Monthly Archives: August 2015

波打ち際で

ポートモレスビー攻略戦に容喙した辻政信参謀が地図上の進発地点から、まっすぐな線をポートモレスビーに向かってすっと引いて、これが最短距離なんだからこれでいけ、と言ったという話は有名であると思う。 現実のニューギニアのジャングルのツタは鋼鉄のようで銃剣で切り開けるようなものではなく、平地の行軍速度でも不足が計算された日本軍の食料はみるみるうちに底をついて、原一男のドキュメンタリ「ゆきゆきて、神軍」 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Emperor%27s_Naked_Army_Marches_On で証言される、戦友を殺して肉を食べねば生き残れない地獄の戦場になってゆく。 ポールブレマー https://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Bremer がイラク占領統治で犯した過ちは、日本帝国陸軍が繰り返した「現実を無視した観念作業」による失敗と、とても良く似ていた。 戦争で破壊されて荒野に限りなく近づいていたというか、水道も下水も電気も、ほとんどすべてのインフラストラクチャーが破壊されたバクダッドのなかで、ゆいいつ、冷房まで完備された通称「the Green Zone」の城壁に囲まれた一角で、ちょうど骸骨のようになりながら半裸、あるいは全裸で大量の餓死者をだしながら潰走する帝国陸軍の兵士の悲惨になど気にもかけないでミートキーナで日本酒の瓶を並べ芸者をあげて遊興に耽っていた牟田口廉也将軍を連想させる、快適な日常を過ごしながら、よくもまあここまでと言いたくなるほど、現実にそぐわない、バース党が解体されたあとの政治的真空を、定規で線を引くようにスンニ支配をシーアとクルドで入れ替える計画を次々に打ち出して、次々に混乱を生み出していった。 Jay Garnerのようなイラクの現実をよく知る専門家たちは計画書を見た瞬間に、その計画から生まれるのがイラクとシリアの崩壊と一般の人間たちに降りかかる業火であることを見て取って、その空想的な復興プランのあまりの無責任ぶりに激怒する。 やはりイラク/シリア専門家のCIA幹部と連れだってブレマーに対して諫言しようと試みるが、ブレマーは説明を聞くことを拒絶したうえに 「Look, you don’t understand. I’m not asking you,I’m telling you. This is what I’m going to do.I’m not asking for your advice.」 と普通には信じがたい傲慢な言辞を述べて、彼らを追い出してしまう。 極端な言い方をすれば、いまのシリアとイラクの混乱は、この瞬間に生まれたと言ってもいい。 あんまり言いたくもないことだが、付け加えると、後年、インタビューのたびにこのときのことを聞かれて「忙しい身だったので、おぼえてない」と、この人の特徴の「人好きのする笑顔」を浮かべながら答えるほど、この人は無責任な男だった。 占領計画の第一号、いわゆる「CPA Order … Continue reading

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The Ghost Society

ちょっと変わった話をしようと考える。 こういう話です。 軍事オタクの人は、数字が読める人ならば、日本はアメリカに物量で負けたというが、それにしても計算があわない、と考えたひとがいるはずであるとおもう。 もう何回か書いたようにアメリカにとって主戦線はヨーロッパで、ここにはブラックドラゴンと呼びたくなるような、規律が行き届いて、他国の軍隊と較べてずば抜けて強いナチがいて、しかもヒットラーの素人軍事オタクらしい読みの甘さから二正面作戦に陥る失敗から守勢にまわったあとでも、今度はスターリンの欧州支配を避けるために、侵攻速度を速めなければならなくて、ますますおおきな国力をこちらのほうに傾けなければならなかった。 したがって太平洋戦線は海軍を主戦力として日本を圧迫しておけばいいだろうということになって、陸軍は装備も二流、師団も訓練がなされていない師団を太平洋にまわして戦うことになった。 その、万事あとまわしの第二戦線の敵国だった日本から見ても圧倒的な物資で、戦争後期になると冗談じみた数の航空機や空母の数になってゆく。 実際、数字をじっと見つめていると、ドイツ側と較べて、あんりぃー?と思うくらい数字が巨大になっている。 ‘Rosie the Riveter’という。 デトロイトの工員がモデルのポスターで、B24リベレーターを作っている工場の人だが、この工場は工員が殆ど全員女の人達だった。 日本の、もうどうしようもなくなってから「女の手も借りたい」で動員された女子高校生の非熟練工とは異なって、中核は戦争の前はフォード自動車を生産していた熟練工たちです。 十代の非熟練工を動員した結果、ひどい品質低下に陥って、スペック通りの性能がまったく発揮できない兵器を量産した日本側と異なって、大量に兵士を訓練する一方で、というのは、つまり男たちを生産力から大量に戦場へ移動させても、経済成長が低下するどころか高成長に移って、特に工業生産が飛躍的に伸びていったのは、要するに、女の熟練工たちの力でした。 あわない数字の種明かしは割と簡単で、優良な「アーリア人種」の子供を量産することが役割だったドイツ人の女の国民や、もともと何も社会的な能力を期待されておらず、良い「軍国の母」であることだけが期待される役割だった大日本帝国の女のひとびとと異なって、アメリカでは生産力は当時すでに確立されていたマスプロダクションのシステムを動かす女工員たちが中心だったので、同じ人口なら単純に2倍の人的資源があったことになる。 ドイツも日本も、一面では、自分たちのジェンダー偏見によって戦争に敗れたのだといえなくもない。 日中戦争を描いた三部作「戦争と人間」には、灰山浩一という画家が出てくる。 兵卒として徴集されてノモンハンの戦場で片腕を吹き飛ばされた挙げ句戦死する。 あるいは画家をめざして大阪で働きながら学んでいた水木しげるも、一兵卒として徴兵されて、南の島で片腕を失う。 ノルマンディ上陸からVEデーまで、一貫して大活躍して、戦線から戦線へ引く手あまたで、部隊としての行軍距離が連合軍中最大だった第23特殊部隊は、その大きな軍事上の効果から冷戦終了まで存在が秘匿されていた。 世の中の人が存在を知るようになって、その対ナチ戦争で果たした役割のおおきさに驚いたのは、多分、2013年にPBSがつくって、繰り返し放送される大ヒットになったドキュメンタリ 「The Ghost Army」 http://www.imdb.com/title/tt2649274/ が初めでしょう。 イラストレーターや画家の卵、若いデザイナー志望の若者たちをアメリカ中から集めたこの部隊は、大規模な「ニセ軍隊」をつくるのが役割だった。 実物大の戦場ジオラマだ、といえば、軍事オタクのひとびとはピンと来るかもしれません。 ゴム製のM4シャーマン戦車やM3ハーフトラック、M114榴弾砲に至るまで、本物そっくりに手作りで作り上げて、ゴム風船の兵士までつくった。 いま画像をみると、ブルドーザを使って戦車が走り回る轍まで地面に描いてあって、文字通り芸術的な出来映えです。 この視覚的に本物そっくりの大部隊を作っておいて、音響車を使って、エンジン音や、 「そこのマヌケ!煙草の火を消せ!バカかおまえは」というような鬼軍曹の怒鳴り声まで流されて、ドイツ軍は、ヨーロッパ戦線の至るとこで、すっかり攪乱されてしまい、連合軍の攻勢点を誤解して、見当外れの場所に防衛力を集中してしまう。 いったい、この人は何の話をしたいのだろう? と、クビをひねっているきみの姿が見えるようです。 実は「集団作業」の話をしている。 The Economist、 Financial Times、Newsweek.. さまざまな英語メディアが記事や論説として書いているのに日本語メディアが一貫してシカトしてきた外国人たちからの日本経済低迷の原因の指摘に日本社会の「激しい性差別」がある。 なぜ人口の、文字通り半数を占める女のひとたちを日本経済の回復力として採用しないのか? こういう記事に対する反応は、だいたいの場合、 … Continue reading

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糾弾的知性について

戦争や内乱についてのまともな報道が可能だったのは、アメリカにおいてはベトナム戦争、連合王国ではビアフラくらいがだいたい最後で、有名なメディアの破壊王Rupert Murdoch https://en.wikipedia.org/wiki/Rupert_Murdoch がTimes と Sunday Timesを買収し Don McCullinがフォークランド戦争に出発する空母HMS Invincibleへの搭乗を英国政府によって拒否されたときに、だいたい戦争ジャーナリズムは生命を終えてしまった。 そこからあとの戦争報道は、ひどい言い方をすれば社内見学のようなもので、もちろん戦場だから生命の危険はあるが、自由に歩き回るということは許されなくて、軍が「見せてもいい」と判断した範囲を移動して「良い写真」を撮る、記事を書く、といういまのスタイルに変わった。 いま、たとえばDon McCullinが撮った、戦車にぺしゃんこにされた敵兵の死体、戦闘の巻き添えになって無惨に蜂の巣にされたパレスティナの少女の原型をとどめない骸、というような写真をみると、印象された画像の質の違いにぶっくらこいてしまう。 有名なシェルショック(敵の砲撃の恐怖で精神錯乱に陥ることをシェルショックといいます)に陥った兵士を正面から撮った写真 にDon McCullinは、 「正面から何枚もゆっくり撮っていたわたしに気づきもしないで、この兵士は撮影されているあいだ瞬きひとつしなかった」と証言を付けている。 あるいはビアフラの独立宣言に原因して、150万の人が飢餓と病で死んだビアフラ戦争で撮った飢えた母子の報道写真 に、 「もちろん母乳は出ませんでした。この年齢を訊いてみると25歳の母親が65歳の老人に見えました」と短いコメントを述べる。 特にくだくだしく説明しなくても、最近の「戦争報道写真」の饒舌との質的な違いは一見して誰にも了解できるものだという気がします。 どこから、この違いがやってくるかというと、この人の戦争報道でない写真を見ると、比較的簡単に理由がわかる。最も有名な浮浪者のおっちゃんの写真 についてフォトグラファーは、 「それまでの私の人生で見た最も透明で、明るくて、深いブルーの目、(汚れで)固まった髪の男で、ネプチューン(海神)そのもののような人でした」とふりかえる。 写真家のニコンカメラを通して被写体に向けられる視線は、通りのイギリス人に対してもシェルショックに精神が凍結した兵士に対しても、言い方としてよくないかもしれないが戦車のキャタピラに踏みつぶされて平たい肉塊と化した死体に対しても同じで、そこには自分の主張をいったん沈黙させて、かき消して、無音になった精神がものを見るときの静かさがある。 戦争の興奮も、戦場で起きていくことへの激しい憤りも、すべてを去って、ただ「見る」ことに投企した魂の精確さがある。 ミドリ・フジサワ @midoriSW19 さん、という人にツイッタで会った。 ロンドンの、最近はすっかり、のっぺらした、原宿のような、商業主義的に「クール」な街(←口が悪い)になったノッティングヒルに前は住んでいて、いまは(おおぜいの他のロンドン人たちのように)郊外へ越した。 SW19とアカウント名にあるのでWimbledonの近くとおもうが訊いてみたことがないので判りません。 善意の人なので安心して話ができる人です。 言語学を専攻しはじめた息子さんと、たいそう仲良しで、いろいろ教えてもらって楽しいらしい。 もうひとつ、わし従兄弟と東京大学に合格したものの、パスにして、英語圏の大学に進学したという共通点があるようで、なにがなし、親近感がある。 「発言が糾弾的であるところはよくないとおもう」とミドリさんの発言について述べたらわかりにくいようだった、というのが、この記事を書いている理由です。 聴覚に例えると、人間は「他人の話を聴く」状態で、ものを見なければならないので、「他人に対して自分の考えを主張する」ように、ものを見てはならないのだとおもう。 Don McCullinの真実性に満ちた素晴らしい画像の数々 例えば、イギリス人というものがどういう人々かあますところなく伝えている、と言いたくなる、わしの大好きな一枚 は、「何かを見ようとしている目」には見えるものではなくて、ふと目をとおして脳裏に焼き付いた映像でなければ、これほどの真実を含むわけがない。 … Continue reading

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2050年の日本へのメモ_1

戦前の日本帝国の支配層には、国というものが経済規模に従って国家としての行動を決定しなければならないということが、どうしても理解できなかった。 いまで言えば北朝鮮型の軍事国家をつくって、その結果生じた社会の畸形制をすべて「外国のせいだ」ということにして、マスメディアを挙げて対外憎悪を煽ったあげく1945年の破滅に向かって、ほぼ一直線に駈けていった。 「GDPと三八式歩兵銃」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/08/08/arisaka-type-38/ の記事に書いたように、イタリアよりも小さなUS$7.5billiomという、分類すると中進国でしかないGDPで11倍の経済規模を持つアメリカ合衆国に対して宣戦します。 ついでに落ち目の連合王国にも宣戦しますが、「ついで」と言っても、こちらも日本の3倍はGDPがあった。 中国は、いまだいたい日本の2.3倍くらいのGDPを持っている。 日本では「一人っ子政策のせいで年齢構成が早く老化するので、そのうちこける」ということになっているが、なかなか日本の期待通りにこけてくれそうにないのは、中国自体が豊かになるにつれて、たとえばアメリカ人、カナダ人、マレーシア人ということになっているエリート中国系人たちが、どんどん新しい考えをもって中国に帰ってゆくからで、中国はいままでの国家とは違う不思議なやりかたで世界国家としての相貌をもちはじめている。 1929年のアメリカ市場程度の透明性しか持っていない現在の中国市場は、いずれ大恐慌に近い混乱を経験するとおもうが、その影響は、東南アジアや日本のほうがおおきくて、東アジアと東南アジア全体が中国圏になることを加速するだろうとおもわれている。 何度も引用して、ごめんちゃいね、という感じがするけれども、前に 「ヒラリー・クリントンの奇妙な提案」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/24/hillary-clinton/ に書いたとおり、これも日本では「知識人」のひとびとが「アメリカが太平洋の自由航行権を手放すわけはない」とノーテンキなことを述べているが、 もう2010年という時点では、1941年の国防圏、と言ってわるければ「なわばり」まで後退する準備をすすめていた。 オーストラリア、ニュージーランド、ハワイ、サンディエゴを結ぶ線で、アメリカ合衆国は、中国と比較した自国の相対的な力の低下を意識して、いざとなったら、太平洋では、このくらいしか守りきれないという判断であるようです。 まさか表だって「いやあ、もう将来は東アジアは中国さんにおまかせしますわ」というわけにはいかないので、「鋭く対立」したりしているが、政治だけではなく人民解放軍とのレベルでも、共同の演習を通じて、盛んに意思の疎通を図っている。 アメリカという国は、もともとはひどい外交下手だが、戦後の長い、苦い経験を通じて、大国との外交だけはうまくなった。 人民解放軍と意思を疎通しておかないと、習近平の中南海と対立した場合、 解放軍の政治力が強まってしまうのをよく理解していて、解放軍の軍人たちに理解できるやりかたで「アメリカの戦争思想」を伝えようとしている。 軍人は、あたりまえだが、軍事のプロなので、「いまアメリカと戦争をやっても勝ち目はないな」ということを、人民解放軍の将軍たちは、あっというまに理解してしまった。 中国がスプラトリー諸島に人工島をつくって要塞化しようとしているのは、人民解放軍の「現状ではアメリカに勝てる見込みはない」という結論の直截の結果で、なんだか囲碁を見てるみたいというか、地図をみればわかるが、ここに要塞をつくられるとオーストラリアが戦略域に入ってしまうので、これから先、この人工島を焦点にしてアメリカは中国と対立を強めていくとおもわれる。 視点を変えていうと、アメリカからみると、日本の防衛は二の次になってゆくわけで、もしかすると、安倍政権が、アメリカ軍の部分になる形での日本の再軍備を強行しようとしているのは、そういうアメリカの意思が働いているのかもしれません。 日本の言論人を、見事なくらい「ホンモノ」と「ニセモノ」の2色に浮き出させたシールズは、あらためて日本の「国益」が平和外交方針にしかないことを、国民に真剣に考えさせることに成功したように見えるが、 日本の人の天然全体主義的な国民性から考えて、悪い例をだせばCIAのはねあがり幹部が上海かどこかで日本人をまとめて反日のみせかけで10人も殺してしまえば、あっというまに国を挙げて中国と戦争してくれるので、そういう需要が起きた場合の日本の国論はあんまり心配してない、ということだとおもう。 アベノミクスのおかげで、日本の経済の永久要塞と言われていた「国民個々の預金」を使いはたしてしまったので、日本は経済的には「ふつうの国」になって、これからの経済運営はひどく難しい。 ひどいことをいうようだが日本文明と切ってもきれないゼノフォビアを考えると、移民政策なんてやってもダメなんちゃう?と思います。 尊皇はアメリカ人にやめさせられたが、攘夷は捨ててない。 凍死家の世界では、だいたい日本の財政の寿命はあと4年と言われていて、前はヒソヒソ言われていたが、日本の国民が、戦争で言えば「中入れ」にあたるアベノミクスに乗り出してしまったので、おおぴらに言われるようになった。 どうなるのか判らないが、財務省のページに行って、なんだかものすごいGDP対借金の比をみると、国というのは企業と違って、意外ともつんだなあーという感想しかなくて、いずれにしろ、日本が倒産するときには、あんまり世界経済への影響がなくてすむところまで来てしまった。 日本国内への影響も、この調子なら、もういっかいアベノミクスのようなバカなことを考えなければ、金利が16%程度まで上昇する。US$1が250円程度になる、くらいですみそうで、ホームローンがたくさんある人や年金で暮らそうと思っている人にとってはたいへんだが、それ以外の人にとっては、あんまり影響がないと言えなくもない。 国の倒産は、韓国の例を見れば判るとおり、これまで既得権を持って暮らしていた層にとってはたいへんなことだが平均的な国民にとっては考えるほどの影響はないものです。 ニュージーランドは、その頃は国がうまく倒産する方法がなかったので、ちゃんと倒産できなかったが、アベノミクスに似ていなくもないおもいつきの経済政策をとって、失敗した結果、ホームローンが23%になったことがある。 どうも、これで国ごとなくなるんちゃうかしら、と言っていたが、30年くらいで回復したので、日本人なら、10年もあれば解決してしまいそうな気がします。 国民の資質というものが回復にはおおきく関係するので「なんでも他人事」文化のいまの「オトナ」が去って、20代前半の人間が中堅に育つ時間を考えれば、いま倒産すれば、20年もあればなんとかなる計算になる。 2050年に世界全体が緊急の課題として追究しているのは、おそらく、「アフリカ問題」でしょう。 その頃にはナイジェリアの人口は4億4千万人になって、アメリカ合衆国のの人口よりも多くなっている。 仮に21世紀後半が「アフリカの世紀」になっていない場合は、世界じゅうが、いまのシリア人の欧州への移動どころではない大混乱に陥るのは判りきっていて、その30年+先を念頭に、どこの国も国家戦略を定めている。 中国が世界中で資源を買いあさっているのも、アメリカが「アメリカ帝国圏」を縮小して、内政を固めることに専念しはじめているのも、欧州がユーロの基軸通貨化に失敗したにも関わらず統一経済圏を維持しようとしているのも、すべてすでに視界にはいっているカオスがあるからです。 世界が思考を集中しはじめているのは、国民の半分以上がトイレのない家に住むようなインフラが弱い大国であるインドの人口が世界一位になって、中国の年齢構成が老人大国化して生産性がいまとは比べものにならないくらいさがり、資源が絶対的に不足する2050年の世界で、どこの国も、そこで飢え死にしたり戦死するのが自分の国の国民であってはならない、と考えて知恵をしぼっている。 世界の焦点がアジア太平洋圏から西へ移動して、焦点の中心にくるのがアフリカ大陸で、中東、東はインドまでになってゆくのに応じて、アメリカの側でも、大西洋岸諸都市と中南米へ焦点が移って行く世界では、東アジアは世界の外側で、多分、中国圏として分離した存在になっていきそうです。 … Continue reading

