記憶のなかの未来_1

gulf3

国会前のデモで日本の人たちが、「よみがえった日本人」のように自分たちの自由を制限しようとして躍起の政権に抗議しているのを、なるべく見落とさないようにしてみている。

日本語のマスメディアは、どれもこれも救いがないほど落ちぶれてしまっているので、見てもしかたがない。
ツイッタやブログの欄外のコメントの書き込みのような所から、あんまりフォロワー数がいないひとの「いま国会前にきてみたのだけど…」というような、つぶやくような小さな声をふりだしに、逆にリンクを声がおおきいほうにたどっていくことがおおい。

以前には「烏合の衆」とバカにされていたひとびとの行動

https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/07/04/官邸前の愚者の群/

が、いまでは政府も到底無視できない政治行動になっているのがよくわかる。

ツイッタひとつみていても、どんな国でもある運動側の味方をしているような顔をしながら政府側に立って働いている人や、つまりは大時代な「走狗」がいたりして、へえ、と思います。
従っている定石が古いので、落ち着いて誰にどんなふうに「絡んでいる」かみていると、正体がわかってしまう。
日本は、こーゆーところでもお手本が古いのお、と考える。
まるで片手に新聞をもって、黒ずくめで、タイも黒で、サングラスをかけて、黒いボルサリーノをかぶって、防衛省の通用門の前を行ったり来たりしているスパイみたいで可笑しい。(←過去に東京で現実にあった事件)

本人の事務所が強く否定しているギリシャの元蔵相Yanis Varoufakisの「the parallel payment system」スキャンダル
http://yanisvaroufakis.eu/2015/07/27/statement-by-yanis-varoufakis-on-the-finmins-plan-b-working-group-the-parallel-payment-system/

は、「次にくるもの」を予感させるスキャンダルだった。
一見関係のないデンマークのMobilePay
https://danskebank.dk/en-dk/Personal/ways-to-bank/Pages/MobilePay.aspx

に端を発した欧州の物理的な通貨の廃止をめざす、ゆっくりだが不可逆的にみえる動きをはじめ、bitcoin的な通貨思想の伝統的通貨に対する思想上の絶対的優越を考えても、あいだを全部ぶっとばして述べると、国境だけではなくて、国権や国家そのものの終わりも意外とはやくくるのかもしれない。
そのときにくるのは人間や文明が直に向き合う世界だが、アフリカが世界の中心的なパワーとして台頭していなければならないはずの2050年以降において起こるだろう、その変化が、実際に国家という群立した絶対暴力の時代よりも人間にとっていいのかどうかは、わしにはわからない。

税務台帳をハックして、既存政府の徴税機能を停止して、税務番号をふりなおして、ネオBitcoinで徴税できてしまえば、クー(クーデター)がやれてしまうわけで、フォーラムで、では軍隊はどうするのか、マスメディアはどうするのか、と棋上演習をやってみると、ほんとにやれてしまえるもののよーでした。

伝統的な意味における現実が仮想現実に較べて下位のプライオリティしか持てなくなりつつある世界に、わしらは生きている。
パラダイムシフトが起きる時代というものは、そういうもので、
99%の人には最後の最後まで実感がなくて、気がつくのは「自分が時代に決定的に取り残されたのだ」と心底おもいしるときでしかない。

冷菜凍死家というショーバイは、こういう変化がみえやすい建物の窓際に立って世界を俯瞰しているので、そーとーなアホでも、神様が世界というピザの一片の両ヘリを曲げて口に運ぼうとしている様子がはっきりみえる。

もっともおおきな変化はモニターの前に座ってキーボードを叩いている人間の側にあった認識の主体が、モニターの向こうのネットワーク側に移動してしまっていることで、(もういちど繰り返すと)仮想現実が現実に対して優位に立っている。
そういうことが可能なのか?と疑う人のために述べると、ルネ・デカルト以来の人間の「考えるよすが」は「認識は現実よりも優位」であることで、シンタクスのいきつくところ、認識は現実よりも仮想現実を優位に立たせることに痛痒を感じるわけはないのはチョー簡単な理屈であるとおもいます。

ネットビジネスひとつとりあげても、2000年から10年間ほどの黎明期には「ビジネスモデル」が重要で、グーグルアドなしでグーグルというインデクスサービスは考えられなかった。

いまはアイデアがすべてで、そのサービスが不可欠になってしまえば、ビジネスモデルは不要だが、枝葉にみえても、それもまた認識の対象が仮想側に移行している証拠なのでしょう。

もっと些末な例を出すと、ニュージーランドドルは、かなり前から1¢、5¢という硬貨は廃止されていて、現金で払うかぎりにおいては、99¢の商品を買って1ドル払っても1¢のおつりはもどってこない。
ニュージーランド人が「EFPOS」と呼ぶ、デビットカードかクレジットカードで払った場合にだけ「1¢のお釣り」は存在する。
通貨が単なる「約束事」であることを国民がひとり残らず知っているわけで、
仮想現実が現実を支配する、歴史上初めての例が貨幣であることを思い起こさせる。

