若いということ2

SI

気がつかないうちに歯を食いしばっていることがある。
いつのまにかノートブックの上の手が止まっていて、目の前のモニターの、光点のひとつをじっとみつめている。
モニタの向こうにも、ぼくの将来にも、なにもないような気がするんだよ。
ぼくにはぼく自身を幸福にする力があるだろうか?
まして、そのあとで、最も愛する人を幸福にする力が残っているだろうか?
なんだか不可能な事業のことを考えているような気がしてくる。

胸が苦しくなって、頭がぼおっとしてきてしまう。
自分を幸せにできるかどうかが判らない人間に世界について考える資格なんてあるものか!

数式と数式のあいだに殴り書きされた17歳のときの自分が書いたノートを読むと、「マジメじゃん」と思って笑ってしまう。
週末には、おとなよりもおおきい身体とID偽造の技術の腕を利してクラブクローリングでおねーさんたちと、あんないけないことやこんなひとにはいえないことをしていた「もうひとりの17歳の自分」と、いったいどうやって共存していたのだろうと訝しむ。

まだ猛烈にチビで、台所のシンクの縁の向こうにどんな皿があるのかさえつま先だっても見えなかった頃の圧迫感のことを、ぼんやりおぼえている、と言ったらきみは笑うだろうか?

なにをするにもおとなに依頼しなくてはならなくて、「ミルクをのみたい」というただそれだけのために、台所にいるのに、わざわざおとなを探して、子供にとっては荒野に似た、だだ広い家のなかを歩き回って、見つけ出して、口にだして頼まなければならないことへの苛立ちときたら!

17歳のぼくもおなじだった。
もちろん赤ん坊というものが、よく考えてみると人間としては相当にカッコワルイ姿勢と動きの行為の結果うまれてくるものだともう知っていたし、週末の「夢のなかの出来事」と表現するのが、もっとも適している感覚で、平日には思いだされる自分自身の奔流に似た夜更けの時間をおもいだしても、人間は理性によって完全に制御できる生き物ではないのだと、もう判っていた。
人間は自分を破滅させる能力をもった不思議な生き物であることも知っていた。

生物のクラスで教師が「豚はたいへん高知能な生き物で、人間が考えるよりも遙かに考える能力をもっているが、面白い特徴がひとつある。
目の前に食べ物があると、それが罠で、その食べ物に手をだすことによって自分が破滅するとわかっていても食べてしまう」
と述べたとき、ぼくが考えたことは
「それでは人間とおなじではないか」ということだった。
「豚を人間の男に、食べ物を「女」あるいは「大金」場合によっては『名誉』に置き換えれば、ぴったり同じ特徴を人間は持っている」
自分の肉体が男のものなので、女の人はどう感じるのかしれない。
いちど、なかのよい女の友達に聞いてみたら、しばらく考えていて、「おれは女も同じだとおもうぞ、ガメ」と述べて、がはは、と笑っていたが、その大層美しい優美としかいいようのない女の肉体をもった人は、心が通常男のものとされる持ちようのひとなので、一般化していいものかどうかよくわからない。

人間はどこまでが生物でどこからが人間なのだろう?
タコは水槽にいれて人間がじろじろ見る環境においておくと鬱病になる。
タコが自分の足をたべるのは人間でいえば自傷行為である、という。
古い知能の定義では、このことをもってタコを高知能動物の下限としていた。

初めて海釣りにでた人が衝撃をうけるのは、釣り上げた魚の目の残忍さと希望のなさだが、一緒に釣りにでかけた父親は釣り上げた魚の目付きにすっかりショックを受けてしまってる息子(←ぼくのことね)に
「魚には大脳と呼ぶほどのものは形成されていなくて端脳しかないからね。
あの怖ろしい目は、叡智の光をもたないものの目なのさ。
人間にも、ときどき、ああいう種類の目をしている者がある」と言って笑っていた。

でもそれはほんとうだろうか?
と考える。

前にも書いたけど、まだ日本ではカヤックが珍しかった頃、葉山でかーちゃんシスターと沖をのんびりパドリングしていると、鰺が次々とカヤックの頭上を飛び越えていく。
びっくりして見上げていると、先を行っていたかーちゃんシスターが、のんびり動かしているように見えるのに意外と速いいつものパドリングでもどってきて、「イエローテールたちだって機嫌がよくて遊びたいときがあるのよ」という。

7歳くらいの頃から(子供の本と並行して)おとなの本をたくさん読みあさっていた、チョーませたガキだったぼくは、
「しかし、それは知能の定義を裏切っている」と考えたりした。

