本を開けば、半日で自分が自分に回帰できるというような本を、夢に視ているのだとおもう。
その本は活版で印刷されるのではなくて、わしの大好きな illuminated bookのようで、たった一冊の本でいいのです。

中年の人間は信号が変わった大通りを向こう側にまで渡っていくことに自信を持っているが、若い人間は、自分が通りの向こう側にたどりつく前に、自分の存在が、ふっと消滅するのではないかと不安を感じることがある。
成熟した人間は、テーブルの向こう側に座っている自分の伴侶が確かに自分とは異なる人間であるのを知っているのに、若い人間は明け方のベッドのなかで、恋人がはたして自分とは別の人間なのか自分自身であるのか、深く、混ざり合って、判らなくなってしまっている。

あるいは、あの有名な小説の一節

“I see you are looking at my feet,” he said to her when car was in motion.

“I beg your pardon?” said the woman.

“I said I see you’re looking at my feet”
“I beg your pardon. I happened to be looking at the floor,” said the woman, and faced the doors of the car.
“If you want to look at my feet, say so,” said the young man. “But don’t be a God-damned sneak about it.”

“Let me out here, please,” the woman said quickly to the girl operating the car.
The car doors opened and the woman got out without looking back.

”I have two normal feet and I can’t see the slightest God-damned reason why anybody should stare at them,” said the young man.”
と考えている。

これは、ぼくの魂なんだ、きみにそれをじろじろ見る権利なんてあるもんか。
そう考えていた頃について、もう少し書いていきたいとおもいます

(多分)

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6 Responses to 若いということ

  1. midoriSW19 says:

    古い日本語のことについて書きます。また息子の話なのだけども。

    息子の小さい頃、他の親がそうするのと同じように毎晩、本を読み聞かせた。最初は絵本だったけれど、絵を見たがって寝ないのがわかってから児童書に替えた。息子は7歳まで日本語も英語も読めなかったこともあり、読み聞かせはかれが自分でどんどん読書するようになる8歳か9歳ぐらいまで続けた。何度も何度も繰り返し読んだ児童書にまじって、瀬田貞二訳『指輪物語』全巻を読み聞かせたことはちょっと自慢です。

    そのころ読み聞かせたのは、『指輪物語』を除くとほとんどが岩波の翻訳児童文学で、その多くがわたしが小学生のときから持っていた本や学校の図書館で読んだ本を買い直したものだった。ドリトル先生シリーズやメアリー・ポピンズなど英国の児童文学が多かったのは偶然なのだけど、いずれも翻訳がとてもとても古く、現代の言葉遣いとまったく異なる場合があった。けれど、その全員が成人の家族と子守りと少数の在英の友人以外には日本語を聞く機会がないので、かれは何の疑問もなくそれらの古い日本語を吸収した。

    ある日、たぶん息子は4歳だったと思うのだけど、日本人の知人が買い物の帰りにうちに寄り、しばらくおしゃべりして帰宅する際に、買い込んだ食料品をスーパーの袋に入れたまま忘れて行きそうになった。それを見て息子が言った。「じゅんちゃん、それ置いていくとひもじいよ」

    わたしたちは息子の使った「ひもじい」という古い言葉遣いでひとしきり笑ったのだけど、あとで調べてみると、「ひもじい」にはただ空腹である以上の意味があった。空腹なだけでなく、食物を激しく求める状態をさしているのだった。わたしたちは、「ひもじい」という言葉を日常言語から失うときに、たぶんその言葉が表す感覚も同時に失ったのだろう。言葉の変化によって失われるのはただ言葉のみではなく、もっと身体的な、切実な何かなのだろうと思う。

    「若いということ」というタイトルのブログへのコメントとしてちょっとどうかと思う内容なのだけど、書いちゃったからポストしておきます。

  2. DoorsSaidHello says:

    すばらしいコメントの後に私のしょぼい話で申し訳ないのですが、似たようなことがあったので。

    私の子どもの日本語は、祖父母との文通と、私のごつごつした書き言葉で作られてしまったので、同年齢の子に比べると語彙が古い。ある時、私の両親と子どもの三世代で食後のおしゃべりをしていたら、子どもが「でもその服って若人(わこうど)向けではないんでしょう?」と言った。え? わこうど? と私が聞き返し、その表現のクラシックさと子どもの若さのアンバランスが可笑しくて、思わず笑ってしまった。