冒頭に国会のデモについて述べた理由は、この続きもの記事の、ずっとあとになればわかります。
焦らずに、コーヒーでも淹れて、一緒にゆっくりきみやぼくの記憶に埋もれている未来を訪問しよう。
深い眠りにおちていた未来が、はれぼったい眼をして、蓬髪をかきあげながら、自分の、鏡に映らない姿に驚いて、ドアを開けてくれるまで

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3 Responses to 記憶のなかの未来_1

  1. 星野 泰弘 says:

    「人は生まれながらにして平等で、犯しがたい尊厳を持つ」と言われるとキリスト教の印象がある。
    仏教で育った人々にとって、すべて生き物は、多かれ少なかれ価値を持った存在で、
    「生きる」ということ自体が、他の生き物を犠牲にしながら営んでゆく悪の側面を持つ。
    だから、人だけが特別でもないし、絶対に悪ではないと言い切れる生き方もないし、
    自分だけが尊重されるべき特異点だとも感じにくい。
    鯨が特別扱いされ、雑魚が効率ばかり尊重されるのも理解しがたい。
    どの命を犠牲にしても悪の程度が変わるだけだ。
    江戸時代から、日本はアジアは専制に虐げられてきた。
    「一揆の首謀者は、一揆の是非に拘わらず死罪」は一般的だった。
    「自分が一番大事」などと言っていては何もできなかった。
    そういった文脈で群進化論は分かりやすいように思う。
    つまり、我々は遺伝子情報や社会情報の大河の中の一滴の雫に過ぎない。
    我々は、その命を以て、大河の一隅を照らすことしかできない。

  2. 星野 泰弘 says:

    自分の限られた可能性に絶望したとき、可能性を託せるのは子供しか、近隣の人々しかいなかった。
    だから、昔の日本は「子供の天国」だったのだろう。

    キリスト教圏で口減らしのために教会に放り込まれた子供たちが、
    神の真理の探究に全身全霊を注いだ結果が、科学に結実したのと似ているようにも思う。

  3. snowpomander says:

    いまここ:2016年4月23日。過去から梯子して”今”に向かっている。ガメブログを旅人中。
    ガメさんブログの中に点在する”!”と”?”の点と点を点々点々点々といまここ更新で辿っていくとドットの密度が何かを描いていると気がつく。

    そうなんだ……、世界は手垢の着いたお金呪縛を手放すだろう。スロットマシーンにコインを入れたら運良く大金が出て来るほうが現実的なくらい、スクリーンの上や寝静まった地球の裏側で画策されるアルゴリズムの数字の富は儚い。電子的データが破壊されたら蒸発してしまう金融システム、もっと単的に言えば命を粗末にするような存続を期待されないシステムはリアルであろうとバーチャルであろうとやがて終わる。

    いずれ為替や銀行の役割が消滅する事態になるとやっと気がつくだろう人も、すでにその世界に移行中の人も幸せを求めているはず。それぞれが決して同じ幸せ感ではないだろうが、それぞれが独自な幸せ世界でありたい。世界を100人の村にたとえた話がある。それが4人家族でも家庭内で恐喝搾取したらいつか家族関係は崩壊する。どのようにそれらが崩壊するのかはそれぞれの事情によるけれど。

    ”勝ち残る”ゲームでは活路のために最短最小努力の方法とルートを見つける能力があればいい。たとえ、死屍累々の道となろうとも御一人様の王座の席で幸せならば勝ち残ればよいのだ。ルールを考えていたら無心で遊べない。ゲームの中で才能が開くように見えてもそれに捧げてしまった時間と命は空しくないのなら、何度でもバーチャルな快感を試せば良い。感情のフィードバックでリアルと認識した脳は現実と空想の区別が無いのだから。

    こんな風に、手早く再現とチャレンジができるゲームの凄さ。死ぬことも生まれ変わる必要もなく、好みの生き様システムの終焉まで体験出来る。死後の世界の経験がこの世で可能なのだから世界の変化が早まって行くのは当然の気がする。

    ジェームス・P・ホーガンというSF作家の作品が私は好きだ。彼の本をある時期に幾度となく読み返すことがある。その度に未来の幻想の手触りが強く感じられる。ホーガン氏はガメさんよりも遥かに年配者であるけれど見事なでかい点をワイヤーで結びつけて未来へとスウィングしている。

    心の呪縛落としゲームで敢えて過去のブログから辿っている。ガメさnが昨年に数年前に書かれていたことと今がシンクロしていき、過去のブログの淡い色合いの点の集合が今という現実の色彩を帯びて未来を描き始めるのですから、私の興味津々のお遍路さんはもう少し続きます。

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