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人権の味

ダラスでいちばんおいしい中華料理屋に行こう、すぐそこだから、 と友達が言う。 テキサス人の「すぐそこ」は50キロくらい先のことが多いが、このときはほんとに「すぐそこ」で20キロくらいのものだった。 皆でテーブルについて食べてみると、おいしかったが、なんだかどこかで食べたような馴染みのある味です。 主人がテーブルに挨拶にやってきたので、どこの料理ですか? 広東?香港?と聞いてみると、 「横浜」という。 はははは。わたしは日本への中国移民の子で、父親は横浜の中華街に店をもっていました。 だから、わたしの「中華料理」は日本風なんです。 餃子も焼売も日本風の味で友達が頼んだチャーハンを観たら、上にグリーンピースまで載っていた。 ひとしきり話をすると、中華街にはシェフがいつかないのだという。 アメリカ人も、あんまり変わらないが、日本の人も舌がたいへん保守的で、毎日毎日、麻婆豆腐にチャーハンに餃子にチャーシュー麺で、しかも中華料理の新しいトレンドを考慮して味付けを工夫すると、「不味くなった」と言われる。 「みんなカナダやオーストラリアに行ってしまいます」とくびをすくめている。 オークランドに来ていちばんよかったのは中国の人に対する、自分でも気がつかずに持っていた偏見がなくなったことだった、と前に書いた。 もうひとつ良いことがあって、なんとなくがさつでおいしくないと思っていた中華料理が、ほんとうはものすごくおいしい料理なのだということが判ったことでした。 日本では赤坂離宮銀座店 http://tabelog.com/en/tokyo/A1301/A130101/13013346/ や、中国飯店 http://tabelog.com/en/tokyo/A1307/A130701/13001954/ 四川 http://www.miyakohotels.ne.jp/tokyo/restaurant/list/shisen/index.html/ のようなところへよく行ったが、「四川」などはニュージーランドのクラウディベイのワインもおいてあって、楽しくはあったが、 おなじエスニック料理でも銀座のタンドリ料理の「アグニ」や あるいは東京ではイタリアの大都市と較べてもパキパキと音がしそうなくらいしゃっちょこばった味だが水準が高いイタリア料理屋に足が向かって、それほど頻繁に出かける、というふうにはならなかった。 ほかの街で中華料理を食べるのは、バルセロナにも、ディアグノルにおいしい店があって二回ランチを食べに行ったが、あとはマンハッタンくらいのもので、カナルストリートを歩いて食べにいく中華街も、雑誌に出ているほどおいしいと考えたことはなかった。 まして、モニさんと結婚してからは、おデートをかねて外で食べることが多いので、食べ物をつくるのは上手でもおデートのおムードをつくるのは下手な中華料理屋にでかける頻度は、ぐぐぐっと減って、日本では、なんだかクラブの食事でなければ、イタリア料理やフランス料理ばかり食べていた。 むふふふ、な理由で広尾山の家にもどらずにホテルに泊まって、「家のこと」がいっさいない週末をおくるためにルームサービスですます、ということも多かった。 味が下品である、というのがアメリカや日本で中華料理を食べた感想で、わずかに赤坂離宮銀座店だけがややまともで、なんだかイタリア料理店や天ぷら店、割烹のあえかな味に較べると数段落ちる、というのがわしの頭に静かに無音のまま定着した偏見だったようにおもいます。 ところがオークランドに住んでみると、マンハッタンやクライストチャーチなどとは全然比べものにならないくらい中華料理がおいしいのを発見する。 初めにぶっくらこいちまったのは餃子で、もうなんどもブログで書いたが、 日本では「焼き餃子は中国にはありません」とひとに習ったのに、ぜんぜんそんなことはなくて、焼き餃子、蒸し餃子、ゆで餃子、揚げ餃子となんでもあって、形もまるこくて小さいのやバナナみたいなのもあれば、四角い鍋貼もあって、皮が厚くていかにもパスタふうなのもあれば、うすううういパリパリの皮で、パリパリを楽しんでね、というのもある。 中身の餡も豚肉と白菜、豚肉とにら、豚肉とコリアンダー…に始まって、ラムと白菜のようなラムのものまでバラエティがある。 へええええ、とおもって、モニさんは、あんまりアジアの食べ物は好きでないので、ひとりで家の人に買ってきてもらったテイクアウェイをおやつに食べたり、ちっこいクルマにクマのように身を屈めて乗り込んで、ときどき指さして笑う失礼な人までいるスタイルで運転して食べにいくと、たとえば胡麻ソースと和えただけの麺や、油と和えただけの麺、福建省の「パイ」や、なんだか四角い炸春巻、どれもすごおおおくおいしくて、いったいいままで「中華料理」だと思って食べていたのはなんだったのだと考えました。 中華料理に、文字通り味をしめて、観たことがない料理は全部食べてくれるわ、と考えて、スリランカ、インドネシア、韓国、マレーシア、ノニャ、フィリピン、.. と手当たりしだいに食べていくと、移民人口がおおきいからでしょう、どれもオーセンティックでおいしかった。 微妙に本国の料理と異なっている、というのは想像がつく。 自分が知っているもので較べれば想像がつくからで、モニさんに外で食べるのは二度としないと言われてしまったフランス料理やベルギー料理もそうだが、おにぎりを観ればわかる、通常鮨チェーン店で売っているおにぎりは、だいたいソフトボールくらいの巨大な球形で、みるからにおそろしげな炭水化物爆弾の様相を呈しているので買ってみたことはないが、見ただけでもう不味そうというか、いくらやってみようと考えても実際に買ってみるコンジョがでない。 ローソンで売っているような三角むすびが、あのままの包装で売ってある店もあって、たいていサーモンとツナです。 ツナは缶詰のツナをマヨネーズで和えてあるもので、多分、誰かが日本に遊びに行って味をおぼえて、自分でおいしかったものは他人も好きだろうと考えてつくっている。 サーモンのほうは、オダキンに笑われてしまったが、巨大なナマのサーモンが入っていて、全体として思想として誤っているというか、三角にして海苔で巻いたインサイド寿司、というような様相を呈している。 … Continue reading

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ノーマッド日記21

浜辺のベンチに腰掛けて、キッシュをふたつに割って半分ずつ食べたら、モニが「仲の良いおじいさんとおばあさんの夫婦みたいでいいね」と笑う。 見返ったぼくはなぜモニが微笑っているのか、もう忘れていて、ただ笑顔のうつくしさに見とれている。 ボケ老人みたい。 楽しいときがあって悲しいときがあって、がんばってみたり、めげそーになったりしながらここまできた。 海岸の遊歩道を歩いてゆくひとびとは、自分が生まれてからいままでに出会ってきたひとびとのようで、自分の個人の歴史がぞろぞろ歩いて移動しているような気持ちになる。 前にアスペルガー人とゲーマー族について書いたが、 https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/10/09/asperger_gamers/ クライストチャーチに銅像が建っている、南極点からの帰り途に死んだ探検家ロバート・スコットはアスペルガー族で、「南極に到達する意味」に徹底的に拘泥した。 重装備の科学機材を最後まで捨てず、そのために遭難する。 その探検隊の、科学的意義に細部までこだわる厳格な雰囲気は、ぼくが子供だった頃に夢中になって読んだチェリー・ガラードの「世界最悪の旅」 (Cherry-Garrard, The Worst Journey in the World)に詳細に描かれている。 数少ない探検隊の生き残りだったガラードの文章には、人間の一生に意義を見いだそうとする人間たち特有の、融通のきかなさ、超人的な忍耐と勇気、誇りのために死のうとする決意、さまざまな人間の特性が凝縮されて表出されている。 スコット隊と南極点到達を競争して楽勝したロアール・アムンゼンのほうは、典型的なゲーマー族で、与えられた「極点到達」に必要のない探検要素、装備や思想は徹底的に削ぎ落としてしまう。 科学的な学術調査などには目もくれず、軽装備を犬橇に乗せて、投機的な最短ルートを選んで、さっさと極点に到達して帰ってきます。 もちろん探検家としてはアムンゼンのほうがスマートで正しいが、なんども両者が残した記録を読んで、子供わしはやはり人間はスコットなければならないのだ、と考えたことがあった。 アムンゼンじゃ、ダメなんだよ。 なぜかは、わからないが。 人間が生きてゆくというゲームの勝者たるには、法律や規範や、あるいは道徳を含めてすらルールを守るだけではダメで、自分が自律的に課したルールによっても制約されなければならない。 知的世界の地面に顔を近づけて、頭から、どんどん垂直に掘って、ついには、空中で逆立ちした足をばたばたさせながら、ときに上半身が自分が掘った立て穴にはまって窒息死するに至るアスペルガー人たちは、ほっておいても、自分に自分の特製ルールを課してしまうので心配する必要はないが、子供のときから、体積を問われた正四面体を見た途端に、その一辺を各面の対角線としてもつ「さいころ」を思い浮かべて、計算することすらなしに正四面体の体積をものの1秒もかからずに答えてしまうタイプの知性をもつゲーマー族にとっては、人間の一生は、つねに表面が滑走可能なつるつるしたものになりうる。 モニに会わなかったら、いったいどんな一生を歩いていただろう、と考えると腋の下に冷たい汗をかくような気持ちになる。 ぼくは次々にステージをクリアして、もうすっかりゲームに飽きているのに、画面の左上で、後ろでプレイ画面をのぞき込む人達がどよめくほどの桁になったクレジットと、勝利の惰性で、最終ステージがプレーヤーの自身の死でしかないゲームを遊び続けていたのではなかろーか。 こうして見上げている空には意味はないし、今日はずいぶん潮流が速い海ももちろん、ただ意味性とは何の関係もなく「そこにある」だけなのに、人間だけが、一瞬間も休まずに考えて、鬱勃した気分に落ち込み、晴れ晴れとして昂揚した気持ちになり、自分がやっていることの意味を考え、自他の行動の細部までを点検して、評価していく作業をやめない。 自分が生きていく意味はなにかと自分を問い詰め、無数にある「自分自身」から、ひとつを選び取って、ドアを開けて、深呼吸をひとつしただけで、跳び込んで行く。 でも、それをさ、とモニの眩しい笑顔を見ながら考える。 むかしは、ひとりでやってたんだよ。 なんだか信じられないことだけど、ぼくは、ひとりで、 ひとつのベッドで隣に誰かが眠っている週末でさえ、 たったひとりで、自分の、個人には支えられる限界にまで育った巨大なこの宇宙への意識や、どんなに単純化しようとしても、どうしても迷宮の複雑さが残ってしまう世界と交渉しなければならなかった。 振り返って考えてみて初めてわかるのだけど、もう、あのときが限界だったに違いない。 ラスベガスで大負けに負けて、赤い砂漠の岩の上で、仰向けに寝転がっていたぼくは、自分の真上に広がる大空を、もう見てはいなかった。 ただ背中の岩の灼熱を感じていただけでした。 寒いから、もう行こう、とモニが述べて、ふたりで紙袋とソビエをゴミ箱に捨てて、海辺の道を、ふたりでモニのクルマまで歩いていった。 いつのまにか遊歩道には人影はなくなっていました。 もうすぐ、春になる。

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日本語メモ1

考えてみると、最後に日本に行ってから5年経っているので、もう日本のことがちゃんと思い出せなくなっている。 細部などはみな消去されてしまっていて、ときどきツイッタで紹介されている画像をみると、空が綾取りの糸のようにたくさんある電線に幾十にも分断されていて、こんなにすごかったのか、と感心する。 もっとも1999年に、5年間日本に行かなかったあとで、日本に行ってみたら、歩いている人がびっくりするほど小さくて(←チョー失礼)、頭のなかではもっと背が高いひとたちの国だったので、日本という国全体が縮んでしまったような、不思議な気持ちになったことがあった。 いま書いていて初めて気がついたが、あれはきっと子供のときの記憶が自分の意識からは見えないところで作用して、視点の高さかなにかで、日本人はアジア人のなかでは背が高い人たちなのだと思いこんでいたのだと思う。 日本との関わりは、ほぼ純粋に「日本語」だけになってしまった。 日本語が母語の義理叔父や従兄弟とも、ふだんは英語で、ときどき日本語を混ぜてふざけて話すが、義理叔父が酔っ払ってスカイプで日本語で話しかけてくるとき以外は日本語を話し言葉として使うことはない。 ヒマさえあればブログやツイッタで年中メンテナンスをするが、口語と話し言葉は異なるのは当たり前で、どうも、いろいろなことを言いやすくするために工夫した大庭亀夫式日本語が、ますます特殊になって、話者がひとりしかいない日本語から分岐したガメ語みたいになっているのではないかしら、とおもうことがある。 日本語のおもしろさは、未完成な言語の面白さで、たとえば20歳の人間の言葉で話すと、この世界のさまざまなことについて、うまく話せない。 誇張した言い方をすると、深刻な事柄については20歳の日本人は言語表現的に遮断されていて、たとえば鈍感な若者は「青春の悩み」と言えても、肝腎の言語に鋭敏な感覚を持つ若者は「青春の悩み」という陳腐な言い方で、自分が表現したい深刻な感情を表現できないのは判りきっているので、そこにきて、自分には自分の最深部にある切羽詰まった感情を表現する言語がないことに気がつく。 20歳の人間がもたされているのは「役割語」で、典型が、あの薄気味の悪い「ぶりっ子」語だろう。 日本の社会では、若い女の人は、ほとんどの場合、性的興味の対象以外としては居場所がないので、めんどくさくなってしまえば、おっさんたちや、若い男の目のなかの自分を想像して、その役割を演じてしまう以外には楽ちんに暮らす方法がない。 ちょっと気を落ち着けて考えてみれば判るが、日本語では若い女の人の言葉では、多分、世界の3割も表現できなさそうであるとおもう。 ツイッタで、そのことを述べてみたら、女のひとびとから、 「女の子は、頭のなかで考えているときには女言葉を使っていない」と言われて、ぬわるほど、と考えた。 長年の疑問が解決されてしまった。 あの、表現がむやみやたらと制限された言語で、考えているのに、日本の女の人がたいていは社会の標準よりも高い認識力を示せるのは、思考において女の言葉を使っていないからなのでした。 明治時代にも、日本人は日本語の喪失によって、認識の世界で路頭に迷った人の集団のように蒼惶となって放浪した。 北村透谷の評価が低いのは、ちゃんとした言語感覚があれば判るが、言葉の意味や含まれている情緒がいちいち現代日本語からずれているからです。 言語的な天才であったらしい二葉亭四迷や、もともと詩人であったせいで、返って「散文」を意識して観察を精確に描こうと志した島崎藤村が日本語を建設して、 まだ江戸言葉だった下町の出身で、中国の人がぶったまげるような漢文を書く能力をもち、英文学者でロンドンにも滞在する、という経歴をもつ夏目漱石が日本語の規範をつくった。 知っている人には説明されるのも鬱陶しいとおもうが、この人は「木曜会」というものを持っていて、寺田寅彦、芥川龍之介や内田百閒、野上弥生子のような「日本語表現の名手」は、みな木曜会のひとびとだった。 もうひとつ教科書的な事実を述べれば、森鴎外という当時のエリート軍人が、「翻訳調」の日本語のドアを開いた。 二葉亭四迷は天才すぎて、翻訳が翻訳にならずに日本語になってしまったが、森鴎外の便利な話し方は、文体が途方もなくかけ離れていても、意外や、大江健三郎の話し方に直結しているように見えます。 日本語には言語としての癖があって、表現できない部分をカタカナによって緩衝してしまう。 カタカナ外来語が、それが由来した言語に翻訳しもどすことが不可能なのは、もともと意味できなかったことを漠然とした類似や誤解でカタカナにして置き換えているからで、例えばナイーブでスマートな青年という、観念ではなくて具体的なものごとの描写であるはずの、戦前からありそうな日本語でも、よく考えてみると、なにも意味していない。 日本語の「曖昧さ」とは言語として恣意的に曖昧にもっていける能力もなくはないが、どちらかというと、もともと日本語では表現できない部分からきているのだという気がします。 ずっと前に麻生太郎という政治家が「ナチの手口で」と述べたことがもれてニュースになっていたが、この老人が意味しようとした内容もニュースになるくらいの非常識を含んでいるが、関心を惹いたのは「手口」という言葉の使い方のほうで、「犯行の手口」とは言えても「自分達の政治の手口」とは本来言えない。悪事であると話者が考えていることのみに使える単語のはずで、文脈として、表現が指示したい事柄の内容からずれてしまっている。 一般に安倍政権の閣僚たちの発言は、同じような日本語の誤用が多いのが特徴で、正しく表現されていないのは、不正確な言葉で考えているからだとしか結論のしようがない。 ちょうど日本人で英語を学習した人が、英語で考えて話せるようになっても、「難しい」、つまり表現と語彙が欠落した部分に思考がいきあたると、慌てて母語の日本語に逃げ戻って、日本語で考えてみなければならなくなるのと一緒で、誤表現に満ちた語彙は曖昧で誤った思考しか導かない。 やたらと計算間違いを連発したあげく、月に行くはずが成層圏から地上に落っこちてきてしまった高校生の物理の答案のようなものです。 日本語の外側に立って日本語を観察すると、日本語で表現できる事象は年々範囲がせばまっている。 第一の理由はここまで日本の文明を支えてきた「翻訳文化」で、英語を使って、インターネット以前の、目分量でいうことではないが感覚的にいえば、50倍くらいにはなっている情報量を翻訳という細いパイプでは日本の外の世界から日本語の壁の内側へ運びこめなくなっている。 もうひとつ翻訳は作業の性格が本来「不可能作業」で、もともとは出来ないと判りきっていることを、なるべく目的にかなうように、これも数字を使って表現すれば10%を70%にするように翻訳者が自分の言語的な運動神経を動員して努力しているだけであるとおもう。 言語が本来、他の言語に置き換えられることを拒絶している存在であることは、たとえば小説ならば、誠実な逐語訳につとめればつとめるほど、もとの文章から遠のいてゆく、という有名な翻訳の性質を考えてみればわかりやすい。 翻訳の不可能作業性から来る問題以前に、そもそも英語そのものを理解するのが(多分、文化と言語のおおきな隔たりのせいで)たいへん難しいらしいのは、日本の英語の「専門家」たちが安倍首相の靖国参拝に失望してだしたアメリカ大使館のステートメントに対してみせた、バカバカしいといしか言いようがない反応をみれば判る。英語が母語で日本語が理解できる人間は、当の日本の人たちが想像するよりも遙かに多い数なので、フォーラムを覘いてみたら、ひとしきり日本の「英語専門家」のバカっぷりを楽しんでいたようだったが、日本の文明のことを考えれば、日本の人たちのほうは、そうそう笑っていていいようにも思えません。 翻訳は、本来、ラテン語ならラテン語を母体にして、教養を得ることができなかった階級の人々のために、近縁な欧州語間で言語を変換するために作られた技術で、たとえばフランス語から英語に翻訳するにも、照応する定石が無数に存在して、翻訳で読んでいるほうも実は原語でも十分読める読者が多いので誤解が少ないという事情がある。 それ以外の遠大な文化距離をまたいだ翻訳はArthur Waleyのような度外れた言語的な天才を別にすれば、主に軍事的な理由で開発された技術で、二葉亭四迷のロシア語やドナルド・キーンの日本語は、このカテゴリに属している。 どんな解決があるだろうか? ひとつには「インド的解決」がある。 … Continue reading

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補給線という最前線

アフガニスタンで戦う海兵隊員のあいだで最も人気がある兵器といえば Javelin https://en.wikipedia.org/wiki/FGM-148_Javelin でしょう。 いまちょっと日本語のページをのぞいてみると「対戦車兵器」と書いてあって、もちろん英語でもfire-and-forget anti-tank missileだと書いてあるが、些細な点といってもそういうところが翻訳というもののオモロいところで、バズーカのむかしから、アメリカ軍は対戦車兵器を対歩兵兵器として使う習慣をもっていて、なんだか「タイセンシャ」と述べた途端に戦車にしか使わない印象をもつ日本語人と、違う印象になっている。 ジャベリン、つまり投げ槍という名前がついたこの兵器は、戦車など持っていない、主な機動力がホンダのオートバイであるタリバン兵相手にどんな使われ方をしているかというと、ライフルの射程より遠いところにいる敵を殺すのに使う。 ライフルの射程よりも遙かに離れたところから、たとえばモーターを撃ってくる敵に対して使います。 世界のアヘンの90%以上がアフガニスタンで栽培されて、アフガニスタンのおしもおされもせぬ主要産業で、タリバンは、ひとつひとつのグループが麻薬シンジケートの性格を持っている。 民衆に心情的に支持されているとはいえないタリバンが、いったん制圧されたかにみえたあと、あっというまにアフガニスタンのほぼ全土を取り返してしまったのは、つまりは麻薬ディーラーとしてのカネの力で、メキシコの状況と似ていると言えなくもない。 ケシの栽培にはおおきな面積の平地が必要で、自然、タリバンの掃討に向かう海兵隊員たちは、例のOspreyで戦場の徒歩圏内に運ばれたあと、石で出来た民家/コンパウンドから民家へ、広大なケシ畑に全身を露出して歩いて移動することになる。 その海兵隊員たちをタリバンは銃器の射程ぎりぎりのところから付近に点点とある民家の石壁を穿ってつくった銃眼から、あるいは点在する並木の下に潜んで狙撃する。 2,3分射撃すると、オートバイや徒歩で、移動してしまう。 死体も、薬莢も、それどころか飲み水がはいっていたペットボトルすら残さないのは、米軍は各小隊ごとに指紋照合データベースの端末をもっていて、絶えずタリバンメンバーの指紋を収集し照会しているからです。 ものすごく高価だが、海兵隊員に人気があるJavelinが掃討作戦にあたる小隊に一個配備されることになったのは、そのためで、アウトレンジからコンパウンドごとふっとばしてしまえる。 海のようなケシ畑のなかを、常に移動している姿のみえない敵と戦いながら、民家や、民家の地下につくられた麻薬製造工場と武器弾薬貯蔵庫をひとつずつ破壊してゆくフラストレーションが高い作業が海兵隊のアフガニスタンにおける「作戦」の内容で、タリバンが戦力を急速に失いつつあるのも、逆に、支配領域は急速に回復しつつあるのも、「浸透はするけれども確保はしない」、人的被害を最小にするための、このアメリカ軍の旧ソ連軍の二の舞にならないために工夫された新しい戦略によっている。 日本での「兵士の派遣」についての議論を観ていて奇異におもうのは、想定している戦場が大時代なことで、あれでは誰がみても、やはり戦争に対する思想が滑稽なほど時代遅れの人民解放軍のみを想定しているとしか思えないのに、人民解放軍の中国が仮想敵国ならばまったく必要のない集団自衛権をしゃにむに実現しようとしている点です。 ついでに余計なことをいうと、国会で答弁に立ったりしている元軍人は、温厚な人に見えたが、上に書いたようなことは、軍人の常識として知っているはずなのに、それは黙っていて、あたかも現代の戦争が第二次世界大戦の戦争思想で戦われているような錯覚を日本の国民に与えているとおもう。 PBSがあって、戦争賛美ふうのFOXもあれば、CNNの特集がある、旧来からのネットワークも折りに触れてドキュメンタリをつくる。 アメリカならば、たいていの国民は、アフガニスタンやイラクで、どんなふうに戦闘が行われるか知っている。 視覚的に理解しているので、戦争に対して的外れでないイメージを持っている。 キーワードは「姿を現さない敵」「至る所にしかけられた地雷やIED」 https://en.wikipedia.org/wiki/Improvised_explosive_device で、ブービートラップで手や足をふきとばされる兵士の、あまりの数の多さに辟易したアメリカ軍が、最近は、民家にはいるのに門扉を開くことはせず、支援戦車が体当たりして石塀を壊すか、プラスティック爆弾でふきとばして敷地に足を踏み入れる。 勘のいい人はすでに気がついたと思うが、戦争の形態が会戦の対極にあるような、少しずつ敵の生命をそぎ落として戦意を喪失させることに集中したものになっていくと、もっとも狙われるのは補給線で、補給兵です。 アフガニスタンでは補給部隊が襲われると、20〜25分でガトリング砲 https://en.wikipedia.org/wiki/M61_Vulcan を装備した重武装の攻撃ヘリが支援して掃討する仕組みになっている。 それでもアフガニスタンのようにごくごく限定された地域で、言葉がわるいが国際社会への言い訳のような掃討作戦を行っているうちはよくても、完全に制圧した地域の内側の回廊をとおっていける、こういう特殊な場合から一歩でもでて、通常の浸透作戦にはいると、真っ先に狙われておおきな被害をだすのは補給部隊で、狙う側のタリバンやISIS側から考えれば、当然すぎるほど当然なことにすぎない。 たとえばアメリカ軍の標準では、日中は華氏140度(摂氏60度)を越える地表温度の両地方を行動する兵士のために、一日6リットルの水を飲むことを義務づけている。 義務づけている、と書いたが、兵士のほうでは、義務どころか6リットルでは全然足りないので、少しでもいいから増やして欲しい、と言っているようです。 二週間単位の掃討で、10人にひとり程度の兵士が熱中症になってメディックのヘリコプターで後送される。 この飲料水と弾薬だけでもたいへんな補給量で、アメリカ軍はJavelinのような、気が遠くなるような値段の、ぶわっか高い兵器を、2,3人のタリバンを殺すのに使うのを観てもわかるとおり、「湯水のようにカネを使って自国人の兵士はひとりも戦死させない」方針で戦争に臨んでいるので、現代のアメリカ軍はベトナム戦争当時に比べて比較にならないおおきさの巨大な補給部隊を持っている。 ところが、アメリカ軍に正面から立ち向かう戦力を持つ軍隊など、この世界には存在しないので、相手側は、自然、この補給部隊を攻撃することに専念することになる。 補給部隊は海兵隊の将校たちが「マリーンは軍隊の性質として、圧倒的に攻撃的」と述べるように、捜索して攻撃して殺せ、と徹底的に教え込まれる海兵隊の一線部隊とは異なって、自発的に攻撃をすることは定義上もありえないので、上に述べた理由で危険なこの任務を「防衛専門の日本軍にやらせればいいではないか」という議論は、ベトナム戦争の昔からあります。 第一次湾岸戦争では、日本が、この補給の任務を断ったので、前線ですら「同盟への裏切り」と感じる兵士が多かったとも聞いている。 いまの憲法を無視してまで進めている「戦争法案」が平和のための法案だというのは、単なる言葉の遊びで、言っている方も自分が述べていることを自分で信じるほど頭がわるいわけではない。 おおもとにあるのは第一次湾岸戦争の戦費をほとんど日本一国で支出したといいたくなるくらいのオカネを拠出したのに、クウェートの「友人諸国への感謝文」の長い国名のリストには日本が含まれてさえいなくて、呆然として、国としての最大の恥辱をうけとった政府の苦い記憶だとおもいます。 だから支援部隊に限る、というのも70年鍵をかけられて、戸口に錆び付いて、壁のいちぶになってしまったかのような重い戦争へのドアを、なんとかしてこじ開けるための方便、簡単にいえば嘘なのだろうと推測するが、仮に支援部隊に限っても、最前線と補給線の差は、担当する兵士に必要な訓練の差であるだけで、危険度においては変わらない、というよりも現状は、ほんの少し敵側に踏みいっただけで前線部隊よりも補給部隊の死傷率のほうが高いことは、特に軍事知識がなくても、直感的にわかる。 マスメディアによる現代の戦争についての、視覚的な情報の共有がない社会で戦争に関わるいかなる取り決めをすることも危険なのは、だから、言うまでもないことで、日本政府のいまのやりかたはフェアでないなあーとおもう。 … Continue reading

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ドアを閉めて

ひとりで、なんだかぼんやりしている。 この頃、ミトコンドリアの機能のことを調べてばかりいるので、そのついでで、血糖値を調べるキットを買って、左手の人さし指や薬指からは、よく針で突いた血がにじんでいる。 糖尿病の人の反対で、なんだかものすごい低血糖で、たしか日本では異なる単位を使っているのだと思うが、4.0mmol/Lとかで、自分が正常値とは云っても低血糖症に極めて近いのを初めて知った。 あるいは、中世の魔術師のように、投資のリスクを、上限と下限を数学的に表現しようとして、歯痛をこらえる哲学者のような気持ちで、いくつもグラフを描いている。 新しいことばかりやってみる人間の常で、ときどき自分がやっていることが、たとえば過去の記録からロトの当たりナンバーを予測しようとしてでもいるような、バカバカしい試みなのではないかと、ふと思う。 実際、妄想的な試みなのかも知れないが、でも、まあ、時間がふんだんにあるんだからいいや、と考えなおして、また、数学の言葉でオカネの言葉を翻訳する。 海図を広げて、深度や、岩礁や、陸地の形から予測される風や、夜をすごす入江の形や向きを研究することは船乗りの基本で、人間の一生は、とても船乗りの生活に似ている。 400hpのCummins http://www.cummins.com/EngineBusiness エンジンをふたつ積んだパワーボートよりも、ヨットのほうが人間の一生に準えるには相応しい。 ヨットをよく判らない人は、艇体が風まかせなのだと考えるが、そんなことはなくて、吹いている風にどう対応していくかがヨットのおもしろさで、こわさでもある。 向かい風でも前に進める。 秘密は、真っ向から風に向かわないことだと思う。 あるひとつの時代に生きている人間は、その時代のもののけのようなもので、 ガーゴイルのように建物の階(きざはし)で、腰掛けて、世の中で起きることを見つめていたり、あるいは門柱で、向かい合って、自分が守るべきものの、意志を表示していたりする。 自分が何の精霊であるか、精霊は自身では知ることがないので、いつも困惑しながら生きている。 考えてみれば、意識を持つ生き物が、自分がなんのために生きているかを知らないのは滑稽でもあれば、残酷なのでもある。 人間の存在は悲哀そのものだが、その悲哀は滑稽に由来する。 モニさんと会って、人間の魂の自動システムが稼働しはじめて、例の、どうやってもその人のことしか考えられない毎日が始まって、マンハッタンのボロいアパートでコーヒーを淹れていても、大好物のきゅうりのサンドイッチをつくっていても、頭のなかはモニでいっぱいで、本を開いていても活字は目にはいってはいなくて、ひどいときには信号を忘れてクルマに轢かれそうになったりしていた。 運が良くて、思い切って話してみると、モニも同じで、あの寒い雪の日に22ndの交差点で、Will you marry me? が壊れた、誤っているフランス語の、変な言い回しの求婚をして、クラクションを鳴らすドライバたちに祝福されて、モニさんが頷く代わりに飛びつくような抱擁で応えて、その瞬間に、人間は生きる意味を探すようには出来てはいなくて、生きる意味を決定するように出来ているのだという簡単な事実を発見したのだった。 なんという愚かさだろう、といま思い出しても、おなじ感想を持つ。 あの瞬間まで、自分が生きることの意味を「探して」いたことについて、です。 自分は誰なのか、どんな人間で、自分はなんのために生きているのか、 ムダな疑問を繰り返して、朝まで起きていて、ノートに考えを書いてみたり、アパートの窓から明け方の町を見渡して、さてこの町には、まだ会ったことはないが、会えなかったらどうすればいいのか判らなくなるような友達が何人住んでいるのだろう、と考えたり、急に、自分の思考のこの限界は語彙にあるに違いないと考えて、死語を含めた、というよりも死語を中心にした、膨大な語彙を築いたりした。 それまで、まったくといったほうが良いほど興味がなかった「語学」に興味をもちだしたのも、その頃のことだった。 自分は自分で、他の人間が自分をどう思うか、と考えたことがないのは、というよりも、他人の目のなかに映る自分が自分である自己認識が存在するということを知ったのが、そもそも日本語を学習した以降のことで、もちろん英語社会にも同じようなことはあるのだろうが、育った社会の歴史と仕組みのおかげで、自分が宇宙の中心にいる育ちかたをすると、社会は自分の内部からまっすぐに、外に向かって延びる自分の視線だけで出来ている。 最も重要なのは自分自身で、他人は自分が充足したときに初めて視界に生じる。 自分が満ち足りて、ふと周りを見渡して、他の人間を幸福に、あるいはそれがおおげさならば、ほんの一分間でもよいから、冗談を述べて、あるいは身に付いた自虐の技術で、楽しい気持ちに出来ないかとおもう。 ところがモニさんを大好きな気持ちは、自分をまるごと転覆させてしまって、自分自身への配慮であるよりは、モニさんのほうが自分よりも大事になって、なんだか世界が逆さまになってしまったような、奇妙な混乱を自分にもたらした。 自分の手は、ほんとうに自分のものか? あの、立っているときには、少し遠くにある、スウェードの靴をはいた自分の足は、ほんとうに自分の足なのか? まるでモニに奉仕するために出来ているような、肉体の全体は、たしかに自分の身体なのだろうか? 認識が壊れて、認識が崩壊すれば、認識が現実なのだからあたりまえだが、現実の世界そのものが、音を立てるように壊れてしまう。 ひとりで、なんだかぼんやりしている。 コーヒーの入ったマグを手にしたきみが、なんだか世界が閉ざしてしまったドアの前で佇む人のように、寄る辺のない気持ちで立っているのが、その気持ちが、そのまま判るような気がすることがある。 錯覚なのだけど。 きみもぼくも、ほんとうは存在していなくて、椅子に腰掛けて、ぼんやりキーボードを叩いているぼくも、窓際に立って通りを見下ろしているきみも、ほんとうは幻で、神様が部屋からの出がけに壁のスイッチを切ると、 … Continue reading

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3分前

今年は地震の後始末で何度もクライストチャーチにでかけた。 何事につけ「遅れている」田舎国ニュージーランドも、おっとり刀で、iPhoneで航空券の購入からチェックインまで全部できるので、クルマで「ぶー」と空港まででかけて、屋内駐車場に駐めて、すたすたすたと搭乗ゲートに行けばいいだけなので、ボーディングパスもiPhoneで、東京で地下鉄に乗るようなものだと言えなくもない。 迎えのクルマに乗って自分の家に行く途中、むかしニュージーランドの夏になるとボロい冬天気の北半球からやってきて滞在したときに見覚えた通りが、どんなふうに変わったか見るために、寄ってもらう。 Bryndwrという、まともな舌をもった人間なら絶対に発音できないウエールズ語の地名がある町とフェンダルトンのあいだに、(UKでは長いあいだ冨の象徴だった)レンジローバーを家の前の通りに駐めてある家があって、 「まだ、あそこに住んでるんだな」と、なんとなく可笑しい気持ちになります。 少なくとも20年、住んでいることになる。 いまはバブル経済が長く続いて、そういうわけにいかなくなってしまったが、一生の間に11回、家を買い換えて引っ越す、と云われたニュージーランドでは珍しいことです。 「ガメ、なに笑ってるんだ?」と後席のモニさんが訊くので説明する。 あの家の主は、出勤する前に毎朝必ず買ったばかりのレンジローバーを車庫から出して、通りに駐車させる。 それからフォードで出勤する。 帰宅すると、夜、寝る前にレンジローバーを車庫にいれてから眠るんだ。 ガキわしはむかし、目ざとく、この奇妙な人の習慣に目をつけて、自転車でノースランドモールに出かけるのに、わざわざ、この通りを選んで行ったりした。 「見栄」というものの力の強さを学んだ初めであると思います。 Keeping Up Appearancesという、連合王国やニュージーランドではたいへん人気があったBBCのテレビコメディドラマシリーズがある。 題名どおり、見栄をはって、しかもイギリスの良俗にかなうsubtleな周囲との差を作り出そうとして、七転八倒する主婦の話で、クリケットの試合中継やテニスマッチで、ラウンジで家族全員で観るとき以外はテレビは観ないことになっていたロンドンの家とは異なって、割と簡単にテレビを観て良いことになっていたニュージーランドの家では、ときどき観ていた。 オーストラリアでも人気があったというが、見栄を張る傾向が連合王国人やニュージーランド人に較べると明らかに少ないオーストラリア人にとってのドラマの可笑しさと、まるで自嘲しているようなUK人やNZ人にとっての、自分の心にちくちくする可笑しさとでは、意味がおおきく異なっていたのではなかろうか。 見栄と嫉妬は、連合王国とニュージーランドの生活のおおきな部分を占めていて、これみよがしにオカネモチ風なのは、全然ダメで、たとえば、いまの、フォードにジャガーのバッジをつけただけであるようなアホなデザインになる前のジャガーとデイムラーの違いを見ればわかるが、外形は、ほおおおおんの僅かに異なるのでなければならないので、パジャマで最高価格のメルセデスを乗り回すのがカッコイイ、中国のオカネモチとは発想が別のものです。 (言わずもがなのことを付け加えると、わしは、中国のオカネモチの見栄のほうが安心してみていられる。 近所に越してこられるのは嫌だけど) 普段は努めてニュートラルにしている英語のアクセントを相手に失礼を感じると、ほんの少しだけ強くすることがある。 あるいは普通のUK人が使えば吹き出されてしまうような古色蒼然とした表現をわざわざ挟んでみせる。 見栄があれば、その反対側には嫉妬があって、人間にとって最もコントロールしにくい感情がこれで、文字通り人間を狂わせてしまう。 クルマの話で始めて続けたのでクルマで終始すると、買った本人は、エンジンルームから、遠くから響いてくるようなクオオオオンとカタカナならば書きたくなる、あの誰でもがいちどは好きになるBMWのエンジンの音が好きで買っただけでも、嫉妬の人は必ず「あいつは見栄で高級車を買ったのだ」と解釈する。 おおきな居心地の良い家も見栄で、快適でデザインのよい服も見栄、自分を解放する原動力のようなボートもヨットも見栄で、どうかすると学問まで見栄であると見なす人もいる。 富裕であること自体が見栄で「この世界はオカネだけではない」と、切った手首から血が流れているような無惨なことを言う。 心が悪鬼に乗っ取られたようになって、住んでいる実生活の世界が、そのまま地獄に変容してしまう。 日本が見栄と嫉妬の社会に変容したのは、ちょうどサムソンとLGが英語圏、特に太平洋に面した町々の家電店の店頭を席巻して、ソニーショップに人影がなくなり、東芝や三菱、最後まで残っていたパナソニックの文字が店頭から姿を消したのと同じ頃でした。 通りを「嫌韓運動」のひとびとが練り歩きはじめて、四谷の上智大学のそばで、用事があって麹町に来ていた、のほほんとした様子のイギリス人のすぐそばで、「韓国人は死ね」と叫んでいる日本人たちを、びっくりして眺めていたブラジル人たちの足下に唾をはいて、「出て行け」と怒鳴ったりしだしたのも、たしか同じ頃だったのではないだろうか。 あるいは、たねを明かせば、神保町の大規模書店の店頭で撮ったという、平積みになった「ベストセラー本」の画像と一緒に、 「自分の住む社会がここまで落ちぶれるとは思わなかった」、やりきれない、とユーウツに考えている顔が目に浮かぶような、まだ日本にいて大学教師をしていた頃の友達のemailを読んで書いた 「鏡よ、鏡」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/12/18/mirrorx2/ で述べたことを、もう少しストレートに言うと、 「自画自賛文化」を作り出して、ありとあらゆる発言が、下は最下層のネトウヨ人から上は首相に至るまで、見栄と嫉妬だけで出来ているように見える社会に日本がなってしまったのはなぜだろう?とよく考える。 自分は正しい、おまえは悪い。 自分は優れている、おまえは劣っている。 うるさいなあ、おれに都合が悪いことは全部ウソなんだよ。 子供のときの日本でのチョー幸福な記憶と、小泉八雲の寂しくて美しい物語と、精霊の力に満ちた宮崎駿の映画とで出来ている、わし頭に存在する日本と、 … Continue reading

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ラーメンと餃子

医者なんか向いてなああーい、と考えて医学の勉強は途中でおっぽりだしてしまったが、最後のほうまで勉強はしたので、一応、調べながらならば、本を書いている人がなにを言っているかくらいは判らなくはない。 福島第一事故の影響がどんなものになるだろうということには、 英語ではcut cornersというが、文明に、 きちんと手続きを踏む習慣がない、日本、韓国、中国のような国々が、要するに遅延化した核分裂でデカい薬罐のなかの水を沸かして、そのエネルギーで発電するという、技術思想が古いのだから仕方がないが、いかにもマヌケで、マヌケな技術の宿命によってチョー複雑なシステムを運営して、次の爆発事故が起きないわけはないので、強い関心がある。 相変わらず、ときどき調べてみるが、そうしているうちにミトコンドリアの機能低下という問題を経由して、糖尿病という病気にいきあたって、サイドトラックで、今度はしばらく糖尿病について読みふけってしまった。 そのサイドトラックの、そのまたサイドトラックで、日本ではなぜ炭水化物に偏った食習慣なのかしら、と考えた、というのが、この記事のヘロヘロした主題です。 主題なんて、あったのか。 よろめきながら散歩してるだけなのかとおもっていた。 もともとラーメンは好きでないが酔っ払うと義理叔父が帰りに必ずラーメンを食べたがるので、なにしろ酔っ払ったあとに当時の義理叔父の家があった鎌倉まで横須賀線で行くのは嫌で、タクシーに便乗する必要があったので、義理叔父のお供をする場合には、ラーメン屋に行く必要があったのは前にも書いた。 深夜なので「香妃園」の鳥そばとか、そーゆー店です。 香妃園でもチャーハンを一緒に頼んでいる人が多かったが、他のラーメン屋でもラーメンと餃子を一緒に頼んでいる。 鎌倉のラーメン屋では、ラーメンとライスを一緒に頼んでいる人もいる。 本人が、おいしいと思っているのだから文句を言う筋合いはないが、 チョー変というか、こっちからはなんとなく得心がいかない。 おそるおそる、わし日本語および日本文明の教師たる義理叔父に訊いてみると、あれは麺と餃子を食べると思うからきみのように間違えるのであって、スープと餃子を食べているのよ、と澄ましている。 説としてもっともらしいが、 なんとなく騙されているよーな気がします。 アジア諸国の人口がおおきいのは米食のせいである、と習ったことがある。 同じ作付面積で小麦が養える人口の5倍だったかなんだったか数字を忘れてしまったが、いっぱい養えるのだと、いかにもイギリス人ぽく、後頭部の髪の毛がいつもピョンと飛び出して突っ立っている、風采のあがらない教師が述べていた。 ひとはパンのみにて生くるものにあらず。 あれは、そういう意味とはちゃいまんねん。 主食、という不思議な観念が日本にはある。 ライスでステーキを食べても、ライスよりはずっと高価なはずのビーフステーキが脇役で主役はあくまで米なので、ステーキさんはたいへん不満なのではないかと推測される。 同じ「西洋」という大部屋出身のパンならばステーキが主役かというと、調べてみたことがあるが、不思議にもパンのほうが主役でした。 なぜか。 「そんなの、江戸時代には米が通貨だったからに決まってんじゃん」という人がいるだろうが、まあ、そうなんでしょうけど、いいじゃない、疑問を持つくらい。 明治時代、脚気に悩まされて、死者まで出した日本帝国陸軍は、どうもこれは「白米」中心の食事がダメなのではないか、と考えるが、当時の栄養学の権威、専門家ちゅうの専門家だった森鴎外が「ぶわっかたれめが、素人がニセ科学を信じてくだらぬことをぬかすと真正科学教会の異端審問にかけて菊池先生にコチョコチョさせるぞよ」と激怒したので沙汰やみになってしまった。 脚気の原因は、ほんとうは当時は「非科学的な仮定」にしかすぎなかったビタミンB1の不足だったので、真正科学教の権威に従ったせいで、兵士はますますえらい勢いでバタバタ倒れていきます。 帝国海軍のほうはニセでもホントでもいいから現実を観ないとしょーがないんじゃないの?という、お手本にしたイギリス人の、愚かというか、「理論? 理論て本読むの? ああ、じゃ、ダメ、ぼく字読むの嫌いだし」、という態度を継承していたので、イギリス海軍には脚気が存在しないことに目をつけて、よく理屈は判らないが、マネッコをすればいいのではないか、ということにして、白米中心主義を捨てて、それまで「銀シャリ」だけを楽しみに厳しい訓練を我慢してきた水兵たちが叛乱を起こしそうなくらい不満であるのを押し切って、イギリス風に味のない、チョーまずいビスケットなども取り入れて、あな不思議、脚気患者ゼロになってゆく。 この頃はまだイギリス海軍には水兵に至るまでラム酒をふるまう習慣があったので、わしが海軍軍医なら「ラム酒に脚気を防止する栄養があるに違いない」と主張して、酔っ払い艦隊をつくることに貢献したに違いないが、多分、日本海軍の軍医さんはマジメで、お酒を飲まない人だったのでしょう。 調べてみると、餃子が日本人の食生活のなかで普通のものになったのは、1950年代の初頭のことのようでした。 神保町の「スヰートポーズ」が1935年に始めたのが最初と書いてあるが、一般的な食べ物ではなかったようで、食べ物に関しては万事新しいもの好きだった小津安二郎の「お茶漬けの味」(1952年)には、津島恵子を誘って、デートに連れ出すことに成功した、なんだかのっぺりした顔の鶴田浩二が、 「ね、おいしいでしょう?これ、ラーメンて言うんですよ。近頃、流行なんです」と述べるところが出てくる。 ちなみに(←一度使ってみたかった表現)、このあとふたりは、あまりためらうことなく「おじさん、もう一杯ちょうだい!」と言うが、どうも、これは、この頃までは「うどん」や「そば」は一杯ですます食べ物ではなく、「お代わり」が当たり前だった名残であるようです。 「開業当時、餃子のおいしさと、バラエティと、店員の態度の失礼さでオークランド人をびっくりさせた」と愉快な紹介をされるドミニオン通りの Barilla Dumpling https://www.zomato.com/auckland/barilla-dumpling-balmoral の壁には、「餃子の由来」が書かれていて、それによると餃子は年越しそばに似た、新年を迎えるための食べ物だったそうだが、いまでは焼くか蒸すか茹でるか揚げるか、いずれにしろ、ひとりで20個くらい食べる簡便な昼ご飯で、中華系人も欧州系人も大好きで、みんなが仲良く肩を並べて食べている。 ソースはたいてい黒酢とラー油で、日本の人の酢に醤油をいれる食べ方は、黒酢の代用ではなかろーか、という感じがする。 … Continue reading

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ニュージーランド八景(その1)

ノースショアという。 オークランド市街の北側に広がる住宅地で、1994年だったかにオーバニーモールを中心としたおおきな規模の開発が行われたことで、その前からあるタカプナやワイラウも開けて、最近はとても人気がある。 むかしは新開地らしくサービスがひどくて、まだこのモールができたばかりのころ、かーちゃんが妹をつれて買い物に行くというので、チャアアーンスと心のなかでつぶやいて、わしは、じゃあ、遠慮してここにいますから買い物が終わったら、また会いましょう、と述べて、後ろ姿を見送ってから、ダッシュでマクドナルドに行って、フィレオフィッシュを注文した。 普段は、コーラやマクドナルドを、かーちゃんが蛇蝎のように嫌っていたのを知っていたからです。 ところがフィレオフィッシュ一個つくるのに、どうしたらそうなるのか、20分もかかった。 当然、ばれました。 かーちゃんは笑っていたが、わしは息子として体面を失ったので、おのれマクド、と考えたりした。 開発が進む前は、真っ白な、欧州系ばかりの地域で、そのあとで韓国の人たちが集住しはじめて、いまは留学生やなんかを含めると10万人以上住んでいるとかで、自然、韓国料理屋でおいしい店がたくさんあります。 オークランドのエスニック料理店のよいところは、出身国の店をそのまま出したようなオーセンティックな店が多いことで、衛生基準だけがニュージーランドスタンダードで、マンハッタンと同じで(と言ってもNYCのは割とええかげんだが)、頻繁に行われる衛生検査の結果を店の見える所に貼り出さなければいけないことになっている。 韓国料理屋はたいていAだが、わしが好きなアフリカ人のフライドチキン屋はEになったり、やる気がでて突然Aになったり、またEに転落したりで、観ていてなかなかオモロい。 Eは「食べて病気になっても店やカウンシルに責任を求められない」 「1ヶ月以内に改善されない場合は店を閉鎖しなければならない」とかなんとかで、あのフライドチキン屋の主人は、多分、一気に土俵際に追い込まれるタイプの人生の快感が忘れられないのだとおもわれる。 スンドゥブヂゲ(豆腐チゲ)を頼むと、まず4〜8皿の小皿料理が出てくる。 キムチ、は必ずある。 もやしの「おひたし」みたいなのがあって、牛肉のすじ煮、こんにゃくの、どうしてるんだかよくわからない料理、さつま芋の甘露煮、カクテキ…というようなものが出てきて、全部タダで、お代わりも自由です。 観察していると、ダメなら言えばいいのだよ文化の中国の人たちは、どんどんお代わりを頼んで、どうかすると5回くらいお代わりを頼む人がいる。 そうすると韓国料理屋がわは、少しずつ少ない量をお代わりで出す。 だんだん、限りなくゼロに近づいていくので、観ていて、なんとなく昔、数学の教室で教わった微分の定義をおもいだす。 スープが到着すると韓国の人はだいたいにおいて一緒についてくるご飯をスープにいきなりいれてしまうようにみえる。 中国のひとたちはときどき思い出したようにご飯をスープにつけている。 日本の人は、スープとご飯を交互に食べている。 わしも同じだが欧州系人はご飯を食べない人も多くて、わしなどは、毎度毎度「ご飯はいりません」と述べるのを忘れて後悔する。 スープと一緒にやってきたご飯を観て、ぐわああああ、と考える。 また断るの忘れたやん。 東京では「高くて不味い」印象だった韓国料理がオークランドでは、チョーおいしい料理で、冬になると、韓国料理屋を見つけては、よくクルマを駐めて、モニとふたりで食べにはいった。 韓国の人は親切で、まるで家の客人のように客をもてなします。 英語は上手とは言えないが、韓国語を話してみると、大笑いしながら、直してくれる。 ちゃんと顔をおぼえていて、ハローが、二回目はアンニョンハセヨに変わる。 ふだんから韓国の人や韓国系人を見慣れているので、そう言っては悪いが、東京で「韓国人でていけ」をやっている人が、ひどく頭のわるいマヌケな野蛮人にみえてしまう。 慰安婦議論に至っては、韓国の人は、どうしてあんな議論を我慢して聞いているのだろうとおもう。 日本人は忘れているが戦後すぐには、ごく普通の主婦ですら米兵相手に売春せざるをえない人がたくさんいて、教育がない人間も多かった米兵たちは、売春婦の日本人たちを人間として扱わず、単なる性具とみなして「酷使」する人間も多かった。 繁栄がもどってくると、そういう日本の女の人達は沈黙して、過去を知られるのを極度に恐れたが、たいへんな数で、有楽町のおときでなくても、インタビューも残っている。 慰安婦議論を観ていると自分の母親を売春婦と罵っているような無惨な印象が起きる。 韓国人を殺せ、韓国人でていけ、慰安婦はビジネスでやっていただけだ、と述べる日本の人達は、現実には、韓国系人たちと毎日顔をあわせて、話をして、東アジアの人特有の、陽だまりのような暖かい親切や、明るい笑い声にふれている欧州系人たちに直接悪罵を聴かせているのと変わらない。 英語の解説付きで伝えられる嫌韓運動の様子と、なによりも、それが社会的に許容されていて、いつまでも続いていることが欧州系人たちにショックを与え、日本社会だけでなく、日本人自体と日本文化に対して疑いをもたせて、最近では、日本人の同僚というようなものにまで、まともな人間らしく見えるが、ほんとうの内心の姿は、どうなのだろう、というような疑念を持つ人まで出てきている。 韓国料理屋を出て、橋の反対側にある家に戻る途中で、タカプナにおりて、タカプナの、住宅地が砂浜に張り出している、不思議な高級住宅地のあるタカプナビーチをのんびり散歩する。 新しく出来たニュージーランドらしくない洗練されたバーがあって、モニとふたりでシャンパンを飲んで遊ぶ。 どうせ、いつかは帰るんだから、いまはまだ欧州ではなくて、ここでいいじゃない、ガメ、とモニさんが言う。 モニさんが言うなら、いちもにもないので、いいですよ、と述べながら、わしは、ニュージーランドの空の特徴の、でっかい積雲をみあげています。 シャンパンもおいしいし、まあ、いいか、と考える。 … Continue reading

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言葉と国防

1932年、 ミュンヘンを訪れていたチャーチルに、Putzi Hanfstaenglを通じて、密かに連絡したヒットラーは、クルマから降りて、待ち合わせたホテルのロビーのドアの前まで行くが、変心して「会わない方がいいようだ」と述べて踵を返して帰っていった、とチャーチルの孫、ウインストンSチャーチルが述べている。 この人にとっての父親、ウインストンチャーチルの息子であるランドルフが、そのとき一緒にいたからです。 ヒットラーが自分のほうから望みながら結局はホテルロビーの玄関まで来て引き返したのは、(Hanfstaenglによれば)「チャーチルと議論するだけの自信がまだなかったからだ」とSチャーチルは証言している。 成人する少し前から、ウインストン・チャーチルを薫陶し、直接に保護する役割を担ったのは、一群の、富裕で教養のあるユダヤ人上流社会人だったのと、選挙区のマンチェスターはユダヤ人がたくさん住んでいるので有名な町で、1930年にはもうチャーチルは晩餐の席で、ドイツ大使にしつこいほど、まだ突拍子もない主張をする極右政党から、世界恐慌の混乱に乗じて国民の2割弱程度の支持を受ける政党に変質しつつある政党に過ぎなかったナチについて質問を繰り返して、奇異に感じたドイツ大使が本国に打電するほどだったが、それはヒットラーのユダヤ人政策をチャーチルが現実の危険性を持っていると感じていたからでした。 1930年といえばヒットラーがチャンセラーどころか、まだドイツ国籍すら持っていなかった時のことです。 ウインストンチャーチルは、ミュンヘンを訪れていた当時は、有名なChartwell時代で、もう時代遅れの右翼政治家と見なされて、保守党本部からおっぽりだされ、それまで、ほぼ30年間、常に閣僚でいたのに、平議員に格下げされ、ケントのChartwellの美しい「田舎の家」で庭仕事に没頭している時代だった。 議席はまだ保っているものの「すでに引退した政治家」だと考えられていた。 「戦争屋」という人がたくさんいた。 「ありもしないナチとの戦争の可能性を言い立てる右翼政治家」が、当時のチャーチルに対する一般的イメージだったでしょう。 理念はともかく集団自衛権は、よく知られているように、歴史上では攻撃的に働くことがおおい。 戦争においては自衛という言葉は、ナチがポーランド侵略をはじめたときにも「自衛のためである」と述べたのでもわかるとおり、一種の、体裁をつくろうための軽い修辞にしかすぎない。 効果のほうはどうかというと、フランスがナチに侵略されはじめると、同盟国である連合王国は大陸遠征軍と空軍を派遣してナチと戦い始める。 本来の防衛的理由で集団自衛権が発動されるときは、たいていそういうもので、切迫してゆく戦勢のなかで、フランス首相ポール・レイノーと連合王国の国益はことごとに相反していき、一例を挙げれば、フランスは、「陸の帝国」フランス、「海の帝国」イギリスに続く「空の帝国」であったナチに圧倒されて潰滅した空軍を補うために一機でも多く連合王国の飛行機を必要としたがイギリス側はフランスがもう陥落するのは目に見えているので、一機でも自国の防衛にとっておこうとする。 フランス政権内部も分裂しはじめて、レイノーが休戦派に敗れて辞職すると、連合王国はついにフランス地中海艦隊を砲撃して、同盟の精神から言えば「同士討ち」の形にまでなってゆきます。 ところでポール・レイノーと緊急の会談に急ぐウインストン・チャーチルが列車のなかで書いた手紙は、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトへ宛てたもので、輸送船団護衛のための駆逐艦と十分な準備のない弾薬を「貸して」くれという切実な手紙でした。 フランクリン・ルーズベルトは、あなたも民主主義社会で選出された政治家だからおわかりでしょう、いまのアメリカの情勢で、そんなことを国民に提案することはできない、アメリカ人は平和に生活したいのです、と返事を書いて、チャーチルをひどく落胆させます。 余計なことを書くと、後年はふたりとも取り繕って、やや異なるストーリーに書き換えてしまっているが、当時のフランクリン・ルーズベルトの英国観におおきな影響を与えていたのは、駐英アメリカ大使のジョセフ・ケネディで、このひとは戦後のアメリカ大統領ジョンFケネディの父親だが、アイルランド系人として、すさまじいまでの憎悪をイギリスに対して抱いていた人で、「まるでアメリカとイギリスを分断するための大使のようだった」とイギリスとアメリカの両方に証言がある。 フランスが陥落し、ヒットラーのアマチュア戦略家としての自信のなさから、突然ダンケルクの直前で停止したドイツ機甲部隊に助けられて、23万人の遠征軍と7万人の自由フランス軍がダンケルクから、文字通り「着の身着のまま」の姿でブリテン島に脱出する。 いつもはオバカな連合王国人が、ここで誇っていいことは、ボロをまとって浮浪者じみた、惨めな30万人の敗残兵をイギリス国民は大歓呼で迎えたことで、上陸したときには自信を喪失していた敗残兵たちは、一歩内陸に向かうごとに、自分を「英雄」と呼んで、食べ物や、服、1パイントのビールまでを差し出してくれる国民の歓声のなかを歩くうちに、打ち砕かれていた、兵士としての、人間としての自信を取り戻してゆく。 フランス兵たちのほうは、敗兵は敗兵でしかなさそうな自分の国との、あまりの国民性の違いに、なんだかボーゼンとしてしまったようでした。 1940年5月14日、いよいよドイツのブリテン島侵攻が誰の目にも明らかになると、アメリカの援助をうける希望を失って、 「GDPと三八式歩兵銃」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/08/08/arisaka-type-38/ の記事で観たように国力の点からも、あるいは長年の軍縮政策が祟って極度に弱体化していた軍事力の点からもドイツと較べると、おとなと子供の違いがある連合王国ただ一国で戦わねばならなくなった国民に対して、ウインストンチャーチルは首相として初めてのラジオ放送を行う。 「I speak to you for the first time as Prime Minister in a solemn … Continue reading

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ブログ

わしのブログの最大の特徴は何年もやってるのに零細であることです。 ときどき一日で7万というようなアクセスがあるが、そういうのはだいたい政治の話とかで、頭のわるいおっちゃん(←チョー失礼な表現)の思考の琴線にうっかり触れてしまったときにどっと人がくる。 別に炎上しているわけではなくて、どうも日本語人は政治や社会の話が文字通り「三度の飯」より好きなようで、もしかすると、そういうことについて考えている自分の姿がインテリっぽくて好きなのかもしれません。 インテリって、死語なのかな。 而して、次の記事のときに来てみると、他人の期待にまったくこたえるということがない、記事を書いている人間のチョーわがままな性格を反映して、モニちゃん大好き♡とか、メッサーシュミットがどうたらとか、ブルースを聴いてみるかい? とか、政治や社会について難しいことを考えたいひとびとの期待をおもいっきり裏切って、たわけたことが書いてあるので、またアクセス数がへろへろになります。 はてなの人々が何千人という単位でやってきて、集団サディズムのアドレナリン全開で、きんぴらやニセガイジンで、こちらも日本社会観察のチャアアアアーンスで、オモロいのでからかってたら、仕事が珍しく忙しいのにもっといっぱい来て、そのあと、アクセス数が「50」とかになって、つまりは名前をもとから知っている、josicoはんやナスやすべりひゆやネナガラたちだけが読んでいるという期間があって、このときは、いろいろ書いて遊べたので、なるほど読む人が増えると、人間は読み手の目を意識してしまうのね、ということを学習した。 はてなの大将だという人が、自分の偉大な英語能力(とドイツ語だかなんだかの能力と言っていたが忘れた)に照らしてニセガイジンであることを証明した、と宣言して、なにしろはてな世界では権威ある大将の言うことなので、信仰して、何年もニセガイジンと喧伝して、何千人という数の自称リベラル知識人みたいなひとたちが、そろいもそろって、あまりに聡明なので、英語で反駁したいのを懸命に我慢して、他の日本語がわかる英語人たちと、ずっと観ていて、みなで、この「はてな知識人」たちの爽快なくらいのバカッぷり(←言ってしまっている)を眺めて、お下品にもげらげら笑って遊んでいたが、去年のクリスマスの頃だったかなんだか、すげー酔っ払ってしまって、うっかり英語をいっぱい書いてしまって、そのときに、このはてな大将がまた誰かを罵倒していたので英語でずっと話しかけて、おかげで、ひくひくしながら、わしの英語が「ニセガイジンの英語であることを証明した」このひとが「歴史修正主義者」を攻撃するときとおなじ、論理もなにもない、おもいこみを、英語人よりもすぐれているという英語力を駆使して、自分がアクセスできるだけの資料を適当にならべて罵声をあびせるときと、はてな人のお供をひきつれて、まったく同じ論法でニセガイジン攻撃を続けるのを、観て楽しむ娯楽がなくなってしまった。 残念です。 カバを3本も飲まなければよかった。 さすがに自分の手で何年も、自分の論理がまったくのデタラメで、ようするにただの糾弾魔にしかすぎないことの証拠を積み上げて、魚拓までとってあったりして、見事に自分で自分の論理のスカぶりを証明してしまったので、まわりから、ひとが何人も立ち去って、 パニクって、わざわざ大庭亀夫を誹謗するための記事を書いたり、別アカウントを使って中傷したりしていたそーだが、人間みたいなものだったのにトロルになってしまって気の毒だと考えもするが、わしのほうは、このひと方面の娯楽はきんぴらごぼうだけになってしまったので、面白くないと言えば面白くない。 とぼけて困ってるふりをして遊んでいた、そのすぐあとで、まったくの偶然だが、きんぴらな、迫力のある論文を英語で書いた人で、正体は旧帝大の[削除・検閲済]の教授だが、この明晰な人と話をするようになったことが、神様が「あんまりいたずらばかりするな。わたしはちゃんと観ているぞ」と述べているようで、おっかなかったが。 ひとつ言い訳をすると尊敬する社会学者の年長の友達が「ガメさんが、なんで、あんなチンカスを気にするのか理解できない」と何度か述べていたが、わしは日本の一部の「進歩的な人間」が底が浅い糾弾中毒者の集まりにしかすぎなくて、ネトウヨよりも学校の成績がよかっただけの違いしかない本質的には同じ性格の集団で、その本人たちには自覚がないケーハクが日本の社会にとって危険であることに関心があった。 国会前に若い人が集まって日本にも、ほんものの自由人の世代がそだったことを示して、あの「市民」な人々が、いかにインチキな天然全体主義者の集まりだったかが社会全体にあまねく了解されてしまったので、だから、もういろいろな人の忠告どおり相手にしなくていいとは思う。 もっとも、世の中は人間よりも常に賢い。 パチモンリベラル人が、さまざまな「自分が気に入らないこと」の糾弾に夢中になっているあいだに、世の中は彼らを追い越してしまって、おなじ自由人でも、パチモン市民とは異なる、まともな自由市民たちがあらわれて渋谷や国会前に集まるようになったことは「世の中」というものの不思議な意思表示だった。 沈没したわけではないが、プリンスオブウエールズ、チャールズ皇太子は非常に趣味がよい人で、ミニクーパーが、あまりに売れないので生産中止になりかかっていたのに、この人がおおっぴらに、あちこちのパーティで、こんなオモロいクルマはないから買ってみろと奨めて歩いたせいで噂になって、一転、ベストセラーになったのは有名だが、他のことに関しても、この性格が著しく悪いおっちゃんは、どういうわけか趣味だけはよくて、「贋作美術館」を持っている。 精巧なニセモノだけを集める蒐集家として、世界的に有名で、非常に良い趣味の贋作を大量に持っています。 このレベルの贋作になると、それひとつで壁にかかっていても、専門家が鑑定しても贋作とは判らない。 本物と並べて、しばらく両方かけておいたあとで、だんだん軽薄な感じがしてきて、ある日頭に来て捨てる、という経過になる。 小林秀雄という人は、大金を払って買って床の間にかけてあった掛け軸を、ある日じっと眺めていて、「これは贋作だ」と気づいて、日本刀を持ってきて、一刀のもとに切り捨てた、と述べているが、鎌倉ばーちゃんの知り合いの、刀剣鑑定にすぐれた人が、 「でもさ、あの日本刀もニセモノだったのは死ぬまで知らなくて幸せだったとおもう」と述べたのでお腹がよじれるほど笑ったりした。 ほんものの自由人が若い人たちの姿で出てみると、それまでの「自由人」たちは、ほんとうは「自由」を標榜する全体主義者で、なにかというと口汚く糾弾する日本の「自由人」の通弊は、つまりは軍隊の下士官が兵隊に平手打ちをくらわせるときの気味の悪いどなり声と同じものだった、ということが、傍で見ている人たちに自然に感得されてしまった。 SEALDsという人達の運動が、政治というものは政治なので、どうなってゆくか判らないが、すでに達成した功績というべきものがあって、ごく判りやすいやりかたで、これまでの日本の「進歩的知識人」および、そのパチモンが、いかにインチキだったかを浮き彫りにしたことがそれだと思います。 日本語が好きなだけの、ヒマなニセガイジンは、日本の社会に現れるのを観たかったものが、実際に観られてしまったので、退場してよいところだが、今度は日本語を通じて友達が出来てしまったので、このブログやツイッタを通して、懇親を深めて、日本語を書くのをやめて、きみが想像するよりも遙かに富裕な、ハンサムで温和で成熟した争いを好まないおとなの、もう少し枕詞を長くしたほうがタイ王室に勝ててよいが、実物をあらわして、たとえばヨットで上陸するとか、なんなら白象に乗って踊りながら現れてもよいが、会いにいくための下準備に日本語で遊んでいたい。 この次の記事は、このあいだツイッタで 「しかし、もう個人預金も事実上吸い上げられて、取られるものはみな取られてしまったので、せいせいした」というようなことを述べている人がいたので、「いやいやいや、そんなことはない。金融の仕組みを利用すれば、こういうふうに国民ひとりひとりに直接借金を背負わせて、もっとアベノミクスをすすめるための投入資金をつくりだすことが出来るのさ」ということを示そうとおもっています。 約束まもる確率とか、知っているとおもうが、3割くらいだけど

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ダグラス・マッカーサーが残したもの

ダグラス・マッカーサーはダメな政治家だった。 仁川上陸に見られるように軍人としては優秀です。 普通ああいう作戦はアイデアとしてはうまくいきそうに思えても、たいてい失敗するが、成功させてしまった。 ああいうことをやられると軍隊としては「相手と自分とでは格が違うのではないか」という気がしてきて、やる気がなくなってくる。 政治家としては、泥をかぶりたくない一心で昭和天皇を処刑しないですませてしまった。 昭和天皇という人は最後の天皇らしい天皇で、天皇らしさ、というものがどういうものかというと承久の乱を見てゆくとヒントがつかめる。 西国武者をまとめて、鎌倉政権を倒そうともくろんだ後鳥羽上皇は、しかし、北条政子の感動的な演説に奮い立った関東の武者たちが溺死すらものともせずに宇治川に馬をいれて攻め寄せてくると、自分の軍勢が潰乱してしまう。 敗軍となった武者が自分の家へ落ちてくると、「わしは、知らん。おまえらが勝手にやったことではないか」と撥ね付けてしまう。 「なぜ自分に戦争の責任があるとおもうのか。おまえはバカか」と言う。 800年近くあとになったいま読んでも直截の訴求力を持つような規格外の無責任さだが、天皇は、日本社会のなかでは、ありかたとして、人間であってはならないので、責任をとることは悪徳なのでした。 明治以降の「ネオ天皇制」と呼びたくなるような天皇制においては、これを全体主義の要となるように仕立て直して、ますます絶対者だということにしたので、天皇に人間的な感情など持ってもらうと「絶対者」の政治判断がくもって危なくて仕方がないので、極力、人間性を持たないように教育した。 昭和天皇の一生を追っていくと、マジメで気がやさしい性質に生まれついた独裁者が、絶対者の重荷を背負わされて、よろめきながら、苦悩のなかで一生を過ごす様子が読み取れて、個人としては同情しないわけにはいかない。 ちょうど幕末に品川弥二郎たちが「天皇の権威」をでっちあげたように、戦後、入江相政たちが知恵をしぼって、つくりあげた「人間性に満ちた天皇」の像は、成功して、天皇制がまんまと生き延びてしまうが、ダグラス・マッカーサーは、そのもとをつくってしまった。 戦後の日本の支配層の顔ぶれをみると、岸信介、笹川良一、瀬島龍三…と「大東亜戦争指導者」がぞろぞろ名前を並べている。 その頂点に昭和天皇が立っている。 昭和天皇について話すことは、日本社会では、戦争が終わった、かなりあとまでタブーで、表向きは自由に批判してよいことになっていたが、たとえば連合王国なら、ごくありふれた天皇家に対するからかいを書いた深沢七郎は、まるで書いた側が犯罪者でもあるかのように潜行生活を余儀なくされ、揶揄を含む短編小説を掲載した中央公論社の社長宅は右翼人に襲われて、社長夫人は重傷を負い、家政婦さんのうちのひとりが殺される。 この事件によって、いまの在特会に至る「右翼のやることには抵抗しない」日本社会全体の怯懦が形成されゆく。 「怖いから右翼について話すのはやめよう」という社会になっていきます。 70年代になっても、ほとんど日本語でなければ意味が通じない、極めて日本的な思想家だった吉本隆明の本を読むと、政府よりもなによりも日本人にとっての「体制」は天皇家そのものだったと考えている。 岸信介のような戦争指導のチャンピオンが戦後に首相になって、孫の力を借りて、ついに日本を戦争前の体制にひきずりもどすことに成功したのは、 おおもとをたどっていくとダグラス・マッカーサーの政治家としての無能にあるようにみえる。 マッカーサーが目先の「どうすれば占領軍の被害を最小にして日本人を骨抜きにできるか」という利得にとらわれて、長期的な政治思考を持てなかった結果は、日本の戦後に特徴的にみられる「誰も責任をとらない」無責任体制をつくってしまった。 なにしろ戦争指導を頂点で行っていた昭和天皇が責任をとらずに、ニコニコして「国民に愛される君主」になってしまったのだから当たり前です。 昭和天皇は英明な君主だった。 人間としても、生来、やさしいところのある人です。 アスペルガー人とゲーマー https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/10/09/asperger_gamers/ の資質でいえば、どちらかというとアスペルガー型の思い込みが激しい人で、 実際には、たとえばウインストン・チャーチルと対立的にヒットラーに好意をもっていた英王室は、常に宰相に圧力をかけて、国王その人がいなければチャーチルが戦争指導を続けられたかどうか危ぶまれるような酷さだったが、その英王室が膝を屈して誓わされていた「権威だけの王室」というものが王側からの発意で可能であるとおもうほどナイーブだった。 典型的なファシストだった弟の恫喝もあったのでしょう、自らを軍部の傀儡化して、傀儡師に操られる人形のように戦争を始めてしまう。 戦争がはじまると、今度は、将軍たちのあまりのだらしなさに作戦に容喙するようになって、「一勝してからの講和」という考えにひきずられて、サイパン戦からの一年二ヶ月の犬死に以外にはなにもなかった戦場で日本人が大量に虐殺されてゆくのを手をつかねて眺めることになる。 この生真面目でやさしい君主が生き延びてしまったことは、しかし、70年の歳月が経ってみると、日本という国にとっては致命的なことだった。 個人の力などでは、どうにもならない、歴史というものの、気まぐれで巨大な力を感じます。 ひとつの無責任の終わりに、もうひとつの無責任を植え付けて、気取り屋の将軍はアメリカに帰ってから、好意から「日本は12歳の少年だ」と述べて、それまで彼をほとんど崇拝していた日本人を激怒させてしまう。 彼が最も期待した椅子である「大統領の椅子」は、彼の政治家としての無能を見抜いていた合衆国国民によって、ほとんど鼻で笑われる冷淡さで否定されて、この人は寂寥のなかで一生を閉じます。 明日は、8月15日。

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安倍政権のあとで

支持率はずいぶん下がってしまったが、遠くからみていると政治的情勢は安倍政権の「判定勝ち」というところだろうか。 前にも書いたが安倍晋三という人は、第一次政権のとき「カネくれカネくれくれカネをくれればいーんだよ」のほかには何もない自分の「支持者」たちに嫌気がさしてしまったようにみえる。 ここから見ていると「美しい国」や「戦える国」はケーハクにしかすぎないと思うが本人は「政治的美学」として真剣だったはずで、若いときの発言をみると、もともとは右翼的なことを考えない人だが、まわりに集めた人の影響か、この人なりに、中国の圧力に対抗しようとして「中国的でない何か」を確立して中国の浸潤をふせがねば、と考えた結果が「美しい国」だったように見えます。 ところが支持者たちにとっては、そんな高邁なことはどーでもよくて、とにかくおれにカネをくれ、というだけの下品さだった。 「千と千尋の神隠し」にはカオナシという宮崎駿が観察した「日本人の醜さのシンボル」が出てくる。 真に天才的な表象で、罵声を浴びるのに常にうんざりしている作家は、口にだして言わないが、たとえば英語人は、あたりまえのこととしてカオナシを日本人だと考えていた。 ひとつには、日本の人がふつうにやる「手を差し出してお釣りを待つ」というような仕草が、英語人にとっては、びっくりするほど失礼な仕草だからで、 カオナシがクレクレと差し出す動作を通じて、返って日本人同士よりもカオナシは日本人そのもののことなんだとわかりやすいところがあるのかも知れません。 国防や社会の「矯正」のような、自分にとっての最重要課題を進めようとして「カネくれ、くれくれ、よお、カネくれよ」のひとびとのために頓挫したと感じた安倍首相は第二次政権ではクリントン政権ふうに、ディレクター役を指定して、まるでハリウッド芸能人のように「人気」をつくりだそうとする。 アメリカ、日本に続いて、今度は中国が始めて、なにしろ日本の倍以上のGDPの国がやることなので、インパクトもおおきいが、通貨の減価政策で、アベノミクスというコピーまでつけた。 中国が始めた減価政策をみれば判るとおり、産業国家が通貨の減価政策を始めれば、株価は必ずあがります。 当たり前である。 市場が浮揚して、そこに「好景気」心理が生まれれば、逆に心理が景況感を改善して経済そのものがよくなる場合がある。 黒田総裁の動機と目論見は安倍政権とまったく別で、経歴から考えて、このいかにも秀才らしい無邪気な笑顔を持つ人の考えていたことは、財政の危機のほうで、GDPの233%という、歴史上の例から言えば、とっくのむかしに国が倒産しているはずの財政状況を改善するためには、思い切った博打を打つしかないと考えたのでしょう。 机上にメカニズムを描いて、これなら行けると考えた秀才たちが知らなかったことがひとつあって、日本の真の問題は産業自体が古くなって、至る所で衰退していることだった。 難しいことではなくて、80年代にMITIの若い役人たちがそれぞれの立場で製本した本(←日本の省庁の習慣)を読むと、「VCRと自動車の上に浮いている国」とよく出てくるが、VCRの系統樹上にある大型テレビやAVはとっくのむかしに日本の各企業は敗退して、2009年頃にはもう、英語世界の店頭にあるのはサムソンやLGで、日本の企業名はほぼ姿を消していた。 日本は、だから、もっか「自動車」という片足で立っているところだが、世界一高い維持費、富の再分配の日本社会らしくない失敗からきた若いひとびとの貧困化のせいで国内市場が低落したことによって上体がぐらぐらと揺れ始めている。 トヨタは素晴らしい好調ということになっているが、どんな売り方をしているかというと、例えばニュージーランドでは新車でも2割3割引きで、ビルボードを見るたびに「なぜ、こんな売り方をするのだろう?」と考える。 通貨減価政策のせいで可能になった売り方だが、そこで生まれた原価と売価の違いの広がりを利益にするのではなくて価格をさげるマージンとして使い果たしてしまうのは、数字よりも、自分のまわりの30代の人間が自動車を買い換えるときの行動への観察で理由がみいだせる。 ビンボだったニュージーランド人は、むかしは「トヨタの中古車」が好きだった。 ガキわしの頃は新聞の「売ります買います」欄には 「カローラ、走行距離たった8万キロ!」の字が躍っていた。 21世紀になって急速に豊かになったニュージーランド人は、この頃は家を買ってしまえばホームローンが残っていても新車を買うようになった。 オークランドで言えば最も人気があるのはBMWで、高級住宅地では目立たない無難な選択としてX5や3シリーズを買う。 この2車種は価格はずいぶん違うが、つまりは「バッジ」を買っているので、BMWのバッジをみれば、見ている人のほうは安心するもののよーです。 BMWが高くて買えない、という層が、つまりは新車購買の最も分厚い層で、この人達は80年代はホンダかフォード、90年代はトヨタ、ホンダ、フォードを買っていた。 シビックなどは日本では観られない明るいレモン色や黄緑色の車体がいまでも町を走っているが、あれは、ニュージーランドのネルソンという町にあった工場でつくっていたからで、ニュージーランド製シビックには日本にはない色があったからでした。 「良いクルマ」がジャガーからBMWに移行しだしたころ、トヨタのカローラの「壊れない」という評判が定着して新車が売れていった。 それがフォルクスワーゲンに代わった。 いまでは中間層で新車に買い換える人は、まず真っ先にフォルクスワーゲンを考える人が多くなった。 フォルクスワーゲンはニュージーランドでは1990年代までは滅多にみられなかったクルマで、珍しかったが、いまはベッドタウンのようなところ(例:ノースショア)に行くとたくさん走っている。 数字上は、まだ、ほんの数%でも、目立った変化で、NZの通りに立ってみればアホでもわかります。 もう少し細かく見ていくとトヨタはハイブリッドにエネルギーを割きすぎて、長い間、良いエンジンを開発していない。 マツダのような会社とは正反対の行き方です。 ところが、まだまだ実用的とは言えないBMWのi3に典型的に見られるように方向が「全電動」のほうに定まったのでトヨタの優位は近い将来完全に失われると見られている。 BMWは実はトヨタより前からハイブリッドの研究がすすんでいた会社で、しかし会社としてハイブリッドは「一時は儲かるかも知れないが長期的には過渡期の技術で社内リソースを注ぎ込むのは危険」と判断したもののよーでした。 社会のIT化に失敗した日本は、コンピュータ産業も不振で、ハードウエアもソフトウエアも壊滅的状態にある。 普段グーグルを使いWindowsやOSXを使う生活は、要するにGEの冷蔵庫を使いGMのクルマに乗って暮らしているのとおなじことで生活の中核をなす部分には日本製のものはなくなってしまった。 たったいま通貨減価政策を採っている3つの国、アメリカ、中国、日本を並べてみると、アメリカと中国の減価政策も、問題がたくさん生じているが、このふたつの国は実体経済の産業が強力なのと、アメリカに至ってはユーロの夢が完全に潰えて、USドルが事実上の基軸通貨になってしまったことで、通貨の減価も、あるいは借金を増やすことさえも他国に較べて格段に安全度があがってしまった。 日本だけが、財政が崩壊寸前だという、専門家たちの、ひとには言うに言えない焦慮から、現実の産業なしに 「株式市場が活発になれば産業が育成される」という歴史上起きたことがない倒錯した筋書きを夢見ている。 … Continue reading

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パンツアーファウストと大日本帝国の孤独

第二次世界大戦はドイツの戦争だった。 もっと現実に即して言えばナチの戦争です。 枢軸国と言ってもイタリアはドイツのフランス占領前ですらGDPでナチ・ドイツの五分の一以下、日本に至ってはそのイタリアのさらに15%減で、よくwar machineと言われる当時のドイツの国家体制とドイツ人自体の「征服者」へ特化した精神性で、十分にそれだけの実力があった世界を征服するという野望を持って戦争をはじめ、フランスが屈服し、イギリスの大陸遠征軍が装備を全部放棄して命からがら本国に逃げ帰って、空という戦場で「負けなければ、ぼくの勝ちだもんね」の連合王国の本領を発揮して、辛勝して、アメリカとソビエトロシアという自由主義国家と全体主義のチャンピオン同士が組んだ不思議なタッグと、ナチという中世物語のドラゴンにそっくりの鋼鉄の怪物との戦争だった。 ぼくの意見というわけではなくて、日本人以外のすべての国民にとっての常識です。 と言っても日本の人の太平洋中心の戦争の見方が「間違っている」と述べているわけではなくて、国ごと石器時代に戻ってしまうようなひどい破壊のされかたで、人間の歴史に珍しいほど負けて、国ごとの、文字通りトラウマになって、いまだに70年前のPTSDから逃れられないまま生きている日本人からすれば当たり前といえば当たり前のことであると思います。 しかし現実は現実で、戦争というものが、そういう言い方をすればGDPで戦うものである以上、たったUS$7.5billionの国力ではどうしようもない。 日本はアメリカと連合王国、ソビエトロシア、当時すでにドイツの支配下にはいっていたフランス人に対しては、よいことをして大変に貢献したので、真珠湾を不意打ちしたことは「西洋側から見た世界史」においては、ほとんど日本の第二次世界大戦における役割は、それだけだった、といってもいいくらいのおおきな意味があった。 開戦時のアメリカは1929年の大恐慌にはじまった経済的スランプの最下位点、どん底でした。 ヒットラーが見込んだとおり、その回復には、もう20年はかかると一般に思われていた。 それが突然国力の回復に向かって、1942年頃から、突然うわむきはじめるのは「日本人の卑怯さの賜物である」と、いまでも英語世界の至る所に書いてある。 考えてみると、戦争中の日本の役割は、奇妙ではあるが重要なもので、現在の中国共産党の宣伝用に変更された歴史とは異なって、蒋介石の国民軍は後一歩で中国共産党を壊滅させるところだったのは、毛沢東と周恩来、鄧小平本人たちの証言によっても明らかで、中国共産党がかろうじて延安の洞窟で生きながらえて、辛抱強い党の再建に着手できるようになるのは、蒋介石の懇願にも関わらず、世界戦略思考というものがまるでない近視眼の日本軍と政府の決定が背後から国民党軍を襲ったからでした。 この日本帝国の国際政治上の、ひどいマヌケさは、アメリカのルーズベルト大統領を激怒させてしまう。 「日本の政治家はなにもわかっていなくて、ただ目先の利益が欲しいだけだ。破壊してしまうしかない」というフランクリン・ルーズベルトの固い決意は、ここで形成されます。 ところが日本はアメリカと自由世界に対して、さきほど述べたように、このあとおおきな善行を施す。 それが博打好きの英雄的な提督山本五十六が企画した真珠湾奇襲で、実力があるマジな大統領であっただけではなくて、演説が滅法うまいポピュリストとしての才能も併せ持っていたルーズベルトは、この好機を逃さず、てんでばらばらだったアメリカ人を、たった一日で「挙国一致」の高みに持っていってしまう。 Remember Pearl Harbor ルーズベルトは目をつむって神に静かに感謝しますが、もちろんその頃、欧州の片田舎の島国では、報に接して、戦争指導のベテランである老右翼政治家ウインストン・チャーチルが、シャンパンを片手に、肥満した身体で、物理的に飛び跳ねて大喜びしている。 「これで世界はナチから救われた!」と狂喜する。 アメリカは開戦時、軍事力世界19位という軍事小国だった。 ポルトガルの軍事力にも、まだ及ばない、先進国最下位といってもおおきな間違いではない軍隊しか持っていなかった。 ただ英語ではTotal Warmaking Potentialとよく言う、無理矢理日本語にすれば戦争遂行潜在能力ということになる国家としての戦争能力は、大きかった。 いまちょっとみると、1937年次でもドイツの14%、イタリアの2.5%、日本の3.5%に較べて、42%という飛び抜けた数値で、開戦したあとの1942年初頭になると、これがあっというまに日本の10倍を超える「戦争力」の原動力になる。 第一の理由は、アメリカでは特に工業生産の現場で、すでに女の人が熟練労働力として確立した地位をもっていて、いまの中国で女の人の地位が高いのも同じ理由によっているが、女の人の社会的な力なしでは産業がたちいかないほど国力における女性労働者の割合が高かった。 ナチドイツや日本では、女の人の役割が「産めよ殖やせよ」で主に人口増加マシンでしかなかったのと較べると、人口比で社会の生産性自体に占める割合が高く、見た目の人口比較から感じられるよりも遙かに多い人間が生産に従事していた。 第二の理由は、手工業的であった欧州や日本に較べて、大量生産が確立されていて、やる気になれば飛躍的に生産量を増やすことができた。 メルセデスベンツは1990年になってもEクラスのステーションワゴンとSクラスは少人数のグループによる「手作り」だったが、そういうやりかたは、要するに、ドイツ人の「最高の品質は人間の手から生まれる」という信念の結果でした。 戦争のあいだも、自殺したウーデットから軍需生産の監督を引き継いだアルベルト・シュペーアは、一向に生産が捗らないMe109の工場を視察にでかけて、なぜか野積みになっている、大量の、殆ど完成した機体を見て愕然とする。 理由を調べてみると、その工場では、座席をつくる熟練工たちが、パイロットが疲労しないためにシートに馬の毛をいれる作業を行っていて、これがボトルネックになっていた。 ついでに述べると、「この馬の毛がはさみこんであるシート」は、クルマ好きの人ならよく知っている角目時代のメルセデスベンツSクラスの革張りシートとほぼ同じ構造です。 シュペーアはすぐにやめさせて、いま写真でよく見る無愛想で殺風景なMe109のシートに変えさせるが、操縦席に葉巻ホルダーをつくらせて、葉巻をくわえながら空戦を行(おこな)ったので有名な、撃墜王で戦闘機隊指揮官のアドルフ・ガーランドなどは、これによっぽど腹を立てたようで、シュペーアのせいで乗り心地が悪くなったと、戦後になっても、まだ文句を言っている(^^; ライン生産から次々につくられるアメリカ軍主力兵器のB17やM4、あるいはサンダーボルトやP51は戦争参加の原因であった日本軍との戦場にはあまり向けられず、欧州へ運ばれてナチとの全力を挙げたぶつかりあいになる。 アメリカがいくら国力を傾けても、ソビエトロシアとの戦いを主戦場に、アメリカ・イギリス連合軍とはいわば利き腕でないほうの片手で戦っていたにも関わらず、アフリカ軍団のロンメルに典型的に見られるように、文字通り桁違いに少ない物資と戦力にも関わらず、ドイツ軍は理解できないくらい強く、連合軍はいたるところで戦闘に負け、ようやく総合工業力の力で、ドイツを押し返して勝利をおさめて、しかし、今度はまた至るところで進撃をストップさせられる。 スターリングラードでソビエトロシアが誰の目にもわかる「勝利」を手にして、兵士というよりも浮浪者のような姿の、極寒のロシアをぞろぞろと群れて投降する、パウルスの24人の将軍と10万人のドイツ兵の惨めな姿が自由世界に報道されるまで、多分、もうドイツ人に戦争で勝つなどということは全然無理で、この戦争は永遠に続くのではないかという気分を連合軍側の兵士に与えるほどだった。 緊密に協議し、卓を囲んで共同作戦を立案してドイツ軍と死闘を繰り広げた連合軍側と異なって「三国枢軸」という「枢軸」には、少なくとも大日本帝国にとっては実体がなかった。 真珠湾を日本が襲ったときに、国防軍の将軍たちが、「真珠湾?日本人はなんで、そんなバカな作戦をやったんだ。なぜロシアを東方から攻撃しない?ほんとうに戦争に勝つ気があるのか!」と怒って作戦テーブルを拳で叩いた、という証言があるくらいのもので、あとは不思議なくらい日本に関心を持っていません。 … Continue reading

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カレーライスと軍隊語

ニュージーランドの駆逐艦が遠洋航海にでれば、帰路、母港が近づいてくる頃になると毎日カレーでポークカレー、ビーフカレー、チキンカレー、カレーカレーカレーで、スパイスの臭いをかぐのも嫌になる、という。 肉が腐りかけてくると、腐った表面を洗って、臭いがわからないカレーにする、という悪知恵を思いついたのは、世界に知られた悪知恵大王のイギリス人です。 海軍の運営は複雑巨大な機械を動かすようなもので、それを一から作っているわけにはいかないので日本は海軍をつくるのにイギリス海軍のまねっこで行くことにした。 「コピペ」というが、当初は、ほんとにまるごとの模倣で、相当成績が悪い士官でもイギリスに送って教育をうけさせた。 日本海海戦で大勝した提督である東郷平八郎という人は、たしか、商船隊の指揮官を養成する学校 https://en.wikipedia.org/wiki/Thames_Nautical_Training_College を出ていたと記憶する。 初めの頃、日本ではぶっくらこくようなことがいろいろあって、食べ物で言えば、たとえばハンバーグがなぜ麗々しくメニューのまんなかに座っているのだろう、あるいは、シチューがなんでこんなにぶわっか高いのか、といろいろ考えて義理叔父や鎌倉ばーちゃんを質問攻めにしたが、初めっから、「これはうまいな」と思ったものもあって、その代表はカツカレーだった。 調べてみると、カツカレーは銀座の多分いまもある「スイス」という洋食店で野球選手の千葉茂という人がカレーライスとカツフライを注文して、めんどくさいので同じ皿に同居させて食べたのがはじまり、と書いてあるが、 結局、子供のときから、病みつきになって、日本に来ると、まっすぐ銀座天一本店に連れていってもらって天丼を食べて、その翌日、というわけには行かなかったが、速やかにカツカレーを食べるのを楽しみにしていた。 わしガキの頃は、まだイギリスでも、いまのようにインド料理がスコットランド、ウエールズ、北アイルランド、イングランドを結びつけるゆいいつの絆、国民食というわけではなくて、いちばん好きなカレーをだす店はイングランドの西の端っこにあるペンザンスという小さな町にあったが、バターチキンという、スパイスの味が理解できないイギリス人たちを憐れんで、インドのひとびとが開発した、通常カレーが食べられない人が選ぶ、「いちばんダメなカレー」バターチキンばかり食べていて、いま考えてみると、「日本カレー」のほうが好きだったような気がする。 ずっとあとになって、あの「日本のカレー」は、どうやら明治時代にイギリス海軍から水兵の食事として日本の帝国海軍が採用したものらしいのが判ってきて、へえええーと思った。 なりゆきは、水兵たちに三度の食事をつくっていた料理人が陸(おか)にあがって、郷里に帰って水兵用のメニューを壁に貼って、「洋食店」を始めたものが、津々浦々に広まったものであるらしかった。 だからミートボール(←ほんとうはハンバーグだが、なぜかずっとミートボールとおもっていた)もシチューもあるのか、ぬわるほど、と考えたが、きっと異説があるに決まっていても、この理論ですべてが説明されるので、ガメ式洋食理論として、いまでも採用している。 理論に不都合が生じるまでは、そのままでよい、というのは、つまりは怠け者の大庭亀夫的合理思考です。 カレーライスで思い出したことが、ひとつある。 いちど義理叔父に、夫婦であるのに、奥さんが少しあとをついてゆく奇妙な光景をみて、「日本では、なんで女の人の地位が低いの?」と聞いたら、 「兵隊になれないからじゃないかなあ」という。 「だってもう軍隊ないんじゃないの?」 「いや自衛隊はある」 「自衛隊て、ゴジラのやつ?」 「ゴジラは架空だよ」 「自衛隊も架空でしょう?」 「いやあれはほんとうなんだけど、ないことになってるんだよ」 という、ぜんぜん要領をえない会話を交わしたのをおぼえているが、義理叔父説を採用すると社会全体が軍隊組織である日本では女のひとは鉄砲を担いで戦えないので地位があれほど極端に低いのだ、ということになるが、なんだか説得力がなさすぎてわびしくなるほどであるうえに、説明できないことが多すぎて仮説として杜撰だとおもわれる。 もうさすがにだいぶん飽きてきたが、面白いので、日本語ばかりベンキョーしていると、日本で女の人の地位が低いのは言葉のせいでないかとおもうようになった。 戦後の日本語の構造は、軍隊用語のヒエラルキーが決定している。 将軍や提督は黙っている。 明治時代、「あいつはおしゃべりだ」と言われることは薩摩や長州の藩閥のなかでは致命的なことだったようで、さっき触れた東郷平八郎は、若いときには「おしゃべりだ」という評判が立って、たいへん苦労して、長じて提督になってからは努めてなにも言わないように自分を訓練した、という。 将校語があって、これはいまでいえばトーダイおじさんたちの言語であるだろう。めんどくさいので知っているおっちゃんの小集団がたまたま全部トーダイ(ひとりは京大)を出ているので「トーダイおじさん」と一括して呼称しているが、つまりは、日本にいくつかある特定のエリート養成所を出たひとたちの言葉は、観察すると、仲間同士では荒っぽい言葉使いだが、「目下(めした)」の人々に対しては意外なくらいていねいです。 ただし、相手に自分に対する敬意が感じられなかったり、ものごとを思うようにすすめてもらえなかった場合は、微妙なところがよく見えにくいが、どうもニュアンスとして自分が将校であることを示して相手を威圧しているらしい。 大声や厳しい言葉というのではなくて「きみは、それで仕事ができているつもりなの?」というような言い方に口調が変わると、それまでわし目にも横柄だったマネージャークラスの人間(例:店長)が、まったく別人のように「とびあがって」働き出す、ということを何度か目撃した。 考えてみると、おじさんたちの会話は、穏やかな調子でもチョー下品で、わしが「慶應大学とか早稲田大学って、かっこいいのか?」と聞くと、「下士官養成所」だという。 じゃ、残りはヘータイですか?と聞くと、そーだよ、なあ、とおじさん同士でうなづきあって、すましている。 この下品さが、どーも軍隊だな、と考えて、コメディアン養成所で、イギリスがこれ以上落ちぶれると吉本興業に身売りするのではないかと危ぶまれている大学を出たわしは、ううむ、とうなっている。 だんだん調べていくと、たとえば「進歩的な人」「リベラル」というようなスティッカーをデコに貼って、インターネット上で、ええい、この歴史修正主義者めが、死ねアベ、反核じゃボケ、全角か半角かはっきりせんかい!!とATOKみたいなことを言っているひとびとの言葉は、曹長、軍曹、伍長、というような下士官の言葉です。 品性はゼロだが、いちばんいろいろな事を言いやすい。 特徴は、なんだか汚い言葉で怒鳴り散らしているような印象であることで、敬語を使うばあいは、今度は妙にかしこまった日本語で、相手が「余計なことをいたしまして」というようなことを述べると、さっきまで、「けっ、バッカじゃねーのwww(爆)」と書いていた人が、「いえいえ、こちらこそ、失礼いたしました」と突然述べているので、読んでいて笑ってしまう。 ネトウヨの人になると、兵隊語で、なんとなく、軍隊の底辺で呻吟している二等兵たちが、酒を飲んで、「オダをあげている」という嫌な響きの言葉があるが、そのとおりの状況を呈している。 具体的に書くのはめんどくさいのと、第一、日本語人のほうがよく知っているのに決まっているので書かないが、女の人には自分を表現する言葉がない。 … Continue reading

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戦闘機

調べてみると、零戦の日本軍全体への影響は一兵器としての影響を遙かに越えたもので、短距離防衛でデザインされていた日本軍の作戦思想をおおきく変えてしまった。 航空勢力そのものにおいても、それまではイタリアの軍事理論家Giulio Douhetの「Il dominio dell’aria」に強く影響された「戦闘機不要論」が支配していた将校間の空気を、一変させて、爆撃機より先に戦闘機を先発させてfighter sweepをするというところまで攻撃的な戦略思想に変わったのは熟練パイロットが操縦すれば一千キロを行って帰ってこられる零戦が存在したからでした。 欧州では戦闘機はもともと「防御兵器」のカテゴリーだった。 特にドイツ人たちは、最前線のすぐ後ろに建設した飛行場から飛び立って来襲する敵の爆撃機を撃退する、という思想を強く持っていた。 だから零戦のように装甲版や不燃タンクの防御機構を持たない戦闘機は論外で離陸時や着陸時すら含めて一日に数回の出撃で何発も被弾して生還するイメージを戦闘機に対してもっていた。 日本は兵器オタクの人が多くて、そういう人が大臣になると国が滅びるが、そうでない限りは、良いこと、というか、文明がすすんだ国の幼稚な頭の人々というのは、そういうものです。 大庭亀夫が良い例で普段はタイマーが付いているのように30分で集中力が停止するのに兵器のことになると、1000ページくらいある分厚い本をいっぺんに読んでしまう。 ただ日本の兵器オタクの人が困るのは、妙に学者ぶって、他人の言うことは全部「素人のたわごと」「突っ込みどころ満載」のぶわっかたれな日本語ですませてしまう。 その割に貧弱な知識で、誰かが常識とされていることを踏まえて、その常識は、こっちの方角からみると、こういうふうに異なって見えるのだ、と述べると「そんなものは常識と違う!教科書を読んでないのか!!」と怒りだす。 本来、兵器の知識は、国の方針を定めるのに社会常識として必要不可欠で、その証拠に妹はわしよりもずっと兵器全般に詳しい。 証拠になってないか。 連合王国やニュージーランドでは女のひとびともスピットファイアやMe109のスペックくらいは知っていて、ケーキとお茶を楽しみながら、どっちのほうが優秀だったか話したりするのが大好きである。(←やや誇張された言明) そういうおりの初歩的な議論のレベルを示すために、だいたいどのくらいの知識を前提として話がされるか、よくまとまっているサイトを探しておいたので、兵オタ、軍オタのひとびとは、この記事をくさそうとおもったら、せめて、この程度は読んでから来てね。 http://www.spitfireperformance.com ついでにいうと、このサイトには連合軍側が日本の飛行機をどんなふうに見ていたか、テスト飛行をした人や空中で対戦した人のレポート、情報部が分析して「ここを攻めろ」「こういう状況では逃げろ」という空中戦の虎の巻も載っていて、兵器ヲタクのひとびとの良いヒマツブシになると思われる。 ヒマツブシは嫌な言葉で、書くたびにひつまぶしが食べたくなるが、それに耐えて親切にも教えてあげているのだから、是非、せめてこの程度は読むよーに。 読むとわかるが戦後何度も何度も語られた大戦初期には「零戦をみたら逃げろ」と言われたというのが、どういう意味かわかります。 Disappointedな誤解よりもひどい。 したがって、日本語の本が紹介しているのとは異なって、日本の人が信じているよりもイギリスとドイツの飛行機は、なにしろ同じ思想に従って、そっくりさん同士になっていった。 Me109はSpitfireに劣っていたというが、そんなことはぜんぜんなくて、ほぼ瓜ふたつなのは、データをみればすぐに判る。 http://www.spitfireperformance.com/spit1vrs109e.html わずかに、もともと一撃離脱を最高戦術としてそれ以外は顧みなかったドイツ人とヘロヘロ回転するのが好きなイギリス人の複葉機時代への未練たらしい格闘性能への郷愁がスピットファイアのオーバルな翼にただよっているだけで、他は、ほとんど同じ飛行機である。 特に大戦初期においては、無線機の性能がイギリス軍とは比べものにならないくらい優秀だったドイツ機と、ほとんど役に立たない上に、ときどきつながると、「このやろー」とか「やったぜ」の訳のわからないぐじゃぐじゃで切れ切れな会話しか流れてこなくて、まるで使いものにならないイギリス機の差が出て、 あるいはロールするとエンジンが止まるオバカなロールスロイススーパーマーリンエンジンに較べてドイツ機のほうはロールしてもエンジンが止まらない機構が工夫してあったりで、イギリスのほうは一撃離脱だけでは戦争がやれなかった、という事情もあります。 イギリス海軍のようにシーレーンを保護するために長大な距離を航行するためにデザインされていた海軍と異なって、日本に近い西太平洋でアメリカ艦隊を捕捉して一挙に殲滅するという「第二次ツシマ海戦」を想定してデザインされていた連合艦隊は、要するにいまの海上自衛隊とおなじで、本質的に防衛しかできない艦隊だったが、零戦がすべてを変えてしまいます。 一般に日本軍の特徴は「打撃力がない」ことで、なにをやっても膠着するような不思議な軍隊だった。 戦車がつくれず大和と武蔵をつくったら、そのせいで国の財政が傾いてしまうようなビンボ国だったので、仕方がないといえば仕方がないが、アメリカのほうでは、ノホホンとして、昨日も述べたように上から数えて19位という小規模の軍隊しかもたず、日本が浮かれてインドシナへ満州へと、中国人たちを虐殺しながら、いまでいえば巨大なISISのような行動をとりはじめると、くず鉄を日本に売るのを禁止し、最後は石油の輸出を禁止して、巨大ISIS帝国をツンツンしだす。 ツンツンされたほうには決定的な攻撃的戦力がないとアメリカのほうは考えていたが、ISIS側は「零戦」があるじゃん、ということになって、これを集中使用すれば打撃力が形成されることに気が付く。 零戦によって形成される「空の空白」に攻撃機や爆撃機を滑り込ませれば、海といわず陸といわず、爆撃雷撃のし放題で楽勝なんじゃないの? と航空参謀たちが主張しはじめます。 足の長い単発艦載機を6隻単位の空母をひとまとめにした艦隊をつくって、もともとの防御思想でつくられた敵の戦闘機の行動範囲の外側から発進させてあちこちをたたきまくればよい、というのは、ロンメルのアフリカ軍団と同じ軍事思想で、片方は海、片方は砂漠でおなじ機動作戦を考えた。 しかし、日本人は、なぜ零戦のような軽戦闘機が、それほど長い航続距離をもちえたかという理由を忘れていた。 なにがトレードオフの対象だったかというと若い人の生命、「人命」だった。 日本には「無責任おじさん」の長い伝統があって、たとえば初めて日本の支配層の実際が英語圏の書かれたものになって出てくる江戸時代の老中たちは、誰が読んでもぶったまげるくらい無責任で、誰もなにも決めたがらず、「何もしないためなら何でもする」見事なくらいの頑迷姑息で、それは結局、反動として明治に始まる若い人の屍の山の上に築かれたような畸形国家をつくってしまう。 自分たちの文明の基礎から全体主義に染め上げてゆく。 後々のオチョーシモノ皇帝ニコライ2世と異なって、イギリスやフランス側の幕末当時の意見を読めば、両方ともに、軍事的には腐りきった、極めて豊かな大国だった清帝国に較べて、ビンボでめぼしい財産もないのに刀をやたらふりまわしたがるアブナイ人で充満していた日本には、あんまり興味がなかったのがわかりますが、いまは太平洋戦争の話にもどらないと、また話が長くなってしまう。 … Continue reading

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GDPと三八式歩兵銃

Arisaka Type 38という。 三八式歩兵銃の英語名です。 銃器蒐集家のあいだでは有名な銃で、兵器をぶっ放して遊ぶフェスティバルに行くと、いまでもたいてい誰かがもってきて、やや柔らかい、特徴の有る銃声を響かせている。 最大の特徴は口径がわずか6.5mmであることで、突進してくる海兵隊員を一発で倒すことは難しかった。 たしかに命中しているのに、そのまま壕に飛び込まれて殺される、ということがよくあったようです。 1908年に採用してから、もちろん、他の制式銃もあったものの、日本の兵士は、ほぼこのボルトアクション式の、部品点数が少ない、三八式歩兵銃のみを武器にして戦った。 よい点は発火と硝煙が小さく、散兵しているばあい、特にジャングルでは、どこから射撃しているか見極めるのが難しかった。 南太平洋の島嶼戦で、内部に侵攻した海兵隊が必ず、やたらにたくさんいる日本の狙撃兵に難渋するのは、英語の戦史を閉じて、日本語のほうをあけてみれば、事情は簡単で、狙撃兵でもなんでもない、歩兵が物陰から射撃してくるのを、有坂タイプ38の隠蔽性の高さから「狙撃兵」と感じただけなのがわかります。 欠点は口径が小さすぎて殺傷能力が低く、アメリカ側から書かれた戦記を読んでいると、なんとはなしに45口径や38口径が入り乱れているなかで、ただひとり22口径で射撃している健気なギャングのような気味がなくもないのに加えて、ボルトアクションの音が、よく響く音質で、射撃を始める前にアメリカ軍に待ち伏せを気づかれることが多かった。 日本陸軍の特徴は、当時、どこの軍隊でも普及していたMP40(ドイツ)Thompson(アメリカ) Sten (英連邦)のようなサブマシンガンを採用しなかったことで、理由は「弾薬の使用量が過剰になるおそれがある」ということでした。 一丁の短機関銃で30発の弾丸を撃つよりも30人の歩兵で狙いをさだめた30発のほうが、戦死者は多少増えても軍隊として効率がよい、という理屈でサブマシンガンどころかオートマティックライフルの採用にも熱心でなかった。 日露戦争で、日本側は、戦争全期間を想定して生産貯蔵していた弾薬を一週間で使いきってしまい、戦争が終結するころには増産に増産を重ねても、もう一回会戦をしようにもまったく弾薬がない、という状態だったのは、いろいろな本に書かれている。 銃を使うには弾薬が必要なのだと身にしみた日本軍は近代戦で桁違いに弾薬が必要なことを学習した。 ところが太平洋戦争になると、機関銃手は3発以上連射すると、深夜の兵舎でこっぴどく殴られ、兵器からはセミオートマティック、オートマティックは省かれてボルトアクションのアリサカだけで戦うように訓練されるところへ戻ってしまう。 子供のときにホノルルの海辺を散歩していたら、戦争博物館があって、前をとおりかかったら、九五式軽戦車がおかれていた。 小さな小さな戦車で、37mm砲を主砲とした6.7tの戦車です。 しばらく見入ってしまった。 「日本軍の戦車」というものを初めて観たからでした。 だいたい同時代の同じ「軽」戦車の半分、いまみるとライバル同士であったアメリカ軍のM3は主砲の口径は同じ37mmで、14.7t、ちょうど倍のおおきさです。 シンガポール島の攻略では、日本軍はこの九五式軽戦車と九七式中戦車の大量集中使用という正しい作戦をとった。 いちばん興味ぶかいのは、後続の歩兵が、機甲部隊追従のために、その辺でかっぱらってきた自転車に乗っていたことで、いまに残っている写真をみると、部隊によってはちゃんとした軍装もしていなくて、なんだか朗らかに皆で自転車に乗っていて、ピクニックにでも行くような、不思議な明るさに満ちている。 実際には役所じみた日程の帳尻あわせから生じた怪我の功名だった、この「機甲部隊の集中使用による突進」を後にも先にも、これ一度しか行わなかったことのヒントは、戦車が戦闘機よりも遙かに高価な兵器であることにあって、ボルトアクションライフル主体の歩兵戦略に日本陸軍が退行してゆくのと理由はまったくおなじでGDPでした。 戦時のGDPの見積もりにはいろいろな評価がいりまじっていても、 nominal(1938時点)で、現在のUS$に換算して、軍事強国について並べてみると、だいたい 1 アメリカ合衆国 85 billion 2 ナチドイツ   46 billion 3 イギリス    27 billion 4 ソビエトロシア 23 billion  5 フランス    … Continue reading

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