    「今の人の口語では使わないなあ、それは書き言葉だし、書き言葉の中でもさらにクラシックな、文語表現に近い言葉だよ」と私が解説したら、子どもは「じゃあ今の言葉で何て言ったらいいの?」と聞いてきた。私は「そうねえ、君くらいの年の子をヤングって言ったのは1970年くらいだし、若者って呼んだのはさらに昔だし…」と答えに詰まった。

    JK(女子高生)とかボーイズガールズとかの言葉は、商品や顧客を呼ぶための名前で、当事者が自分を呼ぶための言葉ではない。せいぜい「若い子」という言葉があるくらいか。youth とかadolescenceにあたる言葉が現代日本の口語にはないこと、しかも私はそれを気にしたことがなかったことに自分で驚いた。

    今の日本口語って、バブル時代の遺物のマーケティング語に2ちゃん語がくっついた、五十歳代の軽薄口語なのかも。

  3. 今の日本では「若いこと」、「かわいいこと」、「きれいないこと」が重要視されている。
    一つ一つの持つ意味には然程差がなく、結局は「如何にして、今風でいられるか」ということが大事。
    そして鏡を見ていないw 自分は「今風な」集合からは外れていないと思っている。とっくに脳内は「お年寄り最前線」であるというのに不遇な話だ。
    実際年齢は関係なく、如何に物事をそのまま素直に吸収できるか に若さはある と思っている。
    多分、本当の若者は、どれだけ古い言葉を使ったとしても、その意味を知ろうとすると思う。
    古い言葉たちは、とても語彙が広い。
    それを自然に話す言葉の中で使ってみせた、midoriSW19 さんの息子さんにも感動するしDoorsSaidHelloさんのお子さんにも感動する。
    なぜかと言えば、今風ではないだけで、意味合いとしては正解の大正解で花丸、二重丸だから。

    私は好奇心でゴリゴリと日本人ですら知らない、もしくは忘れた 言葉たちを紡いで
    日本語で表現しているガメさんを尊敬します。
    それがどれだけ稀で、どれだけ貴重なことだと分かってんのか!?
    加齢臭なんて言ってくる奴らには
    「じゃあ、お前の臭いをかげ!」と言ってやれ・・・ おっとオホホ お里が知れますなw

    ではでは、失礼いたします

  4. mrkyk says:

    テレビの影響は見ている本人たちが想像だにしないくらい凶暴なものだと思う。
    ご指摘通り、日本人にとっての大きな大きな神のような絶対性を持っているかのごとく、ぼくらの思考、言語に致命的な毒となっているあのテレビ。
    いちおうは音楽家のぼくの耳には、あまりにも恐ろしい音を吐き続けていて、数分もそばにいると頭がおかしくなってしまいそうになる。
    そういったなんとなしに感じている、危ない音や映像、番組内容たる情報はゆっくりと何十年もこの国のたくさんの国民から正常な(と言っていいと思うけれど)人間性、感性を現在もしっかし蝕んでいるように思えるのです。
    ちゃんとメディアとして、軽薄でなく洗練された内容を保っているなら、いいんだけど。

    あんなの、ほんとにやすっちい人間たちがくだらない会議とかなんかして無責任につくって流しているだけに過ぎないんではないか、と乱暴にも熱心な視聴者に言ってみたい気もしまする。

  5. mienamy says:

    その時は、なにかの画像を探していたのだと思います。

    コンクリートに、ベタッと横になっている犬の、苦悶に顔をゆがめているのか、愉悦に浸っているのかわからない不思議な表情に、何故だかひかれて、表示元のURLをクリックしたのが切欠でした。
    その頃の愛読書はもっぱら欧州の作家が書いた作品だったので、ガメさんの綴る文章に近しいものを感じたのでしょう、それからいつも、ブックマークにはこのブログがあります。