ぼくはだいたい14歳の夏くらいから、どんどん頭がわるくなって、迷いが深くなっていった。
多分、それは性欲の影響で、いちどはスタティックで透明な世界がだんだんmorphされてきたで、あれほど説明つくされたはずの世界が再び地面が激しく揺れて地殻が変動するように変化をはじめて、いつのまにか、もとともとの美しくて平衡がとれた世界とは似ても似つかないものになってしまっていた。
ぼくは青空が落ちてくるかもしれない、という杞の人の憂いに包まれていて、そのうえ、足下の地面もいつまで存在するかおぼつかない気持だった。

苦しい一年をすごして、15歳の夏にはT.S.エリオットを読みふけって過ごしたのをおぼえている。

Let us go then, you and I,
When the evening is spread out against the sky
Like a patient etherized upon a table;
Let us go, through certain half-deserted streets,
The muttering retreats
Of restless nights in one-night cheap hotels
And sawdust restaurants with oyster-shells:
Streets that follow like a tedious argument
Of insidious intent
To lead you to an overwhelming question …
Oh, do not ask, “What is it?”
Let us go and make our visit.

という、ものすごく有名な詩句ではじまる詩集を読んだこのときの衝撃は、
(チョー月並みな言い方だけれど)一生わすれられない。
まるで誰かが煉獄にひきこもったぼくを訪ねてきて、ドアを叩いて、
「さあ、一緒にでかけよう」と手を差し伸べてくれたようなものだった。
ぼくは言葉というものの偉大さにびっくりしてしまいながら、夏の、コモという名前の湖の岸辺でボートを浮かべて、毎日このひとの書いた本に読みふけった。
夏の終わりには、ほとんど自動的に、このひとが書いた英語をすっかり暗誦してしまって、口調が伝染っているといって、家族に笑われた。
その頃、このひとが書いた本と、現代数学とにであっていなかったら、ぼくは自分で自分を破壊してしまっていただろう。
いま考えても、ぼくは、とてもとても運が良かった。
そうして、この話の最も怖ろしい部分は、自分の人間としての成立が、知能にもなににもよらず、ただ「運」に依存していたことだと思う。
「人間には自分で達成できることはなにもない」とぼくは悟りはじめていた。

気がついているとおもうが、ぼくは、このひとつづきの文章を、何人かの日本語ツイッタやこのブログを通じてしりあった自分より若い友達に向かって書いている。
ときどき、自分よりも年齢が上のひとびとが、「自分は若くはないけど…」と申し訳なさそうに言ってきたりするけど、そんなことを言う必要はなくて、人間の魂は、もちろん、一般的に年齢によらない。
蛎殻がいっぱいついてしまった船底のように、自分で知らないうちに、憎悪や妬みや自分の一生が成功とは呼べないものになってしまった悔しさの、余計なものがいっぱいくっついてしまって、なんだか人間と呼ぶのが難しい状態になってしまう人もいるにはいるが、このブログやツイッタの「友達」を見ればわかる、ぼくの最親友のひとびとには50代の人も60代の人もいて、
村上憲郎などは、ぼくを「友達」と呼ぶことによって実生活上も損害をうけていそうなのに、生得の頑固さで友達と呼ぶのをやめない。
生物学者の泉さんや、会社員で人間が誠実をとおりこしてどう呼べばいいかわからない正直さを呈しているネナガラ、イタリア語から日本語の世界に、ハレー彗星みたいに周期的にやってきては必ず立ち寄ってくれているらしいすべりひゆも、年齢などは、閉じた本の栞になって、ほんのちょっとどこかにのぞいているだけです。

もっと言えば団塊世代が嫌いな団塊世代の人々は、世代的な人間のなかでも最もすぐれた人々が多い。
浅川マキ、草野彌生、オノ・ヨーコ、…というような人たちも、「いやなやつ」ばっかりの同世代のなかで、人間でいようと頑張ってきた人達だった。

世代論は無効、と述べるひとたちは、一般化する議論のルールをならったことがないので、「団塊世代とひとくくりにするな。わたしはちがう」と述べているだけだとおもう。
まるでだだっ子のような理屈で、そう述べる人は、「個々人はみな違う」という話の大前提を忘れているので、なにかが世代そのものに与える社会学的な影響を考えることを禁止しようとする。
そうしてそれは、とても危険なことであると考える。

だから年齢は関係がない。
ただ、自分より若い友達を思い浮かべて、たとえばそのときどきで、ひねくれもののミショや、SD、三浪亭の顔を思い浮かべながらかくほうが、自分のダメダメで、ただひたすら運によって救われた若いときのことや、若いということが思考にもたらすさまざまな影響を考えやすいとおもっただけのことです。

ツイッタと、この場所を往復して、とつおいつ、途切れ途切れになるかもしれないけど、若いということについて、もう少し考えたい。

でわ

(まだ、続く)
(多分)

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3 Responses to 若いということ2

  1. Pingback: reblog: 若いということ2 | h30julio

  2. miusyier says:

    足元ががらがらと崩れて自分がばらばらになってしまう、それまで真実だと思っていたことがすべてひっくり返ってしまうという経験は誰にでも1度や2度は訪れるものだと思うけど、私の場合、最初のそれは14歳のとき、ガメさんとは違って自分の外側からやってきました。学校で孤立し、両親や友達や先生からは「うまくいかないのは自分に原因がある、みんなそう言っているんだからそれが正しい」とその後よく聞くことになる理屈で非難されるようになり、気づいたときにはどちらを向いても敵と呼ぶほかない人だけしか見当たらない状況になっていました。

    その出来事の影響は大きく、私は集合意識というものをはなから疑ってかかるようになり、世界への信頼を失い、そして何よりその後10年ちょっとのあいだ希死念慮に取り付かれて生きることになりました。でも結局死ななかった。幸運だったと思います。

    長い間自分のことがぜんぜん好きになれなかった。世界を信頼できない自分が放射能を長時間照射されて細胞分裂に異常をきたしたいびつな植物みたいに思えてならなかった。借り物のものさしで自分を計り基準に合わないからといって見捨てた。それでも自分が向こう側に落ちずに済んだのはもうひとりの自分がいたからだ、数年前にたまたまガメさんの文章に出会ったとき初めてそのことに気づきました。

    もうひとりの私は私の人生をこれっぽっちもあきらめていなかった。信頼の欠落を受け入れ、恐怖と不安を受け入れ、そこから抜け出すためにはどうすればいいか必死で考え計画を立て実行していった。自分が幸福になる権利を疑わず、それ以外のことはすべて些事でしかなかった。おかげで私はうかうかと温泉に漬かって間の抜けた顔で気持ちいい気持ちいいとつぶやいたり涼しい部屋で居眠りして読んでいた本によだれのあとをつけて落ち込んだりできるようになったわけですが、14歳の私はその点において今の私よりはるかに賢くてえらかったなあと思います。どうしてそんなことが可能だったのか今でもよくわからない。こう言ってしまうのは口幅ったいけど、私が目撃する奇跡の割り当てのひとつだったのかもしれません。

    奇跡を目撃するのにはひとついい副作用があって、何だかよくわからないけどとんでもなくいいことが起きた、ならこれからもきっとたまに似たようなことは起きる、そう信じられるようになります。ぱっとしない中年の私の中にかつての奇跡は息づいていて、だからきっと若い人達が進める自由の歩みにも思いもよらない形で訪れると思う。論理としてぜんぜんつながってないんだけど、でも私はそう確信しています。

    追伸:
    出先から帰る途中でこの記事を読んでずっと若かったときの自分のことを考えていたんだけど、家に帰ってPCを開いたら「Project Semicolon」が公開されていてシンクロニシティに笑っちゃいました。天使の後姿を見たみたいな気分です。

  3. 晩秋 says:

    今は熱に浮かされているような時期なので、今晩も書きます。

    どうしてガメさんをキウィだ、と感じたのかしばらく考えていました(ヒマ人)。その1:上司とご近所さんがUK人だらけである。わたしのGP、スペシャリスト、歯医者はUK人である。娘の学校にわんさかいらっしゃる。普段、世間話する人はUK人が多い傾向があるようです。誰がキウィだかなんだかわからぬ。その2:ケンブリッジにて「ボク天才だから今すぐテニュアよこせ」と交渉したが断られ「じゃー辞める」とニュージーランドに来た(ははは)7カ国語話者のイタリア人のUKとNZへの呪詛を聞き、カリフォルニアから来たスペイン語はぺらぺらであったが、2カ国語しかできぬので少し照れるというとても恥じらいのあるアメリカ人とフラットホワイトを飲みながら「ニュージーランド、すんげーいなか。都市などない、rural service depotがあるだけだ。ウェリントンが一番マシ」という話題に必ず帰結した90年代後半を過ごしたせいでしょうか、とりあえず自分の選択でニュージーランドにいるのなら、わたしから見るとあなたはキウィなのだ、という30ほど年の離れた彼らへの軽口に起因するのでした。

    再びになりますが、母は旅の途中で亡くなりました。母に会いに行くためのフライトはトランジットと給油が上海とバングラデシュでありました。

    母を亡くして、どうしてあんなに悲しかったのだろうといつも考えます。死は運なのかしらん。だって死なない人はいないのだから必然ならば運ではなくただのタイミングでタイミングこそが運やんか。じゃ運だ。どっちみちどうしょうもないのだ。なんちて。

    わたしは自由になったんだと考えました。後ろ髪をひかれることは、もうこれから起こりようもないのだと。若いっていいですね、ガメさん。誰もがすべての人に若い時はある。年齢はたまねぎみたいなもんだ。若さは真ん中のあたりで眠っていたりする。

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