    初めて読んだ、恋が人間を蝕んでいく様子を綴った記事は、今までにないくらい衝撃的で、鼻の奥がツーンとなって、すぐに感傷の波が押し寄せてきたのを覚えています。

    「タグ付け」直前あるいは直後の、私の仲間たちの多くは、日本語を、言葉を大切にしなくなりました。レポートの言葉にもSNS上の言葉にも発語する際の言葉にも、形は辛うじて日本語を保っていますがその内実は空っぽです。幼い頃からテレビを与えられ、そこから聞こえてくる言葉に毒されつづけた私たちは、さながらジャンクフードをやめられなくなった味オンチのようです。中身は毒々しいことこの上ないのに、食べやすいコーティングで仕上げられた今の日本語に慣らされた以上、以前の日本語に対する感覚が磨耗しました。重症者は、耳慣れない日本語を向けられると、冗談めかしてその古めかしさを誹ることもあります。

    ああ、私たちが、ガメさんの年代になった時、あといったいどれだけの日本語が、その息吹を止めずにいられましょうか。

    とても、悲しいことです。
    言葉というものは使わないとあっという間に廃れていくのを、実感する今日この頃です。

  6. 晩秋 says:

    ガメさん、はじめまして。

    このごろ日本の現状、若い人と子どもたちがおかれている状況について考えだすと眠れなくなりました。役に立つ、意味があるかないか、などは考えずにとにかく何かしてみようと、ツイッタを始めました。NZに住んで20年ほどになり日本にはあまり帰っておりませんが、日本のことばかり考えているような気がします。それは日本語を読むことをやめられないからです。和食が食べられないのは仕方がないな、と思えるのですが。

    ツイッタを始めてすぐさま見つけたのがガメさんだったのです。登録してみたりちょっと検索してみたりして、偶然、古い友人のトゥイートを一つガメさんが選ばれていて、そしてこのブログに辿りつきました。大好きな日本語が読めること、まだ読んだことのない世界があって、それがガメさんというガイジンさんが書いてはって、しかもニュージーランドに住んではって、「若い人間は、自分が通りの向こう側にたどりつく前に、自分の存在が、ふっと消滅するのではないかと不安を感じることがある。」という文章、私、泣きました。この不安を感じていた最中の18歳のときに母がふいに亡くなったからです。

    わたしのどこかを母が持って行ったように思いました。母が亡くなったと同時に心は年老いたとはっきりと自覚しました。なのに身体のすべてが重力に反していて、髪はすべるようで肌はつやつやで不思議でした。肉体の若さをこれでもか、と認識しちゃった。

    そして体が衰えてくると逆のことを思う。でもやっぱり全体としては老成してくるのでいろいろ抑制というかコントロールできるようになったりする。娘のためにです。まだ少し母が亡くなった年齢と自分の年齢を重ねて数えることがあります。ハグしたりするとどうでもよくなる。

    ガメさんの文章を読んで、自分のために、が大事だなぁと思わせてくれたのでありがとう。最初はなんやえらい貴族的な人ではなかろうかと緊張して読んでいたけど、ときどきものすごーくキウィなので力が抜けるし、わたしのニュージーランドで一番好ましく思っている事柄たち(文化や国民性といえるのかな)がガメさんの文章から読み取れるときがあり、いつも本を読むときのように読みはじめたら緊張がとけました。そして本じゃなくてブログなのでコメントしてみました。

    娘の一番好きなひらがなの字は「の」です。

    小さいころ父によく「ガメ」と呼ばれていました。ちょっとワインとか焼酎飲んだりすると「おーいガメ、もう一本取ってきて」と言う。彼曰く「ガキ」は餓鬼から転じて男の子のことを指すので娘をそう呼ぶのは憚れる。よって「ガ女」なのだ。だ、そうな。

    長々と失礼いたしました。もし読んでいただければ幸いです